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春日山城南面

 春日山城山頂
こちらの「春日山城址」と前回の本丸跡は谷間になっており、谷間の南側へ降りてみる。

井戸郭看板
大井戸
 まずこの大井戸がある。春日山城が他を絶して優れている点は、山頂でも水が容易に手に入れられることだ。実際、本丸に登る途中、本丸直下の山肌からきれいな清水が湧き出しているのを見て、驚愕したものだ。

鐘楼跡
 さらに大井戸の裏へ行くと、かつて鐘楼があった高台があり、その脇を人1人通るのがやっとという道が続き、その先には・・・
景勝屋敷跡
 謙信公の跡をついだ上杉景勝公の屋敷跡だ。

柿崎屋敷跡
 さらにその裏には柿崎景家屋敷跡がある。

 ここでいったん写真の紹介をとめて、春日山城に分け入ったが故思いついた着想を書いてみたい。

 まずは謙信公より「あの者に知恵があれば、越後七郡の中にかなうものはいないだろう」と微妙なほめ方をされた柿崎景家である。
 従来、彼は武勇一辺倒の人間で戦うしか能がないという一般的な思い込みがあった。かくいうそれがしもそうだ。「信長の野望」では彼を単なる突撃隊長としかあつかっていなかった。
 だが、実際は春日山城下の府内で奉行職をつとめ、円滑な統治の一助となっている。また、彼の屋敷は本丸裏の広壮な敷地を与えられており、その脇の道は古くから北陸に通じているという。実際、その屋敷の立地のあまりに重大な位置に彼を見る眼から鱗が落ちる思いであった。
 謙信公の父・為景公の時代から第4次川中島合戦にいたる謙信公の一代記を書かれた海音寺潮五郎先生の小説「天と地と」ではいつ裏切るかわからない変節漢として描かれているが、そのような表裏のわからぬ男に春日山の背面を任せるだろうか?諸賢はいかがお考えかな?

 続いて「御館の乱」考である。春日山の本丸を中心に、府内や日本海を見下ろす絶好の位置に屋敷を与えられた北條家からの養子・上杉三郎景虎の屋敷跡。本丸の裏手に屋敷を与えられた甥・上杉景勝。はたして謙信公はどちらを上杉家の真の跡取りと考えていたのだろう?
 最近の研究では、関東管領の名跡を景虎に継がせ、景勝に家を継がせると考えていたのではという説があるが、「両雄並び立たず」という言葉もあるとおりそんな単純なものだろうか?それがしは春日山を見てきた上では簡単に同意できない。
 謙信公は具体的には考えていなかったのではないか?まず、景虎屋敷は眺望絶好な位置とはいえ、背後から謙信公に監視されているともいえる。一方、景勝の屋敷も鐘楼から監視可能な位置にあり、軍勢の本丸への移動が難しい。実際は、謙信公はどちらも心から信用しておらず、両端を持していたのではないか?もし・・歴史にもしはないが・・脳溢血で倒れずに関東に出兵した上で道筋をつけようとしていたのではないだろうか?その考えがどのようなものかは永遠の謎だが。

毘沙門堂跡
毘沙門堂跡アップ
 とまあ、推測は置いといて、本丸周辺に戻り、毘沙門堂跡を訪れた。かつてはここに毘沙門堂が建ち、謙信公が様々な考えをめぐらし、毘沙門天に祈りを捧げていたのだろう。

現在の毘沙門堂
 少し下った所に現在の毘沙門堂が建っている。
毘沙門天
 皆様、毘沙門天にお祈りください。
     「オンベン シュラ バンダヤ ソワカ・・」確かこんな文言だったような。

お花畑跡
 現在の毘沙門堂から1段下がった所に「お花畑」があります。ここで栽培した花を各種お堂に飾っていたという。去年の「天地人」ではとんでもない演出に使っていたっけ。あの大河は二度と見ないぞ!

