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江古田・沼袋の合戦~太田道灌公の足跡を追って~

 前回、石神井城の記事を書いたが石神井公園に訪れたのは一月も前に遡る。それから太田道灌公や豊島泰経公についてあれこれ調べたり、平塚城跡を訪れたりとしていたが、「江古田・沼袋の合戦」跡地を訪れたので一区切りついたのでそれらを以下にまとめてみたい。おかげで太田家と豊島家が対立するきっかけになる「長尾景春の乱」についても詳しく知りえたし、また道灌公の人間的側面や武将としての知略の巡らし方も薄々と見えてきた。

 ちなみに今回東京各所を「太田道灌公の巡った史蹟」とみなし、全て徒歩で巡ってみた。公共交通機関は便利だが、史蹟巡りは徒歩で行わないと見えてこないものが多すぎる。特に古戦場などはそうだ。おかげで夜はよく眠れた。

 合戦を振り返る前に、まずそれがしの近所の太田道灌公ゆかりの史跡を紹介しよう。
新宿・山吹の里
 こちらは豊島区高田1丁目にある「山吹の里」石碑、神田川にかかる面影橋のたもとにある。
 太田道灌公が若かりし頃、狩の途中に雨に遭い、近くの民家に蓑笠を求めたところ、そこの若い娘が黙って山吹の花を差し出した、という例のアレである。関東各地に「わが在所こそは山吹の里である」という所はたくさんある。横浜市金沢の六浦や埼玉県越生町、東京荒川区やetc・・新宿なら江戸城から近いし見学しやすい。

紅皿石碑
DVC00053.jpg
 続いて新宿区6丁目にある「紅皿の墓」、道灌に山吹の花を差し出した娘の名前が「紅皿」で、後に道灌公の和歌友達となり、江戸城に度々招かれるようになるが、道灌公の死後は尼になり、この地に隠棲した・・という架空の物語だが江戸の庶民は「山吹伝説」を愛したようでこれも江戸時代に作られたよう。
 実は寛延元(1748)年に「紅皿・欠皿物語」が出版されており、それをもとにした芝居も人気を博していたようである。となると史蹟をみたくなるのは人情のようで芝居の興行主がこの墓をこさえたらしい。当時の敏腕プロデューサーだったんでしょうなあ・・。

 他にも早稲田大学ちかくの「水神社」に「道灌公駒つなぎの松(4代目)」などがあるが、あまりに近所なので撮り忘れてしもうた。すまんことです。

 本題にはいろう。太田道灌公と豊島泰経公が戦われた理由はその前段の「享徳の乱」から話をおこすのが筋だろうが、それでは今回の主題から逸れるので直接的要因である「長尾景春の乱」からしよう。
 関東の上杉家は本拠地の字名から大きく「山内(やまのうち)」と「扇谷(おうぎがやつ)」の二つにわかれる。長尾景春は山内上杉家に仕えており、太田道灌公は扇谷上杉家に仕えている家宰である。(ちなみに山内も扇谷も現在も鎌倉に地名が残っている)

 長尾景春の父親・景信は山内上杉の家宰として政戦両略に智謀と勇武を振るい主家を支え続けたが、その死後、家宰の地位をは主君・山内上杉顕定により景信の実弟・長尾忠景に任じられた。これにおさまらないのが景春であった。
北区図書館
 こちらは旧軍の火薬庫を改装した北区中央図書館、古いレンガ作りを生かしたオシャレな建物だ。この図書館で北区の郷土史「北区史」を熟読させていただいた。「北区史」は現在、太田道灌公を知る上で最良の歴史書である。「図説・太田道灌」を書かれた歴史学者・黒田基樹先生も太鼓判を押しておられる。

