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江戸城の曙~太田道灌公時代~

 前々回、前回と引き続き太田道灌公の足跡を追っていこう。今回は道灌公が築き上げた江戸城を振り返っていきたい。といっても道灌公が謀殺された後、後北條家、徳川家、皇室とその持ち主をめまぐるしく変えてきたのでそんな昔の痕跡なんてないんじゃないの?というのは見方が浅井・・もとい浅い。

中世の江戸周辺
 前回同様、それがしの拙い説明画でもうしわけないが、道灌公時代の江戸周辺を「千代田区史」「千代田区の歴史」「北区史」「静勝軒銘詩並序」など様々な資料を読み込み、当時の地図など参照しつつ書いてみた。それによると昔は川筋が現在の大手門前を通って日比谷(昔は海だった)入り江に流れ込んでいたらしいが、その流れを現在の平河門前で東に流れを変えて入間川(現在は隅田川)に流入させたという。
平河門
 こちらは現在の平河門。なぜ流れをかえたのか?それは当時の江戸湊(えどみなと)の繁栄に関わる。江戸城は河越城、岩槻城と共に古河公方家への防衛線として築かれたのだが、同時に江戸湊は諸国への物資輸送業で賑わっていた。道灌公も品川湊の長者・鈴木道胤と父親・道真以来の交友を保ち、その財力を力の一因にしていた。
 「静勝軒銘詩並序」にも諸国の物資の衆参離合で賑わう江戸湊の様子が活写されている。その中で、道灌公の「足軽軍法」に関わる一説があったが、それは後述。
 平川の流れが常時日比谷入り江に流れ込むことで土砂の堆積が問題だったが、流れを変えることで江戸城下の平川村と江戸湊をつなげ、城下町をより繁盛させたのである。

 ならば当時の江戸城の「大手門」はどこだったのだろう?という疑問が生じる。現在の大手門付近は城下町が広がっていただろうから軍勢の通行に差し障りがあったであろう。
道灌時代の江戸城
 そこでまた手製の地図である。道灌公は出撃する時に現在の北桔橋(きたはねばし)門からではないだろうか。
平河濠
 うっかり北桔橋門を撮り忘れてしまったのでお濠を見ていただこう。まずこちらは平川濠。このあたりは江戸城で一番高低差のあるところだろう。五山の禅僧竜統も「塁の高さ十条余、懸崖哨立す」と書き残している。個人的にはこのあたりの風景がダイナミックで一番好きだ。武道館近くの九段坂も悪くないが、しばしばイベントなどで人ごみの多いのがいただけない。

乾濠
 こちらは乾濠で道灌公時代の面影を残しているといわれている一帯。向こう側は皇室の敷地内だからいけません。上・中・下の道灌濠もあるが、見ることができない。すこし悔しい。

旧本丸
 中に入るとすぐに徳川時代の本丸跡が出迎えてくれる。上に登っても、周りはビルばかりで格別景色がいい訳ではない。

本丸跡からの眺め
 念のため本丸跡からの眺望の一部。この先の敷地をまっすぐ突っ切っていくと道灌公の静勝軒があった所にたどり着く。

桃華楽堂全体
 こちらは昭和天皇の皇后であらせられる香淳皇后の還暦を祝って建てられた音楽堂です。ん?屋根の頂点に何かあるぞとよってみると・・
桃華楽堂部分アップ
 ひな祭りのような人形がございます。仲むつまじい昭和天皇ご夫妻の姿をかたどっているのでしょうか?下の雲の造型も含め、細かい仕事ですね。

富士見多聞
 今度はなんでしょうね。
富士見多聞説明板
 多聞長屋ですね。蓮池濠側からみた画像も欲しいのですが一般人は立ち入り禁止のため我慢・・。

富士見櫓1
 などと色々見ているうちに富士見櫓裏まで来ました。これ以上は立ち入り禁止ですのでこれが精一杯・・
富士見櫓2
 もう一息!正面側は木立が多くて天辺しか見えませんでしたが、この櫓の立ち位置こそは道灌公の立てさせた「静勝軒」だといわれ、この櫓の姿・大きさもそっくりだといわれていますが、誰か見たんかい!というツッコミは野暮ですのでやめておきましょう。
 この辺りを江戸城の迎賓館として、公家や僧侶、武士や大商人らをもてなしたといわれます。前述の鈴木道胤、詩友の万里集九らをあつめて連歌の会を催したとのこと。その時代の江戸城は活気があって、文化活動や商業活動の拠点として坂東の中心地となったそうです。

汐見坂
 さて本丸跡から汐見坂を二の丸方面に降りていきましょう。この坂の上に宮内庁の楽部があり、笙やひちりきの雅な調を楽しむことができます。練習中でしょうが。
汐見坂から
 こちら汐見坂上から見下ろす白鳥濠、ビルがはいらないように撮るのは至難です。

