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第43回日展を見に行く~鎮魂の祈りを抱きながら~

 芸術の秋!今年も日本美術展覧会、通称「日展」が開催される時期がやってきた。という訳で行ってきたので速報をお送りしよう。
新国立美術館
 六本木の新国立美術館。
日展ポスター
 「この国の美をみる」・・高い志である。それだけに見るものも心身共に準備して見に行きたかった・・が若干風邪気味であったのがうらめしい。
 実際、考えてもみられよ。日本画・洋画・工芸品・彫刻と日本全国から作家さん達の「一球入魂」な作品が数百点集まっているのだ。しばしば休憩をいれながらでないととてもではないがみることなどできない。明るい照明のなか、色彩の乱舞とでもいうべき絵画は気をいれて見ていると視覚から疲れてくる。
 さらに当方はたった一人で作家の魂がこもった作品数百点とまさに「対決」する心持でみるのだ・・帰ってから疲れきってすぐに寝てしまった。

 というのはそれがし1人くらいかもしれない。他の方々はいたって気楽に見ていたようだ。皆さんも気楽に見に行って欲しい。詳しくは日展のホームページを参照してほしいが、年内は六本木の新国立美術館で開催しており、その後、1年かけて全国を巡っていく。是非、見に行って欲しい!

 今年の傾向として、やはり東日本大震災の後だけに鎮魂と復興をいのる作品が数点見ることが出来た。今回はまずそれらを見ていただこう。

それでも大地は甦る
 「それでも大地は甦る」伊勢崎勝人さん作 宮城
  何も言葉はいらないだろう。

路1
路2
 「路」鷺悦太郎さん作 岩手
  女性の悲しげな表情と背後の荒れ果てた光景に嗚咽をもらしてしまった・・それでも立ち上がらなければならない。

みちのく見舞う八女津姫
 「みちのく見舞う八女津姫」吉田民尚さん作 東京
  福岡県八女市に八女津媛神社があり、日本書紀にも書かれているようだ。西国の神様がみちのくを見舞ってくださっている絵ですね。

鎮魂(鬼剣舞)
 「鎮魂(鬼剣舞)」志賀一男さん作 宮城
  これもまた祈りの絵ですね。鬼の剣舞は何に対する怒りなのだろうか?

白-03・11
 「白-03・11」岩田壮平さん作 東京
  写真では真っ白いキャンバスにしかみえないが、地震や津波による廃墟をフィルムで写して、それを真っ白いまま描いた・・確認してはいないが・・とでもいえばいいか?カラーでは悲惨すぎて見ていられない絵です。

 とても重い絵が続いたので、今回の最後に癒しの絵を紹介しよう。
ケシ不動二童子図1
 「ケシ不動二童子図」間瀬静江 神奈川
  真っ赤なケシの花を不動明王に見立てて、さらに明王の両脇に立つ「コンガラ」童子と「セイタカ」童子を二人の女の子に見立てた絵だ。可憐な少女の絵に癒しを感じて欲しい。
ケシ不動二童子図2
ケシ不動二童子図3
 
 今回はこれまで。次回はもっと気楽な絵を紹介しよう。彫刻は・・さらに次になる。


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茨城県古河市の八幡神社~大銀杏~

 今回は古河市の八幡神社をお送りしよう。

 雀神社や頼政神社を巡った後に市内を徒歩で巡ったのだが、それはまた後日・・八幡神社自体は大きなものではなかった。
古河の八幡神社入り口
 めずらしく鳥居の付け替え工事を行っていた。「へえ、こうやるのか・・」としばし見学。元々、古河城内にあったこの神社を寛永19(1642)年に城主・土井利勝が城の鬼門に当るこの地に移設。住所としては、「古河市本町2-15-15」。

古河の八幡神社拝殿
 拝殿です。新旧4体の狛犬がお守りしていますね。

古河の八幡神社本殿
 本殿の屋根・・一見普通のこのお社をなぜかくも紹介するか?それは・・

大銀杏1
 見てくださいよ、この幹の堂々たる銀杏。元々は30メートルくらいあったようですが、倒壊の危険があったため、上部を切り、現在はおよそ半分の14メートルほどになったとのこと。それでもこの存在感・・。

大銀杏2
大銀杏3
 実際の幹は大人が6人くらい数珠繋ぎにならないと取り巻けそうにありません。恐らく寛永の頃に植えられたか、勝手に生えてきたのでしょうか?たくましいな。
大銀杏4
 あまりの存在感に15分ほどぽーっと見上げていました。素晴らしい・・。

素朴な大日如来像
 最後に境内の一角にあった大日如来の石仏です。お顔立ちは凛々しいのに、体はデフォルメされたかのような感じですね。赤ちゃんのような体つきですね。そういえば仏様のつま先は赤ちゃんのような無垢を表現するために爪が反り返っているそうです。意識してみてみると、どの仏様の爪も反り返っていますね。
 かつては神仏合習でしたからね。日本人の大らかさともいいかげんさともいえるかもしれません。でも一神教の領域では信仰を巡って血で血を洗う戦いが繰り広げられてきましたから、それを思えば少しくらいいいかげんでもいいんですよ。世界標準?そんなものいりません。日本は日本らしさを、他の国は他の国らしさを追及していけばいいんです。

 今回はこれまで。

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茨城県古河市の頼政神社

 前回の雀神社から20分ほど歩いたろうか?今回の古河訪問で一番行きたかった所の一つでもあるのが「頼政神社」!
頼政神社へ・・

 平安時代の摂津源氏の武将・源頼政をご存知?保元の乱で平氏側について源氏として唯一政権側に残ったものの「平家にあらずんば人にあらず」といった平氏のおごりように先を危ぶみ、以仁王の令旨を奉じて挙兵を策す。
だが、計画が漏れて準備不足のまま挙兵し、宇治平等院の戦いで平氏に敗れて自害。だがその死は日の本全土に反平氏の炎を挙げさせた・・ともいえる。

 歌人としても有名であり、辞世の句は・・
  「埋もれ木の 花咲く事も なかりしに 身のなる果は あはれなりけり」

 また、「ぬえ退治伝説」の主人公でもある。「平家物語」巻の四にあり、時の二条天皇が夜な夜な京の都に現れる妖怪ぬえに悩まされ、源頼政が討伐を命じられ、見事になしとげるという話。帝から桔梗の紋が入った衣とかぶら矢を頂戴したことから、源頼政の子孫である太田家は代々「桔梗」と「かぶら矢」を家紋にしたのである。
DSC02187_1.jpg
 画像は有楽町・東京国際フォーラム内にある太田道灌公立像です。ほら、桔梗とかぶら矢でしょ。

 道灌公の足跡を追う者としては、頼政神社は外せない・・というわけで・・
頼政神社入り口
 住宅街のど真ん中、すこし小高い所にございます。元々、古河城の一角にあったのだけど、河川改修工事とかで現在地に移転。でもここも旧古河城の観音寺曲輪(くるわ)の土塁上にあるので城中にあることに変わりなさそうですね。
 現在では草が茫々生い茂る小さなお社です。昔はもっといい扱い受けていたんでしょうけど。
頼政神社本殿
 本殿です。ご由緒は・・源頼政が自害する際に、ぬえ退治にも挙兵にもついてきた「猪早太(いの はやた)」に「わしの首を桶にいれて東国に逃げよ。桶を降ろして持ち上がらないところでわしの首を葬ってくれ」と言い残して自害。その後、早太くん、どこまでも逃げてきて今の古河あたりで持ち上がらなくなったところでお社を築き、それが現在の頼政神社につながるそうです。
 その早太くん・・このあたりの豪族である下河辺(しもこうべ)一族の出身なので、故郷に逃げてきたのかも。
ちなみに下河辺一族は平将門をやっつけた藤原秀郷の末裔だとか・・色々有名人がでてきますね。

 参拝して、扉にあけられた覘き穴から撮ると・・
頼政神社の内部
 こんな感じ。面白い神紋ですね。狛犬もみましょう。
頼政の狛犬1
頼政の狛犬2
 正直、状態がおよろしくないのでいつごろのものかわからないのが残念・・大切にしましょうね。

 今回はここまで!


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茨城県古河市の雀神社

 この夏のおわりに調べごとがあって茨城県古河市にいってきたが、その際に何箇所か神社も廻ってきたので今回はその一つを紹介しよう。

古河の大ケヤキ
 というわけで来たのが雀神社。入り口には大ケヤキが出迎えてくれます。大きいですね。
大ケヤキの説明
 へえぇぇぇー。

雀神社の入り口
 古そうな鳥居ですね。
DSCF0245_1.jpg

雀宮のご祭神
 ご祭神の説明。
雀の由来
 ということは「鎮める」が「しずめ」→「雀」に訛って「雀神社」になったんですね。雀と関係あるかと思ったのですが。

雀の手水舎
 手を洗い・・

拝殿へ
 参拝しましょう。

拝殿と神楽殿
 拝殿と神楽殿が渡り廊下・・いえ渡殿というのでしょうか?つながっていますね。珍しい。
雀の拝殿
 雀神社だけに狛雀・・ならぬ狛犬紹介。
雀の狛犬1
雀の狛犬2
 なかなかユーモラスですね。造られたのは元禄14(1701)年、江戸城の「松の廊下」で浅野匠の守が吉良上野介に切りつけます。有名な赤穂浪士の事件の発端ですね。吉良さんは翌年の年末に討たれるのはご承知のとおり。後ろもみましょう。
DSCF0259_1.jpg
DSCF0260_1.jpg
 えもいわれぬユーモアが漂っていますね。

 ではまた次回!

