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騎馬銅像尽くし~山形から鹿児島まで~

 いつのまにか汗ばむ季節になった。画像ファイルを整理しているといつの間にやら騎馬銅像の画像も増えてきたので片っ端からのせていこう。

 時代ごとに紹介しよう。まずは平安末期。
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 こちらは山梨県韮崎市役所前に建つ「武田信義公騎馬銅像」、甲斐源氏4代目で武田家初代。あの武田信玄の先祖。

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 吉祥寺の井の頭公園・彫刻園にある「畠山重忠公騎馬銅像」、作者は北村西望先生。実際の作品は青梅の奥地にある御嶽神社、あんまり山奥なので輸送にヘリを使ったとのこと。

 次は鎌倉時代末期から室町時代の武将。
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 熊本県菊池市菊池神社に建つ「菊池武時公騎馬銅像」、後醍醐天皇の令旨に応えて挙兵、大宰府の探題館に討ち入るも一族郎党らと共に討ち死に。後に楠正成から「功績第1等の功臣」と讃えられた。

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 東京都皇居前に建つ「楠正成公騎馬銅像」。このアングルはあまり観光ガイドにも載らないので目新しいのではないか?360度全方位から撮ると見たことの無いアングルを発見できるのも野外彫刻の楽しみ。

湊川の大楠公アップ
 こちらも「楠正成公」だが、兵庫県神戸市長田区にある湊川公園にある銅像。足利尊氏との最後の決戦に臨む正成公のお姿である。

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 これは愛知県名古屋市東区にある神明宮に建つ「楠正成公」像。場所の手がかりとしては赤塚交差点のあたりとだけ書いておこう。あまりに地味なところだったので通り過ぎそうになった。もっとも、数年前の情報なので現在どんな扱い方されているか不明だが。

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 東京都府中市分倍河原駅前に建つ「新田義貞公騎馬銅像」。この地で行われた分倍河原の戦いが鎌倉幕府滅亡の流れをきめた。

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 熊本県菊池市民広場に建つ「菊池武光公騎馬銅像」、頼みになる武将がほぼ壊滅の南朝にあって、一人九州全土に南朝の影響を拡げた勇将。

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 東京都日暮里駅東口に建つ「太田道灌公騎馬銅像」、この人がいなければ今の東京も別の容になっていたかも。

芳林寺の道灌公1
 同じ道灌公像でも埼玉県さいたま市岩槻区にある芳林寺に建つ像。道灌公というと「やまぶき伝説」から狩衣姿ばかりが立体化されているが、芸術家としても行政家としても軍人としても一流の人である。

 ここからは戦国時代から江戸初期。
北條早雲公
 神奈川県小田原駅前に建つ「北條早雲公騎馬銅像」、元の名は伊勢新九郎。北條の姓は早雲の息子・氏綱公が関東支配の名分を打ち出すために執権・北條氏から頂いたもの。

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 新潟県上越市春日山城跡のふもとに建つ「上杉謙信公」像。
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 同じく上越市高田駅前の商店街でみつけた「謙信公」像。小さなもので、ポストの上に乗っかっていた。
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 長野県長野市八幡原公園内に建つ「謙信公」像。武田信玄公像と対になっているが、今回はこちらだけ。

吉祥寺 025_1
 こちらは北村西望先生作の「若き日の信長」像。吉祥寺の井の頭公園・彫刻園で撮ったが、同じものが岐阜県岐阜城公園、兵庫県庁の前庭、長崎県島原にもある。人気のある銅像なのね。

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 こちらは愛知県岡崎城公園内に建つ「松平元康公」像、後の徳川家康公。

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 その家康公の忠臣・「井伊直政公」像は滋賀県彦根駅前に建つ。

政宗銅像の3
 宮城県仙台市青葉城本丸跡に建つ「伊達政宗公」騎馬銅像。仙台観光の名所の一つでもある。

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 その政宗公の伯父にあたる「出羽の曉将」こと「最上義光公」騎馬銅像は山形県山形市霞城(かじょう)公園内に建つ。

