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群馬県太田市の城郭~築城の陰に軍師あり!~前編

 今回はいよいよ金山城を紹介しよう。ただ、画像の数が多いので前・後編にわけるのでご了解ありたい。

 まず太田の地名の由来だが「太田市歴史年表」によると・・
  「平安時代末期、天仁元(1108)年の浅間山大噴火により荒廃した土地を新田義重が開発し、「新田庄」を立庄。以後正式に新田家のものとなり、どんどん開発していったことで「大いなる耕田」つまり「大田」がいつしか「太田」となったとのこと。

 更にその太田市にそびえ立つ金山城が作られたのは文明元(1469)年、新田の後裔である岩松家純が長楽寺(太田市世良田)住僧・松陰西堂(しょういん・せいどう)に縄張りさせて築城した。松陰が書き残した「松陰私語」(別名「五十子記」)には
  「家純の代官として(松陰は)造営にあたり、鍬始め、地鎮祭を古儀によって実施した後、70余日間、休むことなく走廻して完成させた」とあり、同年8月吉日に屋形・家純が入城、とある。
 つまり文明元年の遅くとも5月下旬には工事を始めたということだろう。70日余で完成させたにしては城内は立派だが、小田原北条が豊臣秀吉により滅ぼされる天正18(1590)年までの121年間断続的に工事が続けられていただろうから、ごく初期の金山城とはかなり趣を変えているにちがいない。

 松陰西堂とは何者か?はっきりとしたことは不明だが、足利学校で学んだこともあるようであり、後の文明10(1478)年7月には太田道灌公も金山城を訪問し、「近比名城(近年にない名城)」と絶賛している。道灌公と足利学校で共に学んだ仲という説もある。
 前出の「松陰私語」を読んでいると兵法書「李衛公問対」からの記述が頻繁にでており、松陰自身も兵法に通じていることが明らかであり、また岩松家の兵を率いてしばしば戦場往来をして指揮官として活躍していたようだ。
 さらに埼玉県本庄市の増国寺には松陰の墓と位牌があるが、その位牌には「前惣持当寺中興開山新田松陰西堂禅師」とある。新田岩松家の一門の出身ということではないだろうか、さらに戦場でもしばしば「我は新田松陰軒なり!」と名乗りをあげていたようだ。しかし血の気の多い坊さんだなあ。彼のことは今後も追い続けていきたい。
 
 さて、長話はこれくらいで画像をみていこう。

金山の湧水
 前々回の大光院から緩やかなのぼり道になっており、道路わきには金山からの絶え間ない水の流れが小川となって用水路を流れている。これをみても金山城は水量豊富な城ということが理解できる。

金山全体図
 ここで金山城域全体をみてみよう。これは国土地理院の二万五千分の一地図を二枚(上野境と足利南部)使って拡大コピーしたり、継ぎはぎして作製したもの。

金山城詳細図
 こちらは「群馬の古城 中・東毛編」(山崎一 著/あかぎ出版)に載っていた地図を拡大コピーしてサインペンで注釈を加えたもの。今回廻るところをさらに拡大すると・・
前編部地図
 こんな感じ・・黄色く塗った道路を登って駐車場まで登り、山頂部を西の端までいってから、東の本丸部に向かうまでが今回巡るところ。わかる?わかりやすいようにけっこう工夫してるのよ。

ガイダンス施設
 道筋沿いに登っていくと、こんな派手な建物が出迎えてくれる。ここは金山城のガイダンス施設(無料)で、中には金山城からの発掘物が展示されてあったり、15分ほどの映画が上映されていたり、きめ細かく色々教えていただける。ここでガイドマップを貰うこともできるので、格別用意しなくてもかまわない。さらに土日に伺うと、お土産がいただける。それがしは竹炭をいただいた。燃焼温度が低いので炊飯などの調理には使わずに吸湿・脱臭用にお使いくださいとのことだったので、今それがしの部屋で脱臭用においてある。
 施設の裏手が本来の大手筋とのことで、険しいが道もついているので登攀可能だが、現在太田市教育委員会により発掘中とのことで、一部入れないところがあるとのことだったので、元の道筋に戻った。

桜の井戸1
桜の井戸2
 この井戸は金山城の南部にある八王子山砦の将兵のための井戸だったようだ。確かに水が湧き、辺りは湿っぽい空気である。ちょうどガイダンス施設の道路挟んだ真向かいにある。

 しばらく登ると・・
金山公園入り口
 やっと入り口ですな。道路左右の鬱蒼としげる樹木のおかげで快適に登れる。さらにここから緩やかな登りが続きます。
車道
 曲がりくねりながら登り、
見おろした道
 登ってきた道を見下ろします。黄色い矢印は登りの方向です。

 ふと見上げると・・
道路脇の石垣
 おお!ついに石垣ですよ!急にテンション上がってまいりました!
大手口1
大手口2
 昔はこの急峻な坂を登っていきます。現代の楽な道で助かりますなぁ・・。

 やがて地図上のモータープールつまり駐車場に到着します。そこにも展望台がありましたが、しょぼいので西の端にある「見附出丸」にむかいましょう。もう平坦な道です。
見附出丸の眺望
 爽快な眺めですね。弁当をつかいたいところですがまだ我慢・・。
八王子山など
 眼下を見おろすと、右の黄色い輪をつけたのが前回訪れた高山神社。左の赤い輪が八王子山一帯です。これらの輪は画像処理なので実際は緑の山ですよ。
東武太田駅前アップ
 さらにぐっと寄ると太田駅前がみえます。黒丸のところに「太田駅北口」とあります。左右の塗りつぶしは某有名企業なので、伏せました。
見附出丸説明板
 ここで西方面から登ってくる愚か者・・もとい敵を迎撃するわけです。敵勢の動きもすぐにわかりますね。

 ささ、本丸方面にむかいましょう。
本丸方面への道
 矢印方向に登ります。万一、見附出丸が突破されても道の両脇が盛り上がっており、一度に少人数しか通れないように工夫されていますね。両脇から弓矢や鉄砲玉、石や時に熱した糞尿など浴びせかけたのでしょうか?

史蹟金山城址
 このあたりは「金山西城」ともいわれています。矢印は見附出丸方向です。
史蹟金山城址からの眺望
 先ほどの眺望がより高い所から望めるのがお分かりいただけますか?

