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太田道灌公の短編小説・初陣編

 今回は太田道灌公の初陣を書いてみた。史実での道灌公の初陣に関しては確かな記録が残っておらず、一説には「享徳4(1455)年5月に藤沢で鎌倉公方・足利成氏方と戦う」という記録が残っている。
 だがそれでは道灌公は24歳(数え年)であり、初陣にしては遅すぎると思うので、この時の初陣は「指揮官としての」初陣であり、武者初めとしての初陣はまた別だったのではないかと考えると・・遡ること5年前、宝徳5(1450)年4月に江の島で起きた合戦があり、それが「武者としての」初陣ではないかと考え、以下の短編小説を書いてみた。
 江の島というと、今ではサザンオールスターズやチューブが歌い、夏ともなれば海水浴にサーフィンと大勢の観光客が押し寄せる湘南きっての観光地な訳だが、彼の地でも戦争はあったのですよ。

 では、どうぞ!

「白き旗のもとで~太田資長(道灌)初陣の記~」
                             著:サムライ銅像研究会

 これは後の世に「関東の名将」とその智謀を謳われた太田道灌公の初陣の折りの話でございます。しかしその話をさせて頂く為には当時の関東地方のお話をしなければなりません。少々お付き合いくださいませ。

 道灌公の時代より遡ること半世紀前・・その当時、関東には鎌倉に統治の府を置いた鎌倉公方という御役職がございまして、足利将軍家の初代尊氏公の弟の御血筋を引かれる方が代々公方様を勤めてまいられました。さらに公方様を補佐する家柄が上杉家であり、上杉家は越後・上野・武蔵・相模と多くの国々に所領を持っておられ、上杉家自体も山内上杉家・扇谷上杉家・さらに越後の上杉家が力を持ったお家であり、関東では山内上杉憲実様が数多ある上杉家の頂点にたっておられました。
 その第四代鎌倉公方・持氏公はたいへん野心的なお方でありまして、時の将軍・足利義教公(世に「くじ引き公方」と申されておりました)になりかわり、自身が征夷大将軍につかれることを望まれておりましたが、持氏公の下で関東の実務を取り仕切っておられる関東管領・上杉憲実様がその野心の前に立ちはだかられたのです。
 憲実様は持氏公に身に過ぎた野望をお捨てなさいますよう、色々諫言なさいましたが、ことごとく持氏公ははねのけられ、あまつさえ憲実様を亡き者にしようと企む始末・・憲実様も身の危険を感じ、御領国のある上野(こうずけ:群馬県)や伊豆に赴き、自らの居所を持氏公に悟られまいと苦心されておりました。
鶴岡八幡宮
  (鶴岡八幡宮)
 ある時、持氏公は武士の信仰を集める鎌倉の鶴岡八幡宮に願文を捧げます。文面は、憎むべき敵を追討し、自家の繁栄を長く祈るものでしたが、当時の方々の誰が読んでも「憎むべき敵」は将軍・義教公に他ならないものでしたので、いつしか世の人々の噂にたつようになり、ついに幕府も捨て置けなくなり、憲実様に「持氏公の謀反のお気持ちは本当か?」という質問書をくだされました。憲実様は持氏公への忠誠心と幕府から任命された関東管領としての職責の間に板ばさみになられ、大変なお苦しみを味わうことになりました。
さらに悪いことに隣国の駿河守護大名の今川家より「鎌倉公方・足利持氏の京・将軍家への叛意明白!」と告げ口されてしまい、ついに都から追討軍が出される
ことになったのです。幕府は越後(新潟県)・上杉家や駿河(静岡県)・今川家にも関東管領・上杉憲実に味方して鎌倉公方・足利持氏討つべし!との命令を下されたのです。これを「永享の乱」と申します。
 その報せに激怒した持氏公は一度は軍勢を出されますが、将軍家の命令に恐れをなしたお味方の相次ぐ裏切りにより抗戦を諦めた持氏公は鎌倉のお寺に入られ、幕府の沙汰を待ちます。
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  (箱根湯本の早雲寺:お寺のイメージとしてご覧下さい)
その間も憲実様は幕府に持氏公の助命嘆願を願い出られますが、「早く腹を切らせろ」とせかされる始末。ついに万策尽きた憲実様は泣く泣く持氏公に切腹されるよう使いを出し、永享11(1439)年2月10日、永安寺にてお腹を召されました。遅れること28日、ご嫡男・義久様も切腹されました。