大手門内側から
 いったん大手門の所まで来ました。漆喰の剥落部分を見に来ました。
大手門破損部1
大手門破損部2
 中の構造がよくわかりますね。
大手門
 早く修復された姿を拝みたいものですね。

 また城内にもどり、大手門近くの休憩所で弁当をつかっているとこんなものが・・
昭和の広告
 懐かしい昭和の広告ですね。ドリンク剤や蚊取り線香のブリキ看板ほど古くないですが、30~40代の人間にはなんとも云えぬ懐かしさがありますね。早見優さんもお若いです。商品はファックスですか?初めて見たときは驚きましたが、今や個人個人がやれスマホだ、タブレットだの持ち歩く時代。隔世の感すらあります。

 そんな感傷は道灌公にはなんら関係ないですね。本題にもどりましょう。
二の丸庭園1
二の丸庭園2
 こちらは二の丸庭園、徳川時代のものを当時の図面からまた整備しなおしたものです。ここもまた美しい穴場的庭園です。なにしろ無料ですから!
 そんな庭園を眺めながら北上していくと、道灌公時代の坂道が待っています。
梅林坂1
 ここ梅林坂は二の丸と本丸跡を結ぶ坂道ですが、道灌公時代は数百本の梅ノ木が植えられ、天神様がまつられておりました。他にも多くの神社やお堂、道灌公の書斎などあったそうですが、徳川時代の拡張工事のために移転されました。天神様も今は平河町にございます。
 現在の梅林坂には50本ほどの梅ノ木だそうですが、それでも早春には鮮やかな梅の花や香りを楽しめるそうです。
平河天神
 境内には幕末頃の鳥居や撫で牛が存在しており、小さな街の博物館のようです。ここの狛犬がまた印象深いものでした。
平河狛犬1
平河狛犬2
 あちこちで色んな狛犬見てきましたが、印象深い一組ですね。何がっていわれても説明しづらいのですがね。

 話はかわってもう一つの主題に行きたい。道灌公の「足軽軍法」である。今まで道灌公は足軽軍法の名人ゆえに名将であるとの語られ方をしてきたが、ではその「足軽軍法」とはなんぞや?ということである。
 その疑問のために色々調べてきた結果、幾つかの事実が判明し、その全貌の輪郭らしきものが浮かび上がってきたといえる。以下、順を追っていこう。

 最初に判明したことは「足軽軍法」は道灌公のオリジナルではなさそうということだ。山内上杉家の家宰・長尾景仲の書き残した「御影之記」に次のような一節がある。

 「戦場に出るに百姓を夫丸と云しを、この節より改めて「新給」と号し、是より弓・鑓に加う、是のごとき者少たりとも、戦場において三度まで志を顕す者には、或は詞の褒美を出し、或は禄を与え、「本給」と号する故に、民戦場に趣く(原文ママ)事を悦ぶ、これに因って武功の者数多民より見出し物頭になす、況や直勤においておや」

 原文はカタカナと漢字混じりで読みづらいのでひらがなに直し、「」括弧や()内はそれがしが書き添えた。
この文章の意味するところはいわゆる兵農分離ではなかろうか。手柄さえたてれば取り立てられるのである。
 長尾景仲は道灌公の父親・道真公と同じ世代であり、両者とも関東で名将といわれた人物だ。

 更に、竜統の「寄題江戸城静勝軒詩序」で江戸湊の交易品のひとつに「相模の旗旌騎卒」と書かれている。これは現代風にいえば「神奈川県からの傭兵」と言い換えることが出来るだろう。別に相模に好戦的な人々が特別多かったわけではない。船便にのって、西国から商人や僧侶、熊野神宮や各神社の神官などがやって来ており、その中に戦雲たなびく関東で一旗あげてやろうという男達も混じっていたということであろう。
 上記のことから、長尾家や太田家は在地の住民や流れ者から軍兵を募っていたということになる。それはなぜかといえば、両家の主家に当たる上杉家自体、都から宮様の征夷大将軍に付き従ってきた家ということもあり、関東で独自の勢力を持たなかったことにある。
 といっても鎌倉時代から勢力を扶植し続けてきただけに一定の力を室町の頃までに蓄えてきたろうが、平安時代から繁栄し続けてきた坂東武者にはかなうべくもない。

