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関ヶ原古戦場巡り~西軍陣地を巡る・その2~

 今回はいよいよ最終回、西軍総大将の石田三成陣地跡などを巡っていこう。

笹尾山裏の八幡神社
八幡神社由緒書き
 こちらは石田三成が陣を置いた笹尾山の麓にある八幡神社。観光客らはこの反対側からバスなどで乗り付けてくるので普通は気づきもしないとだろう。自分の足で廻らないとこのような細かい所は見落としやすい。とはいえ、それがしもここは知らなかったのでたまたま自転車を停めるところを探していて見つけたんだけどね。
 神社の裏手を登っていくと・・
石田陣跡
石田三成坐像

 石田三成の陣所があったと石碑があります。このあたりは観光スポットになっていて沢山の人がいましたね。
石田再現櫓
 こんな櫓も設置されていました。上がって見ると・・
DSC01920_12
 関ヶ原全体がパノラマで見ることが出来ます。上の画像を一度クリックして別ウインドウを開いて拡大すれば全体像を楽しめます。
 部分をクローズアップしてみると・・
天満山など
 天満山あたりが宇喜田陣跡、松尾山が裏切り者・小早川秀秋の陣跡です。左の青字は東軍ですね。松尾山以外は前々回・前回と紹介済みです。

 石田三成は文官系武将として、太閤検地などにその辣腕を振るって政治家としては最高の人物でしたが、軍人としてはいまいちな評判であります。三成が武将としてダメな例として小田原・北条を攻めた時の忍(おし)城攻めが挙げられますが、あれは秀吉の代官として赴任したのであり、行った時にはすでに水攻めの土木工事は始まっていたので、それを例として「三成無能説」を挙げるのは酷というものでしょう。
 しかるにその失敗によって当時、三成を嫌っていた人々から大いに笑われたということもあるでしょう。三成もそれを気にしてか、太閤・秀吉の弟に仕えていたことのある島左近(しま さこん)を配下に迎えてその軍配を任せます。つまり石田家の軍務を委ねたということになります。
 左近は元々は大和・筒井家に仕えていましたが、筒井の跡継ぎと反りが合わずに出奔、秀吉の弟・秀長に仕えます。左近はどこに仕えていても勇敢に戦い、どの大名家でも左近を欲しがりましたが、秀長が病死した後は近江(滋賀県)に隠居してしまいました。近江・佐和山に領地を持っていた石田三成の再三の要請によりついに応じることにしました。当時の世間ではそのことを驚き、次のように謳って揶揄しました。
  「三成に過ぎたるものは、島の左近に佐和山の城」石田三成の身分にふさわしくないものは島左近という勇将と佐和山城という三成の居城だなあ・・という意味です。どちらも羨ましがられたということです。
島左近陣跡
 (画像は島左近陣地跡です)

 三成と左近の指揮の下、笹尾山の石田軍は押し寄せる東軍勢を何度もはね返し、押しのけます。天下に知れ渡った臆病者という評判を跳ね除けたということですね。
 しかし残念なことに、左近は東軍・黒田長政がひそかに迂回させた鉄砲部隊により狙撃され、開戦後2時間と経たないうちに負傷して後方に運ばれてしまいます。
 その後は三成や他の部将の指揮によりよく持ちこたえますが、天満山の小早川勢の裏切りによって大谷・宇喜田など西軍側面が崩壊し、石田三成も落ち延びる兵に混じって自らも山中へと消えて行きました・・。
桃配山など
 家康公の最初の本陣などを見た画像です。

島津陣跡1
 さて、この時の島津家はわずか1500人の兵しか連れてきていませんでした。島津の実力を思えば、1万近い兵も動員できたはずです(実際、柳川の大名である立花宗茂は実力以上の6千もの兵を連れてきていました)が、太閤の朝鮮渡海で島津など九州の大名達は疲れ切っており、さらに西軍・東軍どちらにつくかでも島津家内部で意見対立していたことからそんな数になってしまいました。
 また大将の島津義弘公自身は東軍に味方するつもりでしたが、伏見城にいた家康の腹心・鳥居元忠に断られて結局西軍についてしまいました。本来なら島津義弘公は島津を九州統一まで近づけた優れた軍人なので、彼の意見をもとに西軍も戦っていけばよかったのかもしれませんが、なにしろ兵が足りません。結局兵の数が武将の力にもなるわけですね。さらに大垣城の前線に居た時も三成に対して「到着したばかりの東軍へ夜襲をかければ敵は疲れ切っている事もあり、容易に勝てるだろう」と進言したにも関わらず、三成は島津家をおいてさっさと城にひいてしまいました。これに怒った島津義弘公は決戦の間中、参戦を促すために三成自身が来ても「そっちで勝手にやれ!」といってついに何もしませんでした。
 さすがに天下分け目の関ヶ原、色々なことが起きていましたね。
島津陣跡2

