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南宮大社~岐阜県垂井町の大社(おおやしろ)~

 先年、関ヶ原古戦場を巡り、当ブログでも紹介したが、なぜか記事中の画像が消失したので記事を削除した。そのままでは残念なので今回書き直す事にした。
 今回は関ヶ原町の隣の垂井町にある南宮(なんぐう)大社を紹介しよう。

南宮大社・大鳥居
 JR垂井駅から徒歩20分ほどでこの一の鳥居につく。すぐ近くに新幹線が通っているので、車窓から眺めたことのあるかたも多いと思う。

南宮大社2
南宮大社1
 さらに15分ほど歩くと到着。最初に祀られたのは神武天皇の頃というがはっきりとはしない。記録に出てくるのは貞観15(873)年に正二位という位に叙せられ、延喜式名帳にも美濃の国唯一の国幣大社として記述されているとのこと。
 慶長5(1600)年の関ヶ原合戦で兵火に遭い、社殿が焼失したものの、三代将軍徳川家光の乳母・春日局などの尽力により寛永19(1642)年に天下普請により現在の壮麗な社殿が再建された。朱塗りの本殿・拝殿・楼門などが国の重要文化財に指定され、今なお多くの人々の信仰を集める神社である。

南宮由緒書
 なるほどね・・

南宮大社・随神門
 立派な楼門です。正面から入れないので脇から入ると・・
南宮大社・神楽殿と拝殿
 正面の神楽殿と奥の拝殿が立派ですね。

南宮大社3
 拝殿に吊り下げられた灯篭?「南」の字がいれられていますね。

IMG_0603.jpg
 去年のものですが御朱印です。

 今回はここまで。次回から関ヶ原です。

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愛宕の青松寺~四天王像を中心に~

 今回も前回に引き続き太田道灌公からみのお寺です。前回はとんだ「狸祭り」となってしまったが、今回はしっかりと紹介しよう。

青松寺・正面
 こちらが萬年山(ばんねんざん)青松(せいしょう)寺、曹洞宗のお寺です。太田道灌が雲岡舜徳(うんこうしゅんとく:道灌公が曹洞宗に帰依した師僧)を招いて文明8年(1476年)に創建。当初は武蔵国貝塚(現在の千代田区麹町周辺)にあったが、徳川家康による江戸城拡張に際して現在地に移転し、現在に至る・・。
 立派な山門ですね。

山門の竜
 山門の高い部分にこんな竜が配されておりました。この山門に真新しく立派な四天王像が置かれているのでそちらを見ていただこう。
広目天と増長天
 広目天と増長天です。
持国天と多聞天
 持国天と多聞天です。当ブログには、アーティストの方や人形師の方に訪れて頂いているようなので、ディティールにこだわって掲載していこう。
持国天1
持国天2
 持国天アップです。正面に強化ガラスがはまっているので、どうしても格子天井が映りこんでしまいますね。

多聞天1
多聞天2
 多聞天アップです。毘沙門天というほうが通りがいいですね。古来より多くの武将が信仰し、また七福神の一柱(神様の数え方として正しいはず)にも加えられているので、庶民からの信仰も厚いですね。

増長天1
増長天2
 増長天アップです。手にしているのは鉾(ほこ)であって、槍ではございません。ほら・・
鉾
 見たことない形ですね。三叉槍の片方が大きくなったといえばいいのでしょうか。現存する槍にもこんな形はみたことないですね。面白い・・

広目天1
広目天2
 広目天アップです。四柱の神様の中で唯一筆記具をお持ちですね。見聞したことを描きとめておき、お釈迦様のお役にたてるのでしょうか?

バックル?
バックル?2
 腰の帯をバックルのようなもので留めておられます。他は・・
お腹1
お腹2
 普通に帯ですね。四天王像の最高傑作は意見がわかれるかもしれませんが、京都の東寺が最高傑作といってもいいのではないでしょうか?この夏の「空海と密教美術」展でも持国天と広目天がご出張され、ごく至近距離からその造形美を堪能することが出来ました。とはいえ、何しろ古いものなので、室内は薄暗いし、撮影はもってのほか!このように細部を撮ることなど夢のまた夢・・。

 足元の踏みつけられた邪鬼たちも見て行きましょう。
小鬼1
小鬼2
 目線がしっかり上に向いており、苦しさを訴えているかのようですね。
小鬼3
 これは・・鬼とはいえ哀れな・・世の中にはこんな風に踏まれるのが趣味という方も居られるのでしょうがね。
小鬼4
 なんかもう目が諦めきっていますね。切ないともいえそうな・・。
小鬼5
 こっちは温泉宿でマッサージ受けているおじさんみたいです。
  「もうちょっと右・・・そう、そこだよ。そこ力入れて踏んでくれない?」なんてね。四天王はこれくらいで・・。

青松寺・鐘楼
 鐘楼です。

青松寺本堂
 奥が本堂、周りはビルばっかりですよ。

石碑
 お寺の入り口にありますね。ここより先、ニンニクのような臭いものやお酒はいけません」という意味。生臭なそれがしでは入れないですかね・・入りますけど何か?

青松
 青松の扁額です。

蓮華葉と石橋
 石橋の脇に蓮華がありましたのでセットで撮影・・蓮華の緑が目に眩しいですね。

青き紅葉
 まだ夏の盛りですので紅葉も青々としております。

マンションとお寺
 でもふと目線を上に向けると、無粋な高層マンションが横にそびえ立っているのですよ。時代の流れといえばそれまでですがね。

 その後は愛宕山の愛宕神社にお参りして来ました。それはまた別の機会にお送りしますが、神社境内の料理屋「菜根」の前に興味深い木像が野ざらしになっておりました。
ほうしょうしょう1
ほうしょうしょう2
 その服装から江戸幕府の御用儒学者・林羅山かと思い、お見せのご主人に伺ったところ・・
  「中国のお坊さんの「ほうしょうしょう」という人みたいですよ。字はどう書くかわからないねぇ。どの時代のどんな人かも知らないんですよ。すみませんねぇ。」いえいえ、こちらこそ客でもないのにご丁寧にお答えいただきありがとうございました。
ほうしょうしょう3
 意外と雰囲気のあるいい木像ですね。もっと大切にしてほしいなあ・・。

 最後に猫をお送りしましょう。
見る猫
 どこの飼い猫でしょ?じっと見られてしまいました。
かゆい猫
 どこかかゆいんでしょうね。猫の画像もおもしろいですね。なかなか撮らせてくれませんが。でもね、猫の舌を偶然アップで撮って、見たときは鳥肌たちましたよ。猫は噛む力が弱いらしいので、舌のザリザリで肉をこそぎとっているという説明を猫を飼っている知り合いから聞いて納得しました。

 さて、今回はここまで!では、また次回。

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柳森神社~秋葉原のお社~ 

 都内の太田道灌公からみの神社やお寺でまだ訪れていない所がいくつかあった。今回は秋葉原にある神社を紹介しよう。

柳森神社正面
 場所は秋葉原駅から神田川を越えた南側にあり、いわゆる秋葉原を楽しみに行く方々とは反対方向にある。このあたりはオフィス街という感じか。
柳森神社石標
 柵がない状態で撮りたかったなぁ・・。

 境内に入ると・・
狸1
 ん?桃を抱えた狸??ここで気づいた・・爆笑!!狸八畳というがでかすぎでしょ!!
狸2
 タイトルは「抜群」?「群抜」?作者のブラックユーモアなんでしょうか?あやかろうと撫でようかと思いましたが、大きくなられても困るところだしねぇ・・やめときました。
狸3
 惚けた表情だなぁ・・。
狸4
 後姿です。これ以上はやめときましょうか・・。

手水舎
 手水舎です。

拝殿
 拝殿です。

狐様1
狐様2
 お稲荷様なんですね。でも狸の印象が強すぎて・・はっ!狸と狐が同居してる!!

 その脇には・・
お狸さま1
お狸さま2
 なるほどねぇ。

狛狸1
狛狸2
 狛犬ならぬ狛狸ですね。

狸さま1
狸さま2
 足元にはお腹が灯篭になったお狸さまがいます。
狸いっぱい
 ミニチュアのお狸様も。♪ポンポコポンポン、ポン~

 なんかもう笑い・・面白すぎてどんな神社でしたっけ。まあ、いいや。頭の中ではお狸様が呑めや歌えやのどんちゃん騒ぎしている様子しかうかびません。

 という訳であとは境内の何かでも・・
拝殿の絵
 拝殿にきれいな絵がかかれていました。

境内の猫
 境内の猫・・寝ているのか顔隠していました。

近所の猫
 神社近くで見つけた黒猫。じとっとした目線でしたね。

 では、また次回!


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再訪!近藤勇のお墓~JR板橋駅前~

 先日、ある理由からJR板橋駅前の新撰組局長・近藤勇の墓参りを済ましてきた。詳しいことは今更だから、どんどん画像を見ていただこう。

近藤勇・墓
 もうびっくりするくらいの駅前なのでまだの方は是非いってみよう!
近藤・墓の説明板


近藤勇石像1
近藤勇石像2
 小さい石像だが、こうしてみるとなかなか風格があってよろしい。

近藤・土方お墓
 南無南無・・。

永倉新八お墓
 こちらの墓所を整備された永倉新八のお墓です。南無南無・・。新八さんは新撰組の数少ない生き残りで手記も出されている。最近、文庫化もされているので本屋さんでめにする機会も多いと思う。

 今回の目的がこれ!当ブログをみていらっしゃる札幌在住のアーティストのmichiko殿とおっしゃる方が下の近藤勇坐像の原画を担当されたとのことで、あらためて見てまいりました。
近藤石板1
近藤石板2
 以前来た時も見たことはあったが、なるほど、あらためて見るといいものですね。michiko殿がこのお墓を管理されている寿徳寺から依頼されて作製されたもので、近藤勇のことをまとめた文集のカットにも絵を提供されておられる凄いお方です。
 michiko殿のブログタイトルとアドレスをのせておくので皆様もご覧ください。
  ブログタイトル:「ゆかりしかりど~育児と絵と節約と国語~」
  ブログアドレス:http://michikomichi.blog104.fc2.com/?no=535

 では寿徳寺いってみよう。駅から30分ほどの板橋駅と十条駅の間。埼京線が通っている渋いエリアです。

 途中には・・
寿徳寺の大観音様1
寿徳寺の大観音様2
 寺のすぐ近く、住宅街のど真ん中に突如現れるのでびっくり!大きさとしては鎌倉・長谷の大仏様くらいありそう。でも鎌倉と違ってタダで見ることできるんですよ!ありがたやありがたや・・南無南無。

寿徳寺正面
 ここがね、意外と彫刻好きにはありがたいお寺なんですよ!

