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ぶらり墨田区散歩~三囲の末社~

 今回は三囲神社の末社を紹介しよう。
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 こちらは大黒さんと恵比寿さんを祀っている。狛犬は・・
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 あらら・・顔が欠けちゃっているね。
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 クルンとした巻き毛で・・口先が上向きなせいか、どうもスネ夫にみえてしょうがない。ここは序の口・・


 次は・・
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 境内の奥まった所にありましたこちらは「顕名神社」
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 由緒は・・
  『三囲神社には三井家由来の物が多く、この顕名霊社も三井家祖先を奉ったもので、明治7年に建立され平成7年に当地に移築されたもの。川端玉章の下書きに彫刻が社周辺に施されている。』とのこと。
 狛犬が秀逸でした。
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 あまり見たことないタイプですな。
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 尾っぽが松ぼっくりみたい・・顔は、タコ八郎さんを思い出しますね。若い子には分からねぇべ。ということは・・分かるあなたはそこそこの御歳。くっくっくっ・・。
 え?何で正面から撮らないかって?周りを柵で囲まれて近づけないのですよ。
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 奥の狛犬はわりと普通。柵越しに正面から撮ると・・
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 焼き物っぽいですね。何焼きだろ?

 拝殿に施された木彫が凄いのですよ。ビッシリ埋め尽くされているのですが、撮れたのはごく一部だけ。
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 これは「神功皇后の三韓征伐」ですね。現代の政治家にも征伐なんて無理なこといわないから皇后のつめの垢でも煎じて飲ませたいです。相手が誰であろうと冷静に、毅然と振舞ってほしい。隣の国の国連演説には怒り心頭だが、日本は冷静に日本の主張を説くべきだ。つまらん挑発にはのってはいかん。

 三囲神社は他にも見所いっぱいで、実は「三柱鳥居」なんて有名なものもあったらしいのだが、下調べしていなかったのでスルーしてしまいました。何でも京都・太秦の木嶋神社にも同じものがあるようなのだが、全く気づかなかったなぁ・・。

 次回はスカイツリーの足元にある神社にうかがいます。そこがまた狛犬天国でした。

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ぶらり墨田区散歩~三囲のコンコンさん~

 前回の白髭神社からさらに南下・・・下町で有名なお社に辿りついた・・。
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 社号標では旧字体だが「三囲(みめぐり)神社」であります。ご由緒は・・

  『倉稲魂命=宇迦之御魂神(ウガノミタマノミコト)を祀る。旧村社(現在はかつての小梅村にあたる地区にあるが、旧地は須崎村にあったと推測されている)。元、田中稲荷と称した。創立年代は不詳。伝によれば、近江国三井寺の僧源慶が当地に遍歴して来た時、小さな祠のいわれを聞き、社壇の改築をしようと掘ったところ、壺が出土した。その中に、右手に宝珠を、左手にイネを持ち、白狐に跨った老爺の神像があった。このとき、白狐がどこからともなく現れ、その神像の回りを回って死んだ。三囲の名称はここに由来するという。

 元禄6年(1693年)、旱魃の時、俳人其角が偶然、当地に来て、地元の者の哀願によって、この神に雨乞いする者に代わって、「遊(ゆ)ふた地や田を見めくりの神ならは」と一句を神前に奉ったところ、翌日、降雨を見た。このことからこの神社の名は広まり、京都の豪商三井氏が江戸に進出すると、その守護神として崇め、三越の本支店に分霊を奉祀した』・・とのこと。

 こちらは拝殿前が賑やかでしたよ。
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 狛犬さんやおキツネさまやライオンとか・・。まずは参拝。
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 拝殿に一番近いところにいるのがこちら!
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 「コンコンさん」という愛称が付いています。珍しいですね。垂れ目がなんともいえません。アップは・・
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 こういうお爺さんいそうですね。
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 こちらは大御所タレントの井上順さんそっくり!ちなみにコンコンさん、享和2(1802)年、奉納。210歳なんですね~!同じ頃に伊能忠敬さんが日本全国廻って地図作りに邁進されておられます。

 ちょっと離れた所に狛犬さんが・・。
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 えーと・・コンコンさんの印象が強すぎて・・いい江戸狛犬なんですけどね。

 ライオンさんもいます。
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 ライオンさんの後ろは幼稚園(保育園?)がいます。目の前に色んな石像があって、確実に記憶に残っていくんでしょうね。中でもコンコンさん!羨ましいですね。

