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道灌公の墓参り~神奈川県伊勢原市~

 太田道灌公に関する史蹟を巡り、本を読み漁り、当ブログで散々勝手なことを書いてきたためかどうも胸の内がすっきりしなかった。これはどういうことかと考えてみれば、そういえば道灌公のお墓参りを済ませていなかったことに気づいたのである。
 埼玉県越生(おごせ)町にある龍穏寺にある道灌公のお墓参りはしたことはあるが、道灌公悲劇の地・神奈川県伊勢原市糟谷は未だ訪れていなかった・・。
龍穏寺の道灌公墓
 この画像は越生町の道灌公墓です。南無南無・・。

 というわけで、バッグに数珠をいれて行って来ました伊勢原に!駅中にある観光協会で伊勢原市内の地図を頂き、色々聞き込みも行いました(ポリ公か!)
伊勢原駅前
 新宿から小田急線に乗れば1時間すこしで到着するものの、いつもの悪い癖がでて、経堂駅まで歩いてそこから電車に乗りました。本当は多摩川越えるとこまでいってやろうと考えていたものの、起伏の多い地形に難渋し、電車にお世話になりました。いい運動にはなったけどね。

 伊勢原市内には道灌公にまつわるポイントがいくつかありますが、それらも巡ってみました。まずは伊勢原市上糟谷にある産業能率大学。
産業能率大学
 この地に扇谷上杉家の居館跡があったといわれており、実際遺構なども出土しています。
上杉館址
 入り口に立つ警備員さんに伺うと、大学構内に遺構跡をしめす案内板があるので建物内に入らなければ見学可とのことでしたので廻らせていただきました。
大溝跡
 この下にかつて大溝があったようです。下に降りてみると・・
大溝跡2
 この湾曲した部分を埋め立てて、上に運動場が作られておりました。他に周囲をざっと巡ってみましたが、特になかったので大学を後にしました。ただ、地形自体は大山の山裾にあるということで盛り上がっており、また深い谷が周囲に存在し、確かに館を建てるには都合のいい場所であるとは感じました。一番重要な水源も大山をはじめとする丹沢山系からの湧き水が街中の溝を流れ込んでおり、豊富な水量であることが理解できました。ただ・・居館としては狭く感じたので、夏の別荘ならば涼しくていいのでは、とも思いましたが。ともあれ、道灌公が謀殺された候補地の一つではあります。

大山の麓・水田
 山と水田がセットで美しい光景ですね。

洞昌院
 大学からまっすぐ伊勢原市内方面に道を下って行くと、途中「道灌塚前」というバス停がございますので、そこを曲がっていくと「洞昌院」というお寺が見えてきます。お墓自体は本堂から外れた敷地ですので、本堂の画像は撮っていません。
道灌公・胴塚
 こちらが太田道灌公のお体が荼毘に付され、埋められた所です。南無南無。その両脇には・・
万里集九手植えの木
 道灌公の詩友・万里集九(ばんり しゅうきゅう)が植えられた木の根が残っています。道灌公と万里集九が実際にあって、連歌や漢詩を作って楽しんだのは道灌公が亡くなるわずか数ヶ月前・・、それでも万里集九は友の死を大いに悲しみ、墓前に樹木を植え、扇谷上杉定正が慰留したにも関わらず故郷の美濃(岐阜県)に帰っていってしまい、死ぬまで故郷を離れなかったそうです。その深い悲しみ、察するには深すぎます。

三徳殿
 洞昌院には道灌公の霊廟「三徳殿」もあります。
三徳殿の扉
 霊廟の扉には太田家の家紋・「桔梗」紋が施されております。太田家の家紋はこのほかに「かぶら矢」紋があります。
かぶら矢紋
 二つの紋の由来は太田家の先祖といわれる「源三位頼政(みなもとの さんみ よりまさ)」が「ぬえ退治」の時に帝からかぶら矢と桔梗紋のはいった装束を拝領したことによります。さらに「かぶら矢」紋は太田家嫡流しか使用を許されていなかったそうですが、現代がそうかは知りません。
 現代の永田町にも「ぬえ退治」が必要な気がしますが、国情が落ち着き、選挙ができる時を待つしかありませんね。「臥薪嘗胆」の気分です。

 閑話休題。

七人塚
 道灌塚からほど近いところに「七人塚」がございます。道灌公といっしょに討たれた忠臣らのお墓でかつては七基あったものの、現在は一つにされてしまったとのこと・・室町は遠くになりにけり。南無南無・・。

