スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

伊達政宗主従

 今回は戦国時代の人気者「伊達政宗」を取り上げたい。
DSC00276_1_20121130031351.jpg
 こちらは宮城県仙台市青葉城公園内に建つあまりにも有名な「伊達政宗」公騎馬銅像・・・。

 武者ピー化するならば・・。
CIMG0116_20121130030622.jpg
 大河ドラマ「独眼竜政宗」のオープニングイメージで撮りたかったが・・。

CIMG0010_20121130030614.jpg
 政宗ピー 「どうも、『ふんどし隊』です」(真ん中の眼帯付き)
 小十郎ピー「殿!ふざけないでください。われ等の製作過程画像ではないですか!成実殿からもなんかいってやってくだされ」(右端)
 成実ピー 「はっはっはっ、褌はいいですなぁ!引き締まる思いです。殿!ここは一番、相撲でもとりますか」
 政宗ピー 「成実は食うことと体を動かすことしか興味ないからな」
 小十郎ピー「やれやれ・・」

 なんて会話から始まりましたが、それがしの世代ですと、伊達政宗といえば『独眼竜政宗』なんです。政宗が渡辺謙氏、片倉小十郎が西郷輝彦氏、伊達成実が三浦友和氏、小十郎の姉・たきが竹下景子氏、他にも北大路きんや氏やいかりや長助氏など豪華な顔ぶれ。最近ではゲームやアニメで「悪目立ち」していますな。
 褌姿は製作1日目。

CIMG0091_20121130030618.jpg
 製作2日目、手前が兜鉢。

CIMG0095_20121130030620.jpg
 製作3日目、兜は完成したが、まだ陣羽織や小道具が未完成・・。

CIMG0098.jpg
 製作4日目、完成です。1体ずつ見て行きましょう。

CIMG0107.jpg
 伊達政宗ピーです。関ヶ原で100万石もらいそこねた人です。
 政宗ピー 「うるさい!わしが気にしていることを・・」
CIMG0103_20121130030750.jpg
 政宗ピーの特徴は兜と陣羽織。この陣羽織は実在する政宗公の陣羽織からデザインしてみました。地は緑、背の真ん中に伊達の家紋「仙台笹」、下端には黄色で山型を貼り付けてみました。

 CIMG0106_20121130030752.jpg
 片倉小十郎景綱ピーです。神主の家柄で、政宗の幼少時からお守としてつけられ、病で片目が見えなくなってうじうじしていた政宗を一喝して、飛び出していた片目を切って政宗を精神的に蘇生させた剛の者です。政宗が成長してからは、その相談役・軍師として活躍します。
 特徴は兜と陣羽織です。兜の前立てには「愛宕山大権現守護所」と書いてあります。
CIMG0102_20121130030755.jpg
 陣羽織は小十郎の旗印「釣鐘」からアイディアを得て、デザインしました。この釣鐘には、「小十郎の智謀が世間に広く鳴り渡るように」という姉たき(大河では竹下景子氏が熱演)の願いが込められているようです。
 小十郎ピー「殿には昔から苦労させられました。まあ、それが楽しくもあったのですが・・」根っからの世話焼き体質のようですね。CIMG0100.jpg
 小十郎の兜は鉢が金ぴかなんですよ。主人に影響されてか、伊達軍はわりと派手めです。

CIMG0108_20121130030757.jpg
 伊達一族で、政宗の甥にあたる伊達成実(歳は一つ下)。伊達軍の剛勇を担っていた猛将です。一時、政宗と意見対立して出奔し、政宗に妻子を皆殺し(烈しいなぁ・・)されますが、後に帰参して元通り仕えます。晩年には『成実記』という政宗の一代記を記します(残念ながら未読)。
 この方の特徴は兜の前立て「百足」です。百足は昔から『前進しかしない。後退しない生き物』として、武士に愛好され、旗印や兜に使われていました。有名なところでは、甲斐・武田家のお使い番衆が百足の旗を背中にさして戦場を疾駆しておりました。
 CIMG0104_20121130030921.jpg
 鎧製作にいい資料がなかったので、資料をもとに赤備えにきめてみました。政宗や小十郎はいい資料が揃っているんですけどね。前立ての百足に怒ったような筋がたっているのは、資料が揃わなかったことへの『無念』の気持ちを表してみました。