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品川区大森の歴史3~茶室の美~

 今回で大森編のラスト。やっと品川区立品川歴史館に到着した・・寄り道しすぎて1時間は余分にかかった。普通に歩けば20分くらいでいけるだろうか?
品川歴史館
 ここに「品川御台場~幕末期江戸湾防備の拠点~」を見に来たのだが、例によって会場内は撮影禁止なのでお庭を紹介しよう。展覧会そのものは文書中心だが、韮山の江川館でも見たこと無いものばかりだったのでとても面白かったです。11月23日(水)までやっていますのでお近くの方はどうぞ。

庭入り口
 建物から一歩でて、延べ石に導かれるままに・・
書院と茶室
 左側は書院に通じており、右奥が今回紹介したい茶室だ。
茶室・松滴庵
 こちらが茶室「松滴庵」です。
DSCF2494_1.jpg
 なるほど・・お大尽の趣味ですね。それがし、茶道には一切関わりを持ったことはなけれども庭園や茶室の美には興味があり申す。

茶室の井戸
 茶室の裏手にあたります。井戸がみえますね。

 ふと視線を転じると・・
織部灯篭1
 織部灯篭ですね。茶聖・千利休の高弟にして、徳川秀忠の茶頭を務めた古田織部が考案したという灯篭だそうです。資料やマンガでは見たことありますが、実際に見るのは初めて・・いいものですな。
織部灯篭2
 顔など彫りこまないあたりがいいのかもしれませぬ。
灯篭と紅葉
 紅葉散る頃ならば、さぞや美しいでしょう。

 再び茶室に視線をむけましょう。
つくばい
 足元に「つくばい」がございます。ここで手を清めて、茶室へと入るわけですね。この画像は何気なく撮りましたが、帰宅してパソコンに取り込んであらためて見ると実に味わい深い。しみじみと見入ってしまいました。
にじり口
 石段を伝ってにじり口へいきます。江戸の頃なら、入る前に刀掛けに大・小刀を預けるのでしょう。
苔の美
 苔の緑が目に眩しいですな。

茶室全容
松滴庵
 茶会の折は、雨戸をあけて庭の木々や織部灯篭が織り成す景色を眺めるのでしょうなあ・・。

 茶室から歩みを進めると・・
待ち合い
 待ち合いがございます。茶会の合間に中立して、主人が席を改める間に待つところですね。待ち合いからの眺めも・・。
待ち合いからの景
 こちらからの景色もまた見事!茶会は茶や懐石料理だけでなく、景色もまた「馳走」なのですな。

池の鯉
 庭の端っこに池がございます。鯉もいますね。

 さらに水琴窟もございます。
水琴窟全容
 古田織部の高弟・小堀遠州が織部に弟子入りした早々、「洞水門」という水琴窟の原型を考案したとのこと。それが後に現在の水琴窟へと変化していったそうですが、確かなことはわかりませぬ。
水琴窟説明
 ここのは埋もれていたんですね。
水琴窟
 水を垂らし、立て掛けてある竹筒を使って音を楽しみました。まこと美しい音色でしたな。

 千利休は茶室の作庭などを「渡り(実用性)六分・景四分」が最高とされたそうですが、織部はそれを「渡り四分・景六分」とされたそうです。どちらがいいかはわかりませぬが、この庭園も実に美しい庭園ですな。来たかいがあったというもの。

 以上、大森編でした。

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品川区大森の歴史2

 前回に引き続き今回も大森だ。
圓能寺
 前回紹介した日枝神社の元別当寺・圓能寺です。中に入って本堂を撮りたかったが、境内に幼稚園があり、親子連れが沢山いたので、部外者のそれがしは断念。本堂にも木彫があったんだけどね・・。

 すこし北上すると・・
大森貝塚遺跡公園入り口
 品川区立大森貝塚遺跡庭園がありました。ここがなかなか面白かった。
大森貝塚遺跡公園見取り図
 公園見取り図です。青く楕円で囲ってあるところに大森貝塚の石碑があり、黄色く囲っているところにモース博士の胸像があります。順にみていきましょう。

トイレ外壁
 こちらトイレですが、外壁に「縄文」模様が施されています。こっていますね。中も縄文スタイルのトイレになっており・・いえ、普通の近代的水洗トイレですよ。一笑一笑・・。

公園の広場
 中央の広場です。公園全体が緩やかな丘のようになっており、子供たちのいい遊び場だと思われます。

モース像1
 おお!モース博士像ですね。銅像紹介するの久しぶりだな・・銅像ブログなのに。
モース像2
 よくできてるなと裏の銘板を見ると「立体写真像 盛岡公彦 作」とありました。なるほど・・。
モース像3
 白黒にすると、当時の写真みたいですな。

 こちらの公園は小学生の学習にも適しており、復元貝塚や実際の貝塚も残されております。
復元貝塚
 ここは復元したものですので、実際に降りて発掘の雰囲気を感じることができます。白っぽいのはただの白い石ですので、あくまで雰囲気です。

貝塚実物1
貝塚実物2
 こちらで見学することができます。中には入ってはいけません。

品川・ポートランド友好記念碑
 モース博士はアメリカ・オレゴン州ポートランド出身とのことで、品川区とポートランドの友好記念碑もございます。

 公園の一番奥には・・
大森貝塚碑
 こちらにもありましたね。とても面白い公園でした。お弁当もって家族連れで天気のいい日にお出かけするにはうってつけの公園ですね。学習もできるし。

 さらに北上すると・・
鹿嶋神社
 鹿嶋神社に到着。この間、鹿島神宮いってきたばかりですがね。こちらは「鹿嶋」と書くのですな。こちらもなかなか古いお社で、創建が安和2(969)年、1000年以上も前ですね。同じ年に左大臣・源高明が京から大宰府に左遷されており、これにより藤原氏の専制政治が完成する、とのこと。

鹿嶋の手水舎
 手水舎で手を清め・・
鹿嶋神社拝殿
 拝殿で参拝。松の枝がいい具合にかかっていますね。
鹿嶋の神楽殿
 画像が斜めっているのはご愛嬌。境内かなり広いです。このあたりの鎮守様なのでお祭の時は随分賑わうそうです。

鹿嶋の本殿
 立派な本殿ですね。でもこちらは昭和に入ってから新しくしたもの。旧本殿が境内の右奥にございます。

鹿嶋の旧本殿
 こちらです。画像ではわかりづらいですが、旧本殿をさらに建物が覆っています。その訳は・・近づけばわかります。

鹿嶋の狛犬1
鹿嶋の狛犬2
 こちらの狛犬殿、天明5(1785)年生まれです。その年には、幕府役人・山口鉄五郎が樺太・択捉探検をしております。北方領土を還せ!竹島を還せ!

左大臣・石像
右大臣・石像
 石で出来た左大臣・右大臣は初めてみました。さあ、旧本殿です。
旧本殿彫刻1
 こちらです。ご覧のとおり、全周囲にびっしりと木彫が施されています。あまりの見事さに唖然、呆然・・・社務所に居眠りしていたおじさんがいたので伺うと「さあ?ネットで調べてください。」とのこと。やる気ありますなあ、もっとしっかりした方にお留守番頼みましょうよ。

 木彫の一部を見て頂きましょう。
旧本殿彫刻2
旧本殿彫刻3
 都内在住の方は一見の価値ありですよ。

 今回はここまで。次回はいよいよ品川歴史館です。やっとだね・・。


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品川区大森の歴史1

 先日、品川区の品川歴史館である展覧会を見に行くために大森駅で降りた。目的地までスタスタ歩いていくつもりであったが、そこはかの「大森貝塚」の街。面白いものが(歴史好きにとって)色々あったとさ・・・
大森駅で
 京浜東北線を降りてすぐこれが出迎えてくれます。さすが大森です。北口をでて「池上通り」を北上。池上といってもニュースをわかり易く解説してくれる「あの人」ではないですが・・一笑一笑。

大森貝塚への
 あるオフィスビルの一角にありました。真っ直ぐ行って、階段を降りて行くと・・
大森貝塚石碑
 ありましたね。
大森貝塚立地
 線路のまん前ですな。
大森貝塚案内板
 なるほどね。

 さらに北上すると・・
旧鎌倉街道
 すこし紛らわしいのですが、目の前の池上通りが旧鎌倉街道ではなく、説明板が立つ敷地の一角が街道跡なんですね。まあ、地図だと池上通りに合流していそうですけどね。古代から大勢の人々が往来していたところだったんですね。

 そこからほんのちょっと歩くと村社「大森日枝神社」がございます。
大森日枝神社
 ここがなかなか見所いっぱいでした。

 略記によると・・
 「祭神:大山昨命(おおやまくいのみこと)・大己貴命(おおなむちのみこと)
 鎮座の由来は定かならずなれど、土地の豪族・酒井氏が近江の日吉神社の祭神・山王権現を祭ったものである。土地の人は昔から『山王権現』または単に『山王様』と呼んでいた。
 延宝5(1677)年、円能寺が別当することになり、明治初年まで同寺の管理下にあり、神仏混淆禁止令により「日枝神社」と名を改めた。
 境内のご神木は樹齢400年以上を数え、神楽殿も同じくらい古い。拝殿などは大正12年に新築されたが、先の戦争(太平洋戦争)により社殿が焼失したが、氏子一堂の尽力・協力により昭和35年に再建なったのである。」社務所にいた地元の方から頂いた略記などを総合して簡単に記しました。

大森日枝神社拝殿
 こちらが昭和に再建された拝殿ですね。彫刻がよかった。
大森日枝神社彫刻1
大森日枝神社彫刻2
 鯉が滝を登り・・
DSCF2390_1.jpg
 竜になる。登竜門のストーリーですな。

道祖神など
 奥の本殿脇にはこのあたりの街道筋にあった道祖神などがまとめて祀られていますね。狸?なして?