 この地では「みやび男の子の 道灌様は 花も実もある あづま武士」と地元民に謡われているそうです。

 ちなみに洞昌院近くに「太田神社」がありますが、道灌公とはまったく関係ない宗教法人ですので、うっかり立ち寄らないように。

 今度はもとの道に戻り、東名高速道路を越えたところにある「五霊(御霊)神社」に向かいます。その途中には・・。
なぜか鳥居
 なぜか鳥居だけぽつんとあります。向うは駐車場だし。とりあえず潜ってみると・・
振り返って納得
 振り返って納得!大山阿夫利神社への参道というわけですね。確かにまっすぐのぼっていけば麓に到着しますからね。

五霊神社
 東名高速を潜ったすぐ近くにこの神社が・・ん?小さい・・。この神社は事前調査では、伊勢宗瑞(北條早雲)が道灌公の遺徳を偲んで、着用していた兜を御神宝にして祀った神社なんですが・・ほんとに村社ですこしがっかり。日本史上のビッグネームが2人も関わっているのに、この扱い・・仕方ないですね。
五霊神社
 せめて扁額を見ていただきましょう。

 神社からさらにくだると、国道246号(都内でいう青山通りですな)に出ますので、道を東に行きます。
IMG_3618.jpg
 その途中、伊勢原市役所前の道灌公像にあいさつ。前にも来ましたがね。
  「おお!また来たな、若いの。今度はわしの墓参りか・・酔狂なことよなあ・・。」と言われたような気がします。ええ、酔狂をずっとやってますので。

 新道灌橋 
 市役所を後にしてさらに東にいくと「新道灌橋」と書いてますね。光線でわかりづらくてすいません。

 さらにいくと丸山城跡1
 丸山城址公園にたどりつきます。ここも近年、発掘調査が行われ、こここそ扇谷上杉氏の居館があったところではないか・・といわれているところです。確かにここなら街道上ですし、敷地を広くとることもできるでしょう。
丸山城跡2
 階段の先が高くなっていますね。
IMG_3647.jpg
 ああ、これはいい広場ですね。弁当持参でピクニックにいいところです。
丸山の土塁1
丸山の土塁2
 周囲には土塁が残っており。
IMG_3652.jpg
 眼下には住宅地が広がっております。眼下といってもそれほど高くないですが。
丸山からの大山
 広場の一角からはるか大山が遠望できます。この街は何をおいても大山ですなあ・・。

IMG_3659.jpg
IMG_3660.jpg
IMG_3661.jpg
 丸山城址公園を国道が通っているんですね。迂回とかできなかったんでしょうねえ・・仕方ない。城址の一角に前回紹介した「高部屋神社」があります。

 丸山城址を後にして路地をいくと、道灌公のもうひとつのお墓が見えてきます。
道灌公首塚1
 ここは道灌公の首塚といわれております。ここでも南無南無・・。


 さてここで道灌公の謀殺について考えてみたい。道灌公は主君・扇谷上杉定正の新しい居館の完成披露に呼ばれ、その館で殺害されたという。場所が産業能率大学か丸山城址かはどしらでもいい。館自体、謀殺後に取り壊されたろうし、確かな場所特定の手がかりもほぼ無いだろうから考古学者にまかせよう。
 所詮、素人であるそれがしはその謀殺が「愚かな主君により殺された可愛そうな道灌公」という従来型の見方がどこまで正しいか、ということである。もちろん、それがしは道灌公がすきだし、その謀殺が許せない気持ちもある。

 だが今までみてきたように上杉定正もただ愚かな男というわけでもないし、道灌公も傲慢なところがあり、それが上杉家中から嫌われていたという側面もあった。そもそも道灌公は定正の家来であるわけだから定正にしてみれば「謀殺」などとは片腹痛い物言いであり、彼自身は「上意討ち」という気持ちが強いだろう。
 実際、定正は「主君・山内上杉顕定の為に(道灌を)上意討ちしたのに、自分を退治するとはどういうことか」と書き残して憤慨している様がよくわかる。

 また道灌公自身にも油断があった。そもそも「長尾景春の乱」発生の前提として、古河公方・足利成氏と京都の将軍・足利義教・義政とが争った「享徳の乱」があるが、その説明のために南北朝動乱まで遡る必要があるためここでは割愛する。
 ただ、成氏は同じく将軍にさからった父親・持氏がわずか数ヶ月で自害したにも関わらず、成氏は28年にわたって断続的に抵抗を続けてついに両者の和睦まで持ち込んだのだ。その事実は大きく、道灌公も以後の「関東静謐(かんとうせいひつ)」の為に成氏と両上杉家との間で奔走したことだろう。その中で道灌唯一の実子・資康が元服した後、成氏のもとに出仕させたという。
 ここは注意を要するところだろう。道灌の主君は定正であり、本来実の息子を出仕させるなら定正の下にというところが筋だ。それを成氏の下にということは、単に両家の和解以上の意味を持つのではないか!更に踏み込めば成氏の武将としての男振りに道灌公も惚れ込み、実子を預けたのではないだろうか?武士が実の息子を預けるということはその子の生涯の主君を決めるということであり、道灌公の「武者の道」(「武士道」といいかえてもいい)を通す筋道として、今後足利成氏を盛り立てることで関東の平和、ひいては天下の平和を目指したのではないだろうか・・?というのはそれがしの推量にすぎないが、今後は足利成氏を調べ上げるという次の目標ができたのも確かである。

