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織田信長公の「薄濃(はくだみ)」考

 今回は画像はなく、文章のみなので退屈な場合は読まれなくてもいい。

 先日2日の歴史ドラマ「二人の軍師」で織田信長公が朝倉義景・浅井久政・浅井長政ら3人の髑髏を金ぴかに塗り、それを盃にして明智光秀に飲ませようとしたシーンがあった。そのシーンそのものは作家の想像力のなせる業なので一笑に付すところではあるが(荒木村重との初対面で、信長が刀に餅を刺して食べさせて、村重の肝の太さを試した、というエピソードも混じっていたし)、信長公が天正二年の正月に三人の髑髏を内々に披露したのもまた事実であるからあらためて、信長公の事績を知る上での一級資料「信長公記」(太田牛一 著・奥野高弘 注釈/角川ソフィア文庫版)からその部分を探ってみた。

 大意をカッコ内で要約してみた。
  「天正二年 正月一日 岐阜城にて諸国の家臣団との謁見を済ませた後、馬廻り衆ら直臣衆のみ酒を振舞い、肴として朝倉義景・浅井久政・浅井長政3人の髑髏を薄濃(はくだみ/髑髏を漆で固めた後、金泥などで薄く彩色する)にしたものを据え置き、皆に披露した。そのまま宴は続けられ、皆、酒を飲みつつ、謡い舞った」と書いてある。「信長公記」の巻七の冒頭に書いてあるので参照されたい。

 それがし、以前誰かの文章で「薄濃は古代中国にもそのような風習があり、織田信長もそれを知識として踏まえた上で行ったのではないか?」というものを読んだことを思い出し、「薄濃」そのものを調べてみた。すると幾つか面白いことが判明した。

 まず一つ目、「薄濃」の風習は古代中国にも確かに存在し、司馬遷の「史記」にもその記述は存在する。その風習の意味は、戦で討ち取った敵に敬意を表してその勇気を自分に取り込む為に髑髏を薄濃にするというもののようだ。さらに趙の襄子は敵対していた智白を薄濃にしたという。

 二つ目、密教の流派の一つ「真言立川流」に薄濃の秘法があったという。

 三つ目、これが一番興味深いのだが最澄の開いた比叡山に「薄濃」を施す職人がいたという。比叡山での意味合いは、山で亡くなった高僧の徳を偲ぶために行ったものらしい。

 なんと比叡山にそのような職能集団が存在していたのか?比叡山に確認をとったわけではないので、今後訪れた時に聞いてみたいものだが、発想が古代中国と似ていると思えないか?仏教自体、中国から伝来したものだから「薄濃」の思想と技法も伝来したのかもしれない。
 
 織田信長は漢籍にも少しは詳しかったのではないか?そもそも美濃・稲葉山城を禅僧の助言により、古代中国・西周王朝武王の故事に基づいて「岐阜」城と命名したのであるから、「薄濃」も知っていたのかもしれない。とはいえ、直臣衆に晒した意図ははっきりしないが・・。

 もう一つ・・。織田軍が朝倉・浅井を滅ぼしたのは前年の8月終わり。首を京都に晒したというから、薄濃に「加工」するならば少なくとも9月半ばからその年の年末までの時間が許されるのである。3ヶ月から3ヵ月半というところか・・。であるならば、織田家の勢力圏内にあった比叡山の職能集団(もしくは比叡山以外でも実行可能な領地内の集団)にやらせたということではないか・・・。

 この件に関しては参照すべき事実があまりにも多いので今後の課題の一つとしたい。今回はあくまで一考察という風に受け止めてもらいたい。でも歴史の陰に隠れた事実というものは実に多い。一つ一つは微細なものかもしれないが、それらを繋ぎとめていけばある日、今までと違った絵図面が表れるかもしれないのである。これぞ歴史好きの醍醐味というものであろう。学者だけに独占させてなるものか。
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サムライ銅像研究会

Author:サムライ銅像研究会
歴史と銅像と芸術が大好きなあまり、日本各地を東奔西走する銅像・史蹟ハンターである。神出鬼没なため、脈絡無しのブログ更新を続ける。掟はただ一つ!「死して屍拾うものなし!」昔の時代劇の決め台詞だけどね・・皆さん、見てやあ!
 最近、キューピーに侍の装束を着用させる遊びをやっております。「武者ピー」と呼んで可愛がってやぁ~!以後は「キューピー甲冑師」とも名乗ります。

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