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神奈川県の神社・高部屋(たかべや)神社

 暑い毎日が続くが、諸氏におかれてはお健やかであろうか?それがしはそれなりに元気です。

 前回まで太田道灌公に関して散々書き散らしてきたので、何か気持ちがすっきりしなかったので神奈川県伊勢原市にある道灌公のお墓参りをしてきた。その模様はまた後日まとめるが、その途中通りかかった神社が凄かった・・今回はそのことを書きたい。

高部屋神社正面
 こちら伊勢原市下糟谷にある高部屋(たかべや)神社、創建ははっきりとしていないが前655年ともいわれる古いお社であり、相模13社のうちの一つ。「延喜式神名帳」にも載っています。伊勢原というと、大山阿夫利神社が全国的にも有名だし、伊勢原大神宮などもあるが、この神社も相当に古い。

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 中央のお山の上に大山阿夫利神社がございます。バスとロープウェーでも登れます。

 さて高部屋神社の何が凄いかって?拝殿の彫刻が凄いのである!もう鳥肌もので、それなのに村社のように見る人もいなかった!これは是非見てもらいたいと思ったのである。どんどん画像をみてもらおう。

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 まず拝殿前の狛犬殿たちです。

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 いかが?もう下手な言葉はいりません。この超絶技巧!生きた竜が柱に巻きついているかのようでしょう。

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 中にはこんな変り種の竜もいます。日本で翼つきの竜ってめずらしいねえ。なにかのゲームに出てくる竜みたい。東洋では竜=水神様だから西洋風の竜はあまりみないかも。でもある神社でも見たことあるけどどこだったかなあ・・。

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 これらの木彫が作られたのは幕末の慶応元(1865)年、まだ詳しく調べてないですがこんな凄い彫刻を名も無い職人達がやったのでしょうか?日本凄すぎます。

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 細かいとこまで作りこんでますね。

 すぐ裏手に本殿がございます。
高部屋神社本殿
 お参りしないとね。両脇には・・
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 かわいい30センチくらいの狛犬殿が鎮座しておられます。これは古そうですねえ・・。

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 神社にしては珍しく鐘楼があります。
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 神奈川県重要指定文化財なのに、今も現役の鐘だそうです。そのわりには廻り囲われていないんですが、盗まれると困るのでもうちょっと何とかしてください。世の中には仏像や新田義貞の銅像を盗む罰当たりがいるんですから。

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 拝殿に掲げられている扁額には「高部屋神社」とありますが、「幕末の三舟」の一人に数えられる山岡鉄舟の筆跡だそうです。ほんとこの神社存在そのものがお宝です・・。

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 最後に高部屋神社の由緒書を見てください。

 さ!神奈川県内の神社好きはダッシュで見に行こう!県外の方はなるべくがんばっていきましょう!!

 ではまた次回!!
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小机城~太田道灌が落とした城~

 先日、横浜市港北区にある小机城に行ってみた。太田道灌が「長尾景春の乱」の初期段階で攻略し、乱の流れを決定づけた城である。さすがに遠いので、渋谷から東急東横線に乗り込んだ。普通にいくなら菊名まで乗り、菊名でJR横浜線に乗り換えて小机までいけば目の前だが、それでは面白くない。城はその周辺地域を歩くことにより、なぜそこに建てられたのかということが体感できるのであるから(自論だが)菊名で降りてみた。

 菊名からは横浜線の線路に沿ってひたすら西に行くのみ。途中新横浜駅を挟み、さらに行く手に横浜国際総合競技場など見えるが、それらは横目にしつつひたすら歩く・・といきたいところだが、道端にまた興味深い道祖神などがいくつもあった。
道祖神
 こちらは菊名駅付近。東京ではなかなかみかけない。
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 こちらは新横浜駅付近、恐ろしげなお顔立ちで・・足元には三猿も彫刻されております。

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 こちらは小机城付近の一角にあったもの。歩いている途中、あちこちに道祖神や地蔵様が祭られていたのがとても新鮮であった。今まで日本全国色々行って来たが、一地域にこれほど多いのはめずらしいと思う。
 肝心の地形だが、あちこちに宅地化された丘陵地帯が広がっており、新横浜駅付近まではなかなか前方を広く見渡すランドスケープが得られなかった。新横浜を過ぎ、駅前のビル街や環状二号線をすぎた辺りから唐突に視界が広がる。
競技場
 こちらは国際競技場ですね。ここで幾たび名勝負が繰り広げられてきたことか・・よく知らないけど。

小机城・下から
 競技場を横目に見つつ、脇を過ぎていくとやがて小机城跡・・現在の「小机市民の森公園」が見えてきます。この画像は北側の麓から見上げた画です。登るには南側の住宅街に廻り込んでいかねばなりません。初めて行くとすこし分かりづらいので看板立ててくれるといいんですがねえ・・。

 道灌公はこの城を一月ほど包囲しておりましたが、味方の数が少なく士気が挙がらないのである歌を謡い、軍歌代わりにして足軽らにうたわせました。その歌があの有名な・・
  「小机は 手習いのはじめにて いろはにほへと 散り散りとなる」 

小机入り口
 気を取り直して短い坂道を登っていくと、入り口が出迎えてくれます。この先に「根小屋広場」がありましたが、それほど広くも無く、公衆トイレとベンチ・水のみ場などがありました。
小机城見取り図
 広場の一角にあった地図です。中に入る前に虫除けスプレーを全身にくまなく噴射しておきましょう。やぶ蚊はズボンの上から刺してくるほど強力ですからね。

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 竹の緑が目に眩しいですね。
小机の郭
 柵があるので立ち入りはできませんが、もしここを切り開けば郭になる場所です。この公園は周辺住民による「竹の子クラブ」なる団体により管理されており、週末ともなれば竹細工を指導してくださる方もおられるとのこと。
 それにしても竹の多いこと。これでは「小机城」ならぬ「竹薮城」ですな。