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 築城の名人と名高い「藤堂高虎公」騎馬銅像は三重県津市丸の内公園内に建つ。
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 同じ高虎公でも小さい像が先ほどの公園の近くの商店街に建つ。

荒子の利家
 愛知県名古屋市荒子駅前に建つ「前田利家初陣の像」です。
尾山神社の利家
 同じ前田利家でも石川県金沢市の尾山神社にもあります。着用している鎧の本物が市内の石川県歴史博物館内に現存します。錆だらけでしたが、表面のレリーフなど全く同じ「天満宮」とあります。前田家は菅原道真の子孫と名乗っているからです。

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 鹿児島県伊集院駅前に建つ「島津義弘公」騎馬銅像です。とても勇敢な武将で「関ヶ原の戦い」で東軍10万の追撃をわずか数百で撃退したことは今でも語り草になっております。関ヶ原にも銅像を立てて欲しいですね。

結城秀康像
 徳川家康公の次男・「結城秀康公」像です。福井県庁前にありますが、なぜか中国人がつくったものです。残念な出来です。やはり日本の人物は日本の芸術家に作って欲しいですね。

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 今回最後に紹介するのは「戸田氏鉄(とだ うじかね)公」像。岐阜県大垣市大垣城公園内にあります。島原の乱で切支丹弾圧・・鎮圧を行った武将です。

 他にも日本全国には優れた騎馬銅像が沢山あります。なかなかすぐにはいけない所ばかりですが、少しずつ直に見ていきたいものです。
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熊本城~近代戦争を経験した戦国の城~

 昨今「お城ブーム」であるという。そういえば歌舞伎役者や芸人がお城番組の司会を務めたり、落語家がお城のエッセイを書いていたりとお城に注目が集まっているようだ。結構なことではないか。
 だがそんな番組を見ていても、お城がいかに敵からの攻撃に対して考え抜かれた構造であることをうたうばかりでそんな情報は自習でわかる範囲だろうというものばかり。大体、「鳥羽伏見の戦い」で負けた幕府軍にいた新撰組副長・土方歳三が「これからは刀や槍で戦う時代じゃない」と書き送っている。
 しかるにそんな「時代遅れ」であるはずの城が明治時代の戦争で役立った城がある。それが今回紹介する熊本城である。

 まあ、あまりウンチク垂れ流してもしょうもないので、撮影した写真をひたすら載せよう。詳しいことは各自調べてね。
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 この画像は去年熊本いりした時の最初の写真。明日から見て廻ってやるぞ!とテンションあがって撮ったもの。

須戸口門_1
 その翌日、朝から菊池市を訪問し、午後戻るとまだお城が閉まるまで1時間以上あったので軽く廻ってみた。画像は熊本市役所から坪井川にかかるうまや橋を渡ってすぐの須戸口門。ここからかの有名な長塀がはじまる。
長塀_1
 長いねぇ~。別アングルからだと・・
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 やべ、車列の方が長い絵だね。

平御櫓_1
 門の上には平御櫓が・・
平御櫓の裏から_1
 後からみるとこんな感じ。門を後にして右手に「肥後六花園」を眺めつつ「竹之丸」にさしかかる。
竹之丸から_1
 う~ん、岩また岩ですな。日本の山城を見慣れているとまるで異国の城のようです。秀吉の朝鮮出兵はろくなもんじゃないけど、築城技術と製陶技術に関しては後世に影響を与えましたね。
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 巨岩の間を抜けつつ登っていくと・・
観光写真的な白黒
 右手前に「二様の石垣」と中央に大天守がみえますね。この方向だと小天守が見えません。
二様の石垣_1
 別アングルからです。「二様の石垣」の上に再建された本丸御殿が鎮座しております。

 本丸は後の楽しみにして、「飯田櫓」を観にいきましょう。
飯田丸五階櫓_1
 これは「竹之丸」を登る前に下から撮影したもの。
飯田丸櫓の裏から_1
 登って後ろからはこんな感じ。靴を脱いで見学可能です。
奉行丸_1
 飯田櫓の上からは堀と道路を隔てた向うに「奉行丸」がみえます。