 三囲神社はまだまだネタ豊富なので次回も続きます。今回の最後に・・
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 狛犬あ形  「今回、僕たち影薄いなぁ~。」
 コンコンさん「ここは私らキツネが先輩だから当たり前田のクラッカー・・もといコンコンチキ!」
 お後がよろしいようで・・・。

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ぶらり墨田区散歩~隅田川神社と白髭神社~

 前回の木母寺のお隣さんに「隅田川神社」がございます。
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 参道の途中を都営マンモス団地が建つという豪快な造り・・・なにしろ水害や地震等の災害対策なのでしかたないのですが・・団地の共用玄関を抜けてさらに100メートルほど歩くと・・
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 やっと境内です。一番後ろのコンクリ構造物は首都高速道路です。

 ご由緒は・・
 ご祭神 速秋津日子神(はやあきつひこのかみ)
     速秋津比賣神(はやあきつひめのかみ)
     鳥之石楠船神(とりのいわくすふねのかみ)
     大楫木戸姫神(おおかじきどひめのかみ)

 治承の頃、源頼朝が関東下向の折、暴風雨に遭い、当社に祈願したと伝えられているが、御鎮座の年代は未詳。墨田の鎮守、船頭や荷船仲間に広く深く信仰されていた。明治五年に隅田川神社と改称。
 とのこと。こちらは水の神様が祀られているので拝殿のいたるところに・・
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 竜ちゃんが・・いえ、竜神様がおられます。当然、狛犬もいないわけで・・
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 「ガメラだ!」と思ったそこのあなた!歳がばれまっせ!この耳のある亀さまは何か名前があるはずですが忘れました。知っている方教えてくださいまし。
 細かくみると興味深いところは色々ありましたが、この日は5つの神社詣でをしましたので次いってみよう!

 墨堤通りを南下して30分くらいかな?途中、脇道にそれたりして正確ではないですが・・
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 白髭神社にたどり着きました。その由来は・・
ご祭神:猿田彦大神(さるたひこおおかみ)
    他六柱
 天暦五年(951年)に近江国の白鬚大明神の御分霊をこの地に祀った。この辺(旧寺島村)の氏神としてばかりでなく、商売繁盛、方災除け、厄除けの神として多くの人々の崇敬を受けている。隅田川七福神の寿老神としても崇められている。
 という訳。

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 鳥居を潜って、参道を通り、神楽殿を右手に見ながら拝殿へ・・こちらの狛犬ちゃん達に既視感を感じました。
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 こちらの狛ちゃんらは文化3(1806)年の奉納。同じ年には帝政ロシアの海軍が松前藩の樺太会所を襲っています。おやおや、現在も大陸の例の国(支那・朝鮮)らと国境を巡って緊張状態にありますね。

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 狛犬あ形「え~?おいら達に似た奴見たことあるって~?」
 そうなんでございますよ。あれは文京区駒込の・・
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 天祖神社でした。確か明治44年の奉納です。
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 狛犬うん形「う~ん、肌とか似てるよね。でも僕らのほうが先輩だし、凛々しいかな?でも沢山狛犬見てると、似た奴もいるもんだね。僕らの子孫にあたるのかな~?」
 そこまではわかりませんが、人間も似たのが3人いると申しますからね。では、今回はこの辺で・・。

 次回は全国的に有名な所をお送りします。

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ぶらり墨田区散歩~向島・木母寺から~

 最近よく読んでいる平岩弓枝先生の「御宿かわせみ」シリーズの14巻『梅若塚に雨が降る』を読んでいて、以前、榎本武揚の銅像を見に行った近くに平安時代からある史蹟があるので行ってみた。

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 浅草の浅草寺仲見世通りを抜けて・・
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 隅田川にかかる白髭橋を渡り・・
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 スカイツリーに見送られつつ・・

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 榎本さん!お久しぶり!また来ましたよ、墨田区最北端地域に。
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 榎本武揚「また来たのか。銅像の。今日は梅若塚に来たと?やれやれ、やっと気づいたのか・・」
 すいません、不勉強なもので・・。