神楽伝1
 この神楽殿は古いらしいです。いつ頃かは不明だけど、江戸時代とのこと。
神楽伝2
神楽伝3
 竜も獅子も雰囲気ありますねぇ・・。
ご神木1
 このご神木が樹齢400年以上のシイの木です。近くに寄ると
ご神木2
 神々しい・・というと大げさかもしれませんが、雰囲気ありますね。背景が残念・・一笑一笑。

 今回はここまで。次回は面白い公園と別の神社を紹介しよう。なかなか歴史館に到達せんな。


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体育の日の流鏑馬神事

 先日の10月10日「体育の日」に新宿区西早稲田で行われた穴八幡宮での流鏑馬神事をお送りしよう。といっても、去年も同じ記事をあげているので、重ならないように、簡潔にお送りしよう。
穴八幡楼門
 数年前にきれいに塗りなおされた楼門。
流鏑馬射手銅像
 こんな銅像もございます。
勢ぞろい
 会場は近くの戸山公園・・その前に安全祈願です。

 おウマ殿をご覧いただきましょう。
ウマ1
 ホルスタインみたいな模様ですね。

ウマ2
 栗毛のウマですね。日本流の馬術の馬具ですね。確か・・小笠原流だったかな。

ウマ3
 クリッとした黒目が可愛いですね。

 続いて命中シーンを。
命中1
命中2
命中3
 流鏑馬の記事は去年のほうが詳しいのでそちらを見てください。同じ記事だと細かく書くのもね・・。

 では、また次回!

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へうげもの~茶人・古田織部~

 今回は肩から力を抜いて、最近はまっているマンガを紹介したい。
へうげもの
 今更だけどね・・・講談社「モーニング」に連載されている「へうげもの」。これは織田信長・豊臣秀吉・徳川家康に仕えた茶人武将「古田織部」の生涯を追う漫画である。武か数寄か・・それが問題だ。

 この漫画、史実を上手くいかしながら織部があちこちで活躍しているのだが、その活躍ぶりが・・こずるいというか世渡り上手というか・・悪党というか・・とにかく面白い!
 さらに茶器などを独特な擬音で表現していて生まれて見る表現にビックリ!擬音のことを専門的に「オノマトぺ」というらしいが、とにかく斬新過ぎてマンガの作者の山田芳裕自身が「へうげもの」である。
 え?へうげものって?読めばわかるって・・。

 安土桃山を彩ったスター達を紹介しよう。
ノブナガ
 上半身逞しい方が織田信長こと「元右大臣」です。ちなみに安土天守閣上での織部との会話シーン。

オリベ
 このひげ男が古田織部、織田信長の馬ぞろえに駆けつけるシーンです。

ヒデヨシ
 目を剥いていらっしゃるのが羽柴秀吉、後の太閤さんですね。このマンガではね、いきなりどえらいことしちゃいます。その設定にシビレマシタ。

ミツヒデ
 台詞からおわかりでしょうが明智光秀です。側近の明智秀満や斉藤利三らに信長打倒を打ち明けるシーンです。

リキュー
 仏像さんみたいな方が茶聖・千利休です。今でいえば、岡本太郎と道場六三郎と丹下建三と色々足した総合プロデューサー的な方ですかね。
 このマンガの中では黒幕もやってます。才人でんな。

タイコーイッカ
 こちら太閤一家、左から淀殿(茶々、浅井3姉妹長女)、太閤・秀吉、秀頼。こうしてみるとやっぱり似てない親子だね。実際の秀頼も身長190センチを超え、メタボ体型だったみたいだしね。永遠の謎だけど、秀吉の種とは思えないねぇ。ま、いいか。

ミツナリ
 ツルピカ鼻なしが石田三成です。有能な官僚だけでなく、けっこう豪胆な武将です。それがし、好きですね。家康も好きだけど。

マサムネ
 歌舞伎役者・・ならぬ眼帯男が独眼龍・伊達政宗です。なかなかしたたかなお人です。

 気になる方は読んでください。ちゃんと買いましょうね。

 おかげで最近千利休・古田織部・小堀遠州からみの本を読み漁っています。茶器や大名庭園への見方も変わって行くと思います。あな面白し・・。


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太田道灌公の短編小説・初陣編

 今回は太田道灌公の初陣を書いてみた。史実での道灌公の初陣に関しては確かな記録が残っておらず、一説には「享徳4(1455)年5月に藤沢で鎌倉公方・足利成氏方と戦う」という記録が残っている。
 だがそれでは道灌公は24歳(数え年)であり、初陣にしては遅すぎると思うので、この時の初陣は「指揮官としての」初陣であり、武者初めとしての初陣はまた別だったのではないかと考えると・・遡ること5年前、宝徳5(1450)年4月に江の島で起きた合戦があり、それが「武者としての」初陣ではないかと考え、以下の短編小説を書いてみた。
 江の島というと、今ではサザンオールスターズやチューブが歌い、夏ともなれば海水浴にサーフィンと大勢の観光客が押し寄せる湘南きっての観光地な訳だが、彼の地でも戦争はあったのですよ。

 では、どうぞ!

「白き旗のもとで~太田資長(道灌)初陣の記~」
                             著:サムライ銅像研究会

 これは後の世に「関東の名将」とその智謀を謳われた太田道灌公の初陣の折りの話でございます。しかしその話をさせて頂く為には当時の関東地方のお話をしなければなりません。少々お付き合いくださいませ。

 道灌公の時代より遡ること半世紀前・・その当時、関東には鎌倉に統治の府を置いた鎌倉公方という御役職がございまして、足利将軍家の初代尊氏公の弟の御血筋を引かれる方が代々公方様を勤めてまいられました。さらに公方様を補佐する家柄が上杉家であり、上杉家は越後・上野・武蔵・相模と多くの国々に所領を持っておられ、上杉家自体も山内上杉家・扇谷上杉家・さらに越後の上杉家が力を持ったお家であり、関東では山内上杉憲実様が数多ある上杉家の頂点にたっておられました。
 その第四代鎌倉公方・持氏公はたいへん野心的なお方でありまして、時の将軍・足利義教公(世に「くじ引き公方」と申されておりました)になりかわり、自身が征夷大将軍につかれることを望まれておりましたが、持氏公の下で関東の実務を取り仕切っておられる関東管領・上杉憲実様がその野心の前に立ちはだかられたのです。
 憲実様は持氏公に身に過ぎた野望をお捨てなさいますよう、色々諫言なさいましたが、ことごとく持氏公ははねのけられ、あまつさえ憲実様を亡き者にしようと企む始末・・憲実様も身の危険を感じ、御領国のある上野(こうずけ:群馬県)や伊豆に赴き、自らの居所を持氏公に悟られまいと苦心されておりました。
鶴岡八幡宮
  (鶴岡八幡宮)
 ある時、持氏公は武士の信仰を集める鎌倉の鶴岡八幡宮に願文を捧げます。文面は、憎むべき敵を追討し、自家の繁栄を長く祈るものでしたが、当時の方々の誰が読んでも「憎むべき敵」は将軍・義教公に他ならないものでしたので、いつしか世の人々の噂にたつようになり、ついに幕府も捨て置けなくなり、憲実様に「持氏公の謀反のお気持ちは本当か?」という質問書をくだされました。憲実様は持氏公への忠誠心と幕府から任命された関東管領としての職責の間に板ばさみになられ、大変なお苦しみを味わうことになりました。
さらに悪いことに隣国の駿河守護大名の今川家より「鎌倉公方・足利持氏の京・将軍家への叛意明白!」と告げ口されてしまい、ついに都から追討軍が出される
ことになったのです。幕府は越後(新潟県)・上杉家や駿河(静岡県)・今川家にも関東管領・上杉憲実に味方して鎌倉公方・足利持氏討つべし!との命令を下されたのです。これを「永享の乱」と申します。
 その報せに激怒した持氏公は一度は軍勢を出されますが、将軍家の命令に恐れをなしたお味方の相次ぐ裏切りにより抗戦を諦めた持氏公は鎌倉のお寺に入られ、幕府の沙汰を待ちます。
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  (箱根湯本の早雲寺:お寺のイメージとしてご覧下さい)
その間も憲実様は幕府に持氏公の助命嘆願を願い出られますが、「早く腹を切らせろ」とせかされる始末。ついに万策尽きた憲実様は泣く泣く持氏公に切腹されるよう使いを出し、永享11(1439)年2月10日、永安寺にてお腹を召されました。遅れること28日、ご嫡男・義久様も切腹されました。

 関東はこれにより平和になったかのように思えました。でもそれは偽りの平和であり、都の将軍・義教公の恐怖政治は猛威を振るうばかり、関東でも持氏公の遺児であらせられる安王丸・春王丸様が結城氏朝に擁立されて常陸(茨城県)で父上の敵を討つべく挙兵されました。ご兄弟は各所で兵を募って結城(ゆうき)城にはいられましたが、時期が早すぎました。扇谷上杉持朝様が上野国の軍勢を集められ、さらに幕府の応援もうけ、数万の軍勢を集めた上で結城城を囲まれたのです。これを「結城合戦」と申します。
DSCF0524_1.jpg
  (横浜市茅ヶ崎城址:中世城郭のイメージとしてご覧下さい)
 主君を死なせてしまった悲しみをいやすべく伊豆で仏道修行にあけくれていた憲実様にも幕府より出陣の命令が届き、やむなく鎌倉に入られました。また憲実様の元で家宰を務める長尾景仲様が扇谷上杉持朝様と共に結城城を1年間に渡って締め上げ、ある時、総攻撃を行い、ついに城を落とされたのです。一年間の攻城戦を強いられた幕府軍は荒れ狂い、城方の兵士であろうと女子供であろうと誰一人逃すことなく悉く殺しつくしたのです。足利安王丸・春王丸ご兄弟はつかまり、京に送られる途中で美濃・垂井の金蓮寺であわれ首を切られてしまいました。その時お二人は13歳と11歳の齢であったと伝えられます。
 
 これでついに関東に平和が訪れたかと思われたのもつかの間・・因果は巡ると申しましょうか、将軍・義教公が播磨の守護大名・赤松家の屋敷で討たれるという「嘉吉の変」がおきたのでございます。幸い幕府の御重役方の協力により、赤松家は討たれ、大きな混乱もなく、次の将軍には足利義政公がお着きになられました。
 ですがその義政公の御世に天下の大乱「応仁の乱」が起きたのはいかなることでございましょうか?

