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群馬県太田市の神社など

 前回に引き続き、太田市内の神社を紹介し、また市内で見かけた太田市ならではのものもあわせて紹介していきます。

 東武・太田駅前を東西に走る街道を西へ歩き、五分もするとこんなものが・・
太田宿本陣跡
 ここに太田宿があったんですね。この裏手は群馬大学のキャンパスです。

 少し西に行くと、
高山神社参道
 北へ向かってまっすぐ石畳が続いています。地図で確認すると、この日の第1目標のある神社への参道のようですので、北上します。
新田パン煙突
 途中ふと見上げるとこんな煙突が・・太田市内ならではですね。パン屋さんまで「新田」、お休みのようでパンを焼く香りはありませんでした。残念・・・。

太田の春日神社全容
 参道の脇に神社の鳥居がありましたので、寄り道・・
春日本殿1
春日本殿2
春日由緒
 随分立派な木彫と思ったら、新田家が勧進して祀っていたのですね。今では村社のようですが、往時はもっと広大な境内だったのかもしれません。
春日の狛犬
 拝殿前の狛犬殿に別れを告げて北上します。しかし凄い目力・・というより飛び出ていますが、昭和50年代に新しく地元の石材屋さんが設置されたもののようです。

 DSCF1013_1.jpg
 参道の奥をちょっと右に曲がると「高山神社」の階段が出迎えてくれます。昇ると・・
高山神社拝殿
 祀られておられるのは「高山彦九郎命(たかやまひこくろうのみこと)」、江戸末期の人で(1747年6月15日生ー1793年8月4日没)熱烈な尊王運動家でして、後に「寛政の三奇人」といわれております。
  (他の二人は「海国兵談」を著した林子平と国学者の蒲生君平)

 その時代、「奇人」とは変人ではなく、「凡人にはできない大きなことをなす人物、またなそうと志す人物」であり、言い換えるなら「寛政の三偉人」でありましょう。
 実際、徳川万歳の世の中では「尊王」を説く事は大いなる危機であり、庄屋を務める実兄とは絶縁状態になり、故郷の太田に居られなくなり、日本全国を尊王を説いて、後の「尊皇攘夷」の気風を育てる源泉ともなります。ただ彼の家族は実兄からいじめられて難儀したそうです。
 彦九郎の交友の範囲は広く、上は公卿から下は街道の追いはぎまで彼の誠に満ちた人柄に打たれぬ者は皆無であったといわれます。
 更に当時「吉兆の証」といわれた藻が生えた亀を時の「光格天皇」に献納し、その時の感激を歌った和歌
   「我を我と しろしめすかや すべらぎの 玉の御声の かかる嬉しさ」
 は「愛国百人一首」に納められました。
鶴丸紋と丸十
 拝殿や本殿の屋根には鶴丸紋や丸十紋など薩摩・島津家ゆかりの紋が配されています。実は当時「他国人は生きて入れない」といわれた薩摩にまで彦九郎は潜入しようと国境まで赴きますが、20日間以上待たされた挙句、すげなく追い返されます。(この神社の創立に薩摩が関わっているかは未調査なので不明です。)
 その後、幕府にそのことを察知され、友人・知人や故郷の家族らに迷惑をかけまいと久留米の友人宅で自害し、その激動の生涯を終えます。

 現代では忘れられがちな人物ですが、その数奇な人生は知るに値します。さらに長州の吉田松陰の号「松陰」は高山彦九郎の法名「松陰以白居士」に由来します。幕末を大きく回天させた吉田も高山の生涯に感銘を受けたということです。
高山神社扁額
 今ではひっそりとした神社ですが、東武・世良田(せらた)駅近くに「高山彦九郎記念館」がございます。今回は行きませんでしたが、いつか行きたいものです。
  (彼の生涯を知りたくなった方は吉村昭先生の「彦九郎山河」という小説がオススメです。吉村先生は題材に対して徹底した文献渉猟と現地への取材を心がけられ、作品世界の中でも史実を尊重したフィクション世界の構築に意を注がれておられました。とても良心的な歴史小説家の一人です)

