スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

臼井城(千葉県) 道灌が泣いた城~地勢編~

 「おのおの方!出陣じゃ!ご油断めされるな、此度は下総国の臼井城攻めじゃ!」

芳林寺の道灌公2
 太田道灌「なに!弟が戦死した城か・・!」軍配を握る道灌公の手に力がこもる。

右から
 上杉謙信「おのれ!わしが生涯に2度、戦に敗れたうちの一度のあの城か!」馬上でいきりたつ謙信公。

 そう、今回は日本史に誇る名将2人が苦しんだ名城・臼井城を訪れてみました。

臼井駅
 という訳で上野から京成線に乗って京成臼井駅に小一時間ほどで到着。駅前は日曜のせいか、あるいはあまりに暑いためかあまり人気もなく・・。ではここでそれがし手書きの臼井城周辺図を見ていただこう。雑な地図で毎回申し訳ないが、地図や撮ってきた画像をみながら地図作成をしていると、住んでもいないのにその土地の地形に詳しくなる利点がある。
臼井周辺手書き地図
 臼井城は臼井氏・原氏・酒井氏と時代と共にその持ち主を変えていった城で、室町の文明年間頃からその存在が確認できる。城は臼井台地の東端に築かれており、その周囲の台地の端に五つの砦が造られ、防衛網を形成していたが、現在ではそのほとんどは宅地造成などで壊され、駅前の「宿内公園」のみがほぼ昔の形を保っているという。

 まずその砦跡にむかいましょう。
DSCF0267_1.jpg
 駅前から徒歩5分ほどで臼井台地の端にたどりつきます。どうですか、この高低差は。台地上は20~27メートルの標高があります。階段を昇って振り向くと・・
台地からの見晴らし
 右のマンションの向うに駅があります。
DSCF0271_1.jpg
 土手に階段がつけられていますね。この先には草っぱらがありますが、特に案内板などはありません。
DSCF0280_1.jpg
 植物のことはわかりませんので先を急ぎましょう。振り返って見るとかつての砦の全貌が伺えるかのようです。
DSCF0281_1.jpg

 公園のふもとの道は「千葉臼井印西街道」という南北に走る道、北上すると、
臼井道路元標
「臼井町道路元標」と「明治天皇臼井行在所跡」がございます。車で行かれる際や徒歩でもここを目印にするとわかりやすいですね。
 ここから東西に走る成田街道を西へしばらくいきます。曹洞宗・宗徳寺の向かいにある所をみにいきました。
権現水
 こちらは「権現水」と申しまして、徳川家康公が立ち寄られた際に水を汲んで飲まれたそうです。今では貧相な水溜りにしか見えませんが、往時は大切にされた水源だったんでしょうねえ。
 ちなみに家康の関東入りにあたり、ここには徳川四天王の筆頭・酒井忠次の嫡男、家次が配置された。だがその石高は三万石であり、他の三河出身の家臣に比べて不自然なほど小さかった。例えば赤備えの井伊直政は12万石、鹿角兜で有名な本田忠勝は10万石を超えていた。これには家康の嫡男・信康が織田信長の命令により切腹させられた事件が影響しており、後に家康に「わが酒井家の領地を増やしていただけないか?」と忠次がお願いしたところ、家康から「お前も息子がかわいいのか?」と皮肉を投げかけられたという。背筋が寒くなる話だ。結局、出羽・酒田に10万石を頂いたものの、酒井家の働きを勘考すればやはり小さいといわざるをえない。

 ここに水源があるということは・・当然、地下に水脈が存在し、臼井城の水もその水を使っていたのでしょう。

 その後、住宅地に迷い込んだもののなんとか目印の熊野神社をみつけました。神社といっても、道端のお社でしたが・・。
臼井城への道
 この道をまっすぐ行くと・・

図書の墓1
 太田道灌公の弟、太田図書助(ずしょのすけ)資忠(すけただ)の墓が出迎えて(?)くれます。

 ここで資忠殿が戦死された合戦を振り返ろう。
 文明10(1478)年に道灌公により豊島家が滅ぼされる。
 同年の12月12日に道灌公は境根原(千葉県松戸市)合戦で長尾景春方の千葉孝胤を破り、臼井城に敗走させた。 道灌軍はそのまま臼井へと進撃して臼井城を包囲。
 翌年(1479)の1月18日、道灌公にかわって資忠指揮する太田軍が臼井城を攻撃するもその堅い守りにより 撃退される。
  その間、道灌公は手勢を率いて下総を転進して庁南城(長南町)、真里谷城(木更津市)、飯沼城(銚子市)を攻略。
 同年の7月15日、臼井城が落城するも、弟・資忠以下53名が討ち死にという手痛い犠牲をも蒙る。

 年表風に書くとそっけないが、実はこの弟の死は道灌公にとって、また父・道真にとってもとてもおおきなものであったと思われる。その証拠になるかは疑問だが、同じ年にそれまで太田資長(すけなが)の名乗りを「道灌」に変え、入道した。恐らく弟と戦死した50数名の部下を弔う思いがあったのだろうが、道灌公の弟に寄せる思いはいかなるものであったか。
 道灌公の心境を語る資料はないが、資忠は道灌公に代わってしばしば軍勢を指揮して敵軍を打ち破るのに大きな功績をあげていた。特に文明9(1477)年の「勝原(すぐるはら)合戦」で長尾景春勢を負かして豊島家との連絡を断った軍功は大きい。
 また父・道真と道灌公との間には古河公方家との争いに対して意見対立があり、感情のもつれになっていたともいうが、資忠はその二人の間をよく取り持っていたのではないだろうか?後の時代の武田信虎と信玄、その弟・信繁(信虎は信玄より信繁を可愛がっていた)らの関係のように・・。
図書の墓2
図書の墓3
 この説明板によれば引き上げる太田軍に城方が襲いかかり、とって返した資忠が指揮して激しく戦い、その時に負った傷で亡くなったとのこと。
 「鎌倉大草子」からこの過程を記述した部分を抜粋すると・・
  「七月十五日陣払の体(てい)を見て城より切て出ければ、太田図書助資忠取てかへし攻戦けるが、付人に打て入城(城方の退却につけいって城に突撃すること)を終に責落す。しかれども太田図書助をはじめ・・(中略)五十三人討ち死に」とある。道灌公の慟哭が聞こえてくるようだ。南無南無・・。

DSCF0317_1.jpg
 墓を後にして、左手に深い空堀をみおろしつつ進むと・・
臼井城入り口
 臼井城の入り口が出迎えてくれます。

 さて、今回はここまで。臼井城の素晴らしい遺構の数々や眺望に感心して沢山画像を撮ったので、今回はその周辺を紹介するしかできなかった・・。次回は城内の図と画像をあわせて紹介していきたい。

 では、また!
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

サムライ銅像研究会

Author:サムライ銅像研究会
歴史と銅像と芸術が大好きなあまり、日本各地を東奔西走する銅像・史蹟ハンターである。神出鬼没なため、脈絡無しのブログ更新を続ける。掟はただ一つ!「死して屍拾うものなし!」昔の時代劇の決め台詞だけどね・・皆さん、見てやあ!
 最近、キューピーに侍の装束を着用させる遊びをやっております。「武者ピー」と呼んで可愛がってやぁ~!以後は「キューピー甲冑師」とも名乗ります。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。