 さて関東では持氏公の遺児・万寿王丸さまが信濃(長野県)佐久平の豪族・大井持光により養育されていましたが、新たな鎌倉公方が必要ということになり、上杉憲実様や鎌倉公方のご家来衆の運動により将軍・義政公が万寿王丸さまの公方就任をお認めになられたのです。
 そして文安4(1447)年3月、万寿王丸さまは新たな鎌倉公方に就任され、鎌倉に向けて旅立たれました。そして8月27日ついに鎌倉帰還がなったのであります。思えば鎌倉を離れ、お父上を亡くされたのはわずか5歳、鎌倉に帰られたのが13歳、なんと8年間にわたり、諸国をさ迷われておられたのです。おいたわしいことであります。
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  (文京区六義園:武士の館をイメージしてみてください))
 ここでおわれば万々歳なのですが、ご隠居された憲実様にかわられて関東管領に就任されたご嫡子の上杉憲忠様は家宰の長尾景色仲様や扇谷上杉持朝様、太田資清(道灌公のお父上)様などは元々都より関東に移り住まわれた方々のご子孫であり、関東に元々お住まいになられている武士団とは様々な利害対立があり、鎌倉公方とはその両者の間でヤジロベエのように互いの利益を調整されるのがお仕事でありますが、元より血の気の多いお武家様のこと、度々合戦騒動になり、また万寿王丸さまもお父上やご兄弟を合戦で亡くされておられるせいか関東在住の武士団に肩入れし、管領・憲忠様とはつい対立しがちになってしまわれます。
 帰還から二年後の宝徳元(1449)年、万寿王丸さまは将軍・義政公(その当時は義成と名乗っておいででした)より一字を頂き、「足利成氏」公と名乗られました。それと共にかつて持氏公に仕えられていた方々や結城合戦でお味方についていた方々のご一族衆が成氏公のもとに集われ、ますます管領様との対立の機運が高まって参りました。

 その頃、資長様と名乗られていた後の道灌様はご主君の扇谷上杉持朝様のもとに出仕されておられました。元服されて後、紅扇との悲恋をも乗り越え、今や逞しき若武者となられ、将来の太田家のみならず上杉家の将来を担う逸材と周囲から期待されておりました。
 資長様がいつもの通り、持朝様のもとで日常の雑事を片付けていると山内上杉家の家宰・長尾景仲様、お父上の太田資清様が訪ねて参られました。このお二人は当時「関東無双の案者(知恵者)」といわれ、その智謀を広く天下に謳われておりました。そのお二人が何やら只ならぬ様子で持朝様のもとを訪れ、人払いまでして相談事に及んでいるのです。資長様でもなくても、何事か起きていると感じるでしょう。

 その晩のことです。お屋敷に戻られた資長様を、着替える間も与えずに奥のお父上の居室に呼ばれました。資長様はいつもとは違った緊張を感じつつ、障子戸を叩きました。
 「おお!資長か。入るがよい。」資清様の声が何やらはずんでいます。資長様いぶかりつつ室内に入りました。
 「父上におかれましてはつつがなく・・まあ、肩肘張った挨拶はやめておきましょう。本日、持朝様を訪ねられておられましたが、それにまつわる用件ですか?」
 「ふっ、察しがいいな。ならば薄々感じていよう。我ら上杉家を支える者にとって、現在の公方様は・・いささか元気すぎる。お父上・持氏公や兄上様の分も公方として権威を振るいたいのはわかるが、邪魔だ。近々、公方様を・・いやそのお側で下らぬことを申す奸臣どもを討つ!」資清様の顔色も興奮からか赤くなっておられます。
 「ということは・・それがしもいよいよ初陣ですか?」いつも冷静な資長様もさすがに声を上擦らせます。武者として生まれて、初めて戦陣に立つのは誰しもが憧
れることなのであります。
 「そうだ。お前も早や19歳(数え年)、初陣としてはすこし遅いが筋骨もすっかり大人になっているからな。戦場に立つのに不足は何もない!」資清様も嬉しそうなご様子。
 「ついてはお前の甲冑についてはわしから甲冑師に注文しておいた。お前の部屋に鎧櫃(よろいびつ)ごと運ばせておる。あとでみてみるがよかろう。」
 「ありがとうござりまする。元服時に作っていただいた甲冑ではいささか小さいものになっておったのです。」素直に頭をさげる資長様です。その様を満足そうに見守る資清様であります。やはり人の親ということなのでございましょう。

 その会話から一月ほど過ぎた頃・・公方・成氏様が突如、鎌倉の御所から江の島に移られたという報せが入りました。
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  (江の島遠景:カメラを持って海水浴場行く時は注意しましょう)
 折も折り、翌日早朝はいよいよ長尾景仲様、太田資清様共々軍兵を率いられて御所を包囲する手はずであり、太田家の屋敷では多くの武者や足軽どもが集まり、翌日の準備をしているところでありました。その報せにすぐ使者が鎌倉の街中を巡り、街中の人々も「すわ何事か?」と戦々恐々で様子を伺っています。気が早い者は、早くも家財道具を大八車に積み込み、鎌倉を出て行こうとしています。
 そんな騒ぎは鎌倉府内に移り住んでいた紅扇の家族でも騒動を起こしていました。
 「やったぞ!ついに公方様が上杉家退治に乗り出されるのじゃ!これぞ我らが待っていた家名再興の時ぞ!「上杉禅秀の乱」で失われた領地を取り戻すのは今この時をおいて他にない!」と古ぼけた甲冑を身に着け、錆の浮いた薙刀を脇にかいこんだ紅扇の父親がいつになくはしゃいでいます。その側で兄もうんうんと頷いています。
 「でも父上、うちには家の子・郎党などはおりませぬ。お父上と兄上だけではございませぬか。2人だけでおんぼろ鎧をきていっても落ち武者と間違われませぬか?」身内にも容赦ない紅扇は今やすっかり美しい娘に成長しておりました。平和が続けば、富裕な商人に嫁いで実家に仕送りをすることもできましたでしょうに時代がそれを許さないかのような有様です。
 「紅扇・・お前の口は達者じゃのう、それでは嫁の貰い手がないぞ。よいか!公方様はお味方が少ない故に江の島に立て篭もられたのじゃ。おっつけ小山や宇都宮など名だたる大名衆が駆けつけてくるだろうが、このような時に真っ先に駆けつければ公方様の覚えもめでたくなろう。聞けば、若いながらも英邁なお方のよう
だぞ、成氏公は。関東を牛耳る上杉に喧嘩を吹っかけるその気概もたのもしいものではないか!」
 「父上、戦と喧嘩は違いまする!負ければ死ぬのですぞ!お二人に死なれては私は・・」紅扇の声も詰まります。
 「だが我が家は武者であるぞ。たとえ領地がなく、貧乏暮らしでも鎌倉殿(源頼朝)以来の御家人の家ぞ!合戦こそが家名をたてる道!これ以上いうでない。」
とさとす父の手が泣き伏せる紅扇の肩にそっとおかれます。
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  (鎌倉・源氏山上の源頼朝像)
 「・・わかりました。私も武者の家に生まれた娘、もはや何ももうしますまい。でも、父上も兄上も生きて帰ってきてください。」小さくとも生き死にがかかった別れがあるのでございます。

 翌、早暁・・鶴岡八幡宮前に扇谷上杉家・長尾家・太田家の軍勢500騎、足軽3000が勢ぞろいしました。緋縅(ひおどし)の美々しい甲冑で身を飾った江の島攻めの総大将・扇谷上杉持朝様の軍扇が翻ります。
 「全軍、出発ー!」その声に総勢3500の兵(つわもの)共が動き出します。鎌倉府内からはあらかた人々が逃げ出しており、軍勢を邪魔するものは痩せ犬くらいのものです。
 その中に見事初陣を飾る太田資長様もおられました。紺糸縅(こんいとおどし)の甲冑に三つ鍬方を立てた兜を被り、匂うが如き見事な若武者ぶりです。白雪のような白馬に乗って、太田家の軍勢の真ん中にいます。側には大将の資清様もおられます。
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  (さいたま市岩槻区の太田道灌公像)
 「よいか、資長。今回はわしのそばにあって、大将とはいかに軍勢を進退させるものなのかをよくみておくのじゃ。お前は学問は出来る。武芸も身に着けておるが実際の軍陣は違うということを身をもって知らねばならん。手柄を立てるのは今回は無理かも知れぬぞ。わかったな?」
 「はっ!首をとるのは次回の楽しみにとっておきましょう。」資長様、ぬけぬけと言い放ちます。
 「こやつ・・いいおるわ。せいぜい青くならないように覚悟しておけ!はっはっはっ!」二人の後ろでは資長様を幼い頃から世話していた爺やが咽び泣いています。
 「ううっ・・若の晴れ姿を見ることが出来て・・爺はもう討ち死にしようとも本望ですぞ。」
 「爺っ!俺の初陣に縁起でもない事言うな。悪いことをいっては現実になるというぞ。」などと話が交わされている時・・。