矢倉台への道
 右の岩場の向こう側が駐車場のあたりですね。
削られた岩
 岩の表面が一様に滑らかですね。この岩を削りだして石垣とし、また岩陰をなくして敵や間者(スパイ)が潜むところを減らしていきます。
 前掲の「群馬の古城」によれば・・
  「金山は輝石安山岩から構成され、・・(中略)・・工事に相当な困難があったと思うが、これがため急傾斜は長く保持され、廃城後も遺跡の保存がよい。」とある。これこそが金山城が関東では珍しく石垣を多用した城であり、また保存状態が極めて良好ということなのです。分かりやすい本ですね。

 さらに進むと・・
塹壕石碑
堀切説明板
 石柱のほうが古い標識でカラーが最近設置されたものですね。同じ窪みでも「塹壕」と「堀切り」・・軍隊用語と最近の専門用語の違いが見て取れますね。
堀切見おろし
 実際の堀切りです。これで西城と本城の西矢倉郭を分断しています。同じものがこの先にもう一本あります。

スカイツリー?
 途中、南に視線を転じるとはるか向うに東京方向がみえます。カメラの最大ズームでは・・丸く囲った所がスカイツリーですかね?冬の空気がきれいな時期ならさらにはっきりわかるでしょう。

馬場下通路への道
 石畳の先を抜けると・・
馬場下通路
 馬場下通路ですね。岩盤を掘り崩して土橋をかけています。
削られた岩盤
 右上のあんな高い所から掘り崩したんですね。重機も無い時代にすごい難工事ですね。右上に物見台がみえます。そこからの眺めが絶景でしたが、それは次回・・。

土橋石垣1
土橋石垣2
 土橋を通って石垣に登るとこんな風に見えます。
石垣からの眺望
 やあ!絶景ですな!でもこんなものじゃない・・。

竪堀全体像
 土橋先の竪堀です。青い矢印方向から敵が攻めてきても左右から撃退できます。でもこんな斜面を刀や槍を担いで甲冑つけて登るなんて・・それだけでたまらんですな。
木橋
 竪堀の上を横切る木橋です。いざという時は橋を壊してここで分断します。


 ちょっと首を右に90度傾けて画面を下にスクロールさせてください。
木橋パノラマ1
木橋パノラマ2
木橋パノラマ3
 竪堀の上を横切る木橋がパノラマに見えてきませんか?ダメ?う~ん、考えてみたんですけどねぇ。まあ、心の目で思い浮かべてください。

虎口全体像
 今回の最後に木橋を渡った先の石垣上から撮影した全体像です。黄色がそれがしの進行方向であり、城方の動線です。青が敵の侵攻方向です。これだといかに敵を防ぎやすい構造か分かりやすいと思うのですが・・いかが?

 さて次回はいよいよ本丸(新田神社のある辺り)へむかいましょう。そこがまた石垣を多用した中世城郭の傑作であり、また絶好の眺望が望めるところなのです。では、また次回!
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群馬県太田市の神社など

 前回に引き続き、太田市内の神社を紹介し、また市内で見かけた太田市ならではのものもあわせて紹介していきます。

 東武・太田駅前を東西に走る街道を西へ歩き、五分もするとこんなものが・・
太田宿本陣跡
 ここに太田宿があったんですね。この裏手は群馬大学のキャンパスです。

 少し西に行くと、
高山神社参道
 北へ向かってまっすぐ石畳が続いています。地図で確認すると、この日の第1目標のある神社への参道のようですので、北上します。
新田パン煙突
 途中ふと見上げるとこんな煙突が・・太田市内ならではですね。パン屋さんまで「新田」、お休みのようでパンを焼く香りはありませんでした。残念・・・。

太田の春日神社全容
 参道の脇に神社の鳥居がありましたので、寄り道・・
春日本殿1
春日本殿2
春日由緒
 随分立派な木彫と思ったら、新田家が勧進して祀っていたのですね。今では村社のようですが、往時はもっと広大な境内だったのかもしれません。
春日の狛犬
 拝殿前の狛犬殿に別れを告げて北上します。しかし凄い目力・・というより飛び出ていますが、昭和50年代に新しく地元の石材屋さんが設置されたもののようです。

 DSCF1013_1.jpg
 参道の奥をちょっと右に曲がると「高山神社」の階段が出迎えてくれます。昇ると・・
高山神社拝殿
 祀られておられるのは「高山彦九郎命(たかやまひこくろうのみこと)」、江戸末期の人で(1747年6月15日生ー1793年8月4日没)熱烈な尊王運動家でして、後に「寛政の三奇人」といわれております。
  (他の二人は「海国兵談」を著した林子平と国学者の蒲生君平)

 その時代、「奇人」とは変人ではなく、「凡人にはできない大きなことをなす人物、またなそうと志す人物」であり、言い換えるなら「寛政の三偉人」でありましょう。
 実際、徳川万歳の世の中では「尊王」を説く事は大いなる危機であり、庄屋を務める実兄とは絶縁状態になり、故郷の太田に居られなくなり、日本全国を尊王を説いて、後の「尊皇攘夷」の気風を育てる源泉ともなります。ただ彼の家族は実兄からいじめられて難儀したそうです。
 彦九郎の交友の範囲は広く、上は公卿から下は街道の追いはぎまで彼の誠に満ちた人柄に打たれぬ者は皆無であったといわれます。
 更に当時「吉兆の証」といわれた藻が生えた亀を時の「光格天皇」に献納し、その時の感激を歌った和歌
   「我を我と しろしめすかや すべらぎの 玉の御声の かかる嬉しさ」
 は「愛国百人一首」に納められました。
鶴丸紋と丸十
 拝殿や本殿の屋根には鶴丸紋や丸十紋など薩摩・島津家ゆかりの紋が配されています。実は当時「他国人は生きて入れない」といわれた薩摩にまで彦九郎は潜入しようと国境まで赴きますが、20日間以上待たされた挙句、すげなく追い返されます。(この神社の創立に薩摩が関わっているかは未調査なので不明です。)
 その後、幕府にそのことを察知され、友人・知人や故郷の家族らに迷惑をかけまいと久留米の友人宅で自害し、その激動の生涯を終えます。

 現代では忘れられがちな人物ですが、その数奇な人生は知るに値します。さらに長州の吉田松陰の号「松陰」は高山彦九郎の法名「松陰以白居士」に由来します。幕末を大きく回天させた吉田も高山の生涯に感銘を受けたということです。
高山神社扁額
 今ではひっそりとした神社ですが、東武・世良田(せらた)駅近くに「高山彦九郎記念館」がございます。今回は行きませんでしたが、いつか行きたいものです。
  (彼の生涯を知りたくなった方は吉村昭先生の「彦九郎山河」という小説がオススメです。吉村先生は題材に対して徹底した文献渉猟と現地への取材を心がけられ、作品世界の中でも史実を尊重したフィクション世界の構築に意を注がれておられました。とても良心的な歴史小説家の一人です)

