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上杉謙信公のお城・春日山城

 熱狂的上杉謙信公の崇拝者であるそれがしの上越市探訪レポートも今回で終了である。最後は謙信公の居城・春日山城を案内しよう。

 JR春日山駅前からでているバスに乗って15分ほど揺られていると下の「史蹟 春日山城址」のところにたどり着く。ちなみにバスの本数がたいへん少ないので、自家用車で来られるのが賢明だろう。自転車で行くのも楽しいだろう。徒歩も・・運動にはなる。
山城の案内板

マップ
 上のマップは春日山駅前にある観光案内所でいただいた上越市観光マップの中にあった春日山城絵図である。少し手を加えて赤ルートは登り。青ルートが下りである。ハイキング感覚でいっても全体で2~3時間あれば廻れるだろう。標高も180メートル程だし、トレッキングブーツを履いていけば足元の備えは万全だと思う。

謙信公と春日山城
 先ほどの石柱から歩いて少しのところに「上杉謙信公騎馬銅像」が出迎えてくれる。この銅像は去年(2010年)の夏まで別のところにあったが、毎年8月の終わりに開催される「謙信公祭」にあわせてここ春日山城のふもとに移設された。場所的にはここが一番ふさわしいしね。銅像の脇に「上越市埋蔵文化財センター」があり、古代の土器や中世・戦国時代の遺物など歴史好きが目を輝かせるものが多数展示されているので見ていくといい。
 
 この謙信公像は佐川急便の会長が費用を出して寄贈したものだ。すこしはいいこともしていたのね。原型製作者は南部祥雲先生、先生は昭和22年に富山県でお生まれになり、長じて後は彫刻家・高村光雲の弟子である米治一先生に師事。日府展に所属され、数々の賞を受けられた現代の代表的な仏像彫刻家の一人です。仏像のほかにもこの謙信公像や広島県竹原市にある頼山陽像なども手がけられている。
 では以下何枚か謙信公像を様々なアングルで撮った写真をお楽しみいただこう(もっとも、一番楽しいのはそれがし自身だが・・)。

左から