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 こちらが木母(もくぼ)寺。梅若塚の伝説とは・・・

 『吉田惟房卿の息子・梅若丸は五歳で父を亡くし、七歳で比叡山に入って修学す。たまたま山僧の争いに遭遇し、逃れて山下の大津に至り、信夫藤太(しのぶ の とうた)という人買いに言葉巧みに騙されて東国へと拉致されてしまった。
 旅の途中、梅若は病を発し、墨田河原で動けなくなり、藤太に置き去りにされてついに余命幾ばくもない状態となった。里人は梅若を哀れみ、看病したもののついに貞元元(976)年3月15日、わずか12歳にして身罷った。
 梅若は死ぬ間際の苦しい息の下、
  「尋ね来て 問わば応えよ 都鳥 墨田河原の 露と消えぬと」と一首の和歌を残したという。

 この時、天台宗の僧侶・忠円あじゃりが梅若を弔い、塚を築き、里人と共に冥福を祈ったという。

 その翌年、梅若の母が梅若を捜し求めて墨田河原に至ると、里人が塚の前に参集して一心に祈っていた。母は里人の一人に祈りのわけを尋ねると、梅若なる稚児の菩提を祈っていたという。哀れ、母は息子・梅若の一周忌にたどり着いたのである。
 母は悲しみつつも里人と共に祈り夜明かしをしていると、深夜、塚から梅若の霊が漂いだし、母とのしばしの再会をしたという。
 翌朝、母は忠円あじゃりに事情を話し、髪を下ろして尼となり、塚の脇に草堂を築いて梅若の菩提を弔い続けたという・・・・。』

 涙なくしては語れぬ話である。東京都の地図で確認すると、木母寺は現存したので行ってみた、という訳。

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 この辺りは河川改修工事などで様変わりしており、元々塚があったところは榎本銅像の近く。寺は200メートル程西側に移動。

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 室町時代に観世流の元雅によって作られた謡曲「隅田川」に歌われて広く人々の心を潤し、以降も多くの人により梅若を主題とした文芸作品が作られている。
 
 当ブログで特筆すべきは、江戸城城主の太田道灌の親友・万里集九が書いた漢詩「梅花無尽蔵」にも下記のように記されている。
  『都鳥墨田之故事 河辺有柳樹 蓋吉田之子梅若丸墓処也 其母北白川人』とある。万里集九は美濃(岐阜県)の人である。遠い西国にも梅若伝説は伝わっていたということである。

 この寺は古くは墨田院梅若寺と称したが、天正18(1590)年、関東に入ったばかりの徳川家康が梅柳山の山号を与え、さらに慶長12(1607)年、貴族の近衛信尹が梅の字を分けて「木母寺」と改称させたと伝えられる。江戸時代には武士も庶民も木母寺を見に多くの人々が訪れたという・・。

 現在も毎年3月15日に「梅若忌念仏」が行われ、東京都の旧跡に指定されている。

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 観音様を中央に、左右に梅若丸と母の木像があります。
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 梅若丸
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 観音様
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 母

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 絵馬にも梅若丸が描かれています。裏?見てないですよ。
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 芸道上達もやっているんですね。そういえば向島芸者って有名でしたね。

 この日は梅若塚を基点に南下しつつ、神社をハシゴして参りました。次回からその模様をお送りしましょう。


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佐々木鐙(あぶみ)~これぞ武士の理想像~

 先日、ある雑誌の歴史コラムを読んでいて素晴らしい話に感動した。ということでここで拡散させてみたい。道徳の教科書にもでてきそうな話なので、お子さんのおられる方は語り聞かせて古来の日本人の美しい心を伝えていってほしい。

 織田信長が乱世を統一の方向に向け、豊臣秀吉がその事業を受け継いだ時代、2人の英雄に仕えた戦国武将がいた。それが蒲生氏郷(がもう うじさと)である。
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  (蒲生氏郷の死後、描かれた肖像画、細面で鼻が秀でているのが特徴か)
 近江(滋賀県)の豪族の嫡男として生まれ、十代のはじめに信長に面会するや「気に入った!」といわれ、姫との婚姻が整い、以降は織田信長の股肱の臣として戦場では先陣を受け賜り、後方では安土城の留守居を預かる信頼を得るに至った。本能寺の変後は、父・賢秀(かたひで)と共に織田家の親族を保護して領地に引き取り、明智光秀の死後は豊臣秀吉に仕え、ついには会津92万石の大領を食むに至る。
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  (蒲生家の家紋「対い鶴」紋)
 また文化人としても著名であり、千利休の弟子「利休七哲」の一人に数えられる。切支丹でもあり、「レオン」という洗礼名をももつ。
 信長や秀吉からは、能力もさることながら主君を裏切らない人柄であることにより絶大な信頼を得るに至った。会津の領地は秀吉からの信頼の証であり、奥州や関東の大名に睨みを利かせることを期待されたものである。
 だが運命は苛酷なもの・・氏郷は数え年40歳で病死してしまう。秀吉に先立つこと4年前である・・・。