 高山神社を後にしていよいよ金山城址を目指します。前回紹介した「大光院」に向かう途中にこんな石橋が・・
太田市内の石橋
 徳川の葵紋が彫られていますね。「大光院」への道筋ということなのでしょうか?これもまた歴史の証人、大切にしてほしいですね。

 金山城址の様子は次回に紹介しますが、今回は山頂の「新田神社」を紹介します。川崎市の新田神社、大田区の新田神社に続いて三番目の新田神社です。
新田神社の大ヒノキ
 参道の途中にこんな大木が出迎えてくれます。
大ヒノキ説明板
 なんと樹齢800年以上ですか!ということはこの木を新田義貞公も金山城を訪れた太田道灌公も大きさは違えど見たのかも知れません・・いいしれぬ感動が押し寄せてきました。何枚か撮影しましたが、偉大すぎてうまく伝えられないので、実際に登山してこの木のオーラを感じ取って頂く方がいいかと愚考します。
大ヒノキ全貌
 大ヒノキの全容はこんな感じです。上のほうがハレーションを起こして白っぽくなっていますが、眺めているうちに心を洗われたような気がしました。
新田神社拝殿
新田神社・扁額
 金山は城が築かれる前は「新田山」と呼ばれていたようです。近年の発掘調査でもその頃の遺構は発見されていないようですが、近くに新田庄があることから新田領内のシンボル的な山だったのでしょうね。
新田神社からの眺望
 新田神社から遥かに下界の太田市内が見渡せます。もっといい眺望画像もありますが、それは次回・・。

 では、また!
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No title

大ケヤキ、見事ですね☆
狛犬の目にはかなりびっくりしました。

Re: No title

 こんばんわ。神々しいご神木でした。土地のシンボルとして太田市の方々から大切にされているのだと思います。
 狛犬はね・・細かく見ていると面白いのが沢山いますね。

No title

高山彦九郎さんって、神になってたんですかぁ。
三条京阪の像で初めて知りましたよ18の頃・・・(遠い目)

Re: No title

 三条京阪の銅像を見て「土下座」って人はよくいるんですが、あれは遥拝であって土下座ではないんですね。あと昔は鞘もあったんですが、どこかのたわけがぶらさがって折ったという事件がありました。

金山城

前にも書きましたが、オーストリアにツアーで行ったのですが、お仲間に太田市の人がいました。彼女らが「太田には何もない田舎だ」というので、なかば本気にしていたのですが、まあ!素晴らしい山城の遺構が残っているんですね。石垣をみると、いろいろ想像できます

考えてみると、中世の城は徳川の時代になってからは、ほとんど廃墟になりましたね。
よいレポート、ごくろうさま!地図の張り合わせ、なかなかですよ。地形がよくわかります。

Re: 金山城

 こんばんわ。
 まだ後編が残っていますのでまたお暇な時にでもお立ち寄りください。画像が多いのですこし時間がかかりますが。
 
 地元の方はいつも見ている光景はめずらしくないでしょうね。でもこんなブログでも色んな人に知ってもらえたら努力したかいはあります。

 金山城は最近色々手がはいっているので、全てが当時のものではないですし、本丸部は整備されすぎといえるくらい整備されています。まあ、地形を楽しめれば単に遺構見学以上に城跡は楽しめるんですがね。

 最近、ブログ内のカテゴリー分類をちょっとずつ進めています。お暇な時にでもどうぞ。
プロフィール

サムライ銅像研究会

Author:サムライ銅像研究会
歴史と銅像と芸術が大好きなあまり、日本各地を東奔西走する銅像・史蹟ハンターである。神出鬼没なため、脈絡無しのブログ更新を続ける。掟はただ一つ!「死して屍拾うものなし!」昔の時代劇の決め台詞だけどね・・皆さん、見てやあ!
 最近、キューピーに侍の装束を着用させる遊びをやっております。「武者ピー」と呼んで可愛がってやぁ~!以後は「キューピー甲冑師」とも名乗ります。

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