 関東はこれにより平和になったかのように思えました。でもそれは偽りの平和であり、都の将軍・義教公の恐怖政治は猛威を振るうばかり、関東でも持氏公の遺児であらせられる安王丸・春王丸様が結城氏朝に擁立されて常陸(茨城県)で父上の敵を討つべく挙兵されました。ご兄弟は各所で兵を募って結城(ゆうき)城にはいられましたが、時期が早すぎました。扇谷上杉持朝様が上野国の軍勢を集められ、さらに幕府の応援もうけ、数万の軍勢を集めた上で結城城を囲まれたのです。これを「結城合戦」と申します。
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  (横浜市茅ヶ崎城址:中世城郭のイメージとしてご覧下さい)
 主君を死なせてしまった悲しみをいやすべく伊豆で仏道修行にあけくれていた憲実様にも幕府より出陣の命令が届き、やむなく鎌倉に入られました。また憲実様の元で家宰を務める長尾景仲様が扇谷上杉持朝様と共に結城城を1年間に渡って締め上げ、ある時、総攻撃を行い、ついに城を落とされたのです。一年間の攻城戦を強いられた幕府軍は荒れ狂い、城方の兵士であろうと女子供であろうと誰一人逃すことなく悉く殺しつくしたのです。足利安王丸・春王丸ご兄弟はつかまり、京に送られる途中で美濃・垂井の金蓮寺であわれ首を切られてしまいました。その時お二人は13歳と11歳の齢であったと伝えられます。
 
 これでついに関東に平和が訪れたかと思われたのもつかの間・・因果は巡ると申しましょうか、将軍・義教公が播磨の守護大名・赤松家の屋敷で討たれるという「嘉吉の変」がおきたのでございます。幸い幕府の御重役方の協力により、赤松家は討たれ、大きな混乱もなく、次の将軍には足利義政公がお着きになられました。
 ですがその義政公の御世に天下の大乱「応仁の乱」が起きたのはいかなることでございましょうか?

 さて関東では持氏公の遺児・万寿王丸さまが信濃(長野県)佐久平の豪族・大井持光により養育されていましたが、新たな鎌倉公方が必要ということになり、上杉憲実様や鎌倉公方のご家来衆の運動により将軍・義政公が万寿王丸さまの公方就任をお認めになられたのです。
 そして文安4(1447)年3月、万寿王丸さまは新たな鎌倉公方に就任され、鎌倉に向けて旅立たれました。そして8月27日ついに鎌倉帰還がなったのであります。思えば鎌倉を離れ、お父上を亡くされたのはわずか5歳、鎌倉に帰られたのが13歳、なんと8年間にわたり、諸国をさ迷われておられたのです。おいたわしいことであります。
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  (文京区六義園:武士の館をイメージしてみてください))
 ここでおわれば万々歳なのですが、ご隠居された憲実様にかわられて関東管領に就任されたご嫡子の上杉憲忠様は家宰の長尾景色仲様や扇谷上杉持朝様、太田資清(道灌公のお父上)様などは元々都より関東に移り住まわれた方々のご子孫であり、関東に元々お住まいになられている武士団とは様々な利害対立があり、鎌倉公方とはその両者の間でヤジロベエのように互いの利益を調整されるのがお仕事でありますが、元より血の気の多いお武家様のこと、度々合戦騒動になり、また万寿王丸さまもお父上やご兄弟を合戦で亡くされておられるせいか関東在住の武士団に肩入れし、管領・憲忠様とはつい対立しがちになってしまわれます。
 帰還から二年後の宝徳元(1449)年、万寿王丸さまは将軍・義政公(その当時は義成と名乗っておいででした)より一字を頂き、「足利成氏」公と名乗られました。それと共にかつて持氏公に仕えられていた方々や結城合戦でお味方についていた方々のご一族衆が成氏公のもとに集われ、ますます管領様との対立の機運が高まって参りました。

 その頃、資長様と名乗られていた後の道灌様はご主君の扇谷上杉持朝様のもとに出仕されておられました。元服されて後、紅扇との悲恋をも乗り越え、今や逞しき若武者となられ、将来の太田家のみならず上杉家の将来を担う逸材と周囲から期待されておりました。
 資長様がいつもの通り、持朝様のもとで日常の雑事を片付けていると山内上杉家の家宰・長尾景仲様、お父上の太田資清様が訪ねて参られました。このお二人は当時「関東無双の案者(知恵者)」といわれ、その智謀を広く天下に謳われておりました。そのお二人が何やら只ならぬ様子で持朝様のもとを訪れ、人払いまでして相談事に及んでいるのです。資長様でもなくても、何事か起きていると感じるでしょう。