 いつの頃かははっきりとしないが、同僚の大名であり「利休七哲」の一人でもある細川忠興(ほそかわ ただおき)から蒲生家が先祖代々伝えられてきた「佐々木鐙」というものを「頂けないか」と所望された。
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  (これは普通の鉄製鐙であり、佐々木鐙ではございません。参考画像)
 佐々木鐙というものは「平家物語」の宇治川の先陣争いで有名な佐々木四郎高綱が用いていたという謂れがあり、蒲生家ではいつの頃からか家重代の家宝として大切にされてきた。普通に考えれば、よその家の家宝を所望するのは大変な礼儀知らずであり、場合によっては家と家との合戦沙汰になるかもしれない。
 が・・氏郷と忠興は共に織田信長の薫陶をうけ、秀吉配下の荒大名として天下に重きをなす存在、さらに二人は同じ釜の飯を食ったともいえる親友である。氏郷はよく考えた上で忠興に「さしあげます」と返事をした。
 蒲生家の重臣達は色めきたった。中の一人は「殿!佐々木鐙は家重代の家宝ですぞ!それを細川殿に差し上げるなどとは・・太閤殿下に献上するならともかく・・似たような鐙を送って誤魔化しなさいませ!」と反対意見を表明した。
 対して氏郷はある歌を謡ってみせた。
  「なき名ぞと 人には言ひて やみなまし 心の問はば 何と答へむ」
   (これは何々というものですと人に言っても、偽物だと知っている自分の心に問えば何と答えたらいいので    あろうか、という意味)
 これには家臣団も一言もなく、押し黙ってしまったという。

 その後、鐙を受け取った細川忠興は喜んだが、氏郷の歌を人づてに聞いて申し訳なく思い、返そうとしたが氏郷は「一度あなたに差し上げたものですから・・」と受け取らなかったそうである。氏郷の死後、跡次ぎの秀行(ひでゆき)に返されたそうである。蒲生家はその後後継者ができず家が絶えてしまい、佐々木鐙も行方不明だが、武士として正直に生きるべきだと語るエピソードと共に蒲生氏郷の名は人々の心にこのように残っていくのである。これぞ「武士道」とは何かを考える上で欠かせない話の一つである。

 この話は原型が儒教の「孟子」にあるといわれ、真偽定かならぬ話ではあるが、その精神は現代人にでも理解できるだろう。もっとも、選挙が近くなって所属政党を抜けて大阪のあの「政党」に参加するような輩には理解できないだろうが。

 こぼれ話・・氏郷が長生きしたとして、関ヶ原合戦ではどのようにふるまったか?というifの話を想像してみよう。氏郷は多分、徳川家康に味方したと思う。氏郷は自ら野心を燃やして駆け抜けるタイプではなく、リーダーの下で仕事をしていくタイプのように思われる。それ故に信長も秀吉も信頼したのだろう。
 また、当時の考え方に「天下は廻り持ち」という思想があった。信長が倒れれば秀吉が、秀吉死後は家康とその時代の第一人者が政権を握っていくというものである。氏郷も家康亡き後を狙っていたかもしれないが、家康の晩年はその「天下廻り持ち」思想との対決であった。豊臣家はそのスケープゴートにされたのである。

 正直に生き、歌にのせて他者に教えていく、これこそ日本の古式ゆかしい武士のあり方である。武勇ばかりが武士ではないし、仕事ばかりでもいけない。心ばえの問題なのである。これからの日本人にも学ばなければいけないと思う。


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大隈重信像~早稲田大学~

 当ブログは基本、武将や武士の銅像を紹介したいので今回のものはどうかと思っていたが、近所なので紹介しないわけにはいかなかろう・・。
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 そう、肥前出身の政治家にして教育者である大隈重信像。作者は朝倉文夫先生。大隈は爆弾テロにあっているので杖を用いています。アングルを変えると・・・
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 明治の気骨溢れる男の横顔・・最近の日本男児にはなかなかみかけない顔だな。やはり日本人には「武士道」は欠かせない素養なのかもしれない。

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 側にはもうひとつ銅像がある。
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 こちらの殿様顔は明治・大正の政治家・教育者の高田早苗像。幕末、江戸の深川で生まれたというから幕臣の家なのかな?早稲田大学の総長を務められた方。

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 こちらは大隈講堂。

 最後に・・
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 もうちょっと早く撮れば、飛行機雲がきれいに写ったんだけどね。残念・・。大隈さんは現代の学生に何を思うのかな?