 そのようにあつめて兵を日夜鍛え上げ、戦闘の専門家にしたてあげれば、従来の武士が「いざ鎌倉」の時、領内の百姓を集めて弓や薙刀を持たせて戦場に馳せつけるよりも機動力・戦闘力ともに優れている。兵農分離はなにも後世の織田信長の専売特許ではなかったということであろう。
 じゃ、なぜみんなやらなかったかって?それはやはり経済力が必要だからであろう。道灌公は江戸湊を掌握し、織田信長は津島という町を膝下においていた。軍隊は今も昔も金食い虫だからね、必要だけど。

 
 続いて足軽軍法の具体的な中身はこれが具体的な話がでてこない。先に都で発生した「応仁の乱」では足軽が従来の武士をしのぐ活躍したことは日本史を学んだ人間なら誰でもしっていることだろうが、道灌公も江戸湊からやってくる商人らから話を聞き及び、また配下の兵と親しく交わることで情報を蓄えていたのだろう。さらに道灌公は若き時代、下野国(栃木県)の足利学校で兵法を学んだといわれており(残念ながら確証はない)、ある兵法書から「静勝軒」を名づけたことは既述の通りだ。
 (文明10年(1478)年7月、道灌公は戦の合間に上野国(群馬県)岩松氏の金山城を訪れ、城主の軍師を務めていた陣僧・松陰と会談したと記録に残っている。二人が足利学校の同窓生と考えるのは小説的想像力の飛躍しすぎか?)
 一方、「太田家記」には江古田・沼袋の合戦直前の「勝原の合戦」について、道灌公の弟で太田軍を指揮した資忠が「敵方を勝原まで誘い出して合戦をしかけ、勝った」とある。伏兵をしかけ、逃げ道を断った上で攻撃したということだろうか。
 恐らくはそれが足軽軍法の要なのだろう。

 さて傭兵を使って勝ち続ける戦のやり方に道灌公の主君・扇谷上杉定正公はあきたらぬ思いをもっていたようだ。道灌公を謀殺した男の肩をもつつもりはないが、けっして愚かな主君ともばかりはいえないようだ。
 定正が跡継ぎに書き残した「上杉定正状」に次のような一文がある。

 「山野を住所となし、甲冑を枕となし、一夜の陣にも自身縄を結い、鍬を取り、夜中甲をぬがず終夜馬背に明かし、かくの如く朝定(定正の跡継ぎ)務めいたさば何の誤りかあらん」とあり、文弱に走りがちな跡継ぎを戒めていた。
 この文からもわかるように武将らしいひとのようであり、自らの馬廻り衆を厳しく鍛え上げ、少数精鋭のエリート軍団を構築して戦いに望んでいた。まあ、道灌軍のような一見寄せ集め集団は肌合いからして合わなかったのだろう。主従ともに優れた戦人(いくさびと)でありながら、その手法の違いから徐々に抜き差しならぬ関係に陥っていく・・いつの世にもある関係性ではある。

 以上のことから道灌公の足軽軍法とは
  「江戸湊の経済力を背景に常備軍を構築し、臨機応変・電光石火・機略縦横の戦いを身上とする」とひとまず結論ずけたい。戦術に手品はなく、不断の備えと情報収集力にこそ勝利のカギは秘められているのだろう。

 最後に一つ。小机城で行方不明になった豊島泰経のその後だが、今回「道灌紀行」という本を読んでいて意外な事実を知った。
 それは平成12(2000)年7月、石神井公園での「照姫祭」の際、道灌公の子孫・太田道夫氏と豊島泰経の子孫・豊島綾子氏が520年ぶりの歴史的な和解がなされた時に披露された。
 「道灌が泰経を逃がしてくれてありがとう。二人は妻同士が縁戚でありました」といって道夫氏や会場の人々を驚かせたという。太田家・長尾家・豊島家は婚姻を通じて複雑に絡み合っていたのだ。これを知った時、歴史の複雑さ、怪奇さ、奥深さ、面白さを味わったのである。確かに「北区史・中世資料編」で豊島家の家系図を見ていると、泰経の死んだ年は記されておらず、泰経の子は後北條家に仕えていたようであった。
 道灌公が縁戚であることを考慮にいれ、逃がしたとするならば、まこと「花も実もある」武将といえまいか?

 今回はこのあたりでおわりにしたい。拙い文章を読んでいただきありがとう。最後に江戸城・清水門の画像をのせておこう。
清水門
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プロフィール

サムライ銅像研究会

Author:サムライ銅像研究会
歴史と銅像と芸術が大好きなあまり、日本各地を東奔西走する銅像・史蹟ハンターである。神出鬼没なため、脈絡無しのブログ更新を続ける。掟はただ一つ!「死して屍拾うものなし!」昔の時代劇の決め台詞だけどね・・皆さん、見てやあ!
 最近、キューピーに侍の装束を着用させる遊びをやっております。「武者ピー」と呼んで可愛がってやぁ~!以後は「キューピー甲冑師」とも名乗ります。

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