近藤石板3
 入り口にはもう一枚の石板がございます。中には・・
弘法大師1
弘法大師2
 弘法大師さまがお出迎えしてくれます。

仁王1
仁王2
 若々しい現代的な仁王像ですね。他にも興味深いものがありましたが、あとは見に行ってください。住宅街のど真ん中なので騒いじゃダメよ!

 お寺入り口には・・
不動明王1
 道祖神というべきでしょうか?
不動明王2
 不動明王さまですね。後背の火焔もしっかり彫られています。
不動明王3
 頭はチリチリパーマぽいですね。大坂のおばちゃんにいそう・・。あ!足元の踏みつけられた鬼撮り忘れた!不覚・・・何年かたったらまたいくかもしれないですね。

 今回はとり急ぎここまで!近々、当ブログとmichiko殿のコラボが実現できるのでお楽しみに・・まさかコラボレーションなんて現代的なことができるとは思わなかった・・。ネットとは面白くもあり、恐いものでもありますねぇ・・・まあ、それがしはブログしかしないし、ツイッターやフェイスブックなどで不埒なコメントもしないので恐くはないが。

 では、また次回!

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織田信長公の銅像

 今回は織田信長公の銅像をまとめて紹介しよう。最後に信長公が詠んだという和歌も・・・。

 まずはこちら。
吉祥寺の織田信長1
吉祥寺の織田信長2
 北村西望先生作の「若き日の織田信長」像です。これは吉祥寺の井の頭公園・彫刻園で撮影したもの。同じものが岐阜城公園、兵庫県庁前、長崎の北村西望美術館などにあります。人気あるのね。

 次に・・
桶狭間の織田信長1
桶狭間の織田信長2
 桶狭間古戦場公園に建つ織田信長公像である。本当は今川義元公とセットで「近世の曙」というタイトルの銅像だが、今回は信長公のみ紹介。作者は工藤潔(日展会員)先生です。

 お次は・・
清洲の織田信長
 教科書などでお馴染みの清洲城近くに建つ織田信長公像です。この銅像はアングル決めに工夫が必要です。正面から撮ろうとすると、鎧の大袖が顔の右側にかかりやすいんですよ。実際、この銅像を紹介した一般の書籍や雑誌の写真をみても顔が大袖ですこし隠れているケースが多いですね。気にしていないのかもしれないけど、顔に近づいて障害物なしに撮りたいというのは銅像ハンターの当然の欲望だと思います。何か?
 再建された清洲城からは30分ほど歩く公園にあるので事前に下調べを忘れずに!

 どんどんいこう!
岐阜駅前の織田信長
 こちらはJR岐阜駅前に建つ織田信長公像。賛否両論ありますが、おとなしすぎますね。どうせ金ぴかにしたいならば西欧風の椅子に座らせて、片手に地球儀、片手に鉄砲でも握らせて不敵な笑みをたたえさせるというのが面白いが、まあ、街のシンボルだから自然おとなしめになりますわな。

 最後に・・
安土の織田信長
 JR安土駅前に建つ織田信長公像です。アサヒビールの樋口会長が寄贈されたもの。そう!私が飲み、あなたも飲んだスーパードライの利益がこんなところにも廻っているんですね。学生の時はしこたま飲んだり、飲まされたりしたなあ・・・って、そうじゃない!
 正面から素直に撮ると装束のせいか短足にみえるし、顔が面長に見えすぎるので下から煽って撮りました。おかげで刀の鞘と扇が左右に具合よく収まって、覇王の風格がでているお気に入りの写真になりました。

 では織田信長公が詠んだとされる和歌を下に・・
  「さえのぼる 月にかかれる 浮雲の 末ふきはらえ 四方も秋風」
 岐阜や安土の天守閣から見た光景を詠ったものでしょうか。なかなか風流ですね。さすが芸術家気質の信長公です。ただ・・最後の五句のおさまりが悪いように感じられます。といってもいい句が浮かばないのですが。恐らくはただ雲をふきはらうということだけでなく、自分もまた風となって日本の四方を吹き払ってやるぞ!という天下人らしい歌だとおもわれます。

 では、また次回!

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天下人が残した短歌~銅像といっしょに~

今回はいつもとすこし趣向を変えて銅像画像をお送りします。歴代の天下人(源頼朝・足利尊氏・徳川家康の銅像を彼らが詠んだ(と云われる)短歌とともに見ていただくことで、彼らの年表を見る以上にその人柄に迫ることができると考えるからです。

 ある図書館で「武人万葉集」(東京出版)という本をみつけました。著者が定年退職後、趣味として万葉の昔の「防人」から先の太平洋戦争まで有名・無名問わず武人が詠んだ短歌を集められ、先に太平洋戦争で戦没された方々の歌集を出版され、「武人万葉集」ではその本に漏れた万葉の昔から明治に至るまでの短歌を集めた労作であります。誠に頭がさがります・・というわけで詠んでいるのは男性ばかりなので男臭い歌が多いです。「万葉集」や「古今和歌集」とは自然、趣が違う歌が多い。

 ではまず鎌倉に幕府を開き、朝廷から独立した日本史上初の武家政権を築き上げた源頼朝公の歌を紹介しましょう。
鎌倉山の頼朝公
 (鎌倉市の鎌倉山頂上にあります。銭洗い弁天でお金を洗った後にでもみにいってください。)
  「道すがら 富士の煙も わかざりき 晴るるまもなき 空のけしきに」 頼朝公が鎌倉から京都に上洛する途中に詠まれた歌とか・・・特に何の感興もわかない情景描写の歌ですね。ご子息の三代将軍・実朝公は明治の大歌人・正岡子規から若すぎる死と天才的な才能を惜しまれたんですがね。どうやら北条の血のようですね。参考までに実朝公と執権・北条泰時公の歌も載せます。

  「おほ波の 磯もとどろに よする波 われてくだけて さけてちるかも」源実朝
 どうです!この浜に打ち寄せる波の荒々しさをダイナミックに読みあげたこの歌!!惚れそうです。

  「山がわの 氷やうすく むすぶらむ 下に木の葉ぞ 見えて流るる」北条泰時
 鎌倉幕府の憲法ともいうべき「御成敗式目」を制定した政治家として有名な泰時公ですが、こんなに繊細な情景描写の歌も詠まれたのですね。北条の血は侮れない・・。


 次にその鎌倉幕府を倒すきっかけを作った足利尊氏公です。この方、ややむらっ気のある方でいい時は武将として政治家として時代を切り開いた方ですが、だめな時は引きこもって「出家してやる!」といって一族や部下を困らせています。それでも朝廷が北朝と南朝に別れて争う激動の時代をくぐりぬけて室町幕府の基礎を築いた方ですから天下人にほかなりませんがね。
足利尊氏公
 (栃木県足利市のばんな寺近くにたっています。JR足利駅からお寺に行く途中にあるのでみつけやすいですよ)
  「今向かふ 方は明石の 浦ながら まだ晴れやらぬ 我が思ひかな」 この歌は後醍醐天皇に叛いた時、合戦に負けて九州に落ち延びますがすぐに軍勢を編成して京都に攻め上る折、舟上で詠んだ歌だそうです。
 この後の湊川の戦いで後醍醐天皇の忠臣・楠正成公と戦い、討ち取ります。尊氏公は後醍醐天皇に叛きたくなく、また楠正成公とも互いに認め合った仲ですが、政権の運営を朝廷が握るか武家が奪い返すかの避けようのない争いの中で敵対せざるをえなかった悲劇の武将ともいえます。おかげで勤皇思想の高まる幕末から戦前に至るまで尊氏公は嫌われ者でありつづけましたが、今はその名誉は回復されたといってもいいのではないでしょうか?
 歌自体は尊氏公の万感胸に迫る思いを巧みに歌い上げたすばらしいものです。天下人の中では詩人として一流です。他に・・

  「今ははや 心にかかる 雲もなし 月をみやこの 空とおもえば」尊氏公が晩年に詠まれた歌とのこと・・忠実な家臣も次々と死んでいき、また実の弟とも対立して毒殺させた恩讐を乗り越えて、安定した内面を雲ひとつない夜空にたくした歌です。これも・・感に堪えない歌ですね。胸が熱くなってきます。武将としてだけでなく、歌人としても一流の方ですね。


 最後に徳川家康公です。この方も凄い方で、徳川260年の繁栄の基礎を築き、江戸、ひいては東京の大恩人ですが、歌人としては・・・まあ、その実直な性格がでているとしかいえませんね。とにかく見てください。
駿府公園の家康公
 (静岡市の駿府公園に堂々とそびえ立っています。JR静岡駅前にも幼年時代の像や晩年の家康像がありますが、神々しさで言えばこれが最上ですね。)
  「怠らず 行かば千里の 果ても見む 牛の歩みの よし遅くとも」
  「人多し 人の中にも 人ぞなき 人となせん 人となれん」現代の経営者が好みそうな歌ばかりですね。言ってることは正しいけれど、なんとも親父臭さというか説教臭が漂うというか・・・歌としては情緒のかけらも認めたくないですね。その波乱万丈の人生を思えばいたしかたないのですが・・。諸氏はどう思われたでしょうか?

 今回はここまで!今後も不定期に武将と短歌を掲載して過ぎし面影を偲ぶ一助としたいと思います。でも次回はそろそろ鎌倉を取り上げたいなあ・・。


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陸前高田の奇跡のシイタケ

 先日、東北の物産展で陸前高田市の「奇跡の」シイタケをみつけた。

陸前高田しいたけ1
 なんでもこれを栽培していたビニールハウスの足元まで津波が押し寄せたらしいが、なんとかとどかなかったらしい。普段なら高級レストランで1パック¥800以上するものがなんと!奥さん!¥500円!!!