空堀1
空堀2
 上の二枚は長大な空堀の底に下りて撮りました。本当は降りてはいけないのでいい子は真似しないように。

空堀
 小机城跡自体は後に後北條の手がかなり加えられているので、室町時代の遺構など望むべくも無く、また第三京浜道路が南北ど真ん中を貫いてくれているので雰囲気ぶちこわしでありますが、竹林のおかげで騒音などはそれなりに軽減されており、空堀の底などは実に静かでした。下から上げていると、ここを攻めあがった兵どもの雄たけびが・・気のせいです。

二の郭跡
 こちらは「二の郭跡(仮称)」です。発掘調査による確定がなされていないそうなので仮称とのこと。

せいろう跡
櫓跡
 周辺にはこのような痕跡がのこされております。

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本丸跡までいきましょう。
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 本丸跡は少年野球ができるくらいの広場にされており、城跡を想起させるものはほとんどありませんが、片隅に小さな石碑が建てられております。

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 丁寧な看板があるのが救いですね。

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 こちらは本丸直下の空堀跡が通路化されたものです。撮影するならここからがオススメですね。
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 小机城跡自体は1時間で廻れる小規模なところですが、竹林を楽しみつつ散策できるいい所ですね。ただ、虫が多いので、虫除けスプレーと長袖・長ズボン・トレッキングブーツなどの用意は必須でしょう。軽々しく短パンなどでいかないほうがいいです。ちなみに種類はわかりませんが、ヘビもみかけました。気をつけないとね。

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 小机城を後にして、道灌公が本陣を置いてた「亀の甲山」に向かいます。こちらの中央のこんもりした丘陵が小机城です。
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 鶴見川の対岸を渡った小高い丘が「亀の甲山」です。今では山頂が削られて工場が広がっていますが、昔はもっと盛り上がっていて亀の甲を伏せたような山だったそうです。

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 鶴見川の川面を見ていると、浅いところに波がたっています。ある時、道灌軍が夜間行軍中に渡河しなければなりませんでしたが、浅いところがわかりません。道灌公は次の古歌を詠んで部下を励ましました。
  「底ゐなき 淵やは躁く山川の 浅き瀬にこそ 化波は多くて」そんなエピソードを思い出しました。

 さて、ここまで来て思いついたことがある。前回記したように豊島泰経は小机落城の際、道灌公にひそかに逃されたという伝承が豊島家に伝わっているそうだが、ならば近在の寺社になにか伝承が残っているのではないか?泰経は熊野権現を祀った神社に匿われていたのではないか?と考えて訪ね歩いてみた。

 まず伺ったのは亀の甲山にある専念寺、浄土宗のお寺でしたが、特に何もご存知ありませんでした。
 
 そこでもう少し北上した新羽(にっぱ)町に着目。地図だといくつかお寺や神社がありましたので横浜市営地下鉄沿いにある光明寺に伺いました。真言宗のお寺で明応5(1496)建立の古いお寺。道灌公死後の10年後に建てられたんですね。ここは住職が不在でして、御内儀も特にご存知ないとのことでしたが、「新羽町史」という地元の有志が纏めた本を頂いてしまいました。一度お断りしたんですが、「沢山あるから・・」とのこと。ありがとうございました。
 更に近所の西方寺(さいほうじ)なら前代の住職が元気でいらっしゃるとのことで何かご存知かもと教えていただきました。

杉山神社
 西方寺に向かう途中、こちらの神社に立ち寄りました。「杉山神社」というありふれた名前でしたが、熊野権現が祀られているかもと考えて見ると・・?
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 おお!熊野神社も祀られています。早速お参りをすまし、境内にある民家を訪ねてご在宅であった宮司さんに経緯を説明して、伝承の有無を伺うと残されていないとのこと。
 「ここは村社だからね。昔いくつか周辺にある神社を纏めて合祀したんだよね。道灌?亀の甲山に陣を敷いたとは聞いたことあるけどね、言い伝えはないなあ・・」残念でした。
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 狛犬殿は何かご存知でしょうか?

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 というわけでやってまいりました。西方寺。川崎町田街道から一本はいったところにございます。両脇の地面が苔に覆われた参道をまっすぐ行くと立派な山門が出迎えてくれます。なんと茅葺ではないですか!

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 山門には・・
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 堂々たる龍の木彫がございます。
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 本堂もまた堂々たる造り、茅葺です。西方寺は建久5(1196)年、鎌倉の笹目ヶ谷に建立、大いに栄えましたが、室町時代の明応4(1495)年に当地に移転されたとのこと。
 本堂に向かって手を合わせた後、早速訪問させていただきました。幸い、どなたもご在宅で玄関先で先代住職からお話を伺うことができました。
 結論から言えば、やはり伝承はないとのこと。このあたりは鶴見川の流域で田んぼや畑ばかりで洪水がなければ「新羽千石」といわれたほど実入りの多い農業地帯であったけれども、一度水害に見舞われれば何もかも押し流していった土地であったそうです。確かに鶴見川の流れがこのあたりを大きく蛇行していますね。
 さらに昔はこの近辺まで船が遡ってきており、収穫したお米を積み込んで江戸まで運んでいたそう。
 小机城に関しては、城下に「矢之根」という地名が残っており、道灌公の陣所から飛んできた矢が沢山突き刺さっていたという話を教えていただきました。地図をみればお城と陣所の間は2キロくらいあって到底矢が届くはずはないのですが、このあたりで激しい戦闘が繰り広げられたのかもしれません。
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 ご住職ありがとうございました。お健やかに。

 別の日、墨田区にある報恩寺で道灌公供養塔を拝見してきました。
報恩寺
 墨田区太平1丁目にある報恩寺、近くにはスカイツリーもございます。
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 こちらも「山吹伝説」の地ですか?
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 この石碑は戦後のもの。
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 太田道灌公。
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 山吹の花を差し出した娘。
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 こちらが太田道真・道灌両公供養塔です。南無南無・・。
 道灌公が江戸城築城の際、長禄2(1458)平河町に「本住院」を建立したが、道灌公の息子・資康の法名「報恩」からとって資康の息子・資高が「報恩寺」と改称。江戸時代に入り、神田・谷中と移転し続け、元禄8年に現在地に移転。