 おや、ここで因縁の相手である蒲生氏郷ピーとでくわしてしまいました。2人は豊臣大名時代、領地が隣どうしだったことから色々と揉めています。
CIMG0109.jpg
 氏郷ピー  「おやおや、派手な奴がいると思えば伊達殿であったか。両脇は金魚のフンか・・」
 政宗ピー  「はん!若死にした奴がえらそうに・・ここで決着つけてもいいんだぞ!」
 氏郷ピー  「お前とは大崎一揆での因縁があるからな。薙刀の錆にしてくれようか!」

 別の武者ピー「待ちなさい!我々はもはや武者ピー、無理はならんぞ!」
CIMG0110.jpg
 氏郷&政宗「これは家康様・・」
 家康ピー 「われらはもはやキューピー、血生臭いことは似合わぬ。われ等の仕事は、われ等を見て疲れた現代人を一瞬でも笑わせ、和ませること。過去の因縁は水に流しなさい」
 氏郷ピー 「確かに・・もう太閤殿下もいないですし」
 政宗ピー 「われ等も大名ではない・・遠い未来に来たものです」
 家康ピー 「わかればいい。さ、あっちで皆と一杯呑もうぞ。仲間は大勢揃ってきたぞ。そろそろ飾るスペースも手狭になってきたくらいじゃ」

 どうやら落着したようです。今回の武者ピーは史実や遺物に則りながらも、大いにオリジナルデザインも加えてみました。これらを見た人々が一時でも興を覚えれば、成功です。

MUSE_banner_02.jpg

にほんブログ村 美術ブログ 彫刻へ
にほんブログ村
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村
スポンサーサイト

豊臣政権の大名たち~蒲生氏郷と加藤清正~

 ある方から頼まれて、蒲生氏郷の武者ピー製作をしていた。といっても、ほとんどは資料集めで、製作自体はだいぶ手馴れてきた。
 蒲生氏郷に関しては、以前に「武士は正直でなければならない」という『佐々木鐙』のエピソードを紹介したので、覚えておられる方もおられるだろう。
ujisato2.jpg
 こちらは滋賀県日野町に建つ蒲生氏郷公銅像。残念ながら、それがしが撮った画像ではなく、ネット上から拝借した画像。

 蒲生氏郷は、近江源氏の流れを汲む一族で、幼名は鶴千代といった。13歳で織田信長公に拝謁するや、その才能を見出され、「わしの娘をやろう」とその場で婿入りを命ぜられた。
 その後、岐阜城で武士としての修行を行い、元服して「賦秀(ますひで)」と名乗り、織田家で最強といわれた柴田勝家隊に志願して武将としての経験を積む。
 本能寺の変では織田家の家族を保護して領地にひきとり、明智光秀には応じなかった。山崎の合戦後は秀吉に臣従して、秀吉の覇業に協力。「秀吉」に遠慮して「氏郷」に改名。豊臣大名としても数々の合戦で功績を建て、それらの功績により、会津に大領地をもらい、城下町を若松と命名。会津若松発展の基礎を築く。
 朝鮮渡海に参陣するも、病に犯され帰国。文禄4(1595)年にわずか40歳で病没・・・。天下にその才能を惜しむ者は数多く、氏郷が生きていれば関ヶ原合戦の流れすら変えたであろう、という者もいた。

 蒲生家自体は、氏郷の孫の代まで大名家として存続したが、跡継ぎに恵まれず、御家断絶・・家臣も蒲生家の家宝も散逸してしまった・・というわけで今回の蒲生氏郷ピー制作には苦労した。年末の忙しくなりつつある中、図書館で江戸幕府の歴史書「群書類従」に収められた『蒲生氏郷記』まであさって氏郷に対するイメージを築き、岩手県の博物館に残された蒲生氏郷の兜(氏郷の娘が南部家に嫁いだ時に持参)をしらべた。
001.jpg
 こちらは「燕尾形(えんびなり)兜」 兜だけで、鎧は残されていない。