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 あらためて大天守を見上げると・・かっこいいですねぇ・・。その日はそれ以上近づかずにお城を後にしました。
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 この門はたしか「不開門」だったはずです。
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 このように石垣を眺めながら降りてくるとお城の敷地内にある「熊本大神宮」の近くまで来られます。

 さてその翌日。
二重の宇土櫓
 前日に内部を見た飯田丸五階櫓を外側から眺めることから始めた。備前堀の水面に映る櫓がまた美しいね。

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 飯田櫓を右後方に見つつ、「行幸坂」を登っていくと左手に「南大手門」が出迎えてくれる。ここを潜ると「奉行丸」や「西出丸」に出られる。西出丸には・・
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 別の長塀が・・でも裏側から。
有名な・・
 表から見るとその長大な様子がよくわかる。ここからしばらくお城を離れて二の丸広場の向うにある県立美術館や熊本博物館を見学。美術品を堪能した後、お城見学に復帰。
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 二の丸御門跡をのぼり、城に向かうと・・
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 かくも壮大な景色を堪能できる。手前の櫓は「戌亥櫓」 この堀は下に降りられるのでいってみよう。
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 サッカーコートが何面もとれそうな広大な敷地だ。ちなみに西南戦争で熊本城は薩摩軍に焼かれるが、役人や兵士の家族らはここに避難したという。
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 「戌亥櫓」をあおって撮ってみた。
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 いいなあ・・。

 また堀を登って北大手門方向からお城に接近する。その手前には・・
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 加藤清正公を祀った「加藤神社」がある。熊本市民の清正公好きはたいへんなものだ。

飯田櫓
 北大手門から入ると「宇土櫓」が見えてくる。この櫓は清正公のライバル関係にあった小西行長の「宇土城」の本丸を使って建てたという伝承が残っているが、近年の考古学調査でそれは否定されたようだ。
宇土櫓_1
 本丸側からみた宇土櫓。ここも内部見学可能。
宇土櫓から_1
 宇土櫓上から眺めた二の丸広場方向です。左右が歪んでいるのはパノラマ撮影によるデジタル補正のためご笑納のほどを。

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 同じく宇土櫓からの大天守と小天守。

石落とし_1
 櫓の床にはこんな「石落とし」が設けられております。

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 やっと到着しました。大天守から入ります。
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 手前が清正公お手植えと伝わる「大銀杏」です。城の中にはかつてこのような食糧に転用可能な植物が植えられ、また沢山の井戸も掘られていました。朝鮮でろくに食糧も持たないまま、苛烈な包囲戦を経験した清正公ならではの配慮です。

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 天守閣の中の展示物などは撮影不可なので撮っていません。そのかわり・・

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 大天守から見下ろした小天守。
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 小天守から見上げた大天守です。

大天守と小天守
 どこから見ても美しい城ですねぇ・・。

武者返し_1
 この反り返りは「武者返し」といいます。そういえば熊本銘菓に「武者返し」がありますね。都内ですと、有楽町の「熊本物産館」で馬肉や辛子レンコン、球磨焼酎などといっしょに購入可能です。

 ここからは熊本城周辺の銅像を紹介しましょう。
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加藤清正公・あおり
 こちらは熊本市内を見下ろす本妙寺山上にそびえ立つ「加藤清正公」立像。作者はお馴染み北村西望先生。同じものが都内・吉祥寺の井の頭公園でも見学できます。熊本に来て見ることをオススメしますが。でも石段はキツイでよ!
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 熊本市内の眺望です。四角で囲ったところが熊本城ですね。

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 こちらは熊本城近く、三角公園内にある清正公像。作者は高藤鎮夫先生。似たものをよそで見たことある気がするな・・と思い出すと。
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 あれ?ちっちゃくなっちゃった。これは名古屋市中村区にある妙行寺境内の清正公像。同じ高藤先生が作者です。