 高山神社を後にしていよいよ金山城址を目指します。前回紹介した「大光院」に向かう途中にこんな石橋が・・
太田市内の石橋
 徳川の葵紋が彫られていますね。「大光院」への道筋ということなのでしょうか?これもまた歴史の証人、大切にしてほしいですね。

 金山城址の様子は次回に紹介しますが、今回は山頂の「新田神社」を紹介します。川崎市の新田神社、大田区の新田神社に続いて三番目の新田神社です。
新田神社の大ヒノキ
 参道の途中にこんな大木が出迎えてくれます。
大ヒノキ説明板
 なんと樹齢800年以上ですか!ということはこの木を新田義貞公も金山城を訪れた太田道灌公も大きさは違えど見たのかも知れません・・いいしれぬ感動が押し寄せてきました。何枚か撮影しましたが、偉大すぎてうまく伝えられないので、実際に登山してこの木のオーラを感じ取って頂く方がいいかと愚考します。
大ヒノキ全貌
 大ヒノキの全容はこんな感じです。上のほうがハレーションを起こして白っぽくなっていますが、眺めているうちに心を洗われたような気がしました。
新田神社拝殿
新田神社・扁額
 金山は城が築かれる前は「新田山」と呼ばれていたようです。近年の発掘調査でもその頃の遺構は発見されていないようですが、近くに新田庄があることから新田領内のシンボル的な山だったのでしょうね。
新田神社からの眺望
 新田神社から遥かに下界の太田市内が見渡せます。もっといい眺望画像もありますが、それは次回・・。

 では、また!

群馬県太田市の銅像と寺院

 昨日、群馬県太田市に聳える金山城址を登ってきた。遺構があちこちに残っている楽しい城址で、調子に乗って300枚以上も写真を撮ってしまった・・どうしよう?そうだ!わけていこう。

 ということで今回は太田市にある銅像と寺院を紹介していきたい。

 この夏も「青春18キップ」の季節がやってきた・・山手線の始発に乗ってまず上野駅へ・・金曜日明けの始発は酒臭くてかなわない・・上野駅からは高崎線で高崎まで、高崎から両毛線で伊勢崎、伊勢崎から東武線に乗り換えて太田駅まで・・3時間かかった。駅前で出迎えてくれたのが・・
新田義貞と脇屋義助
 「新田義貞公と脇屋義介」像です。作者は高崎の彫刻家・分部順治(1911-1995)先生、東京美術学校(現・東京芸術大学)で木彫を学び、日展の理事なども務められた。他の作品などは特に調べていないので、この銅像をよくみていこう。
新田義貞1
新田義貞2
 鎌倉武士の威風凛々たる様が表現されていますね。その引き結ばれた口元には内心の断固たる決意がみえております。どこぞの首相の口元のだらしなさと比べたら・・・
脇屋義助1
脇屋義助2
 一方、こちらは仕える主人の意を汲もうと全身に神経を行き渡らせつつ、静かに控えている脇屋義助・・このお顔立ちも凛々しいですね。ここまで美しい主従像は見たことありません。この二人の姿に現代人が忘れた日本人の美意識が漂っているような気がしてなりません。アメリカ人にはわかるめえよ・・

大光院・吉祥門
 駅から30分ほど歩けば、市内で最大の浄土宗寺院「大光院」の吉祥門が出迎えてくれます。この寺は慶長18(1613)年に徳川家康により創建。徳川家は以前「松平」の姓を名乗っていましたが、今川家と手切れした後、新田家の末流「得川」家の系図を入手し、以降「徳川」となのります。
 その真偽はともかく、新田家は徳川家の先祖という訳で新田家の祖・義重(よししげ)公を追善供養するために義重公の法名から「大光院」と名づけ、浄土宗の18学問所の一つに認定します。その後は代々の将軍家により庇護され、大変に繁栄します。
 地元の方からは「呑龍(どんりゅう)様」と呼び親しまれています。初代住職の呑龍上人が近隣の身寄りの無い子供たちを集め、「弟子にする」という名目で養っていたことから「子育て呑龍」様と慕われていたことから今なお「呑龍さま」と呼ばれているそうです。
 幕末の頃には水戸・天狗党が押し寄せて「天下の為に攘夷をする。金を出せ!」と押し込み強盗同然に金品を獲られてお寺や太田宿の商家などは難渋したそうです。
 (水戸って、「大日本史」で後の尊王の土壌を作るけど、その議論好きな性格が災いして小さく分裂して日本中をかき回すだけかき回してねずみ花火みたいにパッと散っちゃいましたね。ほんま、しょうもない連中だ)

 ま、大光院の境内を見て行きましょう。
大光院・手水舎
 手水舎だけでこの豪奢な造り・・木彫部分は網で覆われてよく撮れなかったので他の部分を見ていきましょう。
大光院・水盤
 水盤というんでしょうか?四隅を童子が支え、上には新田家や徳川家の家紋が彫られています。
手水舎の柱
 柱にすらこのきめ細かい彫り・・ため息がでます。
 
大光院・本堂
 本堂もまた巨大です。渡殿で続く向うには・・
新田寺
 新田寺という別のお寺が境内にございます。
新田寺扁額
 この中の木彫がまた素晴らしいのですが、実際に見に行くことをオススメします。
新田寺と松
 樹齢ウン百年の松・・すごい枝ぶりですね。
大銀杏
 他にもこんな大木が・・銀杏かひのきか確認していませんでした。不覚・・境内を見て歩くだけなら特に拝観料はいりません。京都だったら数百円はいりますね。
 隣の足利市には「ばんな寺」もありましたね。
ばんな寺1
ばん阿寺本殿
 足利と新田はかつてライバル同士でしたが、今ではこんなにも立派なお寺が両市にございます。車で出かけられる際は両方参拝されることをおすすめします。

 太田市は富士重工の企業城下町でもあります。その前身は中島飛行機・・旧軍に多くの飛行機を提供しています。その創立者が・・
日の池と中島胸像
胸像アップ
 「中島知久平」胸像です。こちらは今回登頂した金山城址の本丸近くにある「日の池」の前にあります。後の丸い井戸が「日の池」ですね。
 中島飛行機といえば戦闘機「隼」、夜間戦闘機「月光」、重爆撃機「呑龍」など印象的な名前・・ん?実は大光院の「呑龍」さまから爆撃機の名前が付けられたとか・・草葉の陰の呑龍上人も苦笑しておられたのでしょうか?
 (この会社がなければ「加藤隼戦闘機隊」とかの名曲もなかったんでしょうねえ・・)

 金山城址を下りた後、新田義貞公の供養塔がある曹洞宗「金竜寺」を伺いました(臨済宗だったかも・・)
義貞院1
義貞院2
 境内の一角に「義貞院」があり、義貞公の木像もございます。薄暗くて遠くてよくわかりませんでしたが、衣冠束帯姿で座っていた木像でした。
 奥にある供養塔は・・
新田義貞供養塔
 一番奥の高いところにある石塔がその供養塔です。周囲には新田氏の岩松氏や由良氏のお墓もあります。
 (この供養塔をもっとアップで撮影する時、カメラが故障したわけでもないのに、高感度撮影したにもかかわらず、画面が真っ暗になってしまいました。これは義貞公らが「撮るでない!」と叱責されたと受け止め、画像を消去して一礼して立ち去りました。・・信じるか信じないかはあなた次第!)