 今回で太田道灌公を巡るのは一旦終了したい。練馬・石神井公園を巡ることから道灌公の素顔に迫る旅が始まったが、歴史書を読むだけではわからないことが史蹟を訪れたり、地元の方に伺うことで更に深く知ることが出来た。これも道灌公のひきあわせか。
 最後に道灌公の書状「太田道灌状」から名言を一つ紹介しておわろう。

  「国に三不詳あり。賢人あるを知らざるを一不詳、知って用いざるを二不詳、用うるも任せざるを三不詳。このことを徳と失になぞらえれば、任と不任にあることになるのではないか。」

 この名言をも含む書状を読んだ上杉定正に道灌公は殺され、関東は戦国に続く混乱期に突入していった・・・。

江戸城の曙~太田道灌公時代~

 前々回、前回と引き続き太田道灌公の足跡を追っていこう。今回は道灌公が築き上げた江戸城を振り返っていきたい。といっても道灌公が謀殺された後、後北條家、徳川家、皇室とその持ち主をめまぐるしく変えてきたのでそんな昔の痕跡なんてないんじゃないの?というのは見方が浅井・・もとい浅い。

中世の江戸周辺
 前回同様、それがしの拙い説明画でもうしわけないが、道灌公時代の江戸周辺を「千代田区史」「千代田区の歴史」「北区史」「静勝軒銘詩並序」など様々な資料を読み込み、当時の地図など参照しつつ書いてみた。それによると昔は川筋が現在の大手門前を通って日比谷(昔は海だった)入り江に流れ込んでいたらしいが、その流れを現在の平河門前で東に流れを変えて入間川(現在は隅田川)に流入させたという。
平河門
 こちらは現在の平河門。なぜ流れをかえたのか?それは当時の江戸湊(えどみなと)の繁栄に関わる。江戸城は河越城、岩槻城と共に古河公方家への防衛線として築かれたのだが、同時に江戸湊は諸国への物資輸送業で賑わっていた。道灌公も品川湊の長者・鈴木道胤と父親・道真以来の交友を保ち、その財力を力の一因にしていた。
 「静勝軒銘詩並序」にも諸国の物資の衆参離合で賑わう江戸湊の様子が活写されている。その中で、道灌公の「足軽軍法」に関わる一説があったが、それは後述。
 平川の流れが常時日比谷入り江に流れ込むことで土砂の堆積が問題だったが、流れを変えることで江戸城下の平川村と江戸湊をつなげ、城下町をより繁盛させたのである。

 ならば当時の江戸城の「大手門」はどこだったのだろう?という疑問が生じる。現在の大手門付近は城下町が広がっていただろうから軍勢の通行に差し障りがあったであろう。
道灌時代の江戸城
 そこでまた手製の地図である。道灌公は出撃する時に現在の北桔橋(きたはねばし)門からではないだろうか。
平河濠
 うっかり北桔橋門を撮り忘れてしまったのでお濠を見ていただこう。まずこちらは平川濠。このあたりは江戸城で一番高低差のあるところだろう。五山の禅僧竜統も「塁の高さ十条余、懸崖哨立す」と書き残している。個人的にはこのあたりの風景がダイナミックで一番好きだ。武道館近くの九段坂も悪くないが、しばしばイベントなどで人ごみの多いのがいただけない。

乾濠
 こちらは乾濠で道灌公時代の面影を残しているといわれている一帯。向こう側は皇室の敷地内だからいけません。上・中・下の道灌濠もあるが、見ることができない。すこし悔しい。

旧本丸
 中に入るとすぐに徳川時代の本丸跡が出迎えてくれる。上に登っても、周りはビルばかりで格別景色がいい訳ではない。

本丸跡からの眺め
 念のため本丸跡からの眺望の一部。この先の敷地をまっすぐ突っ切っていくと道灌公の静勝軒があった所にたどり着く。

桃華楽堂全体
 こちらは昭和天皇の皇后であらせられる香淳皇后の還暦を祝って建てられた音楽堂です。ん?屋根の頂点に何かあるぞとよってみると・・
桃華楽堂部分アップ
 ひな祭りのような人形がございます。仲むつまじい昭和天皇ご夫妻の姿をかたどっているのでしょうか?下の雲の造型も含め、細かい仕事ですね。

富士見多聞
 今度はなんでしょうね。
富士見多聞説明板
 多聞長屋ですね。蓮池濠側からみた画像も欲しいのですが一般人は立ち入り禁止のため我慢・・。

富士見櫓1
 などと色々見ているうちに富士見櫓裏まで来ました。これ以上は立ち入り禁止ですのでこれが精一杯・・
富士見櫓2
 もう一息!正面側は木立が多くて天辺しか見えませんでしたが、この櫓の立ち位置こそは道灌公の立てさせた「静勝軒」だといわれ、この櫓の姿・大きさもそっくりだといわれていますが、誰か見たんかい!というツッコミは野暮ですのでやめておきましょう。
 この辺りを江戸城の迎賓館として、公家や僧侶、武士や大商人らをもてなしたといわれます。前述の鈴木道胤、詩友の万里集九らをあつめて連歌の会を催したとのこと。その時代の江戸城は活気があって、文化活動や商業活動の拠点として坂東の中心地となったそうです。

汐見坂
 さて本丸跡から汐見坂を二の丸方面に降りていきましょう。この坂の上に宮内庁の楽部があり、笙やひちりきの雅な調を楽しむことができます。練習中でしょうが。
汐見坂から
 こちら汐見坂上から見下ろす白鳥濠、ビルがはいらないように撮るのは至難です。

大手門内側から
 いったん大手門の所まで来ました。漆喰の剥落部分を見に来ました。
大手門破損部1
大手門破損部2
 中の構造がよくわかりますね。
大手門
 早く修復された姿を拝みたいものですね。

 また城内にもどり、大手門近くの休憩所で弁当をつかっているとこんなものが・・
昭和の広告
 懐かしい昭和の広告ですね。ドリンク剤や蚊取り線香のブリキ看板ほど古くないですが、30~40代の人間にはなんとも云えぬ懐かしさがありますね。早見優さんもお若いです。商品はファックスですか?初めて見たときは驚きましたが、今や個人個人がやれスマホだ、タブレットだの持ち歩く時代。隔世の感すらあります。