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谷干城将軍
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 こちらは熊本城に隣接した高橋公園内にある「谷干城将軍」坐像。作者は朝倉文夫先生です。朝倉先生は他に有楽町・国際フォーラム内の「太田道灌公」立像で有名ですね。高橋公園内にはこんな銅像も・・。

横井小楠先生と愉快な仲間たち
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 こちらは「横井小楠と維新群像」、幕末の思想家・横井小楠とその影響を受けた人々ですね。左から「坂本龍馬・勝海舟・横井小楠・松平春嶽・細川護之」ですね。作者は石原昌一先生です。

 熊本市役所前にこんなオブジェがありました。
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 「空相 くまもと」、作者は関根伸夫先生という方のようですが、どうみても清正公の「長烏帽子形兜」にしかみえません。先生の作製意図は調べていないのですが、どうなんでしょ?

 熊本城は加藤清正公が前述のとおり朝鮮での苛烈な包囲戦を経て築かれた城です。朝鮮出兵以前にも石垣を用いた城郭は存在しますが、大陸・朝鮮式の城郭を見なければかくも堅固な城郭は存在しなかったのではないでしょうか?そしてそれは清正公が築城に関わった江戸城や名古屋城にも通じています。
 その熊本城が270年もの時を経て、西南戦争という近世日本の大内乱で活躍したのは大いなる歴史の皮肉ですが、現世の我々はその美を堪能できます。壮大な時の流れを感じながら・・ここで熊本城レポートは終了ですが、熊本に行くか行かないかはあなた次第!

 ではまた次回!あー、馬肉喰いてぇ・・。

菊池神社(菊池一族の栄光と挫折・・)

 本日は5月5日「こどもの日」、鎧兜の飾り物が欠かせない日でもあるから本日は堂々たる武将の騎馬銅像などを紹介しよう。

 今回紹介するのは熊本県菊池市の市民広場に建つ「菊池武光公騎馬銅像」と武光公を祀った菊池神社である。以前にも紹介したことがあるが、前回使わなかった画像と共により中身を濃厚にして(ハードル上げたなあ・・)お送りしよう。
 JR熊本駅から「菊池温泉行き」のバスに乗り1時間ほど北上すると菊池市民広場に到着する。
菊池市民広場
 真正面の騎馬銅像がそれである。背後の低い山の上に菊池氏の本城があったが、現在は菊池神社が鎮座ましましている。

 菊池一族は平安時代に土着した藤原一族の末裔といわれている。ことのおこりは1019年(西暦で統一)に大陸のツングース系民族の女真族(後に金王朝や清王朝をつくる)である「刀伊」族が船を連ねて対馬・壱岐を襲撃して多数の男女を殺害・誘拐し、さらに多くの物資を略奪する海賊行為を働いた。一時は博多近辺まで攻め込まれたものの、その時大宰府に役人として着任していた藤原家隆が当地の武士や土豪を糾合して激戦を繰り広げ撃退に成功。
 菊池一族の伝承ではその家隆の末裔と伝えられているが、現代の研究者らによるとその家隆に随行していた別の藤原一門の人物が菊池一族の祖であるともしている。
 その後、源平合戦の頃には平家から源氏に鞍替えしたために源頼朝から睨まれ、十分な恩賞を受けることができなかった。
 元寇の際にも菊池一族は元朝の軍隊相手に手強く戦い、戦功をあげる。

 だが菊池一族の名前がもっとも世に轟いたのが後醍醐天皇によりおこされた鎌倉幕府打倒運動~建武の新政~南北朝動乱の時代であろう。特に第15代の菊池家当主・武光公は九州において南朝の勢力を九州全域にまで拡げることに成功した。
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 この画像の人物は武光公の父親・第12代の武時公である。この方が後醍醐天皇の挙兵の誘いに応じて大宰府で挙兵するも、他に挙兵に応じるはずの武士団が裏切って菊池一族のみの挙兵となったため衆寡敵せずあえなく一族郎党らと共に首を晒すこととなった。武光公は父親の晒された首を見て故郷の菊池に落ち延びたといわれる。
 この像は菊池神社境内に建つ。