 今回はここまでです。次回は太田市内の神社をいくつか紹介します。では、また!

大田区の新田神社

 今週末土曜日に群馬県太田市の金山城に行く前に大田区にある新田神社にいってみた。というのも太田市は新田義貞公の故地であり、館跡や挙兵した生品玉神社など所縁の場所が沢山あるからであり、金山城に登る前に挨拶をすましておかねばならないからである。
 小さなお社かと思っていたら、ここが意外に大きくて驚いた・・

新田神社・大田区
 JR蒲田駅から多摩川線に乗り換え、2つ目の「武蔵新田(むさしにった)」駅で降りて、駅前の商店街を少し歩くと「新田神社」に到着しました。
新田義興公
 恩祭神は「新田義興」公、新田義貞公のご子息で父親亡き後も南朝の勇将として戦い続けたものの、神社近くの「矢口の渡し」で討たれた、とのこと。
新田家の家紋
 灯篭にも新田の家紋「丸に一つ引き両」が燦然と輝いております。しかし、金のある神社だな・・。

新田神社の拝殿・大田区
 まずは参拝です。ん?左に巨大な矢が・・
破魔矢の由来
 なんと!こちらが破魔矢発祥の地とは存じ上げませんでした。しかも平賀源内さんが考案したとは、さすがのやり手ですね。

うなる狛犬1
 拝殿の脇には古い狛犬が・・「唸る狛犬」ですか。新田義興公の敵である足利家や畠山家の人間が近づくと雨が降り出すんですね。雨が降らなかったので、それがしは敵とは認められなかったようです。雨のひとつもほしい陽気でしたがね。

うなる狛犬2
 足元の小さい狛犬が可愛いですね。

 本殿の裏には・・
義興公の円墳
立ち入り禁止!
 義興公のお墓なんですね。立ち入ると災厄がくるとのことで周囲を囲ってあるのですね。あえて立ち入る「たわけ」もいないでしょうがね。

 他には・・
手水屋
 手水屋や・・
宝物殿
 宝物殿もございます。宝物殿は毎年10月10日のみ公開されるんですね!またいきましょう。

 境内のご神木は・・
ご神木1
DSCF0742_1.jpg
 樹齢700年を超える欅とは・・古いですね。裂けていますが、生命力に溢れていますね。最後にこの画像をお送りしましょう。
ご神木2
 神々しいお姿です。

 これで心置きなく金山城にいけます。では、また!

臼井城(千葉県) 道灌が泣いた城~攻略編~

 今回はいよいよ臼井城の中に入ろう。
臼井城案内板
臼井城図
 公園の入り口にこのような説明板がある。親切にも城の図面もある。
臼井城手書き図
 手書きの地図だとこのような感じ。公園化されているのはⅠとⅡの郭、外側にⅢの郭にあたるはずだが、宅地化されてしまい、地名に「外城(とじょう)」が残るのみである。

DSCF0324_1.jpg
石仏
 城に入る前に残された石碑・石仏に手を合わせていこう。地元の方々の信仰の歴史がまだ残されている。素朴な石仏を見るとなごみますな。

二の郭全体画像
 まずはⅡの郭の全体画像です。このように通路と芝生が敷かれており、散策とピクニックには最高ですね。日差しが強すぎますが・・。

二の郭奥の土塁と空堀
 通路沿いに行くとⅡの郭の休憩所奥にこのように土塁とそれに続く空堀を覘き見ることができます。深いのと木立が密集しているのとで底まで見通せません。この画像で地形を感じてください。

 Ⅱの郭自体には他に見るとこもないのでこのままⅠの郭に向かいます。すると・・
土橋
土橋の説明
 二つの郭を結ぶ「土橋」が出迎えてくれます。Ⅰ側がより高い地形であることがお分かり頂けますか?二つの郭の間には・・
一と二の郭の間の空堀
 空堀です。Ⅱの郭側から見た画像で、左上の平らな部分が土橋です。なかなか深いですね。今、思うとなぜか空堀の底に下りて撮影はしませんでした。いつもだったらしているんですが、なぜか思いつかなかったんですね。ひょっとしたら地霊が止めてくれたのかもしれません。数百年前とはいえ、多くの人命が失われていますからね。
 信じるか信じないかは、あなた次第!

盛り土
 土橋を渡ってⅠ側に渡ると、左側に土が盛りあがった所にでくわします。恐らく見張り所のようなものでしょうね。Ⅰの郭こそ最終防衛拠点ですから、入ってくる者に対しての誰何が行われていたのでしょう。上ってみると・・。
盛り土から見た土橋
 左側に土橋がよく見えますね。往年は木などなく、見晴らしもよかったでしょう。

一からみた郭
 Ⅰの郭側から見下ろした土橋です。はっきりと高低差がわかると思います。左右に黄色いテープがありますが、本当は盛り土部分は上ってはいけません。良い子はマネしちゃダメ、絶対!危ないからね。

一の郭・北側
 Ⅰの郭の北側です。
一の郭・全体画像
 Ⅰの郭の南側全体画像です。かなり広いということがお分かりいただけるでしょうか。ここもやはりピクニックなどに最適です。奥へ歩いていきましょう。

宿内公園方面
 見晴らしがいいですね。まっすぐ走る道路は「千葉臼井印西街道」で右側の丘が前回紹介した「宿内公園」です。街道沿いに城や砦が配置されているのがおわかり頂けるのではないでしょうか?
印旛沼とアジサイ
 視点を北側に向けると遠くに印旛沼が見渡せます。まだアジサイが咲いていますね。本当に気持ちのいい眺望です。暑ささえなければ、ずっといたい所ですね。夜は恐そうだけれど・・。

印旛沼
 Ⅰの郭の最も北部の奥まった所からですとはっきりと印旛沼が見下ろせます。印旛沼の干拓工事が始まったのは江戸時代の田沼意次時代ですが、昔から湖沼地帯だったのでしょうね。臼井城は北側を広大な湖沼地帯を遮られていたことになりますかね。

佐倉方面
 西は佐倉市方面です。ぐっとズームインすると・・
国立民族博物館
 あれに見ゆるは「国立民俗博物館」ですね、通称「ミンパク」。ここも年に1度くらいは見学にいきます。

礎石?
 地面を見ると建物の礎石らしきものが残されています。

 さてあまりにも暑いので臼井駅に向かいます。
階段
 Ⅰの郭を降りていく途中、視線を左に転じると・・
一の郭・西側斜面
 これまたよく地形がわかるところですね。その奥には・・
二段斜面
 斜面が一度平たく切り開かれていますね。
削平された所
 この広い所にも「武者溜り」のような施設が置かれていたのでしょうか?