陸前高田しいたけ2
 こんなにきれいなシイタケみたことない!それがし、調理の仕事もしていたが、こんなシイタケはじめて見た!驚いたねぇ・・・。

陸前高田しいたけ3
 笠の裏もこんなにきれい!こんなに素材がいいと、オーブンでシンプルにあぶってポン酢でかけて食べた方が美味しいので食べたら信じられないほど甘く、美味しかった!!!

 松茸?問題にならないほどシイタケのほうがおいしいさ!

 東北を、いや日本を建て直そう!!民主党はいらない!!!

 ではまた次回!!

太田道灌公の小説~私家版その2~

 みなの衆、こんにちわ。 

 最近の愛読書は古今和歌集で移動の最中や昼休みなど読みながら色々と勉強している。千年以上も前の人々の歌なのになぜこんなに共感できるのだろう?なぜそれがしの胸もしめつけられるのだろう?などと色々感心しながら勉強している。
 そんな歌の中で「きよはらのふかやぶ」という人物の歌に着想をえて、また太田道灌公のとても短い小説を書いた。短すぎて、短編というより小話のような長さだが、お暇なら読んでね。前回の「太田道灌公の初恋」から数年後の若く逞しい武者に成長した資長の物語です。読んで頂けた方はまたコメントなど残してくれると、嬉しくて跳ね踊ります。
 では、どうぞ!


 江戸城築城前史~若き日の太田道灌公~」
                          著:サムライ銅像研究会

 これはまだ道灌様が江戸城をお取立て(造営すること)になる前のお話でございます。その頃はまだ資長様と名のられており、わずか25歳(数え年、実年齢は24歳)でお父上の道真(道号)資清様より御家督を継がれたばかりの頃でしたが、扇谷上杉家の家宰として忙しくすごされており、また京の将軍家(足利義政公)の御命令で武蔵(現在の東京都と埼玉県)国の各地に城を取立てされておられる折でございました。以下に物語させていただくのは江戸城を取立てるために日比谷の入り江あたりを検分されておられる時のことでございます・・・。

 その日、資長様は狩り装束に身を包み、あやい笠を被られ、数名の家来を伴いつつ入り江沿いの浜辺を馬で緩やかに走らせておられます。後方で馬上の斉藤安元(太田道灌の軍配者、後に道灌と共に戦い無敗を誇った)様が声をあげられました。
  「殿!この辺りは平川(現在の江戸城大手門前を平川が流れていた。平河町の名のおこり)が流れ込んでおり、遠浅の海となっている由にございます。」
家来
 (この画像と斉藤安元は何の関係もございません。画像は群馬県太田市の東武太田駅前の脇屋義助像です。適当な画がないため代用しました。ちなみに斉藤安元は実在の人物であり、その詳細はいまだ調査中)

  「うむ、紅葉山(現在は皇居内にある)のあたりからも湖の流れが足元近くまで流れ込んでおる様が見てとれるな。この地ならば・・・城を築くには絶好の地であるな。」
  「はっ!土地の古老によれば、往年、江戸氏(平安から鎌倉にかけて武蔵国で勢威を振るった豪族。後に現在の世田谷区に移り、喜多見氏をなのる)もこの辺りに館の一つを置いていたとのこと。」
  「左様であろうな。しかしこのままでは浜手から城下に人や物の流れを作りにくいな。人手がいるが、平川の流れを東流させねばならん。(鈴木)道胤(品川湊の長者、太田家の財政面での支援を担う)とも相談せねばならんな。」
  「夜には潮が満ちてくるのでしょうが、どこまで満ちてくるのやら・・。後でどこまで潮が来るか土地のものに尋ねさせましょう。」
  「待て待て、農事に勤しむ良民を度々煩わせるのは誠に忍びない。」と資長様、馬をとめて鞭を小脇にはさ み、なにやら物思うていであります。付き従う家来共も心得たもので誰も物言わず一心に資長様を見つめております。しばらくして資長様、小さく頷かれて口を開きました。

岩槻の道灌公2
 (この画像は埼玉県さいたま市岩槻区役所前の道灌公像です。)
  「古今(和歌)集にこのような歌があるぞ。 『みつ潮の 流れひるまを あひがたみ みるめ(海藻の一 種)浦に よるをこそ待て』とな。」
  「ほお、雅な歌ですな。それがしもそのような思い女(おもいめ)をもちたきもの・・。」と頬をほころばせる安元様。
  「フフッ、お前も兵書ばかり読んでおらんと、歌の一つも詠むがよかろう。まあ、ここでは下の句の『みるめ浦に よるをこそ待て』が大切なのだ。」資長様、安元様に謎をかけられます。
  「はて?みるめと夜と何の関係が・・あっ!満ち潮とともに波間に漂うみるめが浜に流れ着きますな。潮が引くとともにまた流されますが、いくばくは残るもの。その跡を探して棒を立てて、縄をひけばおおよその線がみえてきますな。」との安元様の回答に資長様も破顔一笑。
  「さすが安元、見事よ。なれば手配りをするように!」
  「はっ!」安元様は短く首肯すると、すぐ付き従う伴侍らに命じて命じられました。侍共は袴の裾を高く股立ちにくくりあげ、その辺りに生えていた長い葦を折り取り、左右に散りました。そのうちの一人は縄も手にし・・。
 すると幾ばくもなく満潮時のおおよその線が浮かび上がってきました。安元様、それを手元の帳面に書き付けております。
  「安元、歌もこのように使えば雅なばかりでなく、意外と役に立つものぞ。」
  「確かに。安元、感服いたしました。孫呉の兵書にはない実の世の機微を歌より導き出すとはさすが我が殿で   あらせられます。それがしもこれよりは学ばせて頂きますぞ。」
  「フッ、世辞はいらぬ。俺もある人に教えられたのさ。」と一瞬、資長様の面にさびしげな色があらわれました。それもつかの間のことでしたけれども・・。
  「よし、品川館に帰るぞ!今宵は道胤らを招いて月を肴に歌なぞ詠む趣向よ。お前も同席せよ!」と朗らかに命じられました。
  「これは一本とられましたな。ならば下手な歌でも詠んで見せましょうぞ。」と安元様の応え(返事)に声高く笑われた資長様は愛馬に鞭をいれられると駆け去っていかれました。
あわてて跡を追う安元様や家来達。

 その後に残された葦にはトンボがとまっておりました・・・。


 以上である。突如降って湧いたアイディアをメモにまとめ、さささっと書き上げたため意外と短かった。もうちょっと長いと思ったけどな。
 江戸城築城の流れはいまだ謎が多く、太田道灌公一人で築いた訳ではありませんがこのような物語があってもいいなと思いました。

 では、また次回!

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愛知県豊橋市~吉田城址見分記~

 前回に引き続き愛知県豊橋市で、今回は吉田城址をみていこう。今回は本当に思いつきばったりで行動したので全く調べていない。その後も特に・・。この辺りは旧国名は三河という徳川家康の故地であり、家康の筆頭家老の一人であった酒井忠次が城代を務めていたということしか知らない・・。

 まあ画像を見て頂きましょう。
豊川に架かる橋
 こちらは公園横を流れる豊川に架かる吉田大橋です。
豊川眺望
 橋の上からの眺望です。右が吉田城址ですね。

冠木門跡
 こちらは前回ラストの土橋です。冠木(かぶらぎ)門跡です。土橋脇から空堀の底に下りることができるので・・
吉田城空堀の底から
 やあ!いい眺めですな。しかしやぶ蚊の多いこと・・。あいにくとこの日はスーツ姿でしたのでそんなに探索はできませんでしたが、こういうところを歩く時に気をつけたいのは乾いているようで葉っぱをどけるとぬかるみがあるというトラップがあるんですね。昔、それでズボンと靴をダメにした苦い経験があります。

吉田城空堀遠景
 こういうところを歩き回りたいのですがね。

吉田城石垣見上げると
 かわりに石垣を見上げてみました。土橋上に戻りましょう。

吉田城説明板
 詳しくは画像をクリックして別画面で見てください。

吉田城石碑
 石垣の上にきれいに吉田城石碑がみえます。後ろから登れます。
石段セピア
 登ってみましょう。セピアモードで撮りました。

石垣から土橋
 土橋を見おろしてみました。矢印が来た方向です。

 石垣上を巡ってみると・・・
石垣の樹木1
石垣の樹木2
 なんという木の生命力!アンコールワットにもこんな光景ありますよね。それだけこの辺りに人が立ち入らなかったということでしょうかね。こんな光景が石垣上にそこかしこにございます。

 石垣を下りて広いところに向かいましょう。
吉田城の紅葉
 この画像ではわかりづらいですが、見事な枝振りの紅葉です。城内には多くの紅葉がありました。秋には見事な光景になるのでしょうね。しまった!紅葉の葉越しに櫓を写せばよかった・・。

吉田城の再建櫓
 気を取り直して・・こちらは櫓・・当時のものならいいのですが、再建櫓です。日本全国の宝くじで外れた方々のお金から寄贈されたそうです。外れた方々、ありがとう(笑)!また買ってあげてください。

吉田城からの眺望
 櫓下から先ほどの吉田大橋を撮りました。矢印がそれです。

船乗り場へ下る石段
 下におりてみましょう。昔は船着場につながっていたようです。
門柱軸受け
 地面に門柱軸受けの石が埋まってました。青く囲った部分が軸受けです。画像処理ですのでご心配なく・・。

吉田城石垣と櫓
 下から見上げると・・・昔の石段ってハンパない角度ですよね。恐くなかったのかな?そんなこといってられないか。

本丸部全景
 最後に本丸部全景です。この日は何かイベント準備中でした。ライブでもやるの?

 今回はここまで。行き当たりばったりでも面白いものは見られるものです。では、また次回!