 以下に製作過程・・。
CIMG0008_20121124201943.jpg
 今回から褌しめさせました。
CIMG0010_20121124201942.jpg
 蒲生氏郷は同僚の高山右近に勧められてキリスト教に改宗し、「レオン」という洗礼名をもっています。レオンといっても、リュック・ベッソン監督のあの映画は関係ないですよ。
 武者ピーの大きさでは、あの兜を立体化するのは難しいので見た目重視で・・。
CIMG0011_20121124201942.jpg
 胸元には十字架。
CIMG0012_20121124201941.jpg
 陣羽織を着せました。家紋の「対い鶴(むかいつる)」が蒲生家独自の特殊なもので、家紋辞典に載ってませんで、色々探しました。幸い見つかったので、コピーして、和紙の上からなぞって、ペンで描きました。鶴が阿吽でむかいあっており、口あいている方が雄で、閉じている方が雌らしいです。
CIMG0017_20121124201941.jpg
 この兜に苦労しました。実物が鋭角的なツバメの尾っぽをイメージしたものなので、そのイメージを大事にしながらデフォルメして・・画像ではわかりづらいですが、眉も別パーツで貼り付けております。苦労しつつも楽しんでおりました。
 蒲生氏郷公の辞世の句を紹介・・。
  『限りあらば 吹かねど花は 散るものを 心短き 春の山風』
 氏郷公の無念な気持ちが伝わってきます・・・・。

DSC00845_1_20121124201711.jpg
 熊本城・・・。馬肉が旨かった・・。

DSC00890_1_20121124201711.jpg
 熊本市本妙寺境内に建つ「加藤清正」公像・・頂上にまで上る間、夏の熱線に焼かれました・・・。

 というわけで加藤清正ピー。
CIMG0001 (2)
 褌締めました・・。
CIMG0002 (2)
 製作中の長烏帽子形兜・・。

CIMG0003 (2)
 熊本に行くと、清正公が今も市民から熱烈に支持されているのがわかります。江戸時代、肥後を統治していたのは細川家なのに・・。
 清正といえば、やはり長烏帽子兜、片鎌槍、あとトラ・・。トラの肝が長生きの薬と信じられていたので、清正が主君・秀吉の為にたびたび虎狩りを行っていた。
CIMG0004 (2)
 鎧の胸に配された金色の丸は「蛇の目」紋。清正は氏郷と違って、熱烈な日蓮宗信徒です。日蓮宗のお題目「南無妙法蓮華経」を旗印にしておりました。

CIMG0005 (2)
 兜の両側に配された「日輪」が特徴ですね。前立てはついているものと、ついてないもの複数が現在も残っております。微妙に色違いなのですが、本妙寺に残されたものを参考にしました。

CIMG0006 (2)
 清正というとその「髭」も有名ですな。しばしば「三国志」の関羽に例えられます。

CIMG0007 (2)
 後ろから見ると、誤魔化しつつ、造っているのがわかります・・バラしちゃ意味ないけど。
CIMG0008 (2)
 かつては敵対関係だったトラ君とも、武者ピーになった今では仲良し・・。
  清正ピー「昔はすまなかったな。もう殺す必要もないから仲良くやろう」
  とら  「ゴロゴロゴロ・・」まるで虎ネコです・・。

MUSE_banner_02.jpg

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村

徳川四天王ピー完成~「星の王子様」も~

 前回の予告通り、今週は「徳川四天王」の製作に空き時間の全てを投入していた・・思ったより疲れた・・とはいえ苦労のかいもあったというもの。

CIMG0035_20121116225450.jpg
 まずは徳川家康公と全員集合・・なんか戦隊ものみたい・・。

CIMG0038_20121116225450.jpg
 四天王の筆頭と言われる酒井忠次・・「徳川四天王」とは後世の呼び方で本人たちは全くしりません。特に酒井氏は松平(徳川)氏と先祖を一緒にするので、他の3人と一緒にしたら怒られるかもしれません。

