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関ヶ原古戦場巡り~西軍陣地編~

 こんばんわ。金曜日にブログ更新をしようと考えていたら、どういうわけか繋がらない。どうやら管理者側でトラブっていたようなのでこうして更新できる。やれやれ・・

 さて、気を取り直していってみよう!(いかりやチョーさん風に)今回は西軍陣地を巡る。前回、東軍陣地編を詰め込みすぎたようなので二回にわけようと思う。
関ヶ原開戦地
 こちらが「開戦の地」石碑である。裏手が泉州・堺の商人出身の大名・小西行長の陣地跡であり、ここより北に進むと石田三成の陣跡。西南方向にすすむと宇喜田秀家陣跡である。

 各陣所に向かう前に、東軍総大将・徳川家康の息子達の動向を追ってみよう。関ヶ原時点で元服して一軍を率いることの出来る息子は三人いた。まずは家康公の次男・結城秀康公。
結城秀康
 この画像の人物が秀康公、福井県庁前にある石像。日本の武将らしからぬ姿はこれを作成した人物が支那人だからである。秀康公は関東にあって、徳川を追って南下してくる上杉軍に備えて宇都宮に数万の兵とともにいた。
彼は不遇な人物で生涯にわたって父親の家康公に嫌われ続けた人物であり、それもまた一篇の物語になる。

 2人目が三男で二代将軍・徳川秀忠公である。今の大河で向井理氏が演じている人物だ。東海道を行く家康公とは別に中山道を3万8千もの徳川軍本隊を率いて向かっていたが、信濃・上田の真田昌幸・幸村親子に妨害され、肝心の決戦に遅れるという切腹ものの失態を犯すが、そのような事態にいたらずに将軍となって江戸幕府の基礎を築き上げた。政治家としての才能が優れていたということだろう。

 3人目が前回登場した松平忠吉公である。島津家との戦闘で鉄砲傷を負い、戦後に清洲城主になったものの1607年に死去。

 前回の福島陣跡からまっすぐ向かったのが大谷吉継陣跡、石田三成の挙兵に反対しながらも最後は三成との友情にまけて西軍に参加した悲運の武将です。
大谷陣周辺図1
 国道21号をまっすぐ西に向かい、右に曲がって旧中仙道をさらに西へ。
名所・鶯の滝
 途中には名所「鶯の滝」がある。だが周りをフェンスで囲まれているため、降りて撮ることが出来なかった。もったいないなあ。さらにいってみよう。
大谷陣周辺2
 大谷陣跡からは離れているけどその先には・・
常盤御前の墓1
常盤御前の墓2
 源平合戦の名将・源義経公の御母上である常盤御前の墓があるのですね。義経公の父親・義朝公が戦に敗れて討たれた後、息子達を助けるため平清盛に身を任せざるをえなかったと「平家物語」で有名な話ですね。お墓の真偽はともかく、土地の人が代々弔いつづけてきたのですから我々旅人も手を合わせましょう。南無南無・・。

松尾芭蕉の句碑
 松尾芭蕉もこの地で俳句を詠んだようですね。

 大谷陣跡にむかいましょう。
黒血川2
黒血川1
 おお!こんな小川が「壬申の乱」では激戦地だったのですね。川が黒々とした血で染まるほどとは・・。

大谷吉継公の墓へのトンネル1
 黒血川を左に見ながら北上すると東海道本線が上を通るトンネルが迎えてくれます。念のため、東海道本線の歴史を調べてみると長浜ー関ヶ原間を開通したのは明治16年とのこと。このレンガ積みは明治なんですね。雰囲気ありますね。
大谷吉継公の墓へのトンネル2
 トンネルを潜って坂道を登っていくと大谷吉継公のお墓があります。
大谷吉継公の墓への林道
 このあたりはかなり山深いので虫除けスプレー必須です。山道を辿っていくと・・
大谷吉継公の墓1
大谷吉継公の墓2
 南無南無・・。大谷吉継公は2千にも満たないにも関わらずよく戦い、かの裏切り者・小早川秀秋が松尾山をくだって攻め下ってきても3度にわたってはね返したほど勇戦力闘された武将です。ま、吉継公自身は病で体の自由は利かず目もほぼ見えていなかったのですが、それだけ大谷家の結束は強かったということでしょうね。