 閑話休題。
 
 家宰とは主家の家政と実務を取り仕切る関係から多くの権益を有し、家宰が別の系統に移る事はそれまで権益を長尾家とともに分配してきた人々が旨みを失うことであり、それらの人々の後押しもあって景春は主家に反抗を企てるようになる。
 そんな動きを扇谷上杉家の家宰である道灌公が見逃すはずも無く、主家・扇谷上杉定正や山内上杉顕定に告げたが、叱られた上にかえって道灌公の方が反乱をあやしまれる始末。
 更に道灌公のもとに当の景春がやってきて反乱に加わるよう説得される。実は道灌公の妻の甥が景春であり、二人は親族・・そんな話に乗るわけも無く道灌公は情理を尽くして説得し、顕定にとりなしをするといっても景春は肯かず、会談は物別れにおわった・・。
 そんな中、駿河の守護・今川範忠が亡くなり、跡目相続争いが起きたので道灌公が扇谷上杉家の家宰として仲裁に乗り出し駿河に出陣していった。
 道灌の留守を狙ったのか景春は文明9(1477)1月、五十子(いかつこ)の陣(埼玉県本庄市)に居た山内上杉顕定と扇谷谷上杉定正を急襲、敗走せしめる。両上杉は上野国那波庄に逃げ込み、駿河の道灌公に救援を求め、道灌公もついに関東に戻り、景春追討の兵を挙げるのである。

飛鳥山
 これは北区飛鳥山にある石碑、道灌公とは直接の関係はないが、これから出て来る豊島家が平安時代、熊野権現を勧進し、若一(にゃくいち)王子権現を建てた。江戸時代、徳川将軍により桜が多数植えられ、庶民は権現さまに参るのと花見をとても楽しみにしていた。なんでも、飛鳥山内に限っては庶民が武家の格好をしたり、派手な芝居の衣装を着るのが許されており、春ともなれば仮装した武士・町民で溢れかえっていたそうな。今で言うコスプレーヤーの聖地というところか・・そりゃ日本でマンガ・アニメ文化が栄えるわけだよ・・。
 明治に入ると、飛鳥山は財界人・渋沢栄一の邸宅地になり、権現様も現在の北区区役所前に移転。
王子神社
 こちらは王子神社。

平塚神社参道
 飛鳥山ふもとの本郷通りを10分ほど南下すると、ここ平塚神社前にでる。平安時代、ここに屋敷を構えた豊島家は石神井川の水利を押さえて徐々に西に勢力圏を延ばし、練馬・石神井に拠点を築いていったのである。
平塚神社本殿
平塚城看板
 この平塚の館に源義家と三郎義光が奥州からの帰り道に立ち寄って豊島家の饗応を受けた礼に鎧を授け、豊島家もそれを家宝として塚を作って埋め、熊野権現を勧進したというのがこの神社の由緒だ。
平塚神社沿いの道
 これは本堂脇から撮った現代の道だが、このように街道を扼する要地に館(後には城)が置かれたことがわかる。

稲付城跡
 平塚城に対して「対の城」として築かれた「稲付城跡」、現在はこの上に「静勝(じょうしょう)寺」が建ち、江戸時代に作られた「太田道灌公」木像を毎月26日にご開帳している。北区赤羽西1丁目にある。
稲付城案内板
静勝寺眺望
 石段を登るとこのように赤羽の街が・・って木立に遮られてみえませんね。
道灌堂
 こちらが木像が納められた「道灌堂」、それがしは毎月26日を知らなくて見られませんでした。資料やネット上にならあるんだけどねえ。坊主頭の道灌公が片膝立ちで片手に払子を持ち、凛々しい眉毛の下に眼光光る視線を前方に投げかける武将の気合がほとばしるような傑作です。レプリカ作って売ればそれがしなら欲しいなあ。
 ちなみに「静勝寺」、道灌公の道号「静勝軒道灌」からとったもの。また「静勝」は古代中国の兵法書「尉繚子」の一節からとったもの。中国の兵法書は「孫子」をはじめ、「尉繚子」も含め全7冊あり、「武経七書」といわれ、今でも多くの政治家・経営者などに読まれている。それがしも一度全てに目を通してみたが、「孫子」以外の6冊は「孫子」を補完するような中身。一読するのも一興です。

 再びの閑話休題。

 古河公方・足利成氏に呼応して上杉に反旗を翻した長尾景春には足利の長尾房清、武蔵・二宮の大石憲仲、葛西の大石石見守、武蔵の千葉実胤、毛呂三河守、相模の本間氏、海老名氏、大森重頼、上野国の長野為業、甲斐郡内の加藤氏、そして豊島泰経など関東5カ国にわたる豪族が味方に付き、まさに関東を二分する勢力となったのである。