 徳川家康公の父上・松平広忠公の時代から駿河・遠江を支配していた今川義元に臣従していたため、松平家は家臣ともども大変な苦労を味わいます。忠次も幼い家康(当時は竹千代)を支えて苦労されました。そんな忠次に竹千代も懐いていたのでしょうか?二人は主従でありながら、兄弟のように成長していきます。
 桶狭間合戦で今川義元が討ち死にした後、家康公は自立します。その際、旗下の三河侍を編成しなおして、直属の旗本隊と東三河衆、西三河衆にわけました。酒井忠次はその東三河衆の「軍団長」。他の3人はペーペーの兵隊であったり、生まれる前だったり・・。
 後に家康公の嫡男・松平信康切腹事件の際に、命令した織田信長公に対して申し開き一つしなかったために家康公とは精神的距離が出来てしまいます。この事件には諸説あるので真相はよくわからないところがあります。家康公が関東に入った際、他の3人はのきなみ10万石以上の所領を与えられますが、忠次の息子だけ(当時、忠次はすでに引退)は2万石しかもらえなかったので、忠次は老いの身をおして家康公の元に出かけ、所領の増加を頼みました。すると家康公は皮肉な笑みを浮かべ
 家康公「お前も自分の息子は可愛いか・・」とつぶやきます。信康事件が尾を引いていました・・。

 忠次は慶長元(1596)年に70歳で亡くなります。酒井家はその後、出羽・酒田で25万石を食み、三方所替えの危機も乗り越え、幕末まで残りました。幕末では酒井家は大活躍しますが、それはまた別の話・・・。

CIMG0040_20121116225449.jpg
 家康公の配下で「最強」の名をほしいままにした武将。それが本多忠勝です。わずか13歳で初陣してから生涯50数度にわたって大小の合戦に参加したにも関わらず、一度として負傷したことがないそう。これは単に勇猛な武将ということだけではなく、意外に冷静な指揮が出来ていたということではないでしょうか?幕府の歴史書では
 「軍勢の指揮は榊原康政・井伊直政にかなわない」と書かれているそうですが、微妙な差だったのかもしれません。
 徳川の関東入府後は下総・大多喜城を築き、関ヶ原後は伊勢・桑名城を築きます。晩年は桑名で過ごしました。この方の娘がまた豪傑なんですが、それはまた別のお話・・。
CIMG0041_20121116225623.jpg
CIMG0043_20121116225622.jpg

 家康公からその才能を愛された武将・井伊直政公。幕末の大老・井伊直弼はその子孫です。
CIMG0044_20121116225448.jpg
 井伊家は元々、遠江の豪族で今川家に仕えていました。義元の戦死後、今川の家督を継いだ氏真(うじざね)から謀反を疑われた直政の父親が殺されたので、幼い直政は母親共々逃げ回ります。一時、姓を変えていましたが、後に家康に見出され、仕えると共に「井伊」姓に復します。
 頭脳抜群で家康に忠実な直政を家康も可愛がって重要な仕事を任せたり、愛馬を与えたりと英才教育を施します。結果、22歳で小田原北条家との外交を担当したり、武田家滅亡後の「赤備え」軍団を任されたりと天下にその名を轟かせます。
 主君には忠実で、他所の家からもその存在を羨ましがられる優秀な男でしたが、部下にとっては「最悪」の上司でした。ちょっとでも気に食わないことがあると部下を手討ちにしたため、ひそかに「人斬り兵部」という不名誉なあだ名を付けられ、直政が死んだ後に「追い腹」する部下は一人もいませんでした・・・。
 現代でもいますよね。マスコミ受けのいい若手社長が、部下にはパワハラしまくり、だとか。

 結論からいうと、武将としては「二流」・・部下を殺してはいけません。
CIMG0047_20121116225622.jpg
CIMG0049_20121116225621.jpg