 そんな感傷は道灌公にはなんら関係ないですね。本題にもどりましょう。
二の丸庭園1
二の丸庭園2
 こちらは二の丸庭園、徳川時代のものを当時の図面からまた整備しなおしたものです。ここもまた美しい穴場的庭園です。なにしろ無料ですから!
 そんな庭園を眺めながら北上していくと、道灌公時代の坂道が待っています。
梅林坂1
 ここ梅林坂は二の丸と本丸跡を結ぶ坂道ですが、道灌公時代は数百本の梅ノ木が植えられ、天神様がまつられておりました。他にも多くの神社やお堂、道灌公の書斎などあったそうですが、徳川時代の拡張工事のために移転されました。天神様も今は平河町にございます。
 現在の梅林坂には50本ほどの梅ノ木だそうですが、それでも早春には鮮やかな梅の花や香りを楽しめるそうです。
平河天神
 境内には幕末頃の鳥居や撫で牛が存在しており、小さな街の博物館のようです。ここの狛犬がまた印象深いものでした。
平河狛犬1
平河狛犬2
 あちこちで色んな狛犬見てきましたが、印象深い一組ですね。何がっていわれても説明しづらいのですがね。

 話はかわってもう一つの主題に行きたい。道灌公の「足軽軍法」である。今まで道灌公は足軽軍法の名人ゆえに名将であるとの語られ方をしてきたが、ではその「足軽軍法」とはなんぞや?ということである。
 その疑問のために色々調べてきた結果、幾つかの事実が判明し、その全貌の輪郭らしきものが浮かび上がってきたといえる。以下、順を追っていこう。

 最初に判明したことは「足軽軍法」は道灌公のオリジナルではなさそうということだ。山内上杉家の家宰・長尾景仲の書き残した「御影之記」に次のような一節がある。

 「戦場に出るに百姓を夫丸と云しを、この節より改めて「新給」と号し、是より弓・鑓に加う、是のごとき者少たりとも、戦場において三度まで志を顕す者には、或は詞の褒美を出し、或は禄を与え、「本給」と号する故に、民戦場に趣く(原文ママ)事を悦ぶ、これに因って武功の者数多民より見出し物頭になす、況や直勤においておや」

 原文はカタカナと漢字混じりで読みづらいのでひらがなに直し、「」括弧や()内はそれがしが書き添えた。
この文章の意味するところはいわゆる兵農分離ではなかろうか。手柄さえたてれば取り立てられるのである。
 長尾景仲は道灌公の父親・道真公と同じ世代であり、両者とも関東で名将といわれた人物だ。

 更に、竜統の「寄題江戸城静勝軒詩序」で江戸湊の交易品のひとつに「相模の旗旌騎卒」と書かれている。これは現代風にいえば「神奈川県からの傭兵」と言い換えることが出来るだろう。別に相模に好戦的な人々が特別多かったわけではない。船便にのって、西国から商人や僧侶、熊野神宮や各神社の神官などがやって来ており、その中に戦雲たなびく関東で一旗あげてやろうという男達も混じっていたということであろう。
 上記のことから、長尾家や太田家は在地の住民や流れ者から軍兵を募っていたということになる。それはなぜかといえば、両家の主家に当たる上杉家自体、都から宮様の征夷大将軍に付き従ってきた家ということもあり、関東で独自の勢力を持たなかったことにある。
 といっても鎌倉時代から勢力を扶植し続けてきただけに一定の力を室町の頃までに蓄えてきたろうが、平安時代から繁栄し続けてきた坂東武者にはかなうべくもない。

 そのようにあつめて兵を日夜鍛え上げ、戦闘の専門家にしたてあげれば、従来の武士が「いざ鎌倉」の時、領内の百姓を集めて弓や薙刀を持たせて戦場に馳せつけるよりも機動力・戦闘力ともに優れている。兵農分離はなにも後世の織田信長の専売特許ではなかったということであろう。
 じゃ、なぜみんなやらなかったかって?それはやはり経済力が必要だからであろう。道灌公は江戸湊を掌握し、織田信長は津島という町を膝下においていた。軍隊は今も昔も金食い虫だからね、必要だけど。

 
 続いて足軽軍法の具体的な中身はこれが具体的な話がでてこない。先に都で発生した「応仁の乱」では足軽が従来の武士をしのぐ活躍したことは日本史を学んだ人間なら誰でもしっていることだろうが、道灌公も江戸湊からやってくる商人らから話を聞き及び、また配下の兵と親しく交わることで情報を蓄えていたのだろう。さらに道灌公は若き時代、下野国(栃木県)の足利学校で兵法を学んだといわれており(残念ながら確証はない)、ある兵法書から「静勝軒」を名づけたことは既述の通りだ。
 (文明10年(1478)年7月、道灌公は戦の合間に上野国(群馬県)岩松氏の金山城を訪れ、城主の軍師を務めていた陣僧・松陰と会談したと記録に残っている。二人が足利学校の同窓生と考えるのは小説的想像力の飛躍しすぎか?)
 一方、「太田家記」には江古田・沼袋の合戦直前の「勝原の合戦」について、道灌公の弟で太田軍を指揮した資忠が「敵方を勝原まで誘い出して合戦をしかけ、勝った」とある。伏兵をしかけ、逃げ道を断った上で攻撃したということだろうか。
 恐らくはそれが足軽軍法の要なのだろう。

 さて傭兵を使って勝ち続ける戦のやり方に道灌公の主君・扇谷上杉定正公はあきたらぬ思いをもっていたようだ。道灌公を謀殺した男の肩をもつつもりはないが、けっして愚かな主君ともばかりはいえないようだ。
 定正が跡継ぎに書き残した「上杉定正状」に次のような一文がある。