 江戸城で孤立したかに見える道灌公はまず江戸・岩槻・河越の連絡を断つ豊島泰経を討つことを第一目標とした。
太田 対 豊島 概念図
 手書きで恐縮だが、太田vs豊島の合戦概念図を描いてみた。先ほどの平塚神社前を通る本郷通りだが、北上し続けると稲付城(現・静勝寺)前を通る。その道は古来、「岩槻街道」と呼ばれていたらしい。なるほど古道らしく、狭い道で両側に民家が迫り、自動車・自転車・歩行者それぞれにとって通りにくい道であった。
 さらに石神井・練馬両城の脇を通る「川越街道」は河越城への道・・太田家と豊島家双方にとって抜き差しならぬライバル関係にあったのがよくわかる・・と思いたい。

 ここからは「江古田・沼袋合戦」の流れを追っていこう。

 相模国から扇谷上杉の加勢を呼んで石神井城を一挙に屠ろうと道灌公は策したが、多摩川の氾濫により味方が渡河できなかったので、その軍勢を使って景春方の溝呂木(厚木市)・小磯(大磯)・小沢(愛甲郡愛川町)など敵城を攻略。

 4月10日 武蔵・勝原(すぐはら)合戦で河越城攻略に来た景春勢を撃退。豊島家の孤立。
 4月13日 道灌公、江戸城を出発し、途中、駒込の妙義神社に立ち寄り戦勝祈願。
駒込妙義神社
妙義神社看板
DVC00046.jpg
 祈願後、平塚城に向かい、包囲攻撃するも泰経の弟・泰明の抵抗凄まじく、攻略をあきらめ、城下に火を放ち撤退。
 平塚城救援に石神井・練馬両城から来た豊島泰経の軍勢を江古田・沼袋の辺りで迎え撃ち、激しく交戦。打ち勝った道灌軍は豊島泰明以下、豊島一族の赤塚・板橋ら150人を倒す大勝利を得る。
 4月14日 石神井城の向かいの愛宕山(上石神井1丁目)に陣取り、包囲。
 4月18日 豊島泰経は城を出て道灌と会談、城の破却を条件に和平交渉。いったんは合意するも、泰経が城に戻った後の敵の動きがかんばしくない事から泰経の策略とみた道灌公は城を力攻めし、落城させる。泰経は夜陰にまぎれて逃亡。なお、「鎌倉大草子」では落城を18日、「太田道灌状」では21日としている。
 その後、泰経は平塚城で再挙を図る。
 文明10年正月25日 平塚城は道灌軍に攻められ、落城。泰経は丸子(川崎市)に逃れて陣をはるが、追撃する道灌軍の圧力にまけ、小机城(横浜市神奈川区小机町)に逃亡。江古田・沼袋合戦で主力を失った豊島家では道灌軍に抗し得なかったのであろう。
 4月11日 小机城落城、泰経は行方知れずとなりここに豊島本宗家は滅亡となった・・・。

 というのが一般的な歴史書。どうやら豊島家の子孫は生き延びたらしく、小田原の後北条や徳川家康に仕えて現代にまで系統を繋げてきているとのこと。各時代の方々の苦労が偲ばれますね。
沼袋氷川神社本殿
 こちらは西武池袋線・沼袋駅近くの「沼袋氷川神社」、境内に「太田道灌公お手植えの杉」跡があります。
道灌公お手植えの杉跡
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 昭和19年に枯れてしまったそうです。先の大戦の敗戦前年ではないですか!
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 今では跡だけ・・。

登り道
 沼袋駅前から緩やかなのぼり道を北上して川沿いに行くと・・
江古田公園
 江古田公園にでます。
江古田沼袋古戦場碑
 その一角に石碑が建っており、土地の歴史を教えてくれています。背面の記述に若干の事実誤認が混じっていましたが、近似値のうちです。