 最後に・・榊原康政。
CIMG0039_20121116225449.jpg
 本多忠勝と同世代です。人格的には、4人の中で一番安定していたかも・・。幼い時から学問に才能をしめし、家康の近習に取り立てられると武勇でも優秀さをしめし、徳川軍の先鋒は本多忠勝と共に任されておりました。
 とはいえ、それだけではよくいる優秀な若手将校・・康政の名を天下に轟かせる事件。それが徳川家康と豊臣秀吉との間で勃発した「小牧・長久手の合戦」でおこりました。この合戦は両者とも陣地を構築して長いにらみ合いをした戦で、両者とも攻め手を欠いていました。そんな折、康政が一枚の檄文を書きました。中身は・・

  『そもそも秀吉は織田信長公に仕えていたのに、その死後、恩を忘れて、織田信孝を自刃させ、今また織田信雄殿をせめようとしている。そんな恩知らずを助けるのは後々、恥を残すことになる。天下の諸侯よ!義軍である家康公の下に集おう!』という内容・・。かなり省略・意訳していますが・・。
 それを読んだ秀吉は大激怒!榊原康政に十万石の賞金首をかけます・・。
 結局、両者の間で和平が結ばれたので、賞金は意味がなくなりますが、秀吉は家康に命令して康政に十万石を与えさせます。これは秀吉の徳川陣営切り崩し策と考えられておりますが、「十万石」というのは秀吉の皮肉でしょうか?

 関ヶ原後、康政も政治の要職を任されますが、『老臣、権を争うは亡国の非なり(家臣どうしで権勢を競うのは国が滅ぶもとである)』という言葉を残して領地の館林に引きこもり、病死しました。その颯爽たる生き様は史実を調べていて、一服の清涼剤を飲むような爽やかさを感じずにはおられません。永田町の住人に正座させて聞かせてやりたいですね。残念ながら銅像は酒井忠次ともどもないんですよね・・・。
PICT0020_1.jpg
 三重県桑名市九華公園内にある本多忠勝像。
PICT0022_20121117002019.jpg
 滋賀県彦根市JR彦根駅前にある井伊直政像。

 ちょっと重めの内容になってしまいましたので・・。
CIMG0002_20121116230514.jpg
 以前、アーティストのmichiko殿のブログで「星の王子様」の書評が載っていました。存在は知っていた名作ですが、読んだことはないので読んでみたところ・・言葉にならない感動を覚えました。なんとかその感動を表現してみたいと考えていたところ・・キューピーで顕してみました。
 一番好きな光景を抜粋・・。

 『「さよなら」と王子はいった・・・・・・。
「さよなら」ときつねがいった。「ぼくの秘密をいうよ。すごくかんたんなことだ。心で見なければ、よく見えないっていうこと。大切なことって目には見えない。
「大切なことって目には見えない」とちび王子は、その言葉を忘れないようにくりかえした。』

 とても短い物語ながら、子供から大人まで読むものの心を掴まえて離さない物語です。劇中では王子様と仲良しのキツネ君は離れ離れになりますが、ここで再会・・。未読の方は是非! 

 何か要望があれば「武者ピー」化します。可能な範囲内で・・秀吉と薩長土は絶対作りませんので悪しからず・・。

 
MUSE_banner_02.jpg

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村

江戸(東京)を代表する二大巨頭~道灌ピーと家康ピー~

 朝晩すっかり寒くなって参りましたが、諸卿におかれてはいかがお過ごしか?それがしは・・また武者ピー新作に取り組んでいた。

 まずは・・
CIMG0001_20121110103035.jpg
 キューピーの素体を探しに「ユザワヤ」に行った時に、「お座り」タイプを見つけたときから「馬上武者」を造りたくてしょうがなかった・・が・・キューピーをいかに馬に載せるかという事に試行錯誤・・・ついにこの「台座型」馬を開発。そんな大げさなものではないが。
CIMG0028_20121110103037.jpg
 ちょうど弓に矢をつがえるところである。え?弓が小さい?そりゃデフォルメだから。
CIMG0031_20121110103036.jpg
 刀を吊るしている左側から・・刀の上の「輪っか」は予備の弓弦、神社の流鏑馬神事などでも射手が同じようにぶら下げているので、見る機会のある方は見て確認してみてね。
IMG_0084.jpg
 こんな風にね。こちらは新宿区早稲田近くの「穴八幡宮」での流鏑馬神事。射手は小笠原流の若大将。