 「山野を住所となし、甲冑を枕となし、一夜の陣にも自身縄を結い、鍬を取り、夜中甲をぬがず終夜馬背に明かし、かくの如く朝定(定正の跡継ぎ)務めいたさば何の誤りかあらん」とあり、文弱に走りがちな跡継ぎを戒めていた。
 この文からもわかるように武将らしいひとのようであり、自らの馬廻り衆を厳しく鍛え上げ、少数精鋭のエリート軍団を構築して戦いに望んでいた。まあ、道灌軍のような一見寄せ集め集団は肌合いからして合わなかったのだろう。主従ともに優れた戦人(いくさびと)でありながら、その手法の違いから徐々に抜き差しならぬ関係に陥っていく・・いつの世にもある関係性ではある。

 以上のことから道灌公の足軽軍法とは
  「江戸湊の経済力を背景に常備軍を構築し、臨機応変・電光石火・機略縦横の戦いを身上とする」とひとまず結論ずけたい。戦術に手品はなく、不断の備えと情報収集力にこそ勝利のカギは秘められているのだろう。

 最後に一つ。小机城で行方不明になった豊島泰経のその後だが、今回「道灌紀行」という本を読んでいて意外な事実を知った。
 それは平成12(2000)年7月、石神井公園での「照姫祭」の際、道灌公の子孫・太田道夫氏と豊島泰経の子孫・豊島綾子氏が520年ぶりの歴史的な和解がなされた時に披露された。
 「道灌が泰経を逃がしてくれてありがとう。二人は妻同士が縁戚でありました」といって道夫氏や会場の人々を驚かせたという。太田家・長尾家・豊島家は婚姻を通じて複雑に絡み合っていたのだ。これを知った時、歴史の複雑さ、怪奇さ、奥深さ、面白さを味わったのである。確かに「北区史・中世資料編」で豊島家の家系図を見ていると、泰経の死んだ年は記されておらず、泰経の子は後北條家に仕えていたようであった。
 道灌公が縁戚であることを考慮にいれ、逃がしたとするならば、まこと「花も実もある」武将といえまいか?

 今回はこのあたりでおわりにしたい。拙い文章を読んでいただきありがとう。最後に江戸城・清水門の画像をのせておこう。
清水門

江古田・沼袋の合戦~太田道灌公の足跡を追って~

 前回、石神井城の記事を書いたが石神井公園に訪れたのは一月も前に遡る。それから太田道灌公や豊島泰経公についてあれこれ調べたり、平塚城跡を訪れたりとしていたが、「江古田・沼袋の合戦」跡地を訪れたので一区切りついたのでそれらを以下にまとめてみたい。おかげで太田家と豊島家が対立するきっかけになる「長尾景春の乱」についても詳しく知りえたし、また道灌公の人間的側面や武将としての知略の巡らし方も薄々と見えてきた。

 ちなみに今回東京各所を「太田道灌公の巡った史蹟」とみなし、全て徒歩で巡ってみた。公共交通機関は便利だが、史蹟巡りは徒歩で行わないと見えてこないものが多すぎる。特に古戦場などはそうだ。おかげで夜はよく眠れた。

 合戦を振り返る前に、まずそれがしの近所の太田道灌公ゆかりの史跡を紹介しよう。
新宿・山吹の里
 こちらは豊島区高田1丁目にある「山吹の里」石碑、神田川にかかる面影橋のたもとにある。
 太田道灌公が若かりし頃、狩の途中に雨に遭い、近くの民家に蓑笠を求めたところ、そこの若い娘が黙って山吹の花を差し出した、という例のアレである。関東各地に「わが在所こそは山吹の里である」という所はたくさんある。横浜市金沢の六浦や埼玉県越生町、東京荒川区やetc・・新宿なら江戸城から近いし見学しやすい。

紅皿石碑
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 続いて新宿区6丁目にある「紅皿の墓」、道灌に山吹の花を差し出した娘の名前が「紅皿」で、後に道灌公の和歌友達となり、江戸城に度々招かれるようになるが、道灌公の死後は尼になり、この地に隠棲した・・という架空の物語だが江戸の庶民は「山吹伝説」を愛したようでこれも江戸時代に作られたよう。
 実は寛延元(1748)年に「紅皿・欠皿物語」が出版されており、それをもとにした芝居も人気を博していたようである。となると史蹟をみたくなるのは人情のようで芝居の興行主がこの墓をこさえたらしい。当時の敏腕プロデューサーだったんでしょうなあ・・。

 他にも早稲田大学ちかくの「水神社」に「道灌公駒つなぎの松(4代目)」などがあるが、あまりに近所なので撮り忘れてしもうた。すまんことです。

 本題にはいろう。太田道灌公と豊島泰経公が戦われた理由はその前段の「享徳の乱」から話をおこすのが筋だろうが、それでは今回の主題から逸れるので直接的要因である「長尾景春の乱」からしよう。
 関東の上杉家は本拠地の字名から大きく「山内(やまのうち)」と「扇谷(おうぎがやつ)」の二つにわかれる。長尾景春は山内上杉家に仕えており、太田道灌公は扇谷上杉家に仕えている家宰である。(ちなみに山内も扇谷も現在も鎌倉に地名が残っている)

 長尾景春の父親・景信は山内上杉の家宰として政戦両略に智謀と勇武を振るい主家を支え続けたが、その死後、家宰の地位をは主君・山内上杉顕定により景信の実弟・長尾忠景に任じられた。これにおさまらないのが景春であった。
北区図書館
 こちらは旧軍の火薬庫を改装した北区中央図書館、古いレンガ作りを生かしたオシャレな建物だ。この図書館で北区の郷土史「北区史」を熟読させていただいた。「北区史」は現在、太田道灌公を知る上で最良の歴史書である。「図説・太田道灌」を書かれた歴史学者・黒田基樹先生も太鼓判を押しておられる。