コンクリ斜面
 斜面の一部はコンクリートで固められていました。大雨が降った時など土砂崩れが起きては麓の住民が難儀しますからね。実際、麓ギリギリの所まで民家が建っていました。

 臼井駅に戻り、駅南側を5分も歩くと・・
一夜陣公園
 上杉謙信公が陣地を置かれていたという公園がございます。
一夜陣石碑
 こんな石碑があります。謙信公が敗北した原因はよく分かっていないのですが、配下の柿崎や北条(きたじょう)の組が城方に誘われて攻撃をかけたところ、反撃をくらって逃げ出してしまったという話が残っていますが、今回は調査していないのでそのことに関しては記述しません。

 電車に乗って1駅先の佐倉に向かい、駅前で「国立民俗博物館」に向かいます。
ミンパク
 バスで10分くらいで到着しました。中の展示物は撮影オーケーですが、ブログに載せるのは自粛します。皆さん実際に見に行かれた方が楽しめます。そのかわり・・
古代カレー
 中の食堂で食べた「古代カツカレーライス」をお見せしましょう。米は黒米で、カレーは濃厚かつ懐かしい味。カツも外側はサクサク、中はジューシーな豚肉で、御代は1000円也・・普段の昼飯にはこの値段は高すぎますね。でもおいしいですからお立ち寄りの際はお試しされることをオススメします。カレー以外にも多くのメニューがありますのでご安心を・・。

 さて今回で臼井城探索は終了です。本当はもっと沢山の画像を紹介したいのですが、実際に見に行かれた方が楽しめると思うのでこれくらいで。なかなか素晴らしい城址でした。

 この夏は関東各地に点在する城跡を探訪する予定です。今後ともご期待ください。第1弾として、来週末に群馬県太田市にそびえ立つ金山城址を攻略する予定です。ここが越後の春日山に匹敵する規模の山城なんですよね・・。
 では、また!

臼井城(千葉県) 道灌が泣いた城~地勢編~

 「おのおの方!出陣じゃ!ご油断めされるな、此度は下総国の臼井城攻めじゃ!」

芳林寺の道灌公2
 太田道灌「なに!弟が戦死した城か・・!」軍配を握る道灌公の手に力がこもる。

右から
 上杉謙信「おのれ!わしが生涯に2度、戦に敗れたうちの一度のあの城か!」馬上でいきりたつ謙信公。

 そう、今回は日本史に誇る名将2人が苦しんだ名城・臼井城を訪れてみました。

臼井駅
 という訳で上野から京成線に乗って京成臼井駅に小一時間ほどで到着。駅前は日曜のせいか、あるいはあまりに暑いためかあまり人気もなく・・。ではここでそれがし手書きの臼井城周辺図を見ていただこう。雑な地図で毎回申し訳ないが、地図や撮ってきた画像をみながら地図作成をしていると、住んでもいないのにその土地の地形に詳しくなる利点がある。
臼井周辺手書き地図
 臼井城は臼井氏・原氏・酒井氏と時代と共にその持ち主を変えていった城で、室町の文明年間頃からその存在が確認できる。城は臼井台地の東端に築かれており、その周囲の台地の端に五つの砦が造られ、防衛網を形成していたが、現在ではそのほとんどは宅地造成などで壊され、駅前の「宿内公園」のみがほぼ昔の形を保っているという。

 まずその砦跡にむかいましょう。
DSCF0267_1.jpg
 駅前から徒歩5分ほどで臼井台地の端にたどりつきます。どうですか、この高低差は。台地上は20~27メートルの標高があります。階段を昇って振り向くと・・
台地からの見晴らし
 右のマンションの向うに駅があります。
DSCF0271_1.jpg
 土手に階段がつけられていますね。この先には草っぱらがありますが、特に案内板などはありません。
DSCF0280_1.jpg
 植物のことはわかりませんので先を急ぎましょう。振り返って見るとかつての砦の全貌が伺えるかのようです。
DSCF0281_1.jpg

 公園のふもとの道は「千葉臼井印西街道」という南北に走る道、北上すると、
臼井道路元標
「臼井町道路元標」と「明治天皇臼井行在所跡」がございます。車で行かれる際や徒歩でもここを目印にするとわかりやすいですね。
 ここから東西に走る成田街道を西へしばらくいきます。曹洞宗・宗徳寺の向かいにある所をみにいきました。
権現水
 こちらは「権現水」と申しまして、徳川家康公が立ち寄られた際に水を汲んで飲まれたそうです。今では貧相な水溜りにしか見えませんが、往時は大切にされた水源だったんでしょうねえ。
 ちなみに家康の関東入りにあたり、ここには徳川四天王の筆頭・酒井忠次の嫡男、家次が配置された。だがその石高は三万石であり、他の三河出身の家臣に比べて不自然なほど小さかった。例えば赤備えの井伊直政は12万石、鹿角兜で有名な本田忠勝は10万石を超えていた。これには家康の嫡男・信康が織田信長の命令により切腹させられた事件が影響しており、後に家康に「わが酒井家の領地を増やしていただけないか?」と忠次がお願いしたところ、家康から「お前も息子がかわいいのか?」と皮肉を投げかけられたという。背筋が寒くなる話だ。結局、出羽・酒田に10万石を頂いたものの、酒井家の働きを勘考すればやはり小さいといわざるをえない。