 さて、江古田・沼袋合戦はあたかも遭遇戦のように記述されているが、本当にそうだろうか?ここで道灌公の立場にたって考えてみたい。
 武蔵北部の河越・岩槻両城との連絡を断たれ、江戸城に孤立しているかたちの道灌公は包囲が長期化して苦しくなる前に包囲網を打ち破りたかったはずだ。道灌方にも扇谷上杉朝昌(主君・定正の弟)・千葉自胤・三浦義同らの味方がいたが、中心となる武将は道灌ただ一人。
 道灌公は平塚城攻めはあくまで石神井・練馬の豊島軍を誘う餌と考えていたのだろう。その証拠に城攻めからはすぐに引き上げ、城下に火を放っている。ただ帰るなら来た道を戻ってもいいだろうが、なぜか石神井方面に進んでいる。泰経率いる救援軍が来るのを待っていたのだろう。
 後から泰明率いる平塚勢が来ることを考慮し、城下に火を放っておけば大半は消火にさかれ、来るのは泰明以下わずかな旗本だけと見切っていたのだろう。
 つまり最初から野戦で豊島軍本隊を叩く目算を立てていたということだろう。敵よりも少ない手勢なのに恐るべき兵法家というべきだろうか?

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 合戦の具体的な場所は不明だが、近くに郷土資料館があり、無料で色々見ることができた。
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 両方の書状共に小田原北条家からこの近辺の住民に出されたもの。書状左側に虎の印判がおされてある。印判の文字は「禄壽應穏」。

 その後の展開については宿題とさせていただきたい。なにしろ小机城跡を見に行ってないのだから。

 今回、自分の足で各地を歩き回って、また資料を読み倒して道灌公の人間としての苦悩と武将としての知略、二つを血の通ったものとして感じ取ることが出来た。また、道灌公に対する包囲網を築いた豊島泰経公の戦略眼にも恐るべきものを感じ取れた。
 だが、運命は残酷なもので両者を勝者と敗者にはっきりとわけた。その勝者たる道灌公ですら後でだまし討ちされてしまうのだ。げに運命の転変の恐ろしいことか。「武運拙く」とは考え抜かれた表現のように思う。
 今では両者とも草葉の陰で酒でも酌み交わしているとでも思うのは現代人の妄想だろうか?

 今回、「北区史」のほか「練馬区史」「豊島区史」「中野区史」「牛込区史」「図説 太田道灌」「中野の史蹟散歩」「練馬の史蹟散歩」「北区の史蹟散歩」など多くの本に助けていただいた。これらの著者・編集者の方々に感謝を捧げたい。

 ではまた次回!
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東京

いつもご訪問ありがとうございます。

本当にお詳しくて、私は、とても助けられていますね。

それにしても東奔西走、時間も、体力も、お金もあって、そしてきちんと文章と写真でまとめていらっしゃる。

私も見習いたいです

私は横浜住まいですので、このあたりは行こうと思えば行けるのに、なかなか時間はとれないものです。

戦国時代というと、つい中央ばかりに目がいきますが、武蔵の戦いも壮絶でしたね。

ではまたお邪魔します。

Re: 東京

 過分なおほめの言葉を頂き誠に恐縮です。

 本人は好きなことだけを好き勝手にまとめているだけなので、誰が読もうがどのように思うか全くのお構い無しに書き散らしているだけです。知りたいことを追求していると、誰も興味をもたないことに行き着いてしまうことも多々あります。お金はあまりありませんよ!

 安倍晴明と出雲阿国はコレクションの範疇外ですが、街中にあるとついつい何か究明したくなるのが銅像好きの本能です。ちなみに政治家・経営者の銅像は無視しています。

 

江古田・沼袋

おっ引き続き 太田道灌戦記ですね!
江古田・沼袋古戦場跡はかなり前に行きました。
近いのでいつでも行けるんですけどね・・・。

またこのシリーズ楽しみにしてます。私の研究?対象でもあるので(笑)

Re: 江古田・沼袋

 太田道灌公シリーズもうすこし続きます。この間、江戸城をあらためて巡りなおして道灌公ゆかりの所を見て廻り、さらに図書館で古地図や資料をみて当時の江戸城や江戸の町を考察してみたのでまた週末に更新します。
プロフィール

サムライ銅像研究会

Author:サムライ銅像研究会
歴史と銅像と芸術が大好きなあまり、日本各地を東奔西走する銅像・史蹟ハンターである。神出鬼没なため、脈絡無しのブログ更新を続ける。掟はただ一つ!「死して屍拾うものなし!」昔の時代劇の決め台詞だけどね・・皆さん、見てやあ!
 最近、キューピーに侍の装束を着用させる遊びをやっております。「武者ピー」と呼んで可愛がってやぁ~!以後は「キューピー甲冑師」とも名乗ります。

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