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石神井城跡探訪(「照姫伝説」も)

 東京の練馬区に石神井公園がある。そこはかつて石神井城が存在し、関東の名将・太田道灌公が攻略した城でもある。

芳林寺の道灌公2
 足軽戦術の名人と謳われた太田道灌公である。この騎馬銅像は太田家の菩提寺の一つ埼玉県さいたま市岩槻区にある芳林寺にある。岩槻城築城450年祭りに際して作られたもの。岩槻城跡も今や美しい公園である。

 石神井城にもどろう。石神井城を治めていたのは豊島氏。坂東八平氏の一つ秩父氏の一族。平安時代末期に源氏の家人となり、前九年の役・保元の乱にも参加。源頼朝の挙兵にも従い、鎌倉幕府成立に際しては有力御家人の一つとなり、豊島・足立・新座・多東など多くの所領を持つ。鎌倉幕府滅亡に際しても上手く乗り切り、室町幕府成立後も武蔵(今の東京都と埼玉県)に変わらず領地を持ち続けた。

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 こちらは石神井公園の近くにある道場寺。豊島家の墓があり、今でも供養されているという。
三宝寺
 こちらは道場寺に隣接して建つ三宝寺。徳川将軍家が寄進した門がたっており、なかなか雰囲気のある寺である。

 二つのお寺からすこし歩くと神社がある。
氷川神社
氷川神社縁起
 ここ氷川神社もかつては石神井城の敷地内にあたる。神社で参拝を済ませた後はいよいよ石神井公園にはいろう。

 豊島家最後の当主は勘解由左衛門尉泰経(かげゆさえもんのじょう やすつね)。古河公方・足利成氏と関東管領・上杉氏との戦い「享徳の乱」では上杉氏に従っていたものの、扇谷上杉定正の家宰・太田道灌の勢力の伸張に泰経は反感をしめすようになってくる。
 というのも、元々武蔵に多くの領地をもつのは豊島家だが、太田家は岩槻・川越・江戸に城を築いて古河公方家に対しての防衛ラインをひいた。石神井・練馬(今の豊島園のあたり)・平塚(東京都北区)に城郭を持つ豊島家としては領地の境目が複雑になり、どうしても利害対立が発生しがちなところ。両家対立の土壌がすでに作られていたというところか。

 時の関東管領・山内上杉顕定の家宰・長尾景春が古河公方・足利成氏とひそかに結び、主君・顕定に反旗を翻した。文明9(1477)年正月、五十子(埼玉県本庄市五十子)に陣をはる山内上杉顕定と扇谷上杉定正を急襲し、両上杉は敗走。ここに「長尾景春の乱」が勃発。
 豊島泰経も他の多くの武蔵や相模の豪族と共に長尾景春に加担。泰経が景春に味方したのは太田家への対抗心だけではなく、長尾景春の家とも政治的な繋がりが深かったためと唱える学者もおられる。

 石神井・練馬・平塚で挙兵した泰経と道灌との戦いの流れは省くが、石神井城を巡る攻防としては文明9(1477)年4月13日に行われた江古田・沼袋の合戦がしられている。この合戦で道灌公はわずか50騎の兵力で200騎もの豊島泰経を破ったと「鎌倉大草紙」や「享徳記」にあるという。

 ここで気をつけたいのが双方の兵力。数だけだと50対200と理解しがちだが、この数は武士の当主の数であり、それぞれが家の子郎党を引き連れているのであるから少なくとも双方馬に乗らずに徒歩で戦う兵士が数百人ずついたであろうことは間違いない。
 さらに劣勢であるはずの太田家がなぜ優勢な(数だけでなく地勢上からも)豊島家に勝てたのか?その詳しい合戦の経過は戦闘詳報などない時代なので不明だが、道灌公が「足軽戦術の名人」と称されていることに注目したい。数で推す豊島家に対し弱弱と兵を進める道灌公はわざと敵に負けて見せ、撤退。調子づいて追いかける豊島家の隊列をできるだけ引き伸ばし、やおら伏せていた兵をつかって攻撃。油断していた豊島家は敗北・・とこのようなシナリオではなかろうか?伝承ではこの合戦で豊島家は150騎の武士を死なせてしまったという。

石神井城主郭
主郭案内板
 ここは石神井城主郭跡、この上に防衛施設があったのだろう。また空堀の底から当時の食器などが発掘されたとのこと。立ち入ることはできません。