 その晩のことです。お屋敷に戻られた資長様を、着替える間も与えずに奥のお父上の居室に呼ばれました。資長様はいつもとは違った緊張を感じつつ、障子戸を叩きました。
 「おお!資長か。入るがよい。」資清様の声が何やらはずんでいます。資長様いぶかりつつ室内に入りました。
 「父上におかれましてはつつがなく・・まあ、肩肘張った挨拶はやめておきましょう。本日、持朝様を訪ねられておられましたが、それにまつわる用件ですか?」
 「ふっ、察しがいいな。ならば薄々感じていよう。我ら上杉家を支える者にとって、現在の公方様は・・いささか元気すぎる。お父上・持氏公や兄上様の分も公方として権威を振るいたいのはわかるが、邪魔だ。近々、公方様を・・いやそのお側で下らぬことを申す奸臣どもを討つ!」資清様の顔色も興奮からか赤くなっておられます。
 「ということは・・それがしもいよいよ初陣ですか?」いつも冷静な資長様もさすがに声を上擦らせます。武者として生まれて、初めて戦陣に立つのは誰しもが憧
れることなのであります。
 「そうだ。お前も早や19歳(数え年)、初陣としてはすこし遅いが筋骨もすっかり大人になっているからな。戦場に立つのに不足は何もない!」資清様も嬉しそうなご様子。
 「ついてはお前の甲冑についてはわしから甲冑師に注文しておいた。お前の部屋に鎧櫃(よろいびつ)ごと運ばせておる。あとでみてみるがよかろう。」
 「ありがとうござりまする。元服時に作っていただいた甲冑ではいささか小さいものになっておったのです。」素直に頭をさげる資長様です。その様を満足そうに見守る資清様であります。やはり人の親ということなのでございましょう。

 その会話から一月ほど過ぎた頃・・公方・成氏様が突如、鎌倉の御所から江の島に移られたという報せが入りました。
DSCF0205_1.jpg
  (江の島遠景:カメラを持って海水浴場行く時は注意しましょう)
 折も折り、翌日早朝はいよいよ長尾景仲様、太田資清様共々軍兵を率いられて御所を包囲する手はずであり、太田家の屋敷では多くの武者や足軽どもが集まり、翌日の準備をしているところでありました。その報せにすぐ使者が鎌倉の街中を巡り、街中の人々も「すわ何事か?」と戦々恐々で様子を伺っています。気が早い者は、早くも家財道具を大八車に積み込み、鎌倉を出て行こうとしています。
 そんな騒ぎは鎌倉府内に移り住んでいた紅扇の家族でも騒動を起こしていました。
 「やったぞ!ついに公方様が上杉家退治に乗り出されるのじゃ!これぞ我らが待っていた家名再興の時ぞ!「上杉禅秀の乱」で失われた領地を取り戻すのは今この時をおいて他にない!」と古ぼけた甲冑を身に着け、錆の浮いた薙刀を脇にかいこんだ紅扇の父親がいつになくはしゃいでいます。その側で兄もうんうんと頷いています。
 「でも父上、うちには家の子・郎党などはおりませぬ。お父上と兄上だけではございませぬか。2人だけでおんぼろ鎧をきていっても落ち武者と間違われませぬか?」身内にも容赦ない紅扇は今やすっかり美しい娘に成長しておりました。平和が続けば、富裕な商人に嫁いで実家に仕送りをすることもできましたでしょうに時代がそれを許さないかのような有様です。
 「紅扇・・お前の口は達者じゃのう、それでは嫁の貰い手がないぞ。よいか!公方様はお味方が少ない故に江の島に立て篭もられたのじゃ。おっつけ小山や宇都宮など名だたる大名衆が駆けつけてくるだろうが、このような時に真っ先に駆けつければ公方様の覚えもめでたくなろう。聞けば、若いながらも英邁なお方のよう
だぞ、成氏公は。関東を牛耳る上杉に喧嘩を吹っかけるその気概もたのもしいものではないか!」
 「父上、戦と喧嘩は違いまする!負ければ死ぬのですぞ!お二人に死なれては私は・・」紅扇の声も詰まります。
 「だが我が家は武者であるぞ。たとえ領地がなく、貧乏暮らしでも鎌倉殿(源頼朝)以来の御家人の家ぞ!合戦こそが家名をたてる道!これ以上いうでない。」
とさとす父の手が泣き伏せる紅扇の肩にそっとおかれます。
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  (鎌倉・源氏山上の源頼朝像)
 「・・わかりました。私も武者の家に生まれた娘、もはや何ももうしますまい。でも、父上も兄上も生きて帰ってきてください。」小さくとも生き死にがかかった別れがあるのでございます。