 ここに水源があるということは・・当然、地下に水脈が存在し、臼井城の水もその水を使っていたのでしょう。

 その後、住宅地に迷い込んだもののなんとか目印の熊野神社をみつけました。神社といっても、道端のお社でしたが・・。
臼井城への道
 この道をまっすぐ行くと・・

図書の墓1
 太田道灌公の弟、太田図書助(ずしょのすけ)資忠(すけただ)の墓が出迎えて(?)くれます。

 ここで資忠殿が戦死された合戦を振り返ろう。
 文明10(1478)年に道灌公により豊島家が滅ぼされる。
 同年の12月12日に道灌公は境根原(千葉県松戸市)合戦で長尾景春方の千葉孝胤を破り、臼井城に敗走させた。 道灌軍はそのまま臼井へと進撃して臼井城を包囲。
 翌年(1479)の1月18日、道灌公にかわって資忠指揮する太田軍が臼井城を攻撃するもその堅い守りにより 撃退される。
  その間、道灌公は手勢を率いて下総を転進して庁南城(長南町)、真里谷城(木更津市)、飯沼城(銚子市)を攻略。
 同年の7月15日、臼井城が落城するも、弟・資忠以下53名が討ち死にという手痛い犠牲をも蒙る。

 年表風に書くとそっけないが、実はこの弟の死は道灌公にとって、また父・道真にとってもとてもおおきなものであったと思われる。その証拠になるかは疑問だが、同じ年にそれまで太田資長(すけなが)の名乗りを「道灌」に変え、入道した。恐らく弟と戦死した50数名の部下を弔う思いがあったのだろうが、道灌公の弟に寄せる思いはいかなるものであったか。
 道灌公の心境を語る資料はないが、資忠は道灌公に代わってしばしば軍勢を指揮して敵軍を打ち破るのに大きな功績をあげていた。特に文明9(1477)年の「勝原(すぐるはら)合戦」で長尾景春勢を負かして豊島家との連絡を断った軍功は大きい。
 また父・道真と道灌公との間には古河公方家との争いに対して意見対立があり、感情のもつれになっていたともいうが、資忠はその二人の間をよく取り持っていたのではないだろうか?後の時代の武田信虎と信玄、その弟・信繁(信虎は信玄より信繁を可愛がっていた)らの関係のように・・。
図書の墓2
図書の墓3
 この説明板によれば引き上げる太田軍に城方が襲いかかり、とって返した資忠が指揮して激しく戦い、その時に負った傷で亡くなったとのこと。
 「鎌倉大草子」からこの過程を記述した部分を抜粋すると・・
  「七月十五日陣払の体(てい)を見て城より切て出ければ、太田図書助資忠取てかへし攻戦けるが、付人に打て入城(城方の退却につけいって城に突撃すること)を終に責落す。しかれども太田図書助をはじめ・・(中略)五十三人討ち死に」とある。道灌公の慟哭が聞こえてくるようだ。南無南無・・。

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 墓を後にして、左手に深い空堀をみおろしつつ進むと・・
臼井城入り口
 臼井城の入り口が出迎えてくれます。

 さて、今回はここまで。臼井城の素晴らしい遺構の数々や眺望に感心して沢山画像を撮ったので、今回はその周辺を紹介するしかできなかった・・。次回は城内の図と画像をあわせて紹介していきたい。

 では、また!

狛犬あれこれ

 毎日暑いですなあ・・やりきれないので鎌倉にいってみた。中世史の調査にも関係しているので、もうすこしかたちになってきたらこちらにアップします。

 今回はそんな鎌倉探訪でであった狛犬たちを紹介したい。
建長寺近くの神社
 こちらは鎌倉五山のひとつ・建長寺門前の神社。地元の方以外は立ち入れないようだ。そんな神社を守るのが・・。
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 素朴な味わいです。
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 青面金剛さまもおります。頭上に日月。手には弓矢・鉾・戦輪・・足元には三猿。状態がいいですね。

鶴岡八幡宮
 こちらは鶴岡八幡宮。
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 いい味わいです。

腰越の小動神社
 続いて腰越にある「小動(こゆるぎ)神社」、腰越というと源義経がこの地で兄の頼朝に書いた手紙「腰越状」が有名。この神社は海の近く、すこし盛り上がった地形にございます。
小動神社本殿
 神社の神紋、見たことあるなあ・・と考えていると由緒書きに近江源氏の佐々木盛綱の創建と書いてありました。なるほど。滋賀県の安土駅近くにも有名な佐々木神社がありますが、こちらも所縁の地なんですな。
 そこの狛犬は・・
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 ほっかむりしている狛犬は初めて見ました。地元の方の思いを垣間見たようで心が暖まりますね。

 境内の一角に展望台があります。
江の島・遠景
 江の島ですね。佐々木盛綱もこの景色を気に入ったそうです。その気持ちわかるなあ・・。

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 境内の末社に「海神社」があります。海亀の狛犬・・もとい狛亀、小さい子がまたがれるくらいの大きさですけどダメですよ!そんなことしたら、気がつくと数百年たっていておじいさんになっているかも・・なんてね。

うん形
あ形
 最後に我が家の狛犬・・ならぬ愛犬ナナミです。近所の「穴八幡」(早稲田大学文学部近くにございます)で今朝撮ったもの。あまりに暑くて寝苦しかったので朝5時頃連れ出しました。早朝の神社は静かで涼しく、とても過ごしやすいですね。
 こうして撮ると「あ形・うん形」の狛犬みたいでしょ。画像は寝ぼけて撮ったので斜めなのはご勘弁・・。

 明日は久々の城攻め・・千葉県の臼井城跡にいってきます。では、また!

古代ギリシャ展を見に行く

 最近、中世史を調べていたのであの大英博物館から古代ギリシャの彫刻が大挙きていたことをうっかり忘れていた。
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 まあ9月25日までやっているのであわてなくてもいいのだが、今月は20日から国立博物館で「空海と密教美術展」も開始する・・銅像をはじめとして彫刻好きとしては嬉しい限りだ。というわけでいってみた。

西洋美術館
 今回の目玉はポスターにもなっている「円盤投げ(ディスコボロス)」である。なにやら美術の教科書でみたことあるような気が・・。
入り口
 他にもセクシーな「アフロディティ」などがある。できればカメラを持ち込んであれこれ撮りたかったが、当然不可能なのでどんなものかは実際に見ていただきたいが、なかなか眼福であった。

 といってもそれでは「なんのことやら?」なので幾つか仕入れた情報を書いてみよう。

 ギリシャの壷や皿には神話やギリシャ人の生活様式など色々な絵が描かれているが、なぜか皆横向きのものばかり・・。
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 この画像のような・・この壷は美術館の売店に置かれていたガチャポン(ガチャガチャともいう)で一回400円で出したもの。400円が高いか安いか・・うーん・・。
 それは置いておいて、まあ上の画像のように横向きのものが多いが、「劇的な場面や苦しみの瞬間」などの折に人物の正面からの絵が描かれていた。なるほど・・納得。