菊池武光公!
 武光公はその後、嫡流(長男)ではないため「豊田十郎」と名乗り健やかに成長していったものの、菊池一族はライバルである合志一族(現在も菊池郡合志町として名が残る)に圧迫されて苦しい時代が続くが、ある時、当時の菊池一族の本城である深川城が合志家により占拠される。
 菊池一族の面々はなすところを知らず、一人武光公のみわずかな手勢で駆けつけ、数倍の敵軍と戦い抜きついに撃退に成功。そのまま第15代菊池家当主の座に着いた。

 その当時、後醍醐天皇の建武の新政は破綻し、日本全土は後醍醐天皇の南朝・足利尊氏の北朝と別れ、烈しく戦っていた。武光の頃には南朝方の柱である楠正成公や新田義貞公・北畠顕家卿も戦死し、南朝は劣勢で後醍醐天皇の皇子達を奥州や北陸・九州などに送り、地方の武士団を糾合して挽回を図っていた。
 皇子達の中に九州に来た「征西将軍・懐良(かねよし/かねなが)親王」がいた。親王は5歳になる前に奈良・吉野を公家の五条頼元らに守られて伊予・忽那島(現在の愛媛県松山市中島)に渡り、忽那水軍に守られてたくましく成長する。
 やがて忽那水軍と共に薩摩・谷山に上陸し、北朝方・島津貞久と敵対。何年もにらみ合い、度々の合戦を経てついに島津貞久を圧倒。その後はかねて連絡を交わしていた菊池武光公の菊池に入り、九州の重要拠点である大宰府制圧をめざす。

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 右の武光公が見切れているので一度クリックして別ウインドウで見ていただきたい。左が征西将軍・懐良親王、右が菊池武光公である。武光公が小具足姿なのは当然としても、親王までもが軍勢の指揮に使う采配を握られておられる。時代とはいえ、宮様までもが軍事に当たられた激しい時代だったんですな。

 二人が合流して、ようやく南朝の勢力を北に伸ばす時が来た。状況は足利尊氏と弟・直義が激しく対立していた「観応の擾乱」、尊氏の長男・直冬(複雑だが直義方)が九州に下向して尊氏方の守護大名と戦っていた。
 南朝としては好機!本来なら圧倒的な北朝方にすりつぶされるところだが、北朝の内紛に乗じて力を蓄え、直冬が九州を離れた後は北九州の雄・少弐頼尚との一騎討ちが待ち受けていた。
 1359年、大軍を擁する少弐勢と北部九州の大河・筑後川のほとりで一大決戦が繰り広げられた。後の世に「筑後川の合戦」と呼ばれる。以下、物語風に・・。
 武光公は息子・武政に300の手勢を預けて筑後川を迂回して渡河させ、少弐勢の本陣を背後から突く作戦をとった。
 夜半、まんじりともせず夜明けを待った武光公の耳朶に川向こうから喚声が聞こえてきた。
  「くっ、まだ夜明けまで間があるというに・・。」決断が迫られる。懐良親王の本陣に使い番を送り、ついに武光公は馬上の人となり軍配を振り下ろした!
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 「菊池が者共!今こそ命を捨てる時ぞ!敵は少弐頼尚ただ一人!ただひたぶるに敵本陣をせめろ!!!」武光公の振り下ろす軍配の先には大宰府が待ち受けている。
 戦いは一進一退。取っては取られ、押し返しては押し返され、両軍とも力を尽くし、まさに屍山血河。だがそんな戦いもついに菊池軍の一組が少弐勢の備えを打ち破り、ついに均衡が破れる時が来た!敗れた少弐勢はただ北へ逃げるのみ。本来なら追い討ちをかけるところだが、余力の全てをつぎ込んで戦った菊池勢にも力は残っておらず、武光公ですらその血に塗れた刀を川で洗うことしか出来なかった。
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 これは福岡県三井郡太刀洗町の公園にそびえ立つ菊池武光公銅像である。そう、まさに地名に「太刀洗」とのこっているのだ。
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 上の銅像は戦前の昭和10年以降のもので作者が判然としない。また、戦争中の爆撃で銅像のあちらこちらに破片による傷跡が多々残っている。

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 勝利の余韻が残る心地よい疲労の中にいた武光公は遠い空の向うに待つ大宰府を思い浮かべていた・・。

 ここで菊池市の武光公銅像を色んなアングルからお楽しみいただこう。

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 作者はおなじみ中村晋也先生。え?顔がよくわからないって?ならば!