大谷吉継公石碑1
大谷吉継公石碑2
 このお墓を整備したのは東軍の敵将・藤堂高虎公です。元は太閤・秀吉の下にあって同僚なわけですからね。さすが苦労人の高虎公ですね。

 来た道を戻らずに南下すると・・
大谷陣跡
 ここが大谷陣跡です。お墓はずっと奥にあるというのがわかります。

若宮八幡宮1
若宮八幡宮2
 お墓からまっすぐ南下すると若宮八幡宮がございます。お参りしていきましょう。この神社の参道は東海道本線が通っています。本当は通過してはいけないのでしょうが・・
若宮八幡宮3
 いい子は真似しないでね。下に見える道路が旧中仙道です。

 宇喜田陣跡に向かう途中、「平塚為広公陣跡」です。大谷家の盟友ですね。
平塚為広陣跡

 着きました!天満山全体が宇喜田陣跡ですね。
天満神社1
 神社自体は見当たらなかったので山頂にあるのでしょうが、今回は登りませんでした。そんな時間ないて。
天満神社2
 ふむふむ・・。
宇喜田陣への道
 参道を抜けると・・
宇喜田陣跡1
 ここが宇喜田秀家公陣跡です。秀家公は戦後、薩摩まで逃げて島津家に匿われますが、後に投降し、八丈島に流されます。そして80歳を超えても生き、亡くなった時は4代将軍・家綱公の時代だったそうです。タフな人だったんですね。
宇喜田陣跡2
 ここには似たような石碑が二つあります。なんで?
宇喜田陣前
 再現された木柵から東軍方向を透かしみます。向うからおっかない顔した兵士たちが突撃してきたんですね。

小西陣跡
 宇喜田陣跡から北東にいくと小西陣跡ですね。最初の開戦地の碑の後ろですね。

福島・藤堂・京極
 小西陣跡の前から東軍方向を見ると前回巡ってきた藤堂・福島陣跡がよく見えますね。

 今回はここまで。次回は石田陣跡や島津陣跡を巡っていきましょう。

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関ヶ原

自転車で回っているだけあり、広範囲ですね。

遠くから見ただけの陣地もあります。友人と二人で回ったのですが、ガイドを頼みました。駅に迎えに来てくれて、最初に寄ったのが、
松平忠吉と井伊直政の陣地でした。駅と資料館の中間にありますもんね。

このガイドのおかげで、大事なところは回れたと思います。ボランティアガイドが各地にいて助かります。定年後の方の、生きがいみたいですよ。とっても良い人だったのでお礼状を出しましたが。

天下分け目の戦いも、時間にするとあっという間。ここに行ったのは何年前ですか?

今はもっと派手に幟旗などが立っているように思うんですが。

結城秀康の像は私も福井の旅で見ました。いくら疎まれた人物とはいえ、変な顔をしているなと思ったのですが、日本人の作ではないんですね。なぜなの?

Re: 関ヶ原

 こんばんわ。
 ブログの管理画面に接続不能な状況が数日続き、せっかく頂いたコメントに返事することもできませんでした。やっと繋がるようになりました。

 関ヶ原にいったのは去年の秋口です。さすがに去年の真夏に関ヶ原の広野は廻れませんよ。関ヶ原祭りの頃なら派手に飾り付けているかもしれませんが、そのような時期にいくと人ごみが多すぎて古戦場をじっくり検分することができませんので人気のない時期を選んでいっております。

 福井の秀康像はなんで支那人がつくっているのでしょうね?予算が足りないか、日中友好のおためごかしのためなのか?調べていないので不明です。
プロフィール

サムライ銅像研究会

Author:サムライ銅像研究会
歴史と銅像と芸術が大好きなあまり、日本各地を東奔西走する銅像・史蹟ハンターである。神出鬼没なため、脈絡無しのブログ更新を続ける。掟はただ一つ!「死して屍拾うものなし!」昔の時代劇の決め台詞だけどね・・皆さん、見てやあ!
 最近、キューピーに侍の装束を着用させる遊びをやっております。「武者ピー」と呼んで可愛がってやぁ~!以後は「キューピー甲冑師」とも名乗ります。

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