 閑話休題。
 
 家宰とは主家の家政と実務を取り仕切る関係から多くの権益を有し、家宰が別の系統に移る事はそれまで権益を長尾家とともに分配してきた人々が旨みを失うことであり、それらの人々の後押しもあって景春は主家に反抗を企てるようになる。
 そんな動きを扇谷上杉家の家宰である道灌公が見逃すはずも無く、主家・扇谷上杉定正や山内上杉顕定に告げたが、叱られた上にかえって道灌公の方が反乱をあやしまれる始末。
 更に道灌公のもとに当の景春がやってきて反乱に加わるよう説得される。実は道灌公の妻の甥が景春であり、二人は親族・・そんな話に乗るわけも無く道灌公は情理を尽くして説得し、顕定にとりなしをするといっても景春は肯かず、会談は物別れにおわった・・。
 そんな中、駿河の守護・今川範忠が亡くなり、跡目相続争いが起きたので道灌公が扇谷上杉家の家宰として仲裁に乗り出し駿河に出陣していった。
 道灌の留守を狙ったのか景春は文明9(1477)1月、五十子(いかつこ)の陣(埼玉県本庄市)に居た山内上杉顕定と扇谷谷上杉定正を急襲、敗走せしめる。両上杉は上野国那波庄に逃げ込み、駿河の道灌公に救援を求め、道灌公もついに関東に戻り、景春追討の兵を挙げるのである。

飛鳥山
 これは北区飛鳥山にある石碑、道灌公とは直接の関係はないが、これから出て来る豊島家が平安時代、熊野権現を勧進し、若一(にゃくいち)王子権現を建てた。江戸時代、徳川将軍により桜が多数植えられ、庶民は権現さまに参るのと花見をとても楽しみにしていた。なんでも、飛鳥山内に限っては庶民が武家の格好をしたり、派手な芝居の衣装を着るのが許されており、春ともなれば仮装した武士・町民で溢れかえっていたそうな。今で言うコスプレーヤーの聖地というところか・・そりゃ日本でマンガ・アニメ文化が栄えるわけだよ・・。
 明治に入ると、飛鳥山は財界人・渋沢栄一の邸宅地になり、権現様も現在の北区区役所前に移転。
王子神社
 こちらは王子神社。

平塚神社参道
 飛鳥山ふもとの本郷通りを10分ほど南下すると、ここ平塚神社前にでる。平安時代、ここに屋敷を構えた豊島家は石神井川の水利を押さえて徐々に西に勢力圏を延ばし、練馬・石神井に拠点を築いていったのである。
平塚神社本殿
平塚城看板
 この平塚の館に源義家と三郎義光が奥州からの帰り道に立ち寄って豊島家の饗応を受けた礼に鎧を授け、豊島家もそれを家宝として塚を作って埋め、熊野権現を勧進したというのがこの神社の由緒だ。
平塚神社沿いの道
 これは本堂脇から撮った現代の道だが、このように街道を扼する要地に館(後には城)が置かれたことがわかる。

稲付城跡
 平塚城に対して「対の城」として築かれた「稲付城跡」、現在はこの上に「静勝(じょうしょう)寺」が建ち、江戸時代に作られた「太田道灌公」木像を毎月26日にご開帳している。北区赤羽西1丁目にある。
稲付城案内板
静勝寺眺望
 石段を登るとこのように赤羽の街が・・って木立に遮られてみえませんね。
道灌堂
 こちらが木像が納められた「道灌堂」、それがしは毎月26日を知らなくて見られませんでした。資料やネット上にならあるんだけどねえ。坊主頭の道灌公が片膝立ちで片手に払子を持ち、凛々しい眉毛の下に眼光光る視線を前方に投げかける武将の気合がほとばしるような傑作です。レプリカ作って売ればそれがしなら欲しいなあ。
 ちなみに「静勝寺」、道灌公の道号「静勝軒道灌」からとったもの。また「静勝」は古代中国の兵法書「尉繚子」の一節からとったもの。中国の兵法書は「孫子」をはじめ、「尉繚子」も含め全7冊あり、「武経七書」といわれ、今でも多くの政治家・経営者などに読まれている。それがしも一度全てに目を通してみたが、「孫子」以外の6冊は「孫子」を補完するような中身。一読するのも一興です。

 再びの閑話休題。

 古河公方・足利成氏に呼応して上杉に反旗を翻した長尾景春には足利の長尾房清、武蔵・二宮の大石憲仲、葛西の大石石見守、武蔵の千葉実胤、毛呂三河守、相模の本間氏、海老名氏、大森重頼、上野国の長野為業、甲斐郡内の加藤氏、そして豊島泰経など関東5カ国にわたる豪族が味方に付き、まさに関東を二分する勢力となったのである。

 江戸城で孤立したかに見える道灌公はまず江戸・岩槻・河越の連絡を断つ豊島泰経を討つことを第一目標とした。
太田 対 豊島 概念図
 手書きで恐縮だが、太田vs豊島の合戦概念図を描いてみた。先ほどの平塚神社前を通る本郷通りだが、北上し続けると稲付城(現・静勝寺)前を通る。その道は古来、「岩槻街道」と呼ばれていたらしい。なるほど古道らしく、狭い道で両側に民家が迫り、自動車・自転車・歩行者それぞれにとって通りにくい道であった。
 さらに石神井・練馬両城の脇を通る「川越街道」は河越城への道・・太田家と豊島家双方にとって抜き差しならぬライバル関係にあったのがよくわかる・・と思いたい。

 ここからは「江古田・沼袋合戦」の流れを追っていこう。

 相模国から扇谷上杉の加勢を呼んで石神井城を一挙に屠ろうと道灌公は策したが、多摩川の氾濫により味方が渡河できなかったので、その軍勢を使って景春方の溝呂木(厚木市)・小磯(大磯)・小沢(愛甲郡愛川町)など敵城を攻略。