 結句、道灌公の謀殺は個人的には悲劇的だとは思うが、道灌公が謀反するまでとはいかないが主君を乗り換えようとしたことにより、上杉定正から討ち果たされた、というのが事件の真相ではないか?と思う。

 ちなみに道灌公の実子・資康は道灌謀殺後に山内上杉家に鞍替えし、生涯を扇谷上杉家との戦いに捧げ、20台半ばで討ち死にした。彼の父に対する尊敬の念や思いは察するにあまりある。道灌の孫にあたる資高は北條氏綱に寝返って扇谷上杉家を江戸城から追い出したのであった。因果は巡り巡って・・というところか。

伊勢原の水田
 無事お墓参りを終えるとなんとも言いようの無いすっきりとした気持ちになった。いわば「憑き物」が落ちたような・・。これは不思議な気持ちであった。そこで周囲を見渡すと、すでに田植えが終えられており、青い空がよく映えて美しい光景であった。今年も美味い米がとれるといいなあ・・。

 ではまた次回!
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非公開コメント

こんにちは

道灌公への想いがとても伝わってきました。
自分も太田道灌は好きな武将の一人なのですが、あまり詳しく知ってるというわけでもなかったので、興味深く読ませていただきました。

考え方、見方によって色々な考えが出てくるものなのでしょうね。

Re: こんにちは

 こんばんわ、コメントありがとうございます。自分も道灌公についてはよく知らないままだったのですが、今回あれこれ郷土史や学術書を読み、また史蹟をめぐることで伝説と思われていた人物も血肉をもった人物というのがよくわかりました。同時に関東各地に道灌公の銅像が9体も存在することに大いに納得したしだい。

 黒田基樹先生の「図説 太田道灌」という本には道灌公の手紙「太田道灌状」が読み下し文と現代語訳が載っており、道灌公の肉声が生々しく感じ取れます。これは他の歴史上の人物にない稀有なものです。図書館などで一読されると面白いかと思われます。

 モザイクのような破片を一つづつ嵌め込んでいき、おぼろげながら全体像が浮かび上がってくる・・これだから歴史はやめられんとです。

伊勢原の太田道灌

おっ 伊勢原ですね。
ここは大学時代によく通った場所でもあるので馴染み深いです。
当時は太田道灌に興味がなくもっと巡っていればよかったです。

道灌公の墓は何度か行っていますが、感慨深いですね。

また扇谷上杉の館が産能大学にあるとは知りませんでした。
五霊神社も聞いた記憶がありましたが、2大武将ゆかりの神社とも知りませんでした・参考になります。


以下 20代の頃に作成したサイトです。太田道灌の時代を自分なりにまとめたページです・(文章が幼稚なのは御愛嬌で・・)
http://www.geocities.jp/baronhiro2000/rekisi/doukan/doukantop.htm

関東の戦国黎明期のことで今度語りましょう!

Re: 伊勢原の太田道灌

 あ!このホームページはヒロ男爵殿が管理人でありましたか!太田道灌で検索してこのHPみつけたんですが、「太田教?危ねえなあ、こいつ」と素通りしていましたが、まさか男爵殿とは・・。

 道灌公からさかのぼり、足利成氏公を調べだしたら止まらなくなり、そのうち成氏公について書き出しはじめるでしょう。銅像はないんですがね。また見てください。

No title

訪問有難うございます。
素敵なブログですね。
今後もよろしくお願いします。
太田道灌は好きな武将です。勉強になります。

Re: No title

 こんばんわ。こちらこそありがとうございます。好き勝手に書いているだけなので、またお気軽に見に来てください。
 この夏は関東の中世城址を巡る予定です。
プロフィール

サムライ銅像研究会

Author:サムライ銅像研究会
歴史と銅像と芸術が大好きなあまり、日本各地を東奔西走する銅像・史蹟ハンターである。神出鬼没なため、脈絡無しのブログ更新を続ける。掟はただ一つ!「死して屍拾うものなし!」昔の時代劇の決め台詞だけどね・・皆さん、見てやあ!
 最近、キューピーに侍の装束を着用させる遊びをやっております。「武者ピー」と呼んで可愛がってやぁ~!以後は「キューピー甲冑師」とも名乗ります。

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