 鎌倉府内をとりまく山々の中を様々な人々が避難していきます。墨衣を着た僧侶、富裕そうな商人、泣き叫ぶ子供の手を引く母親、大八車の荷物の上にちょこんと座った老婆・・・戦で迷惑を受けるのは常に下々の民衆なのです。その中に、旅支度の紅扇もおりました。笠を被り、杖をついているものの並みの男よりよっぽど達者な足並みです。
 やがて鎌倉の街中を一望の下に見渡せる尾根にでました。ふとふりかえると、はるか眼下に蟻のような軍勢が江の島に向かっていくのが見えます。
 (源六さま・・)今では雲の上の人となった資長様を思い出す紅扇です。視界に白旗が目に入りました。太田家は源氏の出自ということから白旗を用い、そこに印された家紋は遠すぎてわかりずらいですが、太田家の定紋の桔梗のはずです。ふいに紅扇の口から歌が一首紡がれました。

   「吹く風に なびく白旗 遠く見ゆ つき従うは 我が思ひのみ」
 
 周りをのろのろ歩いていた避難民も美しい娘の口から出た歌に感慨深げであります。その歌が風に乗ったのでしょうか?

 馬上の資長様も聞こえていないはずなのに何かを感じ、甲冑のおかげで身動きもままならない中、背後の山を必死に振り返ります。そして資長様の口からも・・。

   「紅(くれない)に 染まりし紅葉 吹き散らし せめて届けよ 扇執る手に」

 軍馬のいななきが響く中、資長様の声は思いのほか軍勢の中を通りました。荒ぶる足軽共も資長様の思いは分からないまでも勝手な解釈をして、
 「若大将!奥方が恋しいのかい!」
 「さっすが太田家の跡取り!こんな時でも歌をお詠みになるなんて雅だねぇ!」とてんでにはやします。意外な反響に資長様も思わず戸惑って父・資清様に視線を送ります。資清様は何も言わず、ただ深く思いを秘めたようなまなざしを資長様に向けていましたが、小さく頷いてから視線を外しました。そして手にした采配を天高く振り上げ、さっとふりおろしました。
 「聞けい、者共!我らはこれより公方様の側に巣くう奸臣どもを捕らえにゆくのだ!日頃なんじらに武具を与え、飯を食らわせておるのはまさに今日この時のためぞ!命を惜しむな、名こそ惜しめ!手柄はお前達の足にあるぞ!」と配下の軍勢に発破をかけると、軍兵どもは手にした弓・薙刀・槍などをさしあげ、「えい!えい!おう!」と一斉に声をあげました。
 それは全てを察した上で、初陣の資長様にこれから立ち向かう戦陣の厳しさをあらためて教え諭す父・資清様の無骨な優しさでもありました。

 後の世に「江の島合戦」「宝徳の乱」とも呼ばれたこの合戦は腰越や由比ガ浜で激しく戦われました。
ホキ美術館の全容
  (腰越のこゆるぎ神社:腰越あたりは住宅街でこれ以上の画像が・・。)
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  (由比ガ浜:海水浴場です・・。)
最初は上杉勢が優勢であったものの、北関東の大名衆が手勢を引き連れて公方様に御味方することで形勢は逆転し、上杉・長尾・太田勢らは敗れて糟屋庄(神奈川県伊勢原市)へとかろうじて逃げ延びる始末。資長様の初陣も敗戦を味わうというほろ苦いものとなりましたが、この負けこそが資長様にさらなる内省と兵法(へいほう)への探究心を呼び起こし、後にあっぱれ名将といわれるまでの奥深い智謀を身に着けるきっかけともなったのでございます。
 そして紅扇の父と兄は公方様の御味方となり、奮戦して大活躍しましたけれども押し寄せる長尾の兵共の前についに二人ともお倒れになられたのでございます。その報せに伊豆の縁者のもとにいた紅扇は泣き崩れてしまったとのこと・・いつの世も男は死に、女は泣く・・まことあわれなことでございます。

 いかがでしたか?感想などコメントで寄せていただけると嬉しいです。あ!文句とかなしね。批判するにせよ、前向きなものだけお願いね。残念なコメント削除とかしたくないから。大人の対応でお願いしまーす。

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太田道灌の短編小説「山吹の花」

 今回は以前書いた太田道灌公の小説の再録である。というのも北海道在住のアーティストmichiko殿に描いていただいていたイラストが完成したので、他の画像と共にあわせてお送りしよう。

 ちなみにmichiko殿のブログタイトルとアドレスを載せておこう。
  ブログタイトル:ゆかりしかりど~育児と絵と節約と国語~
  ブログアドレス:http://michikomichi.blog104.fc2.com/


 「山吹の花~道灌公の初恋~」
                                   著:サムライ銅像研究会
 これは後の世に江戸城を築かれた名将・太田道灌公の若き日のお話でございます。その頃は源六郎(げんろくろう)資長(すけなが)と名乗っておりまして、元服してまだ間もない頃でございました。これよりは資長様とお話の中で呼ばせていただきます。
 
 資長様は幼き頃より容姿端麗、才能も衆に優れたお子におわしまして、幼くして鎌倉・建長寺に学ぶこと三年・・その間はご実家に帰られることは一度も無く他の学僧らに混じって修行と勉学にことのほか励まれたとのこと。ある日資長様はお父上の資清様(後に剃髪されて道真(どうしん)様と名乗られます)に文を出されました。内容は今となっては残っておりませんが、一読された資清様は頷かれた後、使いをやって資長様を迎えられたとのこと。修行はもうよいから「武者の道」の修行のため、ご主君・扇谷上杉様の下に出仕させようとのお考えだったのでございます。

 初出仕を終え、源六郎資長となりましたお姿は誠に麗しく、また言語明朗かつ理路整然と話されるさまは実に末頼もしく、扇谷上杉様の主家にあたられる山内上杉様より是非我が家の家宰(かさい:主人にかわってその家の外向き・奥向きの仕事を担当する役職)に迎えたいとの有り難き仰せを受けたほどでしたが、資清様は
   「まだ若く、礼儀にも疎く、無作法でもあれば主人・扇谷上杉持朝に迷惑をかけることになりますので有り難き仰せなれど平にご容赦・・」と申し出を断ったほどの逸物ぶりであったとのこと。

 またその頃の資長様は武芸鍛錬にも人一倍精魂傾けておられまして、ことに愛馬に乗って野駆けや狩りには特にご執心であらせられたご様子で、太田家の領内や主家よりお預かりした相模・武蔵・上野の原野を思う様に駆け回られていたとのこと。そのことが後に「智謀鬼神の如し」とまでいわれた軍略の基礎となる地勢の学習でもあったのでございますが、それはまた別のお話・・。

 ある時、狩猟を終えられ、ご帰宅の途中急な雨が降ってまいりました。あやい笠を被っておられましたので頭は濡れないものの、そのままでは主人より拝領したお召し物を濡らしてしまいます。それではあまりに申し訳ないということで、前方に見えてきた農家の庭先に駆け込みました。お供のお侍衆は遅れておりましたので資長様は御自ら粗末なたてつけの扉を叩きました。
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 (鎌倉の某寺)

 「これ、ご免候え(そうらえ)!誰かおらぬか!誠にあいすまないことではあるが、雨具を貸してくれぬか!」とやさしげな声で訪ねられました。これが他の坂東武者であれば、いきなり扉をあけてずかずかと踏み込んできて所望の品を奪っていく荒々しさでありますが、そこは若き頃より領民思いの資長様であらせられます。優しい声音でお百姓衆を恐がれせまいと心得られているのでございます。
 その声に扉をガタガタと開けて出てきたのは一人の娘、顔は泥に塗れて粗末な麻の着物を着ているものの、その容貌は資長様をはっとさせました。娘は身分のありそうなお武家様と知って、その場に平伏してしまいます。これには資長様も動転してしまいました。
 「こ・・これ、娘御、恐がることはないぞ。わしは雨具が欲しいだけのこと。鳥目(ちょうもく:金銭)がほしいならば届けさせるによってな。その・・なんだ・・これでは話が出来ぬ。顔をみせてくれぬか?」資長様の優しい語り掛けに心ほだされたのか娘はおずおずと顔をあげました。でもその目の奥にはまだ警戒の光が見えています。
 「わしはおお・・いや、田太源六(太田を名乗ると素性がすぐにばれるからそれを避けた)という。見ての通り狩りの帰りじゃ。雨に濡れるのは構わないのだがこのままではご拝領の着物を濡らしてしまうのでな・・蓑笠でも貸してはくれぬか?」といいつつも見ず知らずの娘に言い訳がましく言葉を重ねる資長様は内心あきれ果てておりました。
 (この俺が娘一人にどうしたことだ。いつもは上杉の重臣であろうと理にそぐわぬことであればたちまち喝破しておるものを。ただの頼みごとにうろたえるとは師匠の瞬徳和尚(道灌公の師匠、後に芝・青松寺を開く)に笑われてしまうわ・・)
 資長様の内心の戸惑いを別に娘はうりざね形の顔のくりっとした瞳に理解の光を点して、家の奥に引っ込みます。
 (やれやれ、やっと分かってくれたか。これで濡らさずに帰られるようだ・・。)と安心した資長様でしたが・・。
 しばらくして出てきた娘の手には白い扇が握られており、その上には黄色い可憐な花を咲かせる山吹の花を咲かせる枝が載っていました。
道灌イラスト_1
 (michiko殿のイラストです)