 古代ギリシャやローマ帝国でも行われていた格闘技「パンチクラチオン」にも反則技は存在したようで、「噛みつきや目潰し」をやる選手を棍棒でぶん殴ろうとしている審判の絵もあった。笑える絵であったが、周りは真面目に美術品を見ている老人や美術学生ばかりだったので笑えなかった。もうちょっと明るく見ればいいのに。

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 上のポスターの画像で丸く囲んでいるカブトがお分かりだろうか?コリントス式兜でイタリア南部で作られたものらしい。他にも胴鎧と脛あての実物が展示されていたがどれも現代人の大人が着るものとしては小さかった。見た感じ日本人の中学生くらいがピタリとあいそうだったが、兜のサイズは高さ25センチ、幅19センチ、奥行き28.5センチとどう考えても小さい。やはり栄養状況がよくなかったのだろう。これらの防具は豊かな自由市民が誂えたものなので、防具すら揃えられなかった市民はもっと痩せていたのだろう。

 美術的なベンチ
 館内で撮れるものというとこんな調度品ばかり・・なんとも芸術的な・・無理があるな。

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 この二つをお土産としてガチャポンでだしたもの・・合計800円也・・。原型製作・販売しているのはフィギュア販売の老舗「海洋堂」さん。最近の展覧会にいくと必ずこのてのガチャポンが用意されている。中には「円盤投げ」のフィギュアもあったので、そっちが欲しかったのだが運試しのものなのでこれしかでなかった。もう少し大きな3000円のフィギュアもあったが買う気にはならない。運慶の仁王像や毘沙門天フィギュアならほしいけどね。
 左は「勝利の女神・ニケ」、右は「鍛冶の神様・ヘファイストス」の神話を描いた壷。詳しいことは美術館に行って本物を見ていただいた方がいいでしょう。

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 上野からも634メートルのスカイツリーがくっきりと見える。
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 こちらは上野駅をまたぐ橋の上から撮ったアメ横方面の画像・・よく晴れて暑い日でした。密教美術展もレポートいたします。

 では、また!

道灌公の墓参り~神奈川県伊勢原市~

 太田道灌公に関する史蹟を巡り、本を読み漁り、当ブログで散々勝手なことを書いてきたためかどうも胸の内がすっきりしなかった。これはどういうことかと考えてみれば、そういえば道灌公のお墓参りを済ませていなかったことに気づいたのである。
 埼玉県越生(おごせ)町にある龍穏寺にある道灌公のお墓参りはしたことはあるが、道灌公悲劇の地・神奈川県伊勢原市糟谷は未だ訪れていなかった・・。
龍穏寺の道灌公墓
 この画像は越生町の道灌公墓です。南無南無・・。

 というわけで、バッグに数珠をいれて行って来ました伊勢原に!駅中にある観光協会で伊勢原市内の地図を頂き、色々聞き込みも行いました(ポリ公か!)
伊勢原駅前
 新宿から小田急線に乗れば1時間すこしで到着するものの、いつもの悪い癖がでて、経堂駅まで歩いてそこから電車に乗りました。本当は多摩川越えるとこまでいってやろうと考えていたものの、起伏の多い地形に難渋し、電車にお世話になりました。いい運動にはなったけどね。

 伊勢原市内には道灌公にまつわるポイントがいくつかありますが、それらも巡ってみました。まずは伊勢原市上糟谷にある産業能率大学。
産業能率大学
 この地に扇谷上杉家の居館跡があったといわれており、実際遺構なども出土しています。
上杉館址
 入り口に立つ警備員さんに伺うと、大学構内に遺構跡をしめす案内板があるので建物内に入らなければ見学可とのことでしたので廻らせていただきました。
大溝跡
 この下にかつて大溝があったようです。下に降りてみると・・
大溝跡2
 この湾曲した部分を埋め立てて、上に運動場が作られておりました。他に周囲をざっと巡ってみましたが、特になかったので大学を後にしました。ただ、地形自体は大山の山裾にあるということで盛り上がっており、また深い谷が周囲に存在し、確かに館を建てるには都合のいい場所であるとは感じました。一番重要な水源も大山をはじめとする丹沢山系からの湧き水が街中の溝を流れ込んでおり、豊富な水量であることが理解できました。ただ・・居館としては狭く感じたので、夏の別荘ならば涼しくていいのでは、とも思いましたが。ともあれ、道灌公が謀殺された候補地の一つではあります。

大山の麓・水田
 山と水田がセットで美しい光景ですね。

洞昌院
 大学からまっすぐ伊勢原市内方面に道を下って行くと、途中「道灌塚前」というバス停がございますので、そこを曲がっていくと「洞昌院」というお寺が見えてきます。お墓自体は本堂から外れた敷地ですので、本堂の画像は撮っていません。
道灌公・胴塚
 こちらが太田道灌公のお体が荼毘に付され、埋められた所です。南無南無。その両脇には・・
万里集九手植えの木
 道灌公の詩友・万里集九(ばんり しゅうきゅう)が植えられた木の根が残っています。道灌公と万里集九が実際にあって、連歌や漢詩を作って楽しんだのは道灌公が亡くなるわずか数ヶ月前・・、それでも万里集九は友の死を大いに悲しみ、墓前に樹木を植え、扇谷上杉定正が慰留したにも関わらず故郷の美濃(岐阜県)に帰っていってしまい、死ぬまで故郷を離れなかったそうです。その深い悲しみ、察するには深すぎます。

三徳殿
 洞昌院には道灌公の霊廟「三徳殿」もあります。
三徳殿の扉
 霊廟の扉には太田家の家紋・「桔梗」紋が施されております。太田家の家紋はこのほかに「かぶら矢」紋があります。
かぶら矢紋
 二つの紋の由来は太田家の先祖といわれる「源三位頼政(みなもとの さんみ よりまさ)」が「ぬえ退治」の時に帝からかぶら矢と桔梗紋のはいった装束を拝領したことによります。さらに「かぶら矢」紋は太田家嫡流しか使用を許されていなかったそうですが、現代がそうかは知りません。
 現代の永田町にも「ぬえ退治」が必要な気がしますが、国情が落ち着き、選挙ができる時を待つしかありませんね。「臥薪嘗胆」の気分です。

 閑話休題。

七人塚
 道灌塚からほど近いところに「七人塚」がございます。道灌公といっしょに討たれた忠臣らのお墓でかつては七基あったものの、現在は一つにされてしまったとのこと・・室町は遠くになりにけり。南無南無・・。