 4月10日 武蔵・勝原(すぐはら)合戦で河越城攻略に来た景春勢を撃退。豊島家の孤立。
 4月13日 道灌公、江戸城を出発し、途中、駒込の妙義神社に立ち寄り戦勝祈願。
駒込妙義神社
妙義神社看板
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 祈願後、平塚城に向かい、包囲攻撃するも泰経の弟・泰明の抵抗凄まじく、攻略をあきらめ、城下に火を放ち撤退。
 平塚城救援に石神井・練馬両城から来た豊島泰経の軍勢を江古田・沼袋の辺りで迎え撃ち、激しく交戦。打ち勝った道灌軍は豊島泰明以下、豊島一族の赤塚・板橋ら150人を倒す大勝利を得る。
 4月14日 石神井城の向かいの愛宕山(上石神井1丁目)に陣取り、包囲。
 4月18日 豊島泰経は城を出て道灌と会談、城の破却を条件に和平交渉。いったんは合意するも、泰経が城に戻った後の敵の動きがかんばしくない事から泰経の策略とみた道灌公は城を力攻めし、落城させる。泰経は夜陰にまぎれて逃亡。なお、「鎌倉大草子」では落城を18日、「太田道灌状」では21日としている。
 その後、泰経は平塚城で再挙を図る。
 文明10年正月25日 平塚城は道灌軍に攻められ、落城。泰経は丸子(川崎市)に逃れて陣をはるが、追撃する道灌軍の圧力にまけ、小机城(横浜市神奈川区小机町)に逃亡。江古田・沼袋合戦で主力を失った豊島家では道灌軍に抗し得なかったのであろう。
 4月11日 小机城落城、泰経は行方知れずとなりここに豊島本宗家は滅亡となった・・・。

 というのが一般的な歴史書。どうやら豊島家の子孫は生き延びたらしく、小田原の後北条や徳川家康に仕えて現代にまで系統を繋げてきているとのこと。各時代の方々の苦労が偲ばれますね。
沼袋氷川神社本殿
 こちらは西武池袋線・沼袋駅近くの「沼袋氷川神社」、境内に「太田道灌公お手植えの杉」跡があります。
道灌公お手植えの杉跡
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 昭和19年に枯れてしまったそうです。先の大戦の敗戦前年ではないですか!
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 今では跡だけ・・。

登り道
 沼袋駅前から緩やかなのぼり道を北上して川沿いに行くと・・
江古田公園
 江古田公園にでます。
江古田沼袋古戦場碑
 その一角に石碑が建っており、土地の歴史を教えてくれています。背面の記述に若干の事実誤認が混じっていましたが、近似値のうちです。

 さて、江古田・沼袋合戦はあたかも遭遇戦のように記述されているが、本当にそうだろうか?ここで道灌公の立場にたって考えてみたい。
 武蔵北部の河越・岩槻両城との連絡を断たれ、江戸城に孤立しているかたちの道灌公は包囲が長期化して苦しくなる前に包囲網を打ち破りたかったはずだ。道灌方にも扇谷上杉朝昌(主君・定正の弟)・千葉自胤・三浦義同らの味方がいたが、中心となる武将は道灌ただ一人。
 道灌公は平塚城攻めはあくまで石神井・練馬の豊島軍を誘う餌と考えていたのだろう。その証拠に城攻めからはすぐに引き上げ、城下に火を放っている。ただ帰るなら来た道を戻ってもいいだろうが、なぜか石神井方面に進んでいる。泰経率いる救援軍が来るのを待っていたのだろう。
 後から泰明率いる平塚勢が来ることを考慮し、城下に火を放っておけば大半は消火にさかれ、来るのは泰明以下わずかな旗本だけと見切っていたのだろう。
 つまり最初から野戦で豊島軍本隊を叩く目算を立てていたということだろう。敵よりも少ない手勢なのに恐るべき兵法家というべきだろうか?

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 合戦の具体的な場所は不明だが、近くに郷土資料館があり、無料で色々見ることができた。
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 両方の書状共に小田原北条家からこの近辺の住民に出されたもの。書状左側に虎の印判がおされてある。印判の文字は「禄壽應穏」。

 その後の展開については宿題とさせていただきたい。なにしろ小机城跡を見に行ってないのだから。

 今回、自分の足で各地を歩き回って、また資料を読み倒して道灌公の人間としての苦悩と武将としての知略、二つを血の通ったものとして感じ取ることが出来た。また、道灌公に対する包囲網を築いた豊島泰経公の戦略眼にも恐るべきものを感じ取れた。
 だが、運命は残酷なもので両者を勝者と敗者にはっきりとわけた。その勝者たる道灌公ですら後でだまし討ちされてしまうのだ。げに運命の転変の恐ろしいことか。「武運拙く」とは考え抜かれた表現のように思う。
 今では両者とも草葉の陰で酒でも酌み交わしているとでも思うのは現代人の妄想だろうか?

 今回、「北区史」のほか「練馬区史」「豊島区史」「中野区史」「牛込区史」「図説 太田道灌」「中野の史蹟散歩」「練馬の史蹟散歩」「北区の史蹟散歩」など多くの本に助けていただいた。これらの著者・編集者の方々に感謝を捧げたい。

 ではまた次回!

石神井城跡探訪(「照姫伝説」も)

 東京の練馬区に石神井公園がある。そこはかつて石神井城が存在し、関東の名将・太田道灌公が攻略した城でもある。

芳林寺の道灌公2
 足軽戦術の名人と謳われた太田道灌公である。この騎馬銅像は太田家の菩提寺の一つ埼玉県さいたま市岩槻区にある芳林寺にある。岩槻城築城450年祭りに際して作られたもの。岩槻城跡も今や美しい公園である。

 石神井城にもどろう。石神井城を治めていたのは豊島氏。坂東八平氏の一つ秩父氏の一族。平安時代末期に源氏の家人となり、前九年の役・保元の乱にも参加。源頼朝の挙兵にも従い、鎌倉幕府成立に際しては有力御家人の一つとなり、豊島・足立・新座・多東など多くの所領を持つ。鎌倉幕府滅亡に際しても上手く乗り切り、室町幕府成立後も武蔵(今の東京都と埼玉県)に変わらず領地を持ち続けた。

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 こちらは石神井公園の近くにある道場寺。豊島家の墓があり、今でも供養されているという。
三宝寺
 こちらは道場寺に隣接して建つ三宝寺。徳川将軍家が寄進した門がたっており、なかなか雰囲気のある寺である。

 二つのお寺からすこし歩くと神社がある。
氷川神社
氷川神社縁起
 ここ氷川神社もかつては石神井城の敷地内にあたる。神社で参拝を済ませた後はいよいよ石神井公園にはいろう。