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愛知県豊橋市~街角アート天国?~

 過日、日帰り出張で名古屋に行ったが予想に反してあっという間に用事が済んでしまった。こんなことってあるの?という感じだったけど、時間が余ってしまったので豊川稲荷でもお参りしてみようかと調べもせずに豊橋市に行ってみた。
 勘違いしていたのだが、豊川稲荷には豊橋からさらに乗り換えてなければならない。そこまでの時間はないなと地図を見ながら考えていると豊橋公園に吉田城址があるのをみつけた。
 「そうだ!お城にいこう!」とJR東海のようなコピーをつぶやきつつ豊橋駅をでた・・が、そこに見たのは・・
泣く男
 何か日本昔話的な男があられもなく泣いているブロンズ像をみかけた。何かの民話だろうか?特に説明板もなかった。その横には・・
山?
 山ですかねぇ?さっきの男は馬借(ばしゃく:馬を使った輸送業者)なんでしょうか?狼がねらっていますね。
ん?
 これが一番なぞ。全くわかりません。どなたか何かご存知???

 駅前商店街を歩いていると・・
椅子上の猫
 豊橋市は街角アートを推奨しているんでしょうか?それがしのような人間にはありがたいところですが、市民はどう思っているんでしょう?豊橋市民でこれ読んでくれた方コメントください。

 次から「出会い」シリーズになります。アーティストの独自すぎる世界が商店街のあちこちに建っております。
美の出会い
 「美の出会い」、アフロディティと弁天様でしょうか?
長寿の出会い
 「長寿の出会い」、仙人と大木?
善意の出会い
 「善意の出会い」?なんでしょうね?
勇気の出会い1
 「勇気の出会い」、ドン・キホーテと毘沙門天ですか。でもその傍らのキャラが謎です。
勇気の出会い2
 なに?ご当地キャラ?昭和テイストですね。次がまた面白い・・
英知の出会い1
 「英知の出会い」、火星人と福禄寿?なんというセンス!絶句です。爆笑です。どっちやねん!
英知の出会い2
 アップはもっと笑えます。でもこれ・・どこかの監督から訴えられませんか?「出会い」シリーズはこれで終了。他にもあるかもしれませんが、全てはみつけられませんでした。

 商店街を抜けて豊橋市役所方向に向かいます。
なかよし1
なかよし2
 途中こんなにかわいいブロンズ像が・・子犬が引っ張っていられるのも今のうちだけですね。すぐ馬が大きくなって逆に犬を追い掛け回すようになるでしょう。

 街中には・・
路面電車
 路面電車が大通りの真ん中を走っていますね。黄色い部分は企業名やナンバープレートを消しております。

第38連隊・西門
 市役所のあたりは戦前、陸軍の第38歩兵連隊が置かれていたんですね。戦争中は名古屋も豊橋も爆撃をうけて焼け野原になったせいか、街の造りは道路をとても広くとっていますね。

 他には・・
豊橋市公会堂
 豊橋市公会堂ですね。ずいぶん瀟洒な建物ですね。でもその傍らには・・・
わし's
 なんか勇ましいモニュメントですね。
大正製薬?
 どこかの製薬会社にしかみえません。

 さて豊橋公園にむかいましょう。
豊橋公園入り口
 旧歩兵連隊の正門だったのでしょうか?
歩哨所
 このようなものが残されています。往年はライフルを持って、足にゲートル巻いて軍服を着た歩兵さんが立っていたんでしょうか?公園の中には・・
戦災復興
 「戦災復興」の像です。裸一貫から・・という意味なんでしょうかね?ブログに男女問わず裸の像の画像を貼ることには賛否両論あるかもしれませんが、これは街中のアートですので気にしません。変なものではありませんからね。テレビをつければ、女装男やカマが幅をきかせ、街中を歩けばまた女装男をみかける現状のほうがよっぽどおかしいと考えます。何か?

吉田城土橋
 さて、いよいよ吉田城土橋です。今回はここまで!次回は中に入ります。なかなかの眺めでした・・。

 では、また次回!

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武蔵の国・鉢形城・後編

 さて鉢形城の後編である。
本丸図アップ
 今回巡るところはこのあたりだが、本来の城であったところに公園化されているところと宅地化されているところ、地元企業がはいっているところと入り混じっているので臼井城や金山城のようには気分がノリづらい。

鉢形城休憩所1

 二と三の曲輪と本丸の間には鉢形城歴史館(今回は入りませんでしたが200円で入場できます)があり、休憩所が駐車場と共に併設されている。雰囲気ありますね。中は・・・
鉢形城休憩所2
 テーブルとベンチをどけて、陣幕を周囲に張って、床机を置いたらまるで陣地のような設えになりますね。甲冑武者がほしい画ですね。

 すこし歩いて本丸にいって眺めを楽しみましょう。
荒川を見下ろす
 暑い日でしたので川で遊ぶ子供達がたくさんいました。

鉢形城本丸石碑
 やっとここまで着ました。でも本丸あたりにはあまりお見せできるところがないのですよ。眺めは最高なんですが。

田山花袋の碑
 「布団」で有名な田山花袋先生の漢詩を武者小路実篤先生が書におこされた石碑がございます。意味は・・
  「襟帯する山河好く、雄視す関八州、古城の跡空しく在り、一水尚東に流る」というところ。

 それがしも一首詠んでみよう。 
  「草茂る 土手に立ちて 見ゆ山河 栄えも滅びも 夏草の下」 お粗末様・・。

立ち入り禁止
 石碑よりさらに奥のアの部分は立ち入り禁止で入れません。高くなっているところは分かるんですがねぇ。

本丸あたり
 このあたりも往年は建物や倉がたっていたのでしょうか?

 公園の入り口側に下って行くと鉢形城のジオラマがあります。
鉢形城ジオラマ1
 字は画像をいじくりました。
鉢形城ジオラマ2
 奥が前回歩き始めた部分であり、手前がこのジオラマのあるあたり。

鉢形城公園入り口
 ここが寄居駅から歩いて来た時に目にする入り口部分ですね。

 橋を渡って寄居町方面にむかいましょう。
正喜橋から荒川
 橋から荒川を見下ろしました。
荒川の大岩
 向こう岸にはこんな巨大な岩が。

 鉢形城が有名なのは小田原北条の氏康公の三男が城主を務めていたからだが、道灌公の時代の「長尾景春の乱」でも重要な舞台となっている。その城を巡る戦いを振り返ると、兵略に通じた道灌公のことがよくわかるのでまた軍記物風に語ってみよう。

 「時は文明10(1478)年、関東管領・上杉家に反旗を翻した長尾景春であったが、太田道灌の活躍により盟友・豊島泰経を6月の小机城攻めでなくし、上野国(群馬県)に退避していた山内・扇谷の両上杉家と太田道灌らの合流でしだいに追い詰められつつある景春であった。
 劣勢を挽回すべく、鉢形城から出撃した景春勢は北方の梅沢(本庄市金屋)に砦を構築し、上杉勢の動きをうかがう。その上杉家の軍議では、山内上杉の家宰・長尾忠景(景春の叔父)が即刻に梅沢砦の総攻撃を進言するが、それを聞いていた道灌は発言を求めた。
  「確かにもっともな策、それがし感服いたした。なれど梅沢は切所(要害の地)なれば損害が多く出ること明白でありましょうゆえ、梅沢と鉢形の間の原野に我ら上杉勢押し出し、威圧すれば景春は必ずや梅沢から鉢形救援の為にこちらに馬首を向けてまいりましょう。そこを待ち受けておいて討つ!さすればそれを見た梅沢や鉢形の守備兵も気落ちして開城することまちがいないでしょう。」との新たな作戦に満座の諸将も諸手をあげて賛同をしめして衆議一決となりました。
 この軍議で目上の立場を尊重しつつ、自らの意見を通す道灌でありました。

 さて上杉勢は用土ヶ原(寄居町)に押し出し、陣太鼓を叩き、軍兵に気勢をあげさせて城方を脅しました。その様子に兵を連れて景春も用土が原に駆けつけます。そこで両軍は互いに押しつ揉まれつ、斬って突かれての大激闘を繰り広げますが、ついに上杉勢が勝利し、景春はわずかな手勢と共に鉢形城に逃げ込んだのでありました。」

 ここで大事なのは道灌公が主要目的である「鉢形城攻略・景春逮捕」の為にやみくもに突っ走らないで敵を誘い出して合戦して、間接的でありながら二つの目的を達しようとしたことである。石神井城に篭った豊島泰経を破った江古田・沼袋の戦いを思い出してもらいたい。その戦いでも道灌公は最初、泰経の弟・泰明の守る平塚城(北区王子)を攻めてみせ、泰経を引きずり出すことに成功している。このような兵法は洋の東西を問わず存在する人間の知恵のようなものである。
 戦訓からひきだせば、孫ピンは魏に都を囲まれた趙を助けるために魏の都を包囲して魏の将軍を討ち取り、アレクサンドロス大王はペルシア帝国皇帝ダレイオス3世を引きずり出すために帝国領のエジプトなどをあらしまわり、あせったダレイオスは100万と呼号する大軍を集めてガウガメラ平原に繰り出し、10万にもみたないアレクサンドロス軍はマケドニア・ファランクス(重装歩兵密集戦術)戦法でみごとペルシア軍を打ち破ったのであった・・。
 現代風にいうとリデル・ハート(英国の戦略論研究家)の間接アプローチ戦略というのだろうか。目的にストレートに迫らずに間接的なアプローチをすることにより副次的効果をもひきだす。自分の手ごまが少ないものが行うやり方ともいえる。

 ま、そんなことは置いておいて荒川の雄大な景色をご覧頂こう。
荒川・雄大な眺望
 こういう景色を眺めているとチマチマしたことなど忘れるなあ・・。
鉢形城遠望
 振り返ると鉢形城が見送ってくれます。

 鉢形城の最後の城主であった北条氏邦のお墓が同じ寄居町の正龍寺に向かいます。お城からだと徒歩で小一時間です。平坦な道ですので、暑くなければ散歩みたいなものですね。
正龍寺遠望
 見えてきました。あれに見ゆるが正龍寺です。
正龍寺・仁王門
正龍寺説明板

 立派な仁王門が出迎えてくれます。当然そこには・・
仁王1
仁王2
 すみません、あまりによく出来ているので画像にイタズラ描きしました。何か?浅草や通天閣下にいそうなオジサンですね。とりあえず謝ってしまいそうです。
仁王の背中
 まあ、たくましい背中・・。