 翌、早暁・・鶴岡八幡宮前に扇谷上杉家・長尾家・太田家の軍勢500騎、足軽3000が勢ぞろいしました。緋縅(ひおどし)の美々しい甲冑で身を飾った江の島攻めの総大将・扇谷上杉持朝様の軍扇が翻ります。
 「全軍、出発ー!」その声に総勢3500の兵(つわもの)共が動き出します。鎌倉府内からはあらかた人々が逃げ出しており、軍勢を邪魔するものは痩せ犬くらいのものです。
 その中に見事初陣を飾る太田資長様もおられました。紺糸縅(こんいとおどし)の甲冑に三つ鍬方を立てた兜を被り、匂うが如き見事な若武者ぶりです。白雪のような白馬に乗って、太田家の軍勢の真ん中にいます。側には大将の資清様もおられます。
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  (さいたま市岩槻区の太田道灌公像)
 「よいか、資長。今回はわしのそばにあって、大将とはいかに軍勢を進退させるものなのかをよくみておくのじゃ。お前は学問は出来る。武芸も身に着けておるが実際の軍陣は違うということを身をもって知らねばならん。手柄を立てるのは今回は無理かも知れぬぞ。わかったな?」
 「はっ!首をとるのは次回の楽しみにとっておきましょう。」資長様、ぬけぬけと言い放ちます。
 「こやつ・・いいおるわ。せいぜい青くならないように覚悟しておけ!はっはっはっ!」二人の後ろでは資長様を幼い頃から世話していた爺やが咽び泣いています。
 「ううっ・・若の晴れ姿を見ることが出来て・・爺はもう討ち死にしようとも本望ですぞ。」
 「爺っ!俺の初陣に縁起でもない事言うな。悪いことをいっては現実になるというぞ。」などと話が交わされている時・・。

 鎌倉府内をとりまく山々の中を様々な人々が避難していきます。墨衣を着た僧侶、富裕そうな商人、泣き叫ぶ子供の手を引く母親、大八車の荷物の上にちょこんと座った老婆・・・戦で迷惑を受けるのは常に下々の民衆なのです。その中に、旅支度の紅扇もおりました。笠を被り、杖をついているものの並みの男よりよっぽど達者な足並みです。
 やがて鎌倉の街中を一望の下に見渡せる尾根にでました。ふとふりかえると、はるか眼下に蟻のような軍勢が江の島に向かっていくのが見えます。
 (源六さま・・)今では雲の上の人となった資長様を思い出す紅扇です。視界に白旗が目に入りました。太田家は源氏の出自ということから白旗を用い、そこに印された家紋は遠すぎてわかりずらいですが、太田家の定紋の桔梗のはずです。ふいに紅扇の口から歌が一首紡がれました。

   「吹く風に なびく白旗 遠く見ゆ つき従うは 我が思ひのみ」
 
 周りをのろのろ歩いていた避難民も美しい娘の口から出た歌に感慨深げであります。その歌が風に乗ったのでしょうか?

 馬上の資長様も聞こえていないはずなのに何かを感じ、甲冑のおかげで身動きもままならない中、背後の山を必死に振り返ります。そして資長様の口からも・・。

   「紅(くれない)に 染まりし紅葉 吹き散らし せめて届けよ 扇執る手に」

 軍馬のいななきが響く中、資長様の声は思いのほか軍勢の中を通りました。荒ぶる足軽共も資長様の思いは分からないまでも勝手な解釈をして、
 「若大将!奥方が恋しいのかい!」
 「さっすが太田家の跡取り!こんな時でも歌をお詠みになるなんて雅だねぇ!」とてんでにはやします。意外な反響に資長様も思わず戸惑って父・資清様に視線を送ります。資清様は何も言わず、ただ深く思いを秘めたようなまなざしを資長様に向けていましたが、小さく頷いてから視線を外しました。そして手にした采配を天高く振り上げ、さっとふりおろしました。
 「聞けい、者共!我らはこれより公方様の側に巣くう奸臣どもを捕らえにゆくのだ!日頃なんじらに武具を与え、飯を食らわせておるのはまさに今日この時のためぞ!命を惜しむな、名こそ惜しめ!手柄はお前達の足にあるぞ!」と配下の軍勢に発破をかけると、軍兵どもは手にした弓・薙刀・槍などをさしあげ、「えい!えい!おう!」と一斉に声をあげました。
 それは全てを察した上で、初陣の資長様にこれから立ち向かう戦陣の厳しさをあらためて教え諭す父・資清様の無骨な優しさでもありました。