 この地では「みやび男の子の 道灌様は 花も実もある あづま武士」と地元民に謡われているそうです。

 ちなみに洞昌院近くに「太田神社」がありますが、道灌公とはまったく関係ない宗教法人ですので、うっかり立ち寄らないように。

 今度はもとの道に戻り、東名高速道路を越えたところにある「五霊(御霊)神社」に向かいます。その途中には・・。
なぜか鳥居
 なぜか鳥居だけぽつんとあります。向うは駐車場だし。とりあえず潜ってみると・・
振り返って納得
 振り返って納得!大山阿夫利神社への参道というわけですね。確かにまっすぐのぼっていけば麓に到着しますからね。

五霊神社
 東名高速を潜ったすぐ近くにこの神社が・・ん?小さい・・。この神社は事前調査では、伊勢宗瑞(北條早雲)が道灌公の遺徳を偲んで、着用していた兜を御神宝にして祀った神社なんですが・・ほんとに村社ですこしがっかり。日本史上のビッグネームが2人も関わっているのに、この扱い・・仕方ないですね。
五霊神社
 せめて扁額を見ていただきましょう。

 神社からさらにくだると、国道246号(都内でいう青山通りですな)に出ますので、道を東に行きます。
IMG_3618.jpg
 その途中、伊勢原市役所前の道灌公像にあいさつ。前にも来ましたがね。
  「おお!また来たな、若いの。今度はわしの墓参りか・・酔狂なことよなあ・・。」と言われたような気がします。ええ、酔狂をずっとやってますので。

 新道灌橋 
 市役所を後にしてさらに東にいくと「新道灌橋」と書いてますね。光線でわかりづらくてすいません。

 さらにいくと丸山城跡1
 丸山城址公園にたどりつきます。ここも近年、発掘調査が行われ、こここそ扇谷上杉氏の居館があったところではないか・・といわれているところです。確かにここなら街道上ですし、敷地を広くとることもできるでしょう。
丸山城跡2
 階段の先が高くなっていますね。
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 ああ、これはいい広場ですね。弁当持参でピクニックにいいところです。
丸山の土塁1
丸山の土塁2
 周囲には土塁が残っており。
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 眼下には住宅地が広がっております。眼下といってもそれほど高くないですが。
丸山からの大山
 広場の一角からはるか大山が遠望できます。この街は何をおいても大山ですなあ・・。

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 丸山城址公園を国道が通っているんですね。迂回とかできなかったんでしょうねえ・・仕方ない。城址の一角に前回紹介した「高部屋神社」があります。

 丸山城址を後にして路地をいくと、道灌公のもうひとつのお墓が見えてきます。
道灌公首塚1
 ここは道灌公の首塚といわれております。ここでも南無南無・・。


 さてここで道灌公の謀殺について考えてみたい。道灌公は主君・扇谷上杉定正の新しい居館の完成披露に呼ばれ、その館で殺害されたという。場所が産業能率大学か丸山城址かはどしらでもいい。館自体、謀殺後に取り壊されたろうし、確かな場所特定の手がかりもほぼ無いだろうから考古学者にまかせよう。
 所詮、素人であるそれがしはその謀殺が「愚かな主君により殺された可愛そうな道灌公」という従来型の見方がどこまで正しいか、ということである。もちろん、それがしは道灌公がすきだし、その謀殺が許せない気持ちもある。

 だが今までみてきたように上杉定正もただ愚かな男というわけでもないし、道灌公も傲慢なところがあり、それが上杉家中から嫌われていたという側面もあった。そもそも道灌公は定正の家来であるわけだから定正にしてみれば「謀殺」などとは片腹痛い物言いであり、彼自身は「上意討ち」という気持ちが強いだろう。
 実際、定正は「主君・山内上杉顕定の為に(道灌を)上意討ちしたのに、自分を退治するとはどういうことか」と書き残して憤慨している様がよくわかる。

 また道灌公自身にも油断があった。そもそも「長尾景春の乱」発生の前提として、古河公方・足利成氏と京都の将軍・足利義教・義政とが争った「享徳の乱」があるが、その説明のために南北朝動乱まで遡る必要があるためここでは割愛する。
 ただ、成氏は同じく将軍にさからった父親・持氏がわずか数ヶ月で自害したにも関わらず、成氏は28年にわたって断続的に抵抗を続けてついに両者の和睦まで持ち込んだのだ。その事実は大きく、道灌公も以後の「関東静謐(かんとうせいひつ)」の為に成氏と両上杉家との間で奔走したことだろう。その中で道灌唯一の実子・資康が元服した後、成氏のもとに出仕させたという。
 ここは注意を要するところだろう。道灌の主君は定正であり、本来実の息子を出仕させるなら定正の下にというところが筋だ。それを成氏の下にということは、単に両家の和解以上の意味を持つのではないか!更に踏み込めば成氏の武将としての男振りに道灌公も惚れ込み、実子を預けたのではないだろうか?武士が実の息子を預けるということはその子の生涯の主君を決めるということであり、道灌公の「武者の道」(「武士道」といいかえてもいい)を通す筋道として、今後足利成氏を盛り立てることで関東の平和、ひいては天下の平和を目指したのではないだろうか・・?というのはそれがしの推量にすぎないが、今後は足利成氏を調べ上げるという次の目標ができたのも確かである。

 結句、道灌公の謀殺は個人的には悲劇的だとは思うが、道灌公が謀反するまでとはいかないが主君を乗り換えようとしたことにより、上杉定正から討ち果たされた、というのが事件の真相ではないか?と思う。

 ちなみに道灌公の実子・資康は道灌謀殺後に山内上杉家に鞍替えし、生涯を扇谷上杉家との戦いに捧げ、20台半ばで討ち死にした。彼の父に対する尊敬の念や思いは察するにあまりある。道灌の孫にあたる資高は北條氏綱に寝返って扇谷上杉家を江戸城から追い出したのであった。因果は巡り巡って・・というところか。

伊勢原の水田
 無事お墓参りを終えるとなんとも言いようの無いすっきりとした気持ちになった。いわば「憑き物」が落ちたような・・。これは不思議な気持ちであった。そこで周囲を見渡すと、すでに田植えが終えられており、青い空がよく映えて美しい光景であった。今年も美味い米がとれるといいなあ・・。

 ではまた次回!
プロフィール

サムライ銅像研究会

Author:サムライ銅像研究会
歴史と銅像と芸術が大好きなあまり、日本各地を東奔西走する銅像・史蹟ハンターである。神出鬼没なため、脈絡無しのブログ更新を続ける。掟はただ一つ!「死して屍拾うものなし!」昔の時代劇の決め台詞だけどね・・皆さん、見てやあ!
 最近、キューピーに侍の装束を着用させる遊びをやっております。「武者ピー」と呼んで可愛がってやぁ~!以後は「キューピー甲冑師」とも名乗ります。

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