CIMG0033_20121110103036.jpg
CIMG0030_20121110103037.jpg
 兜の前立ては「八幡」・・古来より武士の守り神として篤く信仰されてきました。八は神使の鳩なんだが・・よくわからない生き物になってしまった・・。

 昔から『花は桜、人は武士』なんて言葉がある。この言葉に続けるなら『武士は畠山重忠』と続けるべきだろう。鎌倉時代を代表する関東武者です。
sigetadazou_1.jpg
 画像は埼玉県深谷市にある「畠山重忠記念公園」にある銅像。
 世界でただ一つの「馬を背負うとしている銅像」である!『平家物語』で源義経が「ひよどり越え」の奇襲を仕掛けた時に、重忠が「崖を駆け下りては我が愛馬の足が折れるかもしれぬ・・」と考え、「なら背負っておりよう」と一味違う(!)思考の末、こんな銅像が・・にしてもどんだけ馬鹿力だ・・。武者ピーにすると・・。
CIMG0044_20121110103034.jpg
 折り紙で馬を作って、兜の上にのっけました。
  重忠「おい、これがわしか?随分、可愛いのう。赤子のようだな」
     ええ・・武者キューピーですからね。これでも一所懸命に思考したんですよ。どうやったら馬を背負えるか・・・手足動かないタイプですから苦労しましたし、頭大きいのでね。その結果、兜にのせました。
CIMG0045_20121110103147.jpg
 甲冑は武蔵御嶽神社に奉納された国宝「赤糸縅甲冑」を参考にしつつ、千代紙を派手に使っています。重忠さんの兜、前立てないんですよ。
CIMG0047_20121110103145.jpg
 髪も「乱髪」にして、鉢巻でしばっている設定・・兜で見えないところですけど、細かいところまで気を配っています。

 以前、太田道灌公を造りましたが、江戸を代表する武将はもう一人おられます。それが神君・徳川家康公。
IMG_0804.jpg
 武者ピーにすると・・
CIMG0039_20121110103147.jpg
 後ろの天守閣は江戸城本丸(のフィギュア)。
CIMG0040_20121110103146.jpg
 左手に鷹、右手に軍扇。
CIMG0041_20121110103146.jpg
 背中には手描きの「三つ葉葵」・・え?鷹に見えない?これでも何度か描き直したのですぞ。
  家康公「ほっほっほっ、わしも可愛くなったものだな。サムライ銅像研究会とやら・・」
      これは家康公・・陣羽織に手間取りましたが、それほど難易度は高くはございませぬ。それと・・
CIMG0043_20121110103145.jpg
 この画像を撮りたかった!江戸を代表する二大巨頭の会談!
  道灌公「それがしの江戸城をずいぶん造りなおして頂いたようで。元々は三千人の兵をいれれば手一杯の山城ですからな」
  家康公「最初は小田原に本拠地を構えようとしたのですが、豊臣秀吉公に『江戸にしなさい』といわれましてな。結果的には、太閤殿下の眼力は恐るべきものでした」
  道灌公「お互い、上司には苦労した口ですが、家康殿は長生きされたのが勝利のもとでしたな」
  家康公「勝負は息果てるその時までつかないというわけです。『人生とは重き荷物を背負って、遠い道を行くが如し』・・」
  道灌公「同感です・・道灌だけに・・なんちって・・」
  東京駅もリニューアルしたんですから、この二人の銅像をセットで造ってほしいなぁ・・。

 家康公も造ったので、「徳川四天王」も造ります!