 後の世に「江の島合戦」「宝徳の乱」とも呼ばれたこの合戦は腰越や由比ガ浜で激しく戦われました。
ホキ美術館の全容
  (腰越のこゆるぎ神社:腰越あたりは住宅街でこれ以上の画像が・・。)
DSCF0204_1.jpg
  (由比ガ浜:海水浴場です・・。)
最初は上杉勢が優勢であったものの、北関東の大名衆が手勢を引き連れて公方様に御味方することで形勢は逆転し、上杉・長尾・太田勢らは敗れて糟屋庄(神奈川県伊勢原市)へとかろうじて逃げ延びる始末。資長様の初陣も敗戦を味わうというほろ苦いものとなりましたが、この負けこそが資長様にさらなる内省と兵法(へいほう)への探究心を呼び起こし、後にあっぱれ名将といわれるまでの奥深い智謀を身に着けるきっかけともなったのでございます。
 そして紅扇の父と兄は公方様の御味方となり、奮戦して大活躍しましたけれども押し寄せる長尾の兵共の前についに二人ともお倒れになられたのでございます。その報せに伊豆の縁者のもとにいた紅扇は泣き崩れてしまったとのこと・・いつの世も男は死に、女は泣く・・まことあわれなことでございます。

 いかがでしたか?感想などコメントで寄せていただけると嬉しいです。あ!文句とかなしね。批判するにせよ、前向きなものだけお願いね。残念なコメント削除とかしたくないから。大人の対応でお願いしまーす。

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No title

これまた一気に読んでしまいました。
文章が読みやすいんですね。
勉強になります。
史料にないことは、想像力でこんなにおもしろくなるんですね。歴史嫌いな人に読んで欲しいとおもいます。
学校の授業もこんな風におもしろければよいのに・・・・。

No title

こんばんは。

ついつい読みふけってしまいました。
その時の状況を十分に頭の中に描く事もできましたよ。
この後、どうなるかが楽しみになってきます。

早雲寺の写真・・・良いですね~

Re: No title

 こんばんわ。
 ありがとうございます。中世史は状況が錯綜していて色んな本を読んで把握に努めたのですがなかなか難しかったですね。道灌公の初陣はほんとなくて・・困りました。年齢的にも江の島合戦あたりがデビュー戦かと考えました。

Re: No title

 こんばんわ。
 お褒めの言葉、ありがとうございます。中世史は錯綜していて色んな本を読んでやっと把握しかけております。現代人には不可解な部分が多いですが、その分想像力で補う面白さがあります。

 道灌公の小説で面白いのが無いんですよね。それなら自分で書いてしまえ、と描いていますが、この先どうなるか・・気長におつきあいください。

 早雲寺、訪れた時が雨上がりでいい具合に水分が蒸発してたんですよね。狙って撮れるものではありませんでした。

No title

歌が添えられているのが効いてますね。
軍記物と歌物語の調和がいい感じだと思います。
続きが読みたくなりました☆

Re: No title

 こんばんわ。
 お褒め頂きありがとうございます。道灌公で古式ゆかしい物語を書いていきたいんですよ。短編形式で色んな場面ごとに書いていって・・そのうち長編にでもまとめあげられたらと考えております。
プロフィール

サムライ銅像研究会

Author:サムライ銅像研究会
歴史と銅像と芸術が大好きなあまり、日本各地を東奔西走する銅像・史蹟ハンターである。神出鬼没なため、脈絡無しのブログ更新を続ける。掟はただ一つ!「死して屍拾うものなし!」昔の時代劇の決め台詞だけどね・・皆さん、見てやあ!
 最近、キューピーに侍の装束を着用させる遊びをやっております。「武者ピー」と呼んで可愛がってやぁ~!以後は「キューピー甲冑師」とも名乗ります。

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