 豊島家最後の当主は勘解由左衛門尉泰経(かげゆさえもんのじょう やすつね)。古河公方・足利成氏と関東管領・上杉氏との戦い「享徳の乱」では上杉氏に従っていたものの、扇谷上杉定正の家宰・太田道灌の勢力の伸張に泰経は反感をしめすようになってくる。
 というのも、元々武蔵に多くの領地をもつのは豊島家だが、太田家は岩槻・川越・江戸に城を築いて古河公方家に対しての防衛ラインをひいた。石神井・練馬(今の豊島園のあたり)・平塚(東京都北区)に城郭を持つ豊島家としては領地の境目が複雑になり、どうしても利害対立が発生しがちなところ。両家対立の土壌がすでに作られていたというところか。

 時の関東管領・山内上杉顕定の家宰・長尾景春が古河公方・足利成氏とひそかに結び、主君・顕定に反旗を翻した。文明9(1477)年正月、五十子(埼玉県本庄市五十子)に陣をはる山内上杉顕定と扇谷上杉定正を急襲し、両上杉は敗走。ここに「長尾景春の乱」が勃発。
 豊島泰経も他の多くの武蔵や相模の豪族と共に長尾景春に加担。泰経が景春に味方したのは太田家への対抗心だけではなく、長尾景春の家とも政治的な繋がりが深かったためと唱える学者もおられる。

 石神井・練馬・平塚で挙兵した泰経と道灌との戦いの流れは省くが、石神井城を巡る攻防としては文明9(1477)年4月13日に行われた江古田・沼袋の合戦がしられている。この合戦で道灌公はわずか50騎の兵力で200騎もの豊島泰経を破ったと「鎌倉大草紙」や「享徳記」にあるという。

 ここで気をつけたいのが双方の兵力。数だけだと50対200と理解しがちだが、この数は武士の当主の数であり、それぞれが家の子郎党を引き連れているのであるから少なくとも双方馬に乗らずに徒歩で戦う兵士が数百人ずついたであろうことは間違いない。
 さらに劣勢であるはずの太田家がなぜ優勢な(数だけでなく地勢上からも)豊島家に勝てたのか?その詳しい合戦の経過は戦闘詳報などない時代なので不明だが、道灌公が「足軽戦術の名人」と称されていることに注目したい。数で推す豊島家に対し弱弱と兵を進める道灌公はわざと敵に負けて見せ、撤退。調子づいて追いかける豊島家の隊列をできるだけ引き伸ばし、やおら伏せていた兵をつかって攻撃。油断していた豊島家は敗北・・とこのようなシナリオではなかろうか?伝承ではこの合戦で豊島家は150騎の武士を死なせてしまったという。

石神井城主郭
主郭案内板
 ここは石神井城主郭跡、この上に防衛施設があったのだろう。また空堀の底から当時の食器などが発掘されたとのこと。立ち入ることはできません。

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 高くなっている斜面が「土塁」。

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 左端から「土塁」が続き、低くなったところが「空堀」、そしてまた右方向に高くなっている。今となっては土砂が埋まり、樹木が沢山生えているので分かりづらいが、城郭好きはこのような光景を飽きずに眺めているのである。

 江古田・沼袋の合戦に敗れた泰経は石神井城にこもり、道灌と開城交渉をするものの上手くいかずに夜陰に乗じて落ち延びる。道灌公は合戦から半月ほど経ってから総攻撃し、落城させたとのこと。記録にはないが、練馬城も落ちたろう。
 これにより南北の交通の自由を得た道灌公は武蔵北部や上野(こうずけ 群馬県)を転戦し、景春方を封じ込めることに成功。
 翌、文明10(1478)年正月、古河公方は上杉氏に対し和睦を打診。だが、逃げ延びていた泰経は平塚城で再挙。正月25日に道灌公の攻撃により落城、泰経は丸子(川崎市丸子)、小机城と転戦。追撃する道灌公により4月11日に小机城は陥落。泰経も行方不明となり、ここに豊島本宗家は滅亡となったのである。

 一方、石神井城落城には「照姫伝説」というものがある。石神井城が陥落する際に泰経は愛馬に黄金の鞍をつけ、そこに愛娘・照姫と共にまたがって入水自殺したというものである。それ以来、池の底に黄金の鞍を見たとか語り継がれるが、伝説である。でも豊島家の一族が殉じたという側面もあるのだろう。当主の泰経は家臣らと共に落ち延びても足弱の女子供は自害をせざるをえなかったのかもしれない。悲しい話だが、それも当時の「武者の道」なのだろう。DVC00074.jpg
 石神井城の石碑。
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 右の樹木がこんもりと生い茂る辺りが主郭。

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 こちらは昭和12年に建てられた石神井城の石碑。

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 現在ではそのような悲話を伝える「三宝寺池」が満々と水を湛えている。多くの水鳥や魚・亀・虫など生き物の楽園となっており、池を周回しつつ自然を愛でることができる。

姫塚
 池の近くには「姫塚」がある。
殿塚
 「殿塚」も。ちなみに毎年「照姫祭」が毎年開催されているとのこと。

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 木立と水面を撫でる風がとても気持ちいい日であった。

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 「長尾景春の乱」をほぼ独力で鎮めた太田道灌公は豊島家の領地も併せ持ち、関東のみならず日本全国にその勇名を轟き渡らせた。それが、主君扇谷上杉定正の猜疑心をひきおこし、結果として糟谷館(神奈川県伊勢原市)で討ち取られることとなったのである。「当方滅亡!」と叫びながら・・。

 「兵共が 夢の跡・・」といったところか。

 ではまた次回!
プロフィール

サムライ銅像研究会

Author:サムライ銅像研究会
歴史と銅像と芸術が大好きなあまり、日本各地を東奔西走する銅像・史蹟ハンターである。神出鬼没なため、脈絡無しのブログ更新を続ける。掟はただ一つ!「死して屍拾うものなし!」昔の時代劇の決め台詞だけどね・・皆さん、見てやあ!
 最近、キューピーに侍の装束を着用させる遊びをやっております。「武者ピー」と呼んで可愛がってやぁ~!以後は「キューピー甲冑師」とも名乗ります。

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