菊池武光公アップ
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 う~ん、相変わらずの超絶技巧ですね。これは鹿児島県上伊集院駅ちかくにある「中村晋也美術館」で撮影した同じスケールの「菊池武光公騎馬銅像」です。

菊池市民広場
 こちらは銅像近辺のパノラマ写真です。右の建物が観光案内所兼お土産屋です。そこではこんな体験もできます。たわけ
 甲冑試着体験です。1000円でこんなに華麗なレプリカを装着できます。製作は鹿児島県の丸武産業さんです。いい仕事してるね!

 銅像はこのくらいにして菊池神社にお参りしましょう。
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 銅像から数分で菊池神社の最初の鳥居が出迎えてくれます。街灯にも菊池の家紋「並び鷹の羽」がありますね。
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 高くはない山ですので5分も登れば・・
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菊池神社本殿
 本殿に到着です。注連縄が立派ですね。

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 本殿の前には・・。
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 本殿の内部です。皆様も手を合わしましょう。あいにくとこの時は御朱印集めてなかったので、いただいていません。お守りのみ購入しました。

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 菊池神社の隣には城山神社もございます。境内をまわってみましょう。先ほどの菊池武時公の像の他にこのようなものが。
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  「君がため 散れと育てし 花なれど 嵐の後の 庭さびしけれ」ぐっとくる和歌ですね。泣けてきます。

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 かつてここに菊池本城がありました。「隈府(わいふ)城」ともいいます。

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 かつてはこの本城を中心に周囲の重要拠点に18のお城を建てていたそうです。もっとも、近世以前の城ですので、石垣・天守閣などなく、土塁・見張り櫓などの日本古来の防御施設ですが。
 この石碑はその18外城(とじょう)の方位や距離をしめしたものです。

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 こちらは頂上から菊池市外を見下ろした眺めです。素晴らしい眺望ですね。

 もう一つのお楽しみ、神社併設の博物館で代々伝わる鎧兜などみていきましょう。
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 う~ん、いきなり元軍の甲冑ですか。すごいなあ。こんなに保存状態のいいものは九州以外ではなかなかみれないのでは?

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 こちらは武光公の時代の兜・腹巻ですね。腹巻は着物の下に着込む簡単な鎧です。下の銅像の胸元をみてください。鎧がみえているでしょう。あれが腹巻です。バカボン・パパが腹に巻いているのとは訳が違います(歳がばれる・・)。ちなみに神奈川県川崎市の新田神社の新田義貞公銅像です。
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 これは「菊池槍」の穂先です。すこし武具の歴史の話になりますが、戦国時代に多用された槍の始まりはこの菊池槍だという伝承があります。
 話はまだ新田義貞公が後醍醐天皇に叛いて鎌倉にいる足利尊氏公を追討にでた時、勝ち進んでいた新田勢は足利尊氏公の反撃でピンチにおちいります。武器もないような状態でしたが、その時菊池家の武将が切り出した竹の先に包丁をくくりつけてとっさの武器にして足利勢の追撃をしりぞけたという話があります。その真偽はさだかではありませんが、確かにこの穂先は包丁っぽいですね。
 「菊池千本槍」は「菊池には沢山の槍を持った勇士が大勢いる」という一種の美称ですね。「九十九里浜」みたいな。違ってたらごめんくさい。

 最後に武光公以下、菊池一族への墓参りを済ませていきましょう。
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 南無南無・・。

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武光公のお墓
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 この3枚が菊池武光公の墓所です。南無南無・・・。

 さて、なぜそれがしがなぜ征西将軍宮や菊池武光公にこだわるかというと、先祖に前述の忽那水軍がいるからです。確証はないですが、亡きじっちゃんにいわれました。「ご先祖は立派な仕事をした水軍だ」と。
 また北方謙三先生の小説「武王の門」でも征西将軍宮と菊池武光公について詳しく書かれています。興味をもたれた方は是非ご一読を!