 次回はある戦国武将の感動的実話を紹介します。


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吉良上野介の像~墨田区両国あたり~

 毎年暮、芝居やテレビで「赤穂浪士」をこれでもかとやる。ストーリーは変わりないのにこれでもかと。それがしはもう飽きてみないが、存外人気なようで。
 その敵役である吉良上野介の像が吉良邸跡の両国3丁目にあると聞いていってみた・・。

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 画像は隅田川、この辺りの主役はスカイツリーになっている昨今・・。
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 路地を曲がった両国3丁目の一角に「本所松坂町公園」がある。
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 今となってはちっぽけな公園だが、辺り一帯が大名屋敷だったのだから凄いものだ。でも江戸城からは離れた所にあるから当時は寂しい所だろう。
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 中はちっぽけなものである。

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 こちらが吉良町の菩提寺にある木像を元に造られたもの。
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 造られた経緯が丁寧に書かれている。こういうものはそれがしのような銅像ハンターにはありがたいです。
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 温和な顔立ちのお爺さんですね。野良着着ていたら、農家の爺ちゃんという趣きです。そういえば、一般に「衣冠束帯」と呼称されておりますが、束帯と衣冠は別物。束帯が朝廷に出仕する際の正式な礼服で、衣冠が束帯をすこし簡略化したもの。現代人は神主か神前結婚式でもせぬ限り関係ないですね。
 像は触ってみると、銅像ではなく強化プラスチックのような素材・・色つきでもなくていいから銅像が好きです。

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 公園の一角に吉良殿の首を洗った井戸というものもあります。ほんまかいな?

 両国には他にも・・
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 本所・回向院があります。明暦の大火で焼死した方々の供養をする寺ですね。境内のお墓には・・
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 鼠小僧次郎吉のお墓があります。次郎吉の墓石を削ると、勝負事のお守りになると石を削られる方がおられるそうで前の白っぽい石を削るように置いてあります。

 今回はこの辺で。ちょっと銅像強化週間を行っております。

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柔道の祖~講道館・嘉納治五郎~

 先日、文京区をでたらめに歩いているとある建物の前にでた。そこにはある銅像があった。
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 こちらは・・・あれ?これはtvk(テレビ神奈川)の人気番組「sakusaku」の先代キャラ「増田ジゴロウ」これはとんだ「じごろう」違いでした。左の女性は今や人気シンガーの木村カエラ女史。

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 ええ、こちらが講道館を興した柔道の神様「嘉納治五郎」先生。作者は・・
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 朝倉文夫先生です。太田道灌公像などでお馴染み・・。

 え?先のオリンピックでとんだ結果だったのに時期が悪い?それはしょうがないねぇ・・勝負事だし。嘉納先生も苦々しい思いかもね。
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 でももう国際化しちゃったしね。我慢して今の国際ルールに従うしかないのかもね。とはいえ、このままルール変更を牛耳らせていたら、そのうち柔道着が廃止されて、全身ツルツルのスーツでタックル決めてたりして・・・そうなるとレスリングと変わらないけどね。

 元々は武士が馬上で組討して相手の首を掻き切る技が江戸時代に入って竹内流などの柔術になって、明治に入って柔道になったように時代に合わせて変わってきた格闘術だから変化は必然なのかも。
 とはいえ・・・篠原は監督辞めさせたほうがいいな。あいつ下品すぎる。武士道理解できひんのやろな。

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プロフィール

サムライ銅像研究会

Author:サムライ銅像研究会
歴史と銅像と芸術が大好きなあまり、日本各地を東奔西走する銅像・史蹟ハンターである。神出鬼没なため、脈絡無しのブログ更新を続ける。掟はただ一つ!「死して屍拾うものなし!」昔の時代劇の決め台詞だけどね・・皆さん、見てやあ!
 最近、キューピーに侍の装束を着用させる遊びをやっております。「武者ピー」と呼んで可愛がってやぁ~!以後は「キューピー甲冑師」とも名乗ります。

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