 これには幼き頃より和漢の学問を学んできた資長様も唖然としてしまいました。雨具を求めて花を差し出すとはどんな意味があるのか?身に着けた色々な学問からその意味を探り出そうとしましたが、皆目見当がつきません。しばらく突っ立ったままの資長様でしたが、突然振り返って立ち去ってしまい、愛馬に飛び乗るや激しく鞭をいれて荒々しく走り去ってしまいました。出された問題がわからないという初めての屈辱に暴れだしたくなった資長様でしたが、それはかろうじておさえました。でも居たたまれなくなり、駆け去らずにはおられなかったのです。屈辱に打ち震えるあまり、目じりから熱いしたたりがほとばしるのにも気づかない有様でした。
 しばらくして落ち着いた資長様は顔を自ら張り飛ばすと、家臣らの呼ばわる声の方向に向かって駆け出し、一緒に帰途につきました。

 帰館してもいつも通り明るく振舞う資長様でしたが、幼い頃より身近に接している老臣には誤魔化しきれませんでした。
 「若、本日はいつもと何か違う趣きであらせられますが、いかがされました。何かこの爺にでも話されてみれば案外つまらぬことであったかと思し召されるかもしれませんぞ?」とのさりげない申し出に資長様は周囲に二人しかいないことを確認して今日あったことを話しました。
 「なるほど・・若はあまり大和歌(やまとうた:和歌のこと)はお学びになっておられませんな。」と問う爺や。
 「そうだな・・和漢の歴史や兵略、治世の在り様などは誰にも負けぬと自負しているが、親父殿得意の歌はな・・苦手じゃ。」と素直に認める資長様。
 「若、古歌にこのようなものがございます。
    「七重八重 花は咲けども 山吹の 実のひとつだに 無きぞ悲しき」」と朗々とした声で歌いました。
 「うむ・・初めて聞くが・・ひょっとして「実の」と「蓑」にかけて「蓑すらもない詫び暮らし(貧乏暮らし)を恥じている」という意味か?」
 「さすが若じゃ。一聞くだけで十を知るとは・・古の聖徳太子の如しじゃ。」と褒める爺や。
 「世辞はよせ。そんなもの腹の足しになるではなし。」一応苦味ばしる資長様ですが、内心は「どうだ!」とばかりの気持ちです。
 「世辞ではございませんぞ。最近の若は狩りばかりでお部屋に居られる時がほとんどございませぬ。今もこんな子供でもわかる歌でどこやらの娘に愚弄されて逃げ帰ってくるとは・・これからはお歌の勉強もしていただかねばなりませぬぞ!今日はよい折じゃ、とくと説教させていただきますぞ!」資長様、とんだ藪蛇だったようです。

 それからしばらく、大和歌の学習にも時間を割かねばなりませんでしたが、もともと筋のいい資長様のこと、あっという間にコツを飲み込み、糟谷の上杉館に滞在している都の公家様に教えを乞う事になりました。とはいえ足弱の公家様のこと、資長様の屋敷まで来られるのに数日かかります。それまでまた野駆けに狩りにと外出される時間が増えてまいりました。そこで気になるのはあの娘のこと・・どうも胸の辺りがもやもやしてしようがないのです。
 (あの折の非礼を詫びねば気が済まぬな・・。)と一人合点をして、単騎駆け出した資長様、この間の所まで来ました。すると折りよく傍らの大根畑でうんうん踏ん張って大根を引き抜こうとしているいつぞやの娘に気がつきました。
 「おお、娘御よ。この間は済まなかったの、どれ手伝ってやろう。」と資長様は足元の大根に手をかけたところ・・。
 「まだ抜くでねぇ!それはまだ若いだでまだ土の中さ埋めとけ!」と娘にどやされてしまいました。はっと気がついた娘はすぐに土下座をしました。
 「すまねえこってす。太田の若殿と知らずにこの間も今日も・・どうかおらの命で勘弁してくれろ・・。」と蚊のなくような声で謝る始末。
 「いやいや悪いのはわしであった。どうか頭をあげてくれ。今日はわしが詫びに来たのだから・・」と資長様がいうと娘は頭をあげて訝しげな視線を送りました。
 「詫び?なんで?」
 「いや・・まあ・・とにかく立ち上がってくれ。喉がかわいたでな、茶・・いや水でも振舞ってくれぬか。水筒を忘れて難儀しておったのだ。」
 「あんれまあ、この若殿様はよく忘れ物なさること・・」と立ち上がった娘は腰にぶら下げた竹筒を資長様に渡します。受け取った資長様は栓をあけると、一口二口と旨そうに飲みました。
 「いやあ、助かった。甘露の如き味であったぞ。」
 「それはお武家様が喉が渇いていらしたから。」とこの娘、普通なら気後れして口も利けなくなるはずですが、よくもまあペラペラと喋ります。資長様が聞くと娘の名は紅扇といい、昔は武家であったものの曽祖父の代に戦に負けて土地をなくして百姓暮らしをしているものの、父親は今でも先祖伝来の甲冑・刀を大事にしてやせ馬を飼っているためただでさえ苦しいのに余計苦しいとのこと。家では先祖伝来の歌の本で幼い時から学ばされていたとのこと。
 なんとなく気のあった二人は和歌のことや日頃思っていることをぼつりぼつりと話しはじめ、いつしか幼馴染であったかのように口をきいていました。

 「あんれまあ、すっかり話し込んじまって若殿さまをすっかり引き止めてしまっただこれではお館のお侍に怒られるよう。」と眉をひそめる様子も可愛いと感じてしまう資長様であります。
 「いや、今日はわし一人で来たのだ。館のものは誰も知らぬ。わしのほうこそ忙しいところをすっかり邪魔をしてしまったな。武者奉公もこれで気詰まりなところがあってな・・これからもたまに話に来てよいか?」何か頼み込むかのように資長様も娘の顔を見つめられました。これには娘も参ったようで首の辺りを赤く染めてうつむいてしまいました。
 「それは・・若殿様が来たい時に来られたらうちらには否やはねえだ・・ううん!いやだって云うんじゃねえぞ!若殿様みたいな優しげなお武家さまはうら初めてみるものだから・・。」と娘は急に振り向いて走り去ってしまいました。資長様は思わず追いかけようと思いましたが、ふっと笑って繋げている愛馬のところに戻りました。
 (また会いにくればいい・・)と軽く考えておられましたが、資長様はこの時生涯初めての恋に落ちておられたのです。

 それからは糟谷の館に出仕される合間やご学問の間など折をみて娘の所に通われて色々と物語されておりました。二人はそれをごく何気なく行っておりましたが、周囲はそうはいきません。いつしか資長様が懸想されておられる娘がおられるといううわさが立つようになっておりました。

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 (鎌倉の某寺)
 ある時、お父上の資清さまとお話しされておられる時です。さりげなく側近らを遠ざけられ、親子水入らずとなりました。資清様が資長様の盃にお酒をお注ぎになりました。
 「源六よ、近頃は糟谷館に滞在中の九条様(京の公家)に歌を熱心に習っておるとか・・感心なことじゃが急にどうした?」
 「は、ご主君に仕えるには風流の道にも通じておらねば、とんだ粗相をすると爺に説教されまして。」畏まる資長様です。
 「ははは!鼻っ柱の強いお前にしてはめずらしいな。我ら太田の家は扇谷上杉家のみならず関東全体のことにたずさわるのだからな。当然、京の朝廷や将軍家ともやり取りをせねばならぬ。その時に慌てふためいても手遅れじゃからな。しっかりと励め。」といって盃を乾す資清様であります。空の盃に酒を注ぐ資長様・・お忙しいお二人にはめずらしく穏やかな時が流れております。
 「時に源六よ。なにやら領内に熱心に通うところがあるそうじゃが、おぬしはあくまでも太田家の嫡男。わしのいわんとしておることはわかるな?」と遠まわしにおっしゃる資清様です。
 (やはり来たか・・)資長様もこのような会話を想定しておりました。自らの立場も・・。
 「父上、いかな雑説(うわさ)をお聞きになられたかわかりませぬが、この資長はあくまでもご主君上杉家に一身を捧げる覚悟をいたしております。それがしが道を誤る心配はありませぬ。また、来年には長尾家(山内上杉家の家宰を務める家)より嫁御料を迎える身・・重ねての心配はご無用でござります。」といって資長様は頭をさげられました。こうまで言われてしまうと資清様も何もいえません。
 「やれやれ、お前にはいつも上手く逃げられてしまうような気がしてならんが、そこまでいうのならば何も言うまい。ま、お前も一人の男子(おのこ)・・周りに迷惑をかけねば少しは羽を伸ばすべきなのだ。お前は学問や武芸鍛錬に執着しすぎるのが玉に瑕だからの。」
 「は!」あくまで堅苦しい資長様です。