MUSE_banner_02.jpg
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村
にほんブログ村 美術ブログ 彫刻へ
にほんブログ村

速報!第44回「日展」

 今年も「日展」の季節がやってまいりました!
CIMG0122_20121107202124.jpg
 開催地は例によって、六本木は国立新美術館・・日本画・洋画・工芸品・彫刻・書とこの国を代表する芸術家の作品が一堂に集まる展覧会である。
 とはいえ・・今年の傾向としては、日本画と洋画共々、こじんまりとした絵が多くて「つまらない」ものが多かった。その代わり、工芸品の出展が激増!過去、4年間見てきたが、こんなに工芸品が多いのは初めて。絵画よりも立体作品を志向する傾向なのだろうか?そのせいか彫刻もすこし増えた気がする。確認はとっていないので数の検証は行っていないが・・書?あっちの世界はわからないねぇ・・。

 今回は彫刻で毎年一押しで紹介している高知県の阿部鉄太郎先生の作品のみを紹介しよう。
CIMG0090.jpg
CIMG0091.jpg
 おやぁ?今年はおとなしめだね。とはいえ、女性の柔らかい体のラインを活かした官能的な作品であることに変わりはなさそうです。
CIMG0093_20121107202122.jpg
CIMG0101_20121107202239.jpg
 太平洋を眺める海岸に少女が立っているという想定なのだろうか?手を放せば、帽子を吹き飛ばしかねない強風に少女が必死に耐えている・・

CIMG0097_20121107202121.jpg

CIMG0099_20121107202240.jpg
 ローアングルも必須です。

CIMG0103_20121107202239.jpg
CIMG0092.jpg
CIMG0104_20121107202238.jpg
 え?横文字の意味?フランス語はわかりません。

 不定期で今回の日展で興味深かった作品をお送りします。

MUSE_banner_02.jpg

にほんブログ村 美術ブログ 彫刻へ
にほんブログ村

織田信長公~武者ピーだとどうなる?~

 武者ピーを幾つか造っていた。また見て頂きたい・・
PICT0013_1_20121103202239.jpg
 織田信長公の銅像も日本各地に何点も存在する。こちらは愛知県名古屋市の清洲城公園内に建つ銅像。色んな資料やメディアで紹介されているので皆さんもご存知かと思われる。それがしも織田信長公の銅像では一番好きである。
 でも武者ピーとして造る場合、もっと印象深いものにしたい・・
CIMG0011_20121103201639.jpg
 武者ピー以外にも、色々な織田信長フィギュアを集めてみました。中でも・・
CIMG0010_20121103201639.jpg
 こちらが武者ピーの「織田信長」公・・南蛮兜を被り、マントを羽織って、鉄砲を持つ。どうだろう?
CIMG0012_20121103201638.jpg
CIMG0013_20121103201638.jpg
 既製品のフィギュアと並べてみても遜色ない・・というのは言いすぎ?
 織田信長「おい!本能寺でのわしの姿まで立体化しているとは・・縁起悪いな!」
 文句はカバヤ食品さんに言ってください。でも良く出来ているではないですか。
 織田信長「まあ・・なかなか精悍に仕上がっておる。だがおぬしの武者ピー織田信長は可愛いすぎるな」
 でしょ!『信長ピー』と呼んでます。可愛がってね。武者ピーは「可愛いもの+無骨なもの」をあわせて、そのアンビバレンツ(二律背反)を楽しむというのがコンセプトです。分かってもらえるかなぁ・・。

CIMG0017_20121103201637.jpg
CIMG0019_20121103201637.jpg
 居城の「安土城」天守閣といっしょに・・

CIMG0001_20121103201741.jpg
 今回、初めて「総髪」を採用。織田信長公の肖像画では「月代」状のものが多いけれど、それがしのイメージでは「総髪」なんだよね。後頭部も苦労したから見てほしいんだよね。当ブログは「その気」さえあれば、誰でも造れるものを公開しているので、これをみて「俺ならもっと上手くできる!」「私ならこうする!」という方々の奮起を期待したい。