 合戦の大勢が決した後も、逃げる西軍兵を尻目になお島津の陣は大将の命令を待ってひそと静まり返っていました。島津義弘公は馬を曳いてこさせ、いよいよ出陣を命じました。
島津義弘騎馬像
 「島津の者ども!西軍はいよいよ我らのみとなった。こうなれば撤退するしかない。われらは・・(そこでサッと采配を振り下ろしました)東軍の家康の本陣めがけて撤退する!」猛者揃いの島津家の武者達もさすがに息をのみました。
 しかし、その決断は勇者にしか出来ないものです。普通に西へ、西へと引いていけば勝ち馬に乗った東軍・裏切った西軍らに追いつかれてあっという間に全滅させられてしまうでしょう。負けそうな時こそ前に進むというのは全ての人間の意表をつくものです。が・・危険性も極め付きに高いものです。

 さて、大将の義弘公と甥の豊久公らを取り巻くように側近の長寿院もりあつなどら馬廻り衆が駆け出し、さらに外周を武者共も駆け出します。その手には一様に鉄砲が握られております。島津家には鉄砲足軽などおらず、鉄砲は全ての侍が所有しております。さすが鉄砲伝来の地・種子島を所領に持つだけあります。
 島津の戦い方は他家にはない独特なものです。「捨てがまり」と呼ばれるもので一部の武者が鉄砲を撃てる用意をして追撃してくる敵兵を待ち受け、敵が近づいてきたところを見計らって一斉に撃ち出し、後は槍や刀に持ち替えて敵に突撃して全員討ち死にするまで戦い続けます。
 ええ、これによりほとんどの武者が倒れますが、大将のみはかろうじてでも生き残る可能性があります。その大将こそが生き延びることが重要なのです。大将の死は「敗北」に直結することなのですから。
分かれ道
 (画像は右が島津軍撤退路、左が旧伊勢街道です。伊勢街道を北上すると本多忠勝陣跡にたどりつきます)

 家康公本陣手前まで島津軍は突撃し続け、そこから急に南に進路を変えます。家康公が危うかったことに井伊直政は激怒し、井伊軍の先頭に立って追撃します。
鳥頭坂
 さて、島津軍は運命の地「鳥頭(うとう)坂」にたどりつきます。ここで義弘公の甥・豊久が馬をとめていいました。
 「叔父御!ここはそれがしが井伊軍を止めもうす。叔父御は生きて薩摩に帰って、島津家を生き延びさせてくだされ。」と何かを思い切るように告げる豊久。明るく振舞っているものの、その目には死を決意した色が浮かんでいます。
 「豊久!おはんはまだ若か、ここで死ぬのはわしのような爺ぞ!早く行くのだ。」なんということでしょう。かつて「鬼石曼子(ぐい・しーまんず)」と明・朝鮮の兵から恐れられた義弘公の声が震え、目も心なしか潤んでいます。豊久は義弘公の弟・家久の弟であり、幼くして父を亡くした豊久を義弘公は父親代わりとなって育てていたのです。武人としての荒っぽい可愛がりようではありましたが。
 「ここでかっこいいところを見せるのは若い者の仕事ぞ。大将は大将らしく担がれてお帰りなされ!」というや義弘公の側近に頷きかけ、側近らも心得たように義弘公の馬の手綱を強引に引っ張ってゆきます。
 「はなせ!はなさぬか!とよひさぁーー!!」その声を聞きつつ豊久は廻りに残った50人にもみたない武者達を見渡します。
 「おはんらの命は貰いもした!ここで義弘様を生きて帰せばまだ島津は生き延びる道はある。鎌倉以来400年も続いた島津家をここでつぶすわけにはいかん!皆、頼むぞ。」その声に周りの武者達も無言のままニヤリとします。思いは一つなのです。

 さて、ここ鳥頭坂を待ち伏せ地点に設定したのはさすが戦上手の島津家というところなのです。この坂を下ったところはまた平坦な路ですが、下り坂で長々と続く人々の列を突然止めると、後に続く人々は追突をさけるため次々と止まり、渋滞が発生します。つまり渋滞発生のメカニズムを利用した軍略というわけ。凄いなあ・・。