 そんな会話から数日後・・資長様は再び単身馬上の人となり、娘のいる村のあたりまで来ていました。懐には娘に与えるための美しい反物が入れられています。
あぜ道の向うから紅扇が資長様に気づいて手を振って出迎えます。資長様は近づいてきた娘を馬上に引き上げて、二人がいつも逢瀬を楽しむ村はずれのお堂に向かいます。
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 (伊勢原市の高部屋神社)
 「若殿さま、今日はなんだか雰囲気が違うね。」と鞍の前壷に載せられた紅扇が振り向きながらいいます。紅扇の吐く息が資長様の首元にあたり、えもいわれぬ背筋がそそけだつ感じを覚える資長様です。
 「そうか?宮仕えは面倒なことが多いからな。」はぐらかす資長様。
 「ふーん・・」紅扇は納得しないようです。いつしか馬はお堂につきます。馬から降りた二人はお堂の中に入り、いつものように水や餅など簡単に食べられるものを用意していつものように話しますが、談論風発というわけにはいきません。
 「若殿様、いいたいことがあるならいってくれろ。何か奥歯にものがはさまったようで楽しくねえ。」直截な紅扇です。
 「ああ・・実はなここに来られるのも今宵で最後になりそうなのだ。わしも来年は嫁を迎えねばならぬ。お前との話しは楽しいが、やはり男女ではあらぬ噂がたてられておるようだ。このままではおまえ自身やお前の両親にも迷惑をかけてしまう。これをこれまでの礼として受け取ってほしい。」と美しい紅色の反物を娘の手におしつけました。
 「都で流行の反物でな。お前の名にかけて紅色のものを持ってきたのだが・・うん?気に入らぬか?」娘はみるみる泣き出しそうな顔になってしまいます。
 「おらは・・こんものがほしくて若殿様と話してたんじゃね・・百姓の娘が嫁になれるとも思ってねえだ・・でも。こんなもの!」反物を足元に投げ出し、駆け出してしまいます。思わず資長様も追いかけます。
 暗い闇の中、二入は足元も分からない中を全速力で追いつ追われつです。が、若い男の脚力には叶わず、二人は畑の中で転んでしまいます。組み付かれた紅扇は目盲めっぽうに拳を振り下ろし、娘に組み付いている資長様はされるがままです。
 「紅扇!・・俺が悪かった・・もう・・殴るのはやめてくれ。」との言葉に紅扇も泣き出してしまい、資長様の胸にすがりつきます。深まる闇の中、二人の激しい息遣いと虫の声だけが響きます。
 「おらは・・おらは・・すまなかっただ。おらも若殿様と居る時は本当に楽しかったのに、こんなに急に・・」むせび泣く紅扇。
 「いや、俺も何をどうしたらいいのか・・わからなかったんだ。若殿なんて呼ぶな。源六と呼んでくれ。」紅扇の瞳を覗き込む資長様。
 「そんな・・げ・・源六さま・・。」
 「紅扇・・。」二人はそのまま唇をあわせます。急に虫の声がやかましくなったような夜でした・・・。

 その夜から数十年・・資長様は「道灌」と号され、今では江戸城の主として関東のみならず天下にその武名を轟かす扇谷上杉家の家宰として押しも押されぬ武
将と成長されておりました。
 ある日、江戸城下の平川村を見回った帰り、新しく建てられた尼寺に立ち寄ることにしました。
 「頼もう。わしは江戸城主の太田道灌じゃが、ちと喉が渇いての。茶を振るまってはくれぬか?」
 「はいはい・・おまちくだされや。今、出ますゆえ・・」と出てきた尼僧は道灌様の顔を見て立ち止まります。
 「おぬしは・・・もしや紅扇ではないか?」道灌様の胸もいつしか高鳴ります。
 「これはこれは・・あの資長様もご立派になられて・・噂はかねがねうかがっておりました。」
 「お前にはすまぬことをしてしもうたと思っておったが今では尼僧となっていたか。あれからどうしたと聞くのも野暮かのう。」と道灌様。
 「もはや過ぎたことです。あの折の思い出は胸にしまっております。それにしてもほんに立派になられて・・」と婉然と微笑むかつての紅扇。
 「すまぬが・・そろそろあげてくれぬか?わしももはやこの頭じゃ。」と剃り上げた頭をつるりとなでます。
 「これはすみませぬ。どうか庭よりお回りいただけませぬか?お茶でも進ぜましょうほどに。」
 座敷に通された二人はしばしの歓談をたのしみます。
 「道灌様は江戸城で品川湊の鈴木長治様や高名な連歌師など招かれて歌の会など催されているようですね。」
 「うむ。おぬしに差し出された山吹の花に発奮してな・・随分勉強したわ。おかげで都の帝にも御製の歌を頂いたほどよ。」
 「ほお。受け賜わらせていただけますか?」
 「うむ。江戸城からの景色を聞かれての
     「我が庵(いお)は 松原つづき 海近く 富士の高根を 軒端にぞ見る」と詠んだのだ。帝はいたくお心をうごかされたようで、
     「武蔵野は 高萱のみと 思ひしに かかる言葉の 花や咲くらむ」との御製をいただいたのよ。」
 「わたくしも噂に聞いておりますよ。在原業平の都鳥のことを問われて
都鳥
 (都鳥、都内で撮影)
     「年ふれど まだ知らざりし 都鳥 隅田川原に 宿はあれども」と詠まれたそうですね。」
 「ほっほ、それも知っていたか。おぬしも一度江戸城の静勝軒に参らぬか?富士山が実によく見えるぞ。今度はわしが茶を振舞わねばな。最近は都では「茶の湯」というものがはやっているのだ。それを手ほどきしようほどに。そうだ、それがよい!わっはっはっは!」と楽しそうに笑う道灌公を紅扇は静かに微笑んで見つめていました。それから道灌公は再会を約束して江戸城に帰っていきました。
 
 数日後、いつものようにお勤めをしていた紅扇のところに近在の檀家が訪ねてきました。一つの噂を携えて・・。
 「道灌公、主君の扇谷上杉定正に糟谷の館で討たれる!」「江戸城に上杉の軍兵がはいり、道灌公の嫡男・資康様は行方不明!」という噂でした。
 それから程なく、旅支度の紅扇は尼寺を知人の尼僧に譲り、いずれとも知れず旅立ってしまい、その消息は誰も知らないとのことだそうです。戦乱の時代に咲いた哀しいお話でした。 
DSCF0121_1.jpg
 (鎌倉の某寺境内で撮影した観音石仏)

 いかがであったろうか?太田道灌公について調べ続けた挙句、思いつきで書いたものからこのようなイラスト付きのものに出世するとは・・・感慨も一塩です。

 一度読んでくれた方も、初めて読んでくれる方も、感想を頂けると誠に嬉しい。すでにこの続編のような資長の初陣話がスタンバイしているのだ・・。

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鹿島神宮再訪

 現在、NHKで関東の剣豪を主人公にした「塚原卜伝」がやっている。という訳で・・所縁の地である「鹿島神宮」にいってきた!

 しかし遠かった。来るのは2回目ですがね。まず総武線で千葉までいき、そこから成田線に乗り換えて成田、成田から鹿島神宮までの直通にのって全部で2時間半かかったろうか?遠かった・・。
鹿島神宮駅前
 まずホーム上から駅前を見おろしてみた。
ぼくでん銅像遠景
 ホームから最大望遠で塚原卜伝の銅像が見える。黄色く囲っているのが卜伝像ですね。
鹿島神宮遠景
 マンションの背後、台地上の森が鹿島神宮の森ですね。
震災の爪痕
 でも駅前には震災の爪痕がしっかりと残っております。また神社に至る道でも補修作業が行われておりました。

 ぼくでん像1
ぼくでん像2
 こちらが関東の剣豪「塚原卜伝」です。幼少から剣の才能は天才肌、武者修行にでては誰と試合・・死合をしようとも無敗を誇り、時の将軍・足利義輝や伊勢の戦国大名・北畠具教にも秘剣「一の太刀」を教授し、新たに興した剣の流派・「新当流」を日本に広く伝えた方です。
 剣豪といっても力の抜けたその佇まいに逆に剣の達人の風格を感じますね。
ぼくでん像3
 卜伝先生の視界です。

 という訳で・・・
鹿島神宮正面
 来ました!鹿島神宮・・でもあの大鳥居はもうないんですよね。今はご神木の苗が植えられておりました。
鹿島神宮参道
 まっすぐ歩いていきましょう。
鹿島神宮案内図
 途中の案内図で全体像を把握します。
手水舎
 手水舎で手を洗いましょう。
楼門
 楼門を潜ると・・

拝殿
 拝殿ですね。その後ろに本殿とご神木が見えます。拝殿の前の鳥居も真新しいですね。倒れて新しく建てたのでしょう。

仮殿
 拝殿の真向かいには仮殿がございます。本殿改修などの際の神様の一時住まいですね。

 さあ、さらに奥の奥宮・要石・御手洗の池を見に行きましょう。
奥宮への道
 この先からさらに神々しい雰囲気になっていきます。
さざれ石
 途中には国家にも歌われている「さざれ石」がございます。日本人なら国家を歌えないとねぇ・・。
神鹿
 こちらでは鹿が飼われています。奈良とは違って柵の中ですね。でも春日大社自体、鹿島神宮から分霊されたもので神様を鹿の背中に載せて奈良まで運んだとのこと。なるほど!