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 高くなっている斜面が「土塁」。

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 左端から「土塁」が続き、低くなったところが「空堀」、そしてまた右方向に高くなっている。今となっては土砂が埋まり、樹木が沢山生えているので分かりづらいが、城郭好きはこのような光景を飽きずに眺めているのである。

 江古田・沼袋の合戦に敗れた泰経は石神井城にこもり、道灌と開城交渉をするものの上手くいかずに夜陰に乗じて落ち延びる。道灌公は合戦から半月ほど経ってから総攻撃し、落城させたとのこと。記録にはないが、練馬城も落ちたろう。
 これにより南北の交通の自由を得た道灌公は武蔵北部や上野(こうずけ 群馬県)を転戦し、景春方を封じ込めることに成功。
 翌、文明10(1478)年正月、古河公方は上杉氏に対し和睦を打診。だが、逃げ延びていた泰経は平塚城で再挙。正月25日に道灌公の攻撃により落城、泰経は丸子(川崎市丸子)、小机城と転戦。追撃する道灌公により4月11日に小机城は陥落。泰経も行方不明となり、ここに豊島本宗家は滅亡となったのである。

 一方、石神井城落城には「照姫伝説」というものがある。石神井城が陥落する際に泰経は愛馬に黄金の鞍をつけ、そこに愛娘・照姫と共にまたがって入水自殺したというものである。それ以来、池の底に黄金の鞍を見たとか語り継がれるが、伝説である。でも豊島家の一族が殉じたという側面もあるのだろう。当主の泰経は家臣らと共に落ち延びても足弱の女子供は自害をせざるをえなかったのかもしれない。悲しい話だが、それも当時の「武者の道」なのだろう。DVC00074.jpg
 石神井城の石碑。
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 右の樹木がこんもりと生い茂る辺りが主郭。

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 こちらは昭和12年に建てられた石神井城の石碑。

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 現在ではそのような悲話を伝える「三宝寺池」が満々と水を湛えている。多くの水鳥や魚・亀・虫など生き物の楽園となっており、池を周回しつつ自然を愛でることができる。

姫塚
 池の近くには「姫塚」がある。
殿塚
 「殿塚」も。ちなみに毎年「照姫祭」が毎年開催されているとのこと。

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 木立と水面を撫でる風がとても気持ちいい日であった。

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 「長尾景春の乱」をほぼ独力で鎮めた太田道灌公は豊島家の領地も併せ持ち、関東のみならず日本全国にその勇名を轟き渡らせた。それが、主君扇谷上杉定正の猜疑心をひきおこし、結果として糟谷館(神奈川県伊勢原市)で討ち取られることとなったのである。「当方滅亡!」と叫びながら・・。

 「兵共が 夢の跡・・」といったところか。

 ではまた次回!
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No title

関東戦国の黎明期は一番魅かれる時代です。
大河ドラマの題材にすべきです。
太田道灌贔屓のため石神井付近を通るときはいつも申し訳ない感じがします

Re: No title

 太田道灌公の大河ドラマ見てみたいですね。とはいえ、昨今の某国営放送のキャスティング先行の脚本の乱脈ぶりには目を覆いたくなるような部分も多々ありますので複雑な気持ちです。来年の「平清盛」に期待したいですね。
 え?「江」??やってましたっけ?(笑)

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Re: No title

 こんばんわ。
 コメントありがとうございます。ブログが役立ったのなら幸いです。でも、太田道灌公に関してはまだ探究中なので、あの段階の記事では今となっては不足を感じているところです。
 できれば君自身が石神井公園を訪れて自分の言葉でまとめる事が身につく学問になると思います。

 頑張ってください。
プロフィール

サムライ銅像研究会

Author:サムライ銅像研究会
歴史と銅像と芸術が大好きなあまり、日本各地を東奔西走する銅像・史蹟ハンターである。神出鬼没なため、脈絡無しのブログ更新を続ける。掟はただ一つ!「死して屍拾うものなし!」昔の時代劇の決め台詞だけどね・・皆さん、見てやあ!
 最近、キューピーに侍の装束を着用させる遊びをやっております。「武者ピー」と呼んで可愛がってやぁ~!以後は「キューピー甲冑師」とも名乗ります。

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