 路の左右に兵を伏せた豊久は赤備えの井伊家が近づいてくるのを見ながら、時機を見計らいます。やがて先頭に前身を赤い甲冑に身を包み、兜の両脇に黄金色の天衝を立てた大将を見出します。
 「まだぞ、まだぞ・・。先頭に確実に当てるには奴らの目の白いところが見えないといかぬぞ。・・よし、今だ、撃て!」豊久の号令に武者達は一斉に立ち上がり、鉄砲を撃ち放ちました。井伊家の先頭に立っていた大将が肩に鉄砲弾を喰らって馬からもんどりうって落ちてしまいました。島津家の武者達は豊久はじめ槍を手に突撃していき・・・生きて帰る者は誰一人おりませんでしたが、義弘公は無事に逃げ延びました。島津の武者で生きて帰ることができたのは50人足らず・・1500人もいて、30人に1人しか帰ることが出来なかったということです・・・・。島津豊久公陣没地
鳥頭坂説明板
 ここに豊公久供養の石碑があります。南無南無・・。

 島津家は関ヶ原に勝った家康になかなか従おうとせず、攻めて来るならいつでも迎え撃つぞという姿勢を示し続けた結果、根負けした家康公のほうが島津家をゆるすことにしました。とはいえ徳川家は隙あらば島津を潰そうと図っておりましたが、260年の江戸時代を潜り抜け、ついに明治維新で関ヶ原以来の鬱憤をはらしました。

 鳥頭坂で傷を負った井伊直政公は完治しないまま戦後わずか2年後に亡くなりました。生きていれば、江戸幕府の初期幕政を担うほどの逸材と期待した家康だけにその死を大いに悲しんだということです。

 西軍の実質上の総大将・石田三成は関ヶ原と佐和山の間の伊吹山山中をさ迷っている所を捕まります。家康とも対面を果たしますが、悪びれず堂々とした態度であったということです。また、斬首直前に三成が「水をくれないか」といったところ、その場に井戸がないので渋柿を差し出されたところ、「柿は痰がからみやすくなる」と断ったそうです。その場にいた誰もが「これから首を切られるのになんの心配をしているのか」と嘲笑ったところ、三成は「大将たるもの、首切られるまで敵を討つ算段を図るものだ」と教え諭したという。

 島津義弘公が亡くなったのは豊臣家も滅び去った後の元和5(1619)年、85歳の長命であったという・・。


 今回はここまで!次回から2回ほど「芸術の秋」編をお送りしよう。

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No title

いや~。一つのお話を聞いたような満足感☆
ありがとうございます。

No title

こんばんは。

島津家は、本当にすごいですね~
この島津家が、当初から参戦してたら、東軍が負けてたかもしれませんね。

それと、関が原の合戦の事を考えると、つくづく思う事があります。
三成ではなく秀頼が、西軍の総大将としてこの地にいたらどうなっていたかな・・・と

Re: No title

 こんばんわ。
 もったいないお言葉をいただきました。恐縮です。歴史ってあんな面白い話目白押しなので、もっと色々ドラマ化してほしいのですがね。
 なんで日本人が韓国の歴史ドラマを見なければいけないのでしょうか?

Re: No title

 こんばんわ。
 島津義弘公が総大将だったら・・なんて想像してみるのも面白いですね。

 毛利の腰抜けごときを総大将に仰がなければならなかった三成の不幸・・というか誤算?悔やまれますね。

キーマン不在の訳は?

なぜか今年の大河ドラマでは小早川秀秋が影も形も見せませんでした。関ヶ原の戦いの収録が地震の後で、「1回削減」が決まったために割愛されたんでしょうか?春の大地震が後半の番組制作にも、若干影響を及ぼしておりますね。あの前後の回の時間経緯の不自然さを見るとそう思います。
しかし、大河ドラマを見るたびに思うのですが、時代に関係なく誰を主人公とするかで周辺の登場人物が変わるものですねぇ。その割には徳川家の家来の数が寂しい。再来年は主人公の親族以外は全く予想が付きません。

Re: キーマン不在の訳は?

 こんばんわ。
 今年の・・というか「天地人」の途中から大河ドラマ見ていないのですよ。ドラマの脚本優先で史実を簡単に捻じ曲げてしまうその姿勢に怒り心頭・・。
 そうですか。小早川もでていないのですか。今年の大河の女性脚本家は自分が歴史わからないから、身内に書かせているとの話がありますが、どうなんでしょうね。時代考証の静岡大学教授・小和田哲夫先生も「史実を教えても無視して話をつくるので自分がやっている意味が無い」とこぼされているそうです。NHKの姿勢には問題ありですね。このままでは来年の「平清盛」も推して知るべしではないでしょうか?
プロフィール

サムライ銅像研究会

Author:サムライ銅像研究会
歴史と銅像と芸術が大好きなあまり、日本各地を東奔西走する銅像・史蹟ハンターである。神出鬼没なため、脈絡無しのブログ更新を続ける。掟はただ一つ!「死して屍拾うものなし!」昔の時代劇の決め台詞だけどね・・皆さん、見てやあ!
 最近、キューピーに侍の装束を着用させる遊びをやっております。「武者ピー」と呼んで可愛がってやぁ~!以後は「キューピー甲冑師」とも名乗ります。

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