直江屋敷跡
 道なりに下ると「直江屋敷」跡がでてくる。直江というと、直江兼続ばかりクローズアップされるが、あれは樋口家からの養子だ。樋口家も由緒ある家だけどね。でも直江家は代々、長尾家に仕えた譜代の家臣であり、謙信公の時代には直江実綱が謙信公のもとで行政の実際を取り仕切り、また合戦でも多くの活躍を果たした。さらにその実子・信綱は「御館の乱」直後に同僚に斬られてしまったが、生きていれば兼続の活躍の場があったかどうか?別に直江兼続か嫌いなわけではないぞ。

謙信公力そば
 そんなこんなで山道をさまようこと数時間・・すっかり腹が空いたので、謙信公立像のそばのお土産やさんでこの写真の「謙信公ちからそば」を頂いた。出汁のきいた蕎麦の上に、豚の三枚肉のチャーシュー2枚と焼き餅1個がのっている。この豚肉が実に旨い!噛んでも噛んでも旨みが出てくるので飲み込むのがおしかった・・。蕎麦はね・・富士そばの方がおいしいかな?でもおなかすいていたからそれもよし。

 春日山城をおりて加賀街道を一路、直江津方面に歩く・・バスがほんとない!バス停4つ分ほどで・・
春日神社参道入り口
 こちらの春日神社に到着。こちらは創建1200年以上の歴史を刻む古刹。神社の名を基にして「春日山」城が築かれたとのこと。ややこしいが、山の上の「春日山」神社は明治の創建だからね?それがしも最初、上越の地図を見てこんがらがったから。
春日神社石段
 お社の中は実に美しい木立に包まれ、地面はカーペットのようなコケが敷き詰められており、とても絵になります。小1時間ほど写真撮ってました。
春日神社本堂
 本堂はこちら・・人気がなかったので、賽銭箱に代金入れてお守り頂いてきました。ホント、ゆるいなあ。

春日山神社ふもとから空
 神社を抜けるとこんな素敵な青空が広がっていました。みとれてしまいました。

能鷹と塩焼きサンマ
 晩飯は高田駅前の居酒屋で。上越の地酒・能鷹(のうたか)と塩焼きサンマ。他にも刺身とか色々いただきました。おいしかったなあ・・。

 次回は高田城など・・。 


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初めまして、お邪魔します。

春日山城の見事な山城っぷり堅牢っぷりを見れて楽しかったです。上杉謙信は遠征を繰り返しましたが、難攻不落の春日山城(それと城を任せられる直江景綱のような人物)があればこそ、安心して領地を離れられたのでしょう。
本拠の防備を余り考えなかった好敵手の武田信玄との対比が実に興味深いです。

直江家婿入り後の兼続の実績は確かなものです。直江信綱が存命した場合、樋口兼続として名を残したでしょう。
上杉景勝は、兼続の将来性や御館の乱での活躍を見て、箔を付けさせようと直江家に婿入りさせたと思います。
信綱も景綱(実綱)に認められて婿養子になり、景勝に重用された人物です。上杉謙信と共に上杉家に愛着をお持ちでしたら、彼の死に想うところがあるでしょうね。

Re: タイトルなし

 初めまして。コメントありがとうございます。春日山城登頂が年来の夢でしたので、大いに楽しみました。とはいえ、大手口からの登頂は残してありますので、後日の楽しみにしたいと重います。

 別に直江兼続が嫌いではないのですが、目立ちすぎの状況がやや面白くなかったので、皮肉な文になってしまいました。
 越後と米沢、両方訪れて、上杉家が転封させられたことが残念でなりません。あの猿太閤がねえ・・。

 また見てください。
プロフィール

サムライ銅像研究会

Author:サムライ銅像研究会
歴史と銅像と芸術が大好きなあまり、日本各地を東奔西走する銅像・史蹟ハンターである。神出鬼没なため、脈絡無しのブログ更新を続ける。掟はただ一つ!「死して屍拾うものなし!」昔の時代劇の決め台詞だけどね・・皆さん、見てやあ!
 最近、キューピーに侍の装束を着用させる遊びをやっております。「武者ピー」と呼んで可愛がってやぁ~!以後は「キューピー甲冑師」とも名乗ります。

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