正龍寺本堂
 本堂の屋根には・・
三つ鱗
 当然のように北条の紋・三つ鱗が光り輝いております。そこまで金ぴかじゃなかったです。

 裏手の墓を登っていくと一軒の小屋があり、そこにございました。
氏邦夫妻墓
 北条氏邦夫妻のお墓です。南無南無・・。
 関東武士の名門・藤田家に氏邦は婿入りのかたちではいったので最初藤田姓を名乗っていましたが、本人は気に入らなかったみたいです。夫婦仲はよかったようで、夫人意外に女性の影はありませんが、何しろ一度滅んだ家なので確実な情報はしりません。
氏邦夫妻墓説明板

藤田康邦夫妻墓
 こちらは氏邦の義父母・藤田康邦夫妻の墓です。南無南無・・。
正龍寺本堂内部
 お寺に戻って本堂の内部です。左奥に古めかしい甲冑がありましたが、戦国のものかは近くで見ていないので不明です。

蛇の模様?
 こんな模様の石も祀られておりました。なんということでしょう!蛇の模様ですかね?自然とは不思議なものを作り出しますね。

 お寺を後にして寄居駅に向かいます。バスがあるといいんですがねぇ・・。
寄居駅全貌
 寄居駅はJRだけではなく、東武線や秩父鉄道も乗り入れているターミナル駅です。本数は少ないですがね。ともあれ大自然を満喫できますので気軽にどうぞ!あ!・・夏場は虫の王国ですので(車山など虫嫌いには耐えられないほどいましたっけ・・)虫除けスプレーや長袖シャツ、長ズボンなどご用意お忘れなく。

高麗川駅モノクロ

 最後に高麗川駅で撮ったモノクロ画像をば・・。

 もう一首
  「カメラ手に 兵(つわもの)共の 過ぎし跡 ただひたぶるに 思ひたどれよ」お粗末様・その2 

 ではまた次回!

武蔵の国・鉢形城探訪記・前編

 前回はあまり書きなれない小説など書いてしまったが、コメントを頂いた皆様には思わぬお褒めの言葉など頂き、誠に感謝。どなたか道灌公と紅扇のイラストなんて描いてくれないだろうか?銅像写真もいいが、イラスト付だとより映える・・変な欲がでたようだ。

 さて、今回は武蔵の国(今の東京都埼玉県)の西部奥地にある鉢形城である。築城者に関しては・・はっきりしない。伝承では平将門の弟が拠点を置いたともいうが不明。記録上ででてくるのは、文明8(1476)年に太田道灌公の従兄弟の長尾景春が上杉家に反乱をおこした時に「鉢形城に拠った」とでてくるのが最初。この「拠った」がくせもの。「造った」なら景春が最初ということになるが、「拠った」となるとすでに何かしら設備があったところを直して使った・・という解釈もありうるからだ。まあ、考古学者の実証的な発掘調査を待ちたい。
 その反乱の後は長く放置されていたが、小田原北条の勢力がこの地に及んでくる時に北条氏康の三男・氏邦が居城として大規模に改修工事を行った。その時に改造されまくったので、室町の頃の遺構は無理かな・・。

 まずはJR中野駅に向かい、そこから中央線快速の八王子行きへ、八王子で八高線(八王子ー高崎間)で一気に・・というわけにはいかない。まずは高麗川まで。ここまでは順調なのだが、この先北上する路線は一時間に一本ペース・・30分菓子パン食べながら待ちぼうけです。そこから折原まで。
鉢形全体図
 通常、鉢形城に行く時は寄居でおりるのだが、一つ前の折原で降りたのは山の上から撮り下ろしたかったからだ。車内には他にも鉢形城の絵図面をもっている人がいたが、降りたのはそれがし一人のみ。まじ?

折原駅
 というわけで到着しました、折原駅!さすがここまでくると無人駅です。

折原の石仏
 駅前の石仏に道中の安全を祈願。ここで上の地図を見て頂きたいが、今回のルートを黒いサインペンでひいてみた。赤く斜線をひいているのが目標の鉢形城だ。その前に駅前の車山にのぼろう。

車山
 このきれいな三角形型の山が車山です。特に案内もないので、駅前で休憩していた地元のおじさんに聞いてみると、すこし先の道を左にいって徐々に登っていくと山道の看板があるよ、と大雑把に教えてくれた。
 あの山に何かあるの?と聞かれたので、豊臣秀吉の北条征伐の折に徳川家康の部将・本多忠勝が陣地を置いて、そこから大砲をぶっ放して城方を驚かせたんですよ、と教えてあげると知らなかっただって。まあ、そんなものかな。おじさんの気をつけてねの声を後に山に向かいます。

トトロの道?
 なんでもないのぼり道を行くと徐々に・・いえ、いきなりこんな凄い道がでてきます。まるでジブリアニメの「トトロ」がでてきそうな道ですね。両脇の竹がたわんでこんなトンネル状になっているんですね。子供連れできたら大興奮間違いないですよ。そんなトンネルを抜けると・・
険しい車山参道
 あいにくとおじさんにはトトロは出てくれないみたいです。汚れちまったからねぇ・・色々と。ま、小学生高学年くらいでないと危ない山道かもしれません。200メートルくらいしかないんだけどねえ。

 登ること30分・・
車山山頂
 登頂成功です!黄色方向が鉢形、黒方向が折原駅です。あー、鉢形方向は木が生い茂っていて無理ですね。折原方向は・・
頂上から折原方向
 こんな感じ・・絶景はまだですね。

車山地図アップ
 向うはゴルフコースでした。

 また30分くらいかけて反対側に降りて振り返ると・・
車山全体像
 いくつもの峰が連なったのが車山です。登ったのは左端ですね。山頂に大砲を上げたというのは・・伝説かもしれませんね。

 地図を見ながら城にむかいますが、畑や宅地ばかりで迷いそうになりながら・・
鉢形城図
 ここで鉢形城全体図を見て頂きましょう。今回巡るのはカ~サの辺りです。

諏訪神社へと・・
 お城の端っこの諏訪神社が見えてきましたね。お参りしていきましょう。

諏訪神社の堀と土塁
 鳥居を潜ると社殿のあるところが高くなっていますね。階段を上ると・・
諏訪神社の土橋と堀
 土橋と堀のような造りですね。
鉢形城説明板
 ほうほう・・。
諏訪神社拝殿
 お参りしていきましょう。
諏訪神社説明板
 やはり神社は館跡でしたか。

 神社の後ろを見ると・・
諏訪神社の裏の土手
 やはり土手がありましたね。神社を後にして行くと・・

秩父曲輪の門
 青空に復元した門が映えますね。この門を潜ると三の曲輪(くるわ)です。別名、秩父曲輪ともいいます。
四脚門・セピア
 セピア色で撮ると新しい門も時代がかって見えてきます。

 門を潜ると・・
秩父曲輪全体
 ちょっと整備されすぎですね。黄色い矢印方向に行きます。
 
 矢印通りに行く前に、突き当たりまでいくと・・
寄居町方向
 寄居町方向です。絶景ですね。

 地図上のキとカの間の馬出(うまだし)門にいきましょう。
馬出
 右の木の橋を敵が渡ろうとすると、左の盛り土のあたりから攻撃されます。
馬出図
 こんな風な図です。

二の曲輪方向
 手前からこれから向かう二の曲輪方向を見ます。
三と二の曲輪の間
 向こう側がすこし低くなっていますね。

馬出から三の曲輪方向
 馬出から来た方向を振り返ります。

三と二の間の空堀の深さ
 堀の下から見ると深いですね。

 二の曲輪方向に行くと、
城山稲荷
 城山稲荷が出迎えてくれます。ここでも参拝。

二の曲輪から見た馬出方向
 二の曲輪方向から馬出を振り返ります。南下していくと・・
空堀の大きさ
 大きい空堀ですね。
夏空や・・
 夏空が美しいですね。

三や二の曲輪
 今回歩き回った範囲です。

深沢川1
深沢川2
 本丸部分との間には深沢川がながれています。今回は川の涼しげな画像で終わりです。

 では、また次回!

太田道灌公の小説~私家版~

 太田道灌公のことを追っているうちにそれがしもなんとなく物語たくなってきたので、「山吹伝説」をベースに書いてみた。長いので興味のない方は読まなくていいし、読んでくれた方は感想など書き込んでくれると誠に嬉しい。

岩槻の道灌公1

       「山吹の花~道灌公の初恋~」
                                   著:サムライ銅像研究会
 これは後の世に江戸城を築かれた名将・太田道灌公の若き日のお話でございます。その頃は源六郎(げんろくろう)資長(すけなが)と名乗っておりまして、
元服してまだ間もない頃でございました。これよりは資長様とお話の中で呼ばせていただきます。
 
 資長様は幼き頃より容姿端麗、才能も衆に優れたお子におわしまして、幼くして鎌倉・建長寺に学ぶこと三年・・その間はご実家に帰られることは一度も無く他の学僧らに混じって修行と勉学にことのほか励まれたとのこと。ある日資長様はお父上の資清様(後に剃髪されて道真(どうしん)様と名乗られます)に文を出されました。内容は今となっては残っておりませんが、一読された資清様は頷かれた後、使いをやって資長様を迎えられたとのこと。修行はもうよいから「武者の道」の修行のため、ご主君・扇谷上杉様の下に出仕させようとのお考えだったのでございます。

 初出仕を終え、源六郎資長となりましたお姿は誠に麗しく、また言語明朗かつ理路整然と話されるさまは実に末頼もしく、扇谷上杉様の主家にあたられる山内上杉様より是非我が家の家宰(かさい:主人にかわってその家の外向き・奥向きの仕事を担当する役職)に迎えたいとの有り難き仰せを受けたほどでしたが、資清様は
   「まだ若く、礼儀にも疎く、無作法でもあれば主人・扇谷上杉に迷惑をかけることになりますので有り難き仰せなれど平にご容赦・・」と申し出を断ったほどの逸物ぶりであったとのこと。