 帰りに菊池温泉で立ち寄り湯を頂き、夕方のバスで熊本市内に戻りました。

 ではまた次回!

渋谷で土俵発見!!

 過日、渋谷を歩いていた折、地図上で「氷川神社」の文字を発見。「これはお参りせねば・・」と思って立ち寄ると渋谷にもこんな神社があったのかと驚いた次第。

渋谷氷川神社
 おお!意外に立派な敷地。場所は渋谷区東2丁目、国学院大学を目印に来られるといいでしょう。

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 参道を歩いて階段を登ると・・

狛犬1
 実にたくましい狛犬が出迎えてくれます。もうすこし丸みあった方が愛嬌あるのになぁ・・。

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 本殿で参拝を済まし、由来を書いた縁起書を宮司さんから頂いて読んでみると・・なんでも日本武尊が東征される際にここに素盞鳴命(読めない・・)をご祭神として祭られたとのこと。残念ながら神社の文書や宝は江戸時代の天明2(1782)年の火事で焼失したとのこと。実に残念です。

土俵
 なんと参道の脇には土俵があります。都内の神社で土俵をみたのは靖国神社以来ですね。ほんとめずらしい。やはり相撲は神に捧げるものなんですね。今の相撲協会を神様はどのように思われているのでしょうか?
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 なるほどねえ。
 渋谷氷川神社の境内は静かで実に清清しいです。参拝する価値はあります。皆さんも是非!

 そういえば渋谷3丁目に金王神社もありますな。なんでも源頼朝に仕えた御家人・渋谷金王丸(しぶや こんのうまる)の屋敷跡だとか。渋谷にも面白い歴史がありますね。
 
 そういえば2。 ビンラディンが今更のように見つかって射殺されたとか・・なんだかねえ。逃げ回った挙句にお使いからバレて踏み込まれるって、終わりをよくしないねえ。
 作戦は米海軍のSEALsが担当したとか。この手の作戦はデルタがやると思っていたから意外だったね。世界の特殊部隊の沿革史も追ってみるとあれこれ面白いんだよね。血なまぐさいけど。

 そういえば3。北陸の焼肉チェーンで発生した食中毒事件、社長の記者会見がひどいね。怒鳴って「ごめんなさい」って最悪のパターンだね。同じ石川県人として恥ずかしい。
 いくら激安だからって店が出せば客は食べるさ。やはり店側の責任が重いよね。卸と店で責任のなすりあいしているけど違うでしょ!
 消費者担当大臣のれんほうも呆れた。
  「生肉は不安なら食べないで!」こんないい加減なコメントが風評被害を産むんです!国はしっかりとした衛生安全基準を守らせるのがお仕事、生肉を食べるのが危険というわけではないのに。やはり民主党にはとっとと退陣してほしいね。日本を滅ぼさないうちに。

 馬肉はね、馬刺しで食べるのが一番おいしいのよ。鳥刺しもレバー刺しもちゃんとした店で食べれば安全に食べられます。いい店を見抜く眼力も養いましょう。
プロフィール

サムライ銅像研究会

Author:サムライ銅像研究会
歴史と銅像と芸術が大好きなあまり、日本各地を東奔西走する銅像・史蹟ハンターである。神出鬼没なため、脈絡無しのブログ更新を続ける。掟はただ一つ!「死して屍拾うものなし!」昔の時代劇の決め台詞だけどね・・皆さん、見てやあ!
 最近、キューピーに侍の装束を着用させる遊びをやっております。「武者ピー」と呼んで可愛がってやぁ~!以後は「キューピー甲冑師」とも名乗ります。

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