 奥宮に到着しました。
奥宮1
奥宮2
 上の画像を撮影した際、参拝者は若い女性ばかりでした。ほんとに神社好きの女性おおいんですね。大和撫子ならば正しいことですね。
奥宮3
 松尾芭蕉も一句詠まれているのですね。

 さて、さらに奥にある「要石」を目指しましょう。タケミカヅチ大神が地底の大鯰の上に石を載せて地震を抑えられておられる所です。途中には・・
タケミカヅチノ大神1
 このような石像がございます。タケミカヅチ大神が鯰の上に仁王立ちですね。お顔をアップで撮ると・・
タケミカヅチ大神2
 我ながらいい画が撮れたので、パソコンの壁紙に設定しております。

要石
 下の小さい石が「要石」だそうです。どこまで掘っても掘りつくせないとのこと。

鹿島の森
 それにしてもここ鹿島の森は深くて緑が美しい。林道が巡らされており、鹿嶋市民がジョギングやウォーキングを楽しんでおります。羨ましい。

 続いて「御手洗(みたらし)の池」です。
御手洗の池1
 こちらが水が絶えたことがないという「御手洗の池」その美しさをご堪能いただきましょう。
御手洗の池2
御手洗の池3
 直接写すより水面を写す方が印象的な画が撮れる・・と思います。
御手洗の池・源泉
 こちらが源泉です。水を汲んで持ち帰ることもできますが、沸かさないと現代人はお腹をこわします。ドラマ「塚原卜伝」主演の堺雅人さんもここに来られて、お清めをされたそう。
 
 さあ、引き返しましょう。ふと空を見上げると・・・
鹿島の空
 あんなに暑かった夏が嘘のように爽やかな空ですね。

ぼくでんカレー
 便乗・・いえ、いいお土産ですね。まあ、買いませんでしたが。

 鹿島神宮、さすがいいお社でした。皆様も是非一度おいでください。

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浦和の神社~調神社~

 唐突だが今年はウサギ年である。今年の正月、埼玉県浦和市の調(つき)神社が話題になっていたので「行こう行こう」と思いつついつの間にか9月になっていた・・。ダメじゃん!

 というわけでいってみた。
調神社正面
 JR浦和駅から徒歩20分、狛犬ならぬ狛ウサギが出迎えてくれます。
狛ウサギ1
狛ウサギ2

 由緒書きを拝見しましょう。
調神社由緒書
 なるほどね。

手水屋1
 手水屋で手を洗わないとね。って・・
手水屋2
 でか!まあ、このウサギは調神社を紹介した他のブログでも紹介されている有名ウサギですけどね。
調神社拝殿
 こちらが拝殿です。参拝しましょう。ここの彫刻がまたいいんですよ。
拝殿のウサギ1
拝殿のウサギ2
 拝殿にもウサギが・・神社全体で何匹いるんだろう?拝殿の彫刻が素晴らしいので、宮司さんにいつ建てられたものかと伺ったところ「幕末の安政年間くらいですね。確か・・1855年くらいかな?」と仰っていました。歴史年表で調べると、この年に長崎に海軍伝習所が開設されたり、オランダと和親条約を結んでいます。
拝殿彫刻1
拝殿彫刻2
拝殿彫刻3
 この玉なんか一木から彫りだしているんですかね。神奈川県伊勢原市の高部屋神社もそうですが、幕末の頃、日本の木彫技術は頂点を極めました。明治に入って職人さんの仕事が一気に減ったものの、その中から高村光雲や平櫛田中など世界に通用する彫刻家が輩出されておりますね。
 このように神社の彫刻から日本の近代史や芸術家のことまでわかるんですね。

舞殿
 舞殿までウサギさんが・・。
神泉1
神泉2
 と思ったら神泉にまでいます。ウサギ好きには天国ですね。

 さらに奥に旧本殿があります。
旧本殿1
旧本殿2
 そんなに大きくはないんですが、ここの彫刻がまたシビレました。
旧本殿の彫刻1
旧本殿の彫刻2
 月に雲、波にウサギ。裏面も手を抜いていません。
旧本殿の彫刻3
旧本殿の彫刻4
 ウサギが可愛いですね。

 最後に神社境内にある銅像を見て行きましょう。
宮司・吉田英一像1
宮司・吉田英一像2
 前宮司の吉田英一氏の銅像です。目尻のしわまでよくできています。

 今回はここまで!では、また次回!!

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浦和の「武者群像」

 先日、埼玉県さいたま市の浦和にある神社を訪ねたところ、今回紹介する銅像にでくわした。それがし、浦和に住んでいたこともあるが、当時はまだ高校生であり、歴史好きであったもののアート関係に全く興味なかったので、今回の銅像も見た覚えがなかった。
武者群像1
 「武者群像」 作者:滝川毘堂先生 
 滝川先生というと、新潟県上越市の上杉謙信公像を造られたあの先生である。
滝川先生の謙信公像
 この像の作者です。まさか滝川先生の作品に浦和で出くわすとは・・・毘堂先生は親子2代おられ、年代からご子息の作品でしょう。
 武者群像説明板
 当時の浦和市長が書いた説明板です。
武者群像銘板
 こちらは銘板。遠くから見たとき、「あ!足軽群像?」と思ってしまいましたが、武者なのね。

 1体ずつ見て行きましょう。
リーダー
 まずは3人の長でしょうかね?1番年嵩にみえます。被っている兜吹き返しのないも古い形式ですね。似たものを熊本県菊池市の菊池神社宝物館で見たことがあり、確か鎌倉時代のものと説明されていました。この兜には「井」の字の前立てが付けられてますね。

貝役
 続いてほら貝を吹く少年兵。3人の中では一番ほっそりしているし、何よりまだ前髪がとれておりません。

足軽
 3番目に今にも刀をもって飛び出していこうとしている足軽ですかね。普段の農作業で肩の筋肉も盛り上がっております。このさりげない力感にロダンの鉱夫像を思い出させますね。

 3人を後ろから見ると・・
武者群像2
 こんな感じ。浦和は文教都市としての伝統が残っており、市内には近代美術館などもあります。浦和駅前に立ち寄られた方は見ていってやって下さい。

 次回は浦和のあの神社です。

 ここでお知らせ・・北海道在住のアーティストmichiko殿の所属する「示現会」の展覧会が今週木曜日から札幌市内で開催される。詳しくは・・
DSCF1900_1.jpg
 お時間のある方はぜひ見に行ってください。それがしはやや遠くて無理だが。

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サンマの食べ方

 天高く馬肥ゆる秋・・大陸では昔この言葉は間もなく騎馬民族が略奪に来る、と恐怖に震えたらしいが、現代日本では秋の味覚を期待させる言葉である。
 秋の味覚というと、松茸、栗、サンマ、新米、銀杏などなど色々あろうがそれがしはサンマや銀杏に目が無い。今回はサンマのレシピなど記してみよう。

銀杏1
 今年の初物の銀杏を八百屋で見かけたので躊躇なく購入。静岡県の富士宮産だ。これくらいの量だとまことにちょうどよい。
銀杏2
 銀杏割りで外殻にひびをいれ・・
銀杏3
 茶封筒にいれて、塩を一つまみいれて・・
銀杏4
 レンジでチン!二分ほどかけると・・
銀杏5
銀杏6
 殻をとって美味しく頂きます。これだと焙烙でいる必要も無く、簡単ですね。ビールのお供に最高です。

 続いてサンマ。今年は豊漁とのことで1尾100円前後で売っている。安いところだと98円くらいで売っていた。今回のサンマは120円のもの、北海道より。塩焼きが間違いなく最高に美味しいのだが、他にも美味しい調理方法はある。皆様は「サンマの有馬煮」をご存知か?関東では知らない方が多く、関西ではポピュラーなサンマの煮物だ。「炊く」というと京都料理っぽい。
山椒ビン詰
 今回の陰の主役「有馬山椒」もしくは「山椒の佃煮」。都内のスーパーではなかなか置いてなかったので、御徒歩町の「吉池」という半分専門店のようなスーパーでやっとみつけた。普通の乾物屋でも置いてなかった・・。

 調理方法は・・
  ①だし昆布をサッと水洗い。2~3センチに切る。
  ②サンマの頭と尾を切る。さらに筒切りして、ボウルの中で内臓を抜いて流水で洗って盆ざるにならべる。
  ③沸かしておいたお湯をサンマにかけて霜降り。冷水でもう1回あらう。
  ④生姜を皮付きのまま薄切り。スライサーでやるのも可。
  ⑤鍋に昆布を敷いて、その上にサンマと生姜を交互に並べてゆき、水と酒を同割りでひたひたにいれ、強火に   かける。出汁のもといれる。(昆布茶の粉もいれる)沸いたら、アクをとりつつ、火をすこし弱める。
秋刀魚煮ています
   この状態を維持。
  ⑥醤油を少しずついれ、味見しつつ、味をきめていく。決まったら味醂をさっとかけて煮詰める。
  ⑦味がきまったら、火を止めて山椒を適量パラパラッと全体にふりかけ、鍋に蓋をしてそのままおいておく。
秋刀魚有馬煮
 完成!山椒の香りがもう最高!サンマの銀色の皮も美しい・・。サンマは骨ごと頂けます。圧力鍋で作れば骨も歯で潰せるほど柔らかくなるのでしょうが、それでは歯ごたえが楽しめません。昆布も食べることできますよ。これはおかずとしてはもちろん、酒のアテとしてもいいですよ。
 この秋はいつもと違った食べ方でサンマを楽しみませんか?ごちそうさま!
プロフィール

サムライ銅像研究会

Author:サムライ銅像研究会
歴史と銅像と芸術が大好きなあまり、日本各地を東奔西走する銅像・史蹟ハンターである。神出鬼没なため、脈絡無しのブログ更新を続ける。掟はただ一つ!「死して屍拾うものなし!」昔の時代劇の決め台詞だけどね・・皆さん、見てやあ!
 最近、キューピーに侍の装束を着用させる遊びをやっております。「武者ピー」と呼んで可愛がってやぁ~!以後は「キューピー甲冑師」とも名乗ります。

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