 またその頃の資長様は武芸鍛錬にも人一倍精魂傾けておられまして、ことに愛馬に乗って野駆けや狩りには特にご執心であらせられたご様子で、太田家の領内や主家よりお預かりした相模・武蔵・上野の原野を思う様に駆け回られていたとのこと。そのことが後に「智謀鬼人の如し」とまでいわれた軍略の基礎となる地勢の学習でもあったのでございますが、それはまた別のお話・・。
日暮里の道灌公2


 ある時、狩猟を終えられ、ご帰宅の途中急な雨が降ってまいりました。あやい笠を被っておられましたので頭は濡れないものの、そのままでは主人より拝領したお召し物を濡らしてしまいます。それではあまりに申し訳ないということで、前方に見えてきた農家の庭先に駆け込みました。お供のお侍衆は遅れておりましたので資長様は御自ら粗末なたてつけの扉を叩きました。
 「これ、ご免候え(そうらえ)!誰かおらぬか!誠にあいすまないことではあるが、雨具を貸してくれぬか!」とやさしげな声で訪ねられました。これが他の坂東武者であれば、いきなり扉をあけてずかずかと踏み込んできて所望の品を奪っていく荒々しさでありますが、そこは若き頃より領民思いの資長様であらせられます。優しい声音でお百姓衆を恐がれせまいと心得られているのでございます。
 その声に扉をガタガタと開けて出てきたのは一人の娘、顔は泥に塗れて粗末な麻の着物を着ているものの、その容貌は資長様をはっとさせました。娘は身分のありそうなお武家様と知って、その場に平伏してしまいます。これには資長様も動転してしまいました。
 「こ・・これ、娘御、恐がることはないぞ。わしは雨具が欲しいだけのこと。鳥目(ちょうもく:金銭)がほしいならば届けさせるによってな。その・・なんだ・・これでは話が出来ぬ。顔をみせてくれぬか?」資長様の優しい語り掛けに心ほだされたのか娘はおずおずと顔をあげました。でもその目の奥にはまだ警戒の光が見えています。
 「わしはおお・・いや、田太源六(太田を名乗ると素性がすぐにばれるからそれを避けた)という。見ての通り狩りの帰りじゃ。雨に濡れるのは構わないのだがこのままではご拝領の着物を濡らしてしまうのでな・・蓑笠でも貸してはくれぬか?」といいつつも見ず知らずの娘に言い訳がましく言葉を重ねる資長様は内心あきれ果てておりました。
 (この俺が娘一人にどうしたことだ。いつもは上杉の重臣であろうと理にそぐわぬことであればたちまち喝破しておるものを。ただの頼みごとにうろたえるとは師匠の瞬徳和尚(道灌公の師匠、後に芝・青松寺を開く)に笑われてしまうわ・・)
 資長様の内心の戸惑いを別に娘はうりざね形の顔のくりっとした瞳に理解の光を点して、家の奥に引っ込みます。
 (やれやれ、やっと分かってくれたか。これで濡らさずに帰られるようだ・・。)と安心した資長様でしたが・・。
 しばらくして出てきた娘の手には白い扇が握られており、その上には黄色い可憐な花を咲かせる山吹の花を咲かせる枝が載っていました。

 これには幼き頃より和漢の学問を学んできた資長様も唖然としてしまいました。雨具を求めて花を差し出すとはどんな意味があるのか?身に着けた色々な学問からその意味を探り出そうとしましたが、皆目見当がつきません。しばらく突っ立ったままの資長様でしたが、突然振り返って立ち去ってしまい、愛馬に飛び乗るや激しく鞭をいれて荒々しく走り去ってしまいました。出された問題がわからないという初めての屈辱に暴れだしたくなった資長様でしたが、それはかろうじておさえました。でも居たたまれなくなり、駆け去らずにはおられなかったのです。屈辱に打ち震えるあまり、目じりから熱いしたたりがほとばしるのにも気づかない有様でした。
 しばらくして落ち着いた資長様は顔を自ら張り飛ばすと、家臣らの呼ばわる声の方向に向かって駆け出し、一緒に帰途につきました。
新宿・中央公園の道灌公1


 帰館してもいつも通り明るく振舞う資長様でしたが、幼い頃より身近に接している老臣には誤魔化しきれませんでした。
 「若、本日はいつもと何か違う趣きであらせられますが、いかがされました。何かこの爺にでも話されてみれば案外つまらぬことであったかと思し召されるかもしれませんぞ?」とのさりげない申し出に資長様は周囲に二人しかいないことを確認して今日あったことを話しました。
 「なるほど・・若はあまり大和歌(やまとうた:和歌のこと)はお学びになっておられませんな。」と問う爺や。
 「そうだな・・和漢の歴史や兵略、治世の在り様などは誰にも負けぬと自負しているが、親父殿得意の歌はな・・苦手じゃ。」と素直に認める資長様。
 「若、古歌にこのようなものがございます。
    「七重八重 花は咲けども 山吹の 実のひとつだに 無きぞ悲しき」」と朗々とした声で歌いました。
 「うむ・・初めて聞くが・・ひょっとして「実の」と「蓑」にかけて「蓑すらもない詫び暮らし(貧乏暮らし)を恥じている」という意味か?」
 「さすが若じゃ。一聞くだけで十を知るとは・・古の聖徳太子の如しじゃ。」と褒める爺や。
 「世辞はよせ。そんなもの腹の足しになるではなし。」一応苦味ばしる資長様ですが、内心は「どうだ!」とばかりの気持ちです。
 「世辞ではございませんぞ。最近の若は狩りばかりでお部屋に居られる時がほとんどございませぬ。今もこんな子供でもわかる歌でどこやらの娘に愚弄されて逃げ帰ってくるとは・・これからはお歌の勉強もしていただかねばなりませぬぞ!今日はよい折じゃ、とくと説教させていただきますぞ!」資長様、とんだ藪蛇だったようです。

 それからしばらく、大和歌の学習にも時間を割かねばなりませんでしたが、もともと筋のいい資長様のこと、あっという間にコツを飲み込み、糟谷の上杉館に滞在している都の公家様に教えを乞う事になりました。とはいえ足弱の公家様のこと、資長様の屋敷まで来られるのに数日かかります。それまでまた野駆けに狩りにと外出される時間が増えてまいりました。そこで気になるのはあの娘のこと・・どうも胸の辺りがもやもやしてしようがないのです。
 (あの折の非礼を詫びねば気が済まぬな・・。)と一人合点をして、単騎駆け出した資長様、この間の所まで来ました。すると折りよく傍らの大根畑でうんうん踏ん張って大根を引き抜こうとしているいつぞやの娘に気がつきました。
 「おお、娘御よ。この間は済まなかったの、どれ手伝ってやろう。」と資長様は足元の大根に手をかけたところ・・。
 「まだ抜くでねぇ!それはまだ若いだでまだ土の中さ埋めとけ!」と娘にどやされてしまいました。はっと気がついた娘はすぐに土下座をしました。
 「すまねえこってす。太田の若殿と知らずにこの間も今日も・・どうかおらの命で勘弁してくれろ・・。」と蚊のなくような声で謝る始末。
 「いやいや悪いのはわしであった。どうか頭をあげてくれ。今日はわしが詫びに来たのだから・・」と資長様がいうと娘は頭をあげて訝しげな視線を送りました。
 「詫び?なんで?」
 「いや・・まあ・・とにかく立ち上がってくれ。喉がかわいたでな、茶・・いや水でも振舞ってくれぬか。水筒を忘れて難儀しておったのだ。」
 「あんれまあ、この若殿様はよく忘れ物なさること・・」と立ち上がった娘は腰にぶら下げた竹筒を資長様に渡します。受け取った資長様は栓をあけると、一口二口と旨そうに飲みました。
 「いやあ、助かった。甘露の如き味であったぞ。」
 「それはお武家様が喉が渇いていらしたから。」とこの娘、普通なら気後れして口も利けなくなるはずですが、よくもまあペラペラと喋ります。資長様が聞くと娘の名は紅扇といい、昔は武家であったものの曽祖父の代に戦に負けて土地をなくして百姓暮らしをしているものの、父親は今でも先祖伝来の甲冑・刀を大事にしてやせ馬を飼っているためただでさえ苦しいのに余計苦しいとのこと。家では先祖伝来の歌の本で幼い時から学ばされていたとのこと。
 なんとなく気のあった二人は和歌のことや日頃思っていることをぼつりぼつりと話しはじめ、いつしか幼馴染であったかのように口をきいていました。

 「あんれまあ、すっかり話し込んじまって若殿さまをすっかり引き止めてしまっただこれではお館のお侍に怒られるよう。」と眉をひそめる様子も可愛いと感じてしまう資長様であります。
 「いや、今日はわし一人で来たのだ。館のものは誰も知らぬ。わしのほうこそ忙しいところをすっかり邪魔をしてしまったな。武者奉公もこれで気詰まりなところがあってな・・これからもたまに話に来てよいか?」何か頼み込むかのように資長様も娘の顔を見つめられました。これには娘も参ったようで首の辺りを赤く染めてうつむいてしまいました。
 「それは・・若殿様が来たい時に来られたらうちらには否やはねえだ・・ううん!いやだって云うんじゃねえぞ!若殿様みたいな優しげなお武家さまはうら初めてみるものだから・・。」と娘は急に振り向いて走り去ってしまいました。資長様は思わず追いかけようと思いましたが、ふっと笑って繋げている愛馬のところに戻りました。
 (また会いにくればいい・・)と軽く考えておられましたが、資長様はこの時生涯初めての恋に落ちておられたのです。

 それからは糟谷の館に出仕される合間やご学問の間など折をみて娘の所に通われて色々と物語されておりました。二人はそれをごく何気なく行っておりましたが、周囲はそうはいきません。いつしか資長様が懸想されておられる娘がおられるといううわさが立つようになっておりました。