 可愛い兜を造ってみました。
CIMG0002_20121103201741.jpg
 ウサギ耳兜武者「お屋形さま!本日からお仕えいたします。よろしくお願いします!」
 お屋形    「おお・・何やら派手な兜だな」
CIMG0003_20121103201740.jpg
 ウサギ耳兜武者「そうなんですよ!これは兎耳形兜と申します。兎は月の神様の使者として、またすばしこい身のこなしから古くから武士に好まれ、多くの武士の兜の前立てに採用されております。有名なところでは、あの『上杉謙信』も使っていたというものが、現在も千葉県佐倉市の国立民俗博物館にございますぞ」
 お屋形    「おお・・それならわしも見たことあるし、他の資料で色々見たが、どれも『黒漆』で塗られたものだったな。こんなに派手なものはなかろう」
 ウサギ耳兜武者「お屋形さま、鋭い!確かにこんなに派手なウサギ耳兜はございませんが、単純に派手な兜は他にも色々ございます。ならば、こんなものもあっても面白いというのがキューピー甲冑師の『サムライ銅像研究会』の言いたいことだそうでございます」
 お屋形    「相変わらず、面倒くさい奴だな・・」
CIMG0004_20121103201740.jpg
 ウサギ耳兜武者「こんな旗を預かって参りました。なんでもキューピーを『臼緋』と表してみたとか」
 お屋形    「ふん!北関東のヤンキーみたいな当て字だな。まあ、いい。掲げておけ」
 お粗末様・・。
 
 神社ブログの大先達者「◎あちこち神社◎」の七森殿へおくる「巫女キューピー」・・
  
  http://nanamorinomiya.blog.fc2.com/
CIMG0006_20121103201739.jpg
 毎月、更新される七森さまの「巫女」さんの絵にはいつも癒されております。女性のファッションには興味ないですが、巫女さんだけは思わず色んな神社で見てしまいます。個人的には、神奈川県横浜市の桜木町にある『皇たい神宮』が巫女さんの見た目のレベルが高い・・すいません、そんな目でみて。他は鎌倉の鎌倉神宮とか、神田明神がレベル高いかな・・ごめんなさい、神様・・。

 CIMG0008_20121103201832.jpg
 巫女ピー「ああ、忙しい。境内を早く掃除しないと・・」
 巫女さんというと、境内を箒で掃いているイメージがあります。衣装は白衣の小袖に緋色袴、小道具に箒にモップに木桶。鉢巻は必要ないですが、忙しいイメージを大事にしてみました。

CIMG0007_20121103201831.jpg
 鎌倉武士「ああ・・寝過ごしてしまった。早く侍所に出仕しないと・・」
 共演していただきました。巫女さんの衣装作製には、直垂作製の経験がいかされました。
 
CIMG0009.jpg
 野良猫「ニャーン!」神社に猫は欠かせませんね。猫は好きなので、ついつい写真に撮ってしまいます。

CIMG0010_20121103201831.jpg
 巫女さんは長い髪を纏めるのに、紫の髪飾りを使うそうなので、こだわってみました。他にも『千早』とか『冠』とかあるんですが、今回は「働いている巫女さん」をイメージしました。

CIMG0011_20121103201830.jpg
 巫女さん「おはようございます!」
 鎌倉武士「おはようござる。朝からご苦労様です」日本人として、挨拶は大切にしていきたいですね。

 次回はついに武者ピーの騎馬武者が登場します。

MUSE_banner_02.jpg



にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村 
プロフィール

サムライ銅像研究会

Author:サムライ銅像研究会
歴史と銅像と芸術が大好きなあまり、日本各地を東奔西走する銅像・史蹟ハンターである。神出鬼没なため、脈絡無しのブログ更新を続ける。掟はただ一つ!「死して屍拾うものなし!」昔の時代劇の決め台詞だけどね・・皆さん、見てやあ!
 最近、キューピーに侍の装束を着用させる遊びをやっております。「武者ピー」と呼んで可愛がってやぁ~!以後は「キューピー甲冑師」とも名乗ります。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。