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桜田門外の変・現場検証

 去る2月29日・・・季節外れの大雪が関東各地のみならず東京の都心をも覆った。降る雪を見て・・・
  「これほどの降雪ならば、あの『桜田門外の変』の現場を実地検分できるぞ!」と思い立ち行ってみた。

 まずはこちらをご覧頂こう。
明治17年の地図
 これは明治17年に内務省地理局がまとめた「五千分の一東京図」コピーである。現代の地図はネットでも簡単に見られるから古い地図もたまには面白い。
 左の青く斜線をひいた所が井伊家屋敷跡である。明治に入ってからは陸軍省の土地となり、参謀本部が置かれていたところである。現在は憲政記念館がある所だ。
 屋敷跡からお堀沿いにいくと、桜田門に達するが、その手前の赤い×印のところで事件は発生した。現在の警視庁まえである。

 桜田門外の変・・・アメリカ合衆国との日米通商条約調印を決断した時の大老・井伊直弼を水戸や薩摩の浪士らが襲撃し、殺害した事件である。この事件をきっかけに幕府の権威は坂を転げ落ちるように失墜し、大政奉還へと至るのである。
 ではなぜ水戸や薩摩の浪士らは事件を起こしたのか?事件に関する本は沢山でているので今さらここで詳述するつもりはない。今回の眼目は現場検証だから。ただ、事件の背景に第14代将軍家の座を巡る暗闘と開国問題の二つが複雑に絡み合った末のことだと書いておこう。この事件がなければ・・日本近代史はもうすこしましなものであったかもしれない。少なくとも薩長土の夜郎自大な連中が幅をきかせたことはなかったかもしれない・・今さら死んだ子の年を数える訳にもいくまいが・・・。

 気を取り直して・・寒い!寒さに備えて万全の支度をしてきたが、寒い!そして足元が滑る!井伊家の屋敷があった憲政記念館である。JR有楽町駅から地下鉄に乗り換えて桜田門駅へ。
憲政記念館入り口
 記念館自体には行かなかったが・・。敷地内にはこんな素敵なお庭があった。
憲政記念館の庭
 晴れた日にまた来たいところですね。寒いので少しだけ眺めて敷地を出た。

 事件当時も季節外れの大雪が降り、難儀したようだ。当時の路面は舗装などされていないから大変でしたでしょうなあ。それに現代と違って防水性能のあるブーツなんてものもないし。そもそも守る井伊家側が不利ですね。攻める浪士側も条件は同じだけど。当時の写真を見てみましょう。
明治5・6年頃の外桜田門遠景
 これは明治5~6年頃に写真家の内田九一が手前の井伊家屋敷前から撮影した桜田門遠景です。路面を見ると砂利むきだしですね。当時は雪が積もって歩きずらかったのではないだろうか?雪国の大名家なら、藩士ら総動員で屋敷前を雪掻きしたり踏み固めたりしたのかもしれませんが、井伊家はあいにくと近江の大名。冬には雪も降るだろうが、雪国というほどではないだろうし・・。

 憲政記念館からお堀沿いの道路に出て振り返ると・・
井伊屋敷跡
 うわあ、真っ白・・。こんな日は帰宅して布団にくるまっていたいですね。近くに警備の警官がいたので「あそこって井伊屋敷跡ですよね?」と伺ってみると「知りません」と一言。せっかく皇居周辺を警備できる名誉な仕事してるんだから歴史上有名なことくらい勉強しておきましょうよ。

 桜田門方向を見ましょう。
桜田門遠景1
 今回の画像はデジカメのシャッタースピードを上げてフラッシュも使っているので降っている雪が止まって見えますが、実際は傘をさしていても風で足元に雪が吹き込んでくる凄まじさでした。門も霞んで見えづらかったです。
桜田門遠景2
 寒いよ寒いよ~。それがし、北陸出身なれど雪は大の苦手。だから関東に住んでいるのですよ。

 足元が滑りやすい中、襲撃現場までいきましょう。
襲撃現場
 ここが襲撃現場。ちょうど警視庁前。例の特別手配犯人をたらい回しにしたところですね。浪士達はこの辺りで大名行列見物の町人にばけて(当時は大名行列を見物する趣味が町人にあったようです。考えたらそれがしもそんな連中と似たもの同士だわな・・。)見張っていたそうです。井伊直弼公が乗っていた駕籠が通りがかるのを狙って、浪士の一人が訴状をもって行列の前に駆け出し行列の動きを遅くさせ、別の一人が隠し持っていた拳銃(アメリカ製のコルト・ネイヴィーを水戸の刀鍛冶が模倣したものらしい。本物とは違って、銃身にライフリングが刻まれていない滑空銃)を駕籠に向かって激発。それを合図に浪士達は抜刀し、井伊家の護衛の侍達に切りかかった。護衛の侍達は刀が濡れないように柄に油紙を巻いてこよりで縛り付けており、とっさに抜刀できずにいた。
 駕籠の中の直弼公は銃撃で大腿部に重篤な状態に陥っており、自ら立つ事もできなかったようだ。本当なら直弼公は文武両道の達人だから用意さえ出来ていればこれくらいの襲撃など軽くあしらえるはずであった・・。

 屋敷から門まではわずか400メートル足らず・・だが降雪の最中では怒号も悲鳴も届かず、助けに出るものもいなかった。ましてや江戸城のまん前で大老襲撃が行われるなんて誰も想定していなかったろう。今なら、首相が官邸から国会に行く途中で銃撃されるようなものだ。どちらにしても空前絶後の事件、起こる前は誰もまともにとりあわない可能性だし、起きた後では誰しも茫然自失・・テロを防ぐ難しさである。

 かつて英国の首相を務めたマーガレット・サッチャーの暗殺を狙ってアイルランド独立を訴えるIRAが首相の泊るホテルに爆弾を仕掛けた。幸い爆弾は事前に発見されたが、テロリスト・グループは不気味な声明を発表した。
  「我々はたった1回の幸運に恵まれればいい。でも君達、守る側は常に幸運でいなければならない」と。これこそ対テロリズムに当る人々の難しい宿命を見事に言い表した言葉だろう。
ハマの井伊直弼1
 こちらは神奈川県横浜市掃部(かもん)山公園内に建つ井伊直弼公像です。顔の造りがちょっと大げさですね。ハマの井伊直弼2
 滋賀県彦根市の彦根城内にもありますが、そちらの方が実物に近いかも。

 さて直弼公自身は開国についてどう考えていたのでしょうか?そもそも井伊家自体は遠江(現在の静岡県浜松市周辺の県西部一帯)に根を下ろした藤原の一族・九条家の末裔。元々は朝廷に仕えていた古い家だったんですね。それが初代彦根藩主・井伊直政公のパパの時代、落ちぶれてしまい、徳川家康公に拾われて仕えるようになったのがことのはじまり。
井伊直政公
 彦根の井伊直政公。恩義に感じて、合戦の時には大将自ら先頭きって突撃する奮戦振りで旧武田家の侍たちまで預けられ、「井伊の赤備え」と天下に武勇を謳われた家でした。また朝廷への忠誠心も並々ならぬものがあり、代々の藩主は朝起きてまず京都に向かって「遥拝」を行っていたそうです。
 彦根・井伊家では寛政6(1794)年に藩校を造り、藩士の子弟教育を熱心に行い、天保元(1830)年に「弘道館」と名を改め、蘭学の研究も怠らなかったようである。ということは開国にひたすら反対する守旧の人でもなかったかもしれませんね。

 一方、幕府の外国方として横浜開港実務に取り組み、後に幕府の使節団として2回も渡仏した田辺太一殿は
  「井伊大老はかくべつ開国に理解があったわけじゃない。和歌で「今さらに 異国ぶりを 習はめや ここに伝ふる もののふの道」なんて詠んでいるくらいだからね。大老就任以前の幕府とアメリカの折衝で条約を結ぶことは決まっていたわけだから、あの人は京都にやった使節が朝廷から「この上は仕方ない」という言質を引きずり出したから決断しただけのことさ」と辛口な評価です。この田辺さんは維新後は紆余曲折の末に外務省に出仕して岩倉遣欧使節団に随行したり、清国(当時の支那の国名)に外交官として赴いたりして元老議員になり、大正4(1915)年にお眠りなられた方です。昭和50年に青蛙房から出版された「幕末の武家」(編集:柴田宵曲)という本に談話が載っております。古い本ですので、大きい図書館などで探されるといいでしょう。他にも色々な方のお話が載っており、楽しい本です。

 襲撃自体は30分近く長々と壮絶な殺し合いの末、薩摩の浪士により直弼公の首があげられてしまいました。浪士達の実名もわかっていますが、ここではあげません。あくまで卑劣なテロを起こした愚か者共と記憶されるべきだからです。
 権力に立つ人々はしばしば「テロで政治が変わることはないからやっても無駄です」といいますが、そんなことは大嘘です。古来、どれだけ暗殺やテロが歴史を変えてきたか。効果絶大だからこそ色んな連中が手を染めてきたのですよ。
 桜田門外の変に限っていえば、直弼公の死後は彼ほど強権的な政治家は幕府に現れませんでした。強権政治がいいというわけでも毛頭ありません。ただ、薩長土がテロによって日本の近代化を乗っ取った事実は忘れるべきではありません。西郷隆盛も木戸孝允も坂本龍馬もテロリストです。彼らによって、鳥羽伏見の戦い、上野・彰義隊戦争・戊辰戦争・函館戦争とどれだけ無用な血が流されたことか・・・それがしは薩長土の「維新の志士」と呼ばれている偽善者達を顕彰する気は決してないので、彼らの銅像を紹介しないのです。
雪の桜田門
 あの日、この門前で流された血が日本近代化の流れを変えたのです。いくら惜しんでも惜しみきれはしませんが、せめて忘れないことで歴史を風化させたくないですね。

 最後に桜田門から井伊屋敷方向を描いた絵を紹介して終わろう。
外桜田門からの絵
 世界の誰もが武器を取らずに政治的解決を目指すことを祈って・・・まあ、祈ったところで撃ちたい奴は撃つんだけどもね・・。

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No title

お侍は大変ですな。ウチの先祖はその頃も多分魚獲ってましたw
雪景色美しい・・・(人´∀`).☆.。.:*・゚
東京が雪で大変だってニュース、
地方でも朝から晩までやってましたよ。

お疲れ様でした。

大雪の中、現場検証お疲れ様でした。

Re: No title

 こんにちわ。
 雪景色はキレイなんですけどね。撮りに行くのは難儀でした。電車も地下鉄も遅延するし。東京はまことに雪に弱い街です。

Re: お疲れ様でした。

 こんにちわ。
 どういたしまして。

No title

こんばんわ。
いつも有難うございます。
コメントするかどうか悩みました。
私は長州出身です。
ですが、吉田松陰先生は別として、他の志士たちにどうしても共感できません。確かに、命がけで『犯罪者』となりながら、体制を回天させました。しかし、必要のなかった戦争を起こし、多くの命・人材を失わせたことは歴史が証明しています。
多くの史書や、小説、ドラマで讃えられているのを見ると「違う!!」と突っ込んでいます。
『竜馬が行く』は擦り切れるほど愛読しましたが、読むほどに違和感が出て、30歳を越えて以降は読めなくなりました。
『会津士魂』よい小説です。
人気のある時代ですが、敗者の真実を隠して何の歴史の教訓でしょうか!

 ただ、彼らは、革命に流血が必要だと勘違いした無能な政治家あるいはアジテーターと言ったほうがよいように思えます。

Re: No title

 こんばんわ。
 長州出身の方から忌憚なき声をいただき、誠にかたじけない。私も幕府がそのまま近代化を進めていけばよかったとは考えてはおりません。260年の平和な時(色々あったとはいえ・・)を築いたといえども、弱肉強食の19世紀にあっては政体に時代遅れの弊害も沢山ありました。大きな変化が必要だったのもまた事実。
 江戸時代とは極論すれば関ヶ原合戦で成立した徳川家一極支配をフリーズドライしたまま過ごした時代といえます。関ヶ原負け組みの薩摩・長州・土佐などが鬱憤をはらしたかったのも十分わかります。それでも・・幕末を乗り越え、明治にはいって好き放題に政治を壟断した薩長土には深い憤りを感じてなりません。
 とはいえそれは個人の感情論・・・今となってはどうしようもありませんが、せめて昔あった事実を忘れずにいたいという思いから書きました。特に桜田門が雪で埋まるなどということは数年に一度あるかないかですから。

 私の好む作家は吉村昭先生ですね。「長英逃亡」「ふぉん・しいほるとの娘」「桜田門外の変」「彰義隊」など史実に取材した上で書かれた多くの作品は興味深く読むことができます。
 「会津士魂」は・・会津愛が強すぎる気がしますが。
 司馬遼太郎氏の本は昔よく読んでいましたが、司馬史観が強すぎて最近では全く読んでいませんし、知人にも「あまり読むな」と勧めているくらいです。 

 最近では大政奉還から函館戦争にいたる包括的な本があればいいのにと思います。幕末史の本はよくありますが、幕府側だったり官軍側だったり、偏りがちな本が多いですね。1000ページをこえるような重厚な本でもいいですから良心的な作家や歴史家が書いてくれればいいのですが。

 長州といえば、大村益次郎先生は好きというか興味深い人物ですね。伊予・宇和島で蒸気船雛形製作に関わったり、砲台を造ったり、江戸にいけば多くの西洋式兵法書を訳していく中でいつのまにか類希なる軍師となったり・・靖国神社の大村先生の銅像をよく見に行っています。

 今回はありがとうございました。また何かあればおっしゃってください。
 
 

No title

おはようございます。
いつも有難うございます。
お返事、恐縮です。
明治維新から、約150年しか経っていないんですよね。
尤も、激動の150年ですが、この時代の歴史教科書をつくるのは一苦労ですね。未来の学生達の不満顔が目に浮かびます。

私も靖国神社の大村益次郎氏の銅像はよく見ます。
地元では、それほど知名度がありません。山口県は維新の時に話題になるのですが、実際、歴史に興味を持つ人は少ないですね。長州の志士たちについても「あ~知ってるよ」でおしまい。名前を知っているだけで、彼らの果たしてきた事を知らない人が殆どです。
勿論、日本の歴史についても同様です。仕方ないのかもしれませんが・・・・。
ブログ上でこうしてお話ができるのはとても嬉しいのです。
また、お邪魔しますね。

Re: No title

 こんばんわ。
 ご丁寧なご返信ありがとうございます。まあ、世間の歴史に寄せる関心などその程度です。それでも関心をよせるものが色々調べていけば、いつかどこかで役にたたないともかぎらないわけで・・お粗末様。

No title

そもそもが井伊直弼が安政の大獄という白色テロを始めたのが原因なわけで、テロリストの最後は自業自得ってことですね。

Re: No title

 名乗りを上げもせぬ「たわけ」に答える言葉はない!

訪問いただきありがとうございます

こんばんは。

貴ブログを拝見させていただきました。随分いろんなところを探索しておられるのに驚きました。関西にも何度も来ておられるのですね。私の行ったことのない場所の記事もあり勉強になります。写真も文章も素敵です。

東京には若かりし頃に通算8年ほどいましたが、その当時は歴史にあまり興味がなくて、家族で近くの公園で行って遊ぶことくらいでした。結構見ごたえのある銅像があるのですね。

私は実家がお寺のせいか、仏像を観るのが好きで、公園などにある銅像にはあまり注目してこなかったのですが、サムライ銅像研究会さんの素敵な写真を見ると、なかなか素晴らしい銅像があることが良くわかります。銅像も立派な芸術作品ですね。

これからも時々遊びに来ますよ。

Re: 訪問いただきありがとうございます

 こんばんわ。
 こちらこそ色々見ていただいたようでありがとうございました。私も銅像以外に仏像や彫刻など立体アート全体に興味があります。
 当ブログは私が見て感銘をうけたものを独断と偏見で無手勝流に書いているブログですので、生暖かい目で見ていただければ幸いです。一笑一笑・・。
プロフィール

サムライ銅像研究会

Author:サムライ銅像研究会
歴史と銅像と芸術が大好きなあまり、日本各地を東奔西走する銅像・史蹟ハンターである。神出鬼没なため、脈絡無しのブログ更新を続ける。掟はただ一つ!「死して屍拾うものなし!」昔の時代劇の決め台詞だけどね・・皆さん、見てやあ!
 最近、キューピーに侍の装束を着用させる遊びをやっております。「武者ピー」と呼んで可愛がってやぁ~!以後は「キューピー甲冑師」とも名乗ります。

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