 ある時、お父上の資清さまとお話しされておられる時です。さりげなく側近らを遠ざけられ、親子水入らずとなりました。資清様が資長様の盃にお酒をお注ぎになりました。
 「源六よ、近頃は糟谷館に滞在中の九条様(京の公家)に歌を熱心に習っておるとか・・感心なことじゃが急にどうした?」
 「は、ご主君に仕えるには風流の道にも通じておらねば、とんだ粗相をすると爺に説教されまして。」畏まる資長様です。
 「ははは!鼻っ柱の強いお前にしてはめずらしいな。我ら太田の家は扇谷上杉家のみならず関東全体のことにたずさわるのだからな。当然、京の朝廷や将軍家ともやり取りをせねばならぬ。その時に慌てふためいても手遅れじゃからな。しっかりと励め。」といって盃を乾す資清様であります。空の盃に酒を注ぐ資長様・・お忙しいお二人にはめずらしく穏やかな時が流れております。
 「時に源六よ。なにやら領内に熱心に通うところがあるそうじゃが、おぬしはあくまでも太田家の嫡男。わしのいわんとしておることはわかるな?」と遠まわしにおっしゃる資清様です。
 (やはり来たか・・)資長様もこのような会話を想定しておりました。自らの立場も・・。
 「父上、いかな雑説(うわさ)をお聞きになられたかわかりませぬが、この資長はあくまでもご主君上杉家に一身を捧げる覚悟をいたしております。それがしが道を誤る心配はありませぬ。また、来年には長尾家(山内上杉家の家宰を務める家)より嫁御料を迎える身・・重ねての心配はご無用でござります。」といって資長様は頭をさげられました。こうまで言われてしまうと資清様も何もいえません。
 「やれやれ、お前にはいつも上手く逃げられてしまうような気がしてならんが、そこまでいうのならば何も言うまい。ま、お前も一人の男子(おのこ)・・周りに迷惑をかけねば少しは羽を伸ばすべきなのだ。お前は学問や武芸鍛錬に執着しすぎるのが玉に瑕だからの。」
 「は!」あくまで堅苦しい資長様です。

 そんな会話から数日後・・資長様は再び単身馬上の人となり、娘のいる村のあたりまで来ていました。懐には娘に与えるための美しい反物が入れられています。
あぜ道の向うから紅扇が資長様に気づいて手を振って出迎えます。資長様は近づいてきた娘を馬上に引き上げて、二人がいつも逢瀬を楽しむ村はずれのお堂に向かいます。
 「若殿さま、今日はなんだか雰囲気が違うね。」と鞍の前壷に載せられた紅扇が振り向きながらいいます。紅扇の吐く息が資長様の首元にあたり、えもいわれぬ背筋がそそけだつ感じを覚える資長様です。
 「そうか?宮仕えは面倒なことが多いからな。」はぐらかす資長様。
 「ふーん・・」紅扇は納得しないようです。いつしか馬はお堂につきます。馬から降りた二人はお堂の中に入り、いつものように水や餅など簡単に食べられるものを用意していつものように話しますが、談論風発というわけにはいきません。
 「若殿様、いいたいことがあるならいってくれろ。何か奥歯にものがはさまったようで楽しくねえ。」直截な紅扇です。
 「ああ・・実はなここに来られるのも今宵で最後になりそうなのだ。わしも来年は嫁を迎えねばならぬ。お前との話しは楽しいが、やはり男女ではあらぬ噂がたてられておるようだ。このままではおまえ自身やお前の両親にも迷惑をかけてしまう。これをこれまでの礼として受け取ってほしい。」と美しい紅色の反物を娘の手におしつけました。
 「都で流行の反物でな。お前の名にかけて紅色のものを持ってきたのだが・・うん?気に入らぬか?」娘はみるみる泣き出しそうな顔になってしまいます。
 「おらは・・こんものがほしくて若殿様と話してたんじゃね・・百姓の娘が嫁になれるとも思ってねえだ・・でも。こんなもの!」反物を足元に投げ出し、駆け出してしまいます。思わず資長様も追いかけます。
 暗い闇の中、二入は足元も分からない中を全速力で追いつ追われつです。が、若い男の脚力には叶わず、二人は畑の中で転んでしまいます。組み付かれた紅扇は目盲めっぽうに拳を振り下ろし、娘に組み付いている資長様はされるがままです。
 「紅扇!・・俺が悪かった・・もう・・殴るのはやめてくれ。」との言葉に紅扇も泣き出してしまい、資長様の胸にすがりつきます。深まる闇の中、二人の激しい息遣いと虫の声だけが響きます。
 「おらは・・おらは・・すまなかっただ。おらも若殿様と居る時は本当に楽しかったのに、こんなに急に・・」むせび泣く紅扇。
 「いや、俺も何をどうしたらいいのか・・わからなかったんだ。若殿なんて呼ぶな。源六と呼んでくれ。」紅扇の瞳を覗き込む資長様。
 「そんな・・げ・・源六さま・・。」
 「紅扇・・。」二人はそのまま唇をあわせます。急に虫の声がやかましくなったような夜でした・・・。


熱川の道灌公1

 その夜から数十年・・資長様は「道灌」と号され、今では江戸城の主として関東のみならず天下にその武名を轟かす扇谷上杉家の家宰として押しも押されぬ武将と成長されておりました。
 ある日、江戸城下の平川村を見回った帰り、新しく建てられた尼寺に立ち寄ることにしました。
 「頼もう。わしは江戸城主の太田道灌じゃが、ちと喉が渇いての。茶を振るまってはくれぬか?」
 「はいはい・・おまちくだされや。今、出ますゆえ・・」と出てきた尼僧は道灌様の顔を見て立ち止まります。
 「おぬしは・・・もしや紅扇ではないか?」道灌様の胸もいつしか高鳴ります。
 「これはこれは・・あの資長様もご立派になられて・・噂はかねがねうかがっておりました。」
 「お前にはすまぬことをしてしもうたと思っておったが今では尼僧となっていたか。あれからどうしたと聞くのも野暮かのう。」と道灌様。
 「もはや過ぎたことです。あの折の思い出は胸にしまっております。それにしてもほんに立派になられて・・」と婉然と微笑むかつての紅扇。
 「すまぬが・・そろそろあげてくれぬか?わしももはやこの頭じゃ。」と剃り上げた頭をつるりとなでます。
 「これはすみませぬ。どうか庭よりお回りいただけませぬか?お茶でも進ぜましょうほどに。」
 座敷に通された二人はしばしの歓談をたのしみます。
 「道灌様は江戸城で品川湊の鈴木長治様や高名な連歌師など招かれて歌の会など催されているようですね。」
 「うむ。おぬしに差し出された山吹の花に発奮してな・・随分勉強したわ。おかげで都の帝にも御製の歌を頂いたほどよ。」
 「ほお。受け賜わらせていただけますか?」
 「うむ。江戸城からの景色を聞かれての
     「我が庵(いお)は 松原つづき 海近く 富士の高根を 軒端にぞ見る」と詠んだのだ。帝はいたくお心をうごかされたようで、
     「武蔵野は 高萱のみと 思ひしに かかる言葉の 花や咲くらむ」との御製をいただいたのよ。」
 「わたくしも噂に聞いておりますよ。在原業平の都鳥のことを問われて
     「年ふれど まだ知らざりし 都鳥 隅田川原に 宿はあれども」と詠まれたそうですね。」
 「ほっほ、それも知っていたか。おぬしも一度江戸城の静勝軒に参らぬか?富士山が実によく見えるぞ。今度はわしが茶を振舞わねばな。最近は都では「侘び茶」というものがはやっているのだ。それを手ほどきしようほどに。そうだ、それがよい!わっはっはっは!」と楽しそうに笑う道灌公を紅扇は静かに微笑んで見つめていました。それから道灌公は再会を約束して江戸城に帰っていきました。
 
 数日後、いつものようにお勤めをしていた紅扇のところに近在の檀家が訪ねてきました。一つの噂を携えて・・。
 「道灌公、主君の扇谷上杉定正に糟谷の館で討たれる!」「江戸城に上杉の軍兵がはいり、道灌公の嫡男・資康様は行方不明!」という噂でした。
 それから程なく、旅支度の紅扇は尼寺を知人の尼僧に譲り、いずれとも知れず旅立ってしまい、その消息は誰も知らないとのことだそうです。戦乱の時代に咲いた哀しいお話でした。 


 拙い雑文を失礼・・とんだお目汚しであった。

 そういえば最近ブログの記事数が増えたのでカテゴリ分けに精出してみた古いものは画像が飛んでしまっているものもあるので、そういうものは一度削除してまた書き直そうと思う。過去の記事にも感想などいただけたら感謝!

 次回こそ鉢形城である。なかなかの絶景であった・・。
 

太田道灌公木像~七福神も~

 以前、北区の静勝寺(じょうしょうじ)を紹介したが、その際、太田道灌公の木像を紹介できなかった。7月26日は平日だったが、そちら方面に用事をつくっていってみた。

 JR赤羽駅を降りてお寺の方に行こうとするとはじめて見るブロンズ像があった・・。
毘沙門天
 あれ?毘沙門天さまですね。ということは・・
福禄寿
 「はぁ~い!わし、福禄寿!赤羽にようこそ!」元気なおじい・・福禄寿さまです。

大黒天1
大黒天2
 「こんちわ!俺、大黒天。西田敏行じゃないよ。釣りばかな奴他にいるし・・」やや皮肉っぽい大黒様ですね。

布袋
 「ほっほ~!わしゃ、布袋じゃい。立派な腹じゃろう。でもこの間、ドックいったら先生にメタボリックシンドロームだから痩せなさいっていわれたんじゃ・・これで数千年やってきたんじゃがのう。時代遅れなのかな」
 布袋さまお悩みのようです。

寿老人
 「わしは寿老人じゃ!けっして魔法使いではないぞ!どこかの魔法学校とかにはいないからの、きをつけるように!」そのポーズのせいか誤解されやすいようです。

弁財天1
 「ポロ~ン♪」
弁財天2
 「・・・・・」さすがアーティストの弁天様、独自の世界ですね。しかし五輪真弓さんに見えてしようがないのですが・・若い方はわからない?年がバレる・・。

恵比寿1
 「えー・・どっかの釣りバカじゃ。もとい恵比寿じゃ!今日の鯛は活きがいいのお!」関西方面の方ですと「えべっさん」の方が通りがいいとおもいますが。
 「恵比寿様!お願いだから見逃して!私には老いた両親も妻も子もいるんです!」と鯛さん。
 「大丈夫大丈夫、悪いようにはせんて」と恵比寿さま。
 「そんなこといって・・いっつもお造りにするくせに。」
 「お造り?わしゃ、そんな野蛮なことはせんよ。そんな生きたままさばくなんて。今日は愛媛名物の「鯛飯」じゃ!」
 「・・・・・・」鯛さん考え込みます。
恵比寿2
 「やっぱり食べるんじゃないかーーー!!!」逃げようとする鯛さんの尾っぽを笑顔で押さえ込む恵比寿さん・・悪魔に見えてきました。

 まあ、お遊びはこの辺にしておいて本題に戻りましょう。静勝寺自体は以前の記事で紹介していますのでそちらを参照してください。
静勝寺入り口
 お寺入り口です。
 
道灌堂
 毎月26日にご開帳となりますが、7月26日は供養際も開かれるようです。さすがに夕方までは時間が割けないので木像だけ見てきました。

道灌公木像1
 こちらが太田道灌公木像、作られたのは江戸時代、道灌公のご子孫が追善供養のため造ってもらったとか。
道灌公木像2
 着ておられる着物は「道服」、剃髪した武将が来ていた着物のようです。片膝を立て、脇には刀を置き、手には「払子(ほっす)」といわれる仏具を持ち、眼光鋭く前方をひたと睨み据える・・・さすが関東の名将の風韻がただよっていますね。最近のそれがしのパソコンの壁紙にこの画像を使っていますが、立ち上げるたびに睨みすえられるので5回に1回くらいは頭を下げてしまいます。

小道灌公像
 下には太田酒造のカップ酒と小さな道灌公のブロンズ像がありました。字が左から読めますから戦後のものでしょうね。恐らく朝倉文夫先生の作品だと思われます。未確認ですが・・。

 今回はここまで・・次回は武蔵国の鉢形城からお送りします。

群馬県太田市の城郭~築城の陰に軍師あり!~後編

 今回はいよいよ金山城の最終回、本丸部へとお連れしよう。
本丸部地図アップ
 5番の馬場下辺りからいってみよう。

馬場下通路
 この石段を登って・・
物見台への道
 前回渡った木橋を横目に見ながら少し戻ると・・
物見台
 おお!再現された物見台がありますな。早速のぼりましょう。
西方向
 まずは西方向。ずっと行くと伊勢崎市です。
北西方向
 北西方向です。中央の丘陵が「八王子丘陵」といいます。金山の南にも「八王子山」があるんでややこしいですね。

 戦国時代、関東管領・上杉憲政が小田原北條の圧迫に耐えかねて越後の長尾景虎にかけこみます。関東に平安をもたらすべく景虎は関東に乗り込みますが、その際この金山城にも攻め込んできました。城主は岩松氏から下克上した横瀬氏が由良氏と名を変えていましたが、北條に味方していたので篭城して越後軍を迎え撃ちます。
 八王子丘陵の一角「広沢山」に陣取った越後軍は包囲して、金山城唯一の弱点ともいえる北側の尾根伝いに攻めかかりますが、さすがの鉄壁ぶりに攻めあぐみます。
 また城下の住民らもこのままでは累代の城主が滅ぼされてしまうことを危ぶみ、世良田の長楽寺らの住職らが動き、景虎に和睦交渉を談じ込みます。城方も降伏する時機を図っていたので渡りに船と人質をだして開城しました・・という話をある本で読んだので裏をとろうとしたんですがどの郷土史にもはっきりとした話はございませんでした・・地図上では「広沢山福厳寺」というのが八王子丘陵の北面にあるのでその地域で聞き込みすれば何かでてくるかもしれませんが、今回はそこまで行く時間はございませんでした。
八王子山砦
 南部に目を転じると八王子山があります。三つの山が連なった形です。黄色い輪をつけたのが「大八王子山」、赤い輪が「中八王子山」、青い輪が「南八王子山」です。帰りはこの山を通って下りていきます。
 さあ、本丸へむかいましょう。

馬場曲輪
 馬場曲輪です。ここに足軽達が攻めてきました。
  足軽  「かしらぁ!ここからどっちへ攻めりゃいいんだ?」
  足軽頭 「おっしゃ!左にいけ!」左の赤い矢印方向に攻め込んでいくと・・
大堀切
  足軽頭 「あれ?行き止まり??」
  足軽一堂「そんなぁ!!!」行き場を失った足軽達は追いついてきた城方によって全滅させられてしまいました。間抜けな上司に付き従うとろくな事ありませんね。
 この先は金山城最大の堀切が深くて暗い口をあけて待ち受けています。正解は黄色い矢印方向でした。
月の池方面
 降りて行った先は・・
月の池
 この城で二番目の水源「月の池」です。振り返ってみると・・
大堀切の横から
 あのV字型の切れ込みが「大堀切」です。深いなぁ・・。
水が湧く・・
 池の水面を見ると水が湧いているんですよ!250メートルもの標高があるのに、凄いですね。これぞ堅城の証です。

発掘現場
 右手の斜面を見るとブルーシートで覆われています。まだまだ発掘途中なんですね。この城の全貌が解き明かされて将来さらに整備されていくのでしょうが、あまり整備されすぎるのも山城としての野趣が削がれるんですがねぇ・・。

大手虎口全体像
 いよいよこの城最大の見せ場「大手虎口」全体画像です。
大手虎口イラスト
 今いるのは一番下の部分です。
水路
 黄色い矢印を登っていきますが、雨を流す用水路も完備していたようです。
見上げた絵
 上を見上げると石垣が多用されていますね。関東では本当にめずらしい。熊本城にはかないようがありませんが、石垣のかもし出す迫力はたまりませんね。

大手の井戸1
大手の井戸2
 登ったところにまた井戸があります。覗き込んでみましょう。水がたたえられていますね。呑むことはできませんが。城跡の井戸で水を飲めるところってないですよね。浄水器でも使って水を飲めるようにすればいいのに。井戸の水でいれたお茶やコーヒーって飲みたいですよね?

日の池
 そして最大の井戸「日の池」です。向こう側に置かれたベンチでその大きさを察してください。

 この辺りに休憩所がありましたのでお邪魔しました。なんと靴を脱いで上がれるようになっておりましてブーツを脱いですっかりくつろぎながら弁当を使いました。

金山眺望図2
 冬には富士山が見えるという方向を最大ズームで撮ると丸の中に富士山らしきものが・・見えるような気がするんですがね。いかが?

 本丸部はすでに紹介済みの新田神社ですのでさくっといきましょう。
本丸址
 神社拝殿脇にあります。

史蹟金山城址
 拝殿と石碑と・・。

本丸からの眺望
 本丸からの眺望です。黄色く囲ったのが足利市のあたりです。ほんとにお隣さんなんですね。仲悪かったけど。
天主曲輪説明板

 本丸の脇からその裏側に廻ってみました。
天主曲輪裏馬場1
天主曲輪裏馬場2
 上の建物が新田神社の本殿です。やや広めの敷地ですが、このあたりに馬小屋が置かれていたそうですね。なるほど下界の音が通らない静寂の森です。

 もうすこしいきましょう。
石垣(金山裏)
 苔むした石垣がいい雰囲気ですね。あくまで城好きとしての見方ですがね。
モノクロ石垣
 モノクロで撮ってみました。

本丸と二の丸間
 本丸と二の丸の間も細かく区切られていますね。ここまで攻め込まれたらあとは腹を切るだけでしょうがね。

 本丸を南側に下っていく途中には・・
本丸南端石垣
 またしても石垣がつまれています。足元が不安定なところなので強いて撮ることもなかったんですが、ついついね。

岩の苔
 降りてきた斜面には石にこんなに苔が生えています。それだけ山中に湿気があるということですね。雨の日には下るのは危険ですね。

八王子山への橋
 八王子山への道をたどりましょう。この橋を渡ると・・
た・・高い・・
 高いですね。10メートルはありましたかね。

八王子山への登り道
 こちらから道も細くなり、藪も多くなり、斜面もきつくなって山道らしくなってきました。
八王子山の斜面
 きつい斜面だなぁ・・足元が不安定で端がぶれてしまいました。
中八王子山矢倉台説明板
 中八王子山のあたりなんですけどね・・茂みが濃すぎて何がなんだか・・ここまで登る人少ないんですね。確かに一人で登るにはやや恐いあたりですね。道も分かれているところがあって、持参した地図とコンパスで方向を見極めて進むところもありました。

本丸方面
 やっとふもと方向が見えてきました。さすがにほっとしましたね。丸く囲ったあたりが本丸です。

ヤマユリ
 途中にはこんなに見事な山百合も咲いていました。

金山と蛇川
 金山と蛇川(へびかわ)をいっしょに。山の中は涼しいんですが、このあたりは暑かったですねぇ。

おおたん
 最後に太田市のマスコットキャラクター「おおたん」の石像です。何がモチーフなんでしょうね?

 天正13(1585)年、北條氏政が金山城主の由良国繁らを小田原に招き寄せて幽閉。金山城に残った人々に「主人を釈放して欲しければ開城しろ」とおどす手紙をおくりつけてさらに弟たちに軍勢をつけて送り込みます。国繁の母・妙印尼は家老らに発破をかけ、兵を集めて篭城して、北條軍の攻撃を退けました。幸いにも房総半島の里見氏が海を越えて鎌倉に攻めこむ様子でしたので北條軍は撤退します。
 無事に城を守りきった妙印尼は馬場曲輪に将兵を集めて酒と肴でもてなしたそうです。さすが「かかあ天下」の国ですね。結局のところ、北條に城を明け渡して、北條滅亡後は廃城になってしまいました。
 江戸時代は松茸がよく獲れて、江戸に献上していたそうです。

 次回はどこの城址でしょうか?
プロフィール

サムライ銅像研究会

Author:サムライ銅像研究会
歴史と銅像と芸術が大好きなあまり、日本各地を東奔西走する銅像・史蹟ハンターである。神出鬼没なため、脈絡無しのブログ更新を続ける。掟はただ一つ!「死して屍拾うものなし!」昔の時代劇の決め台詞だけどね・・皆さん、見てやあ!
 最近、キューピーに侍の装束を着用させる遊びをやっております。「武者ピー」と呼んで可愛がってやぁ~!以後は「キューピー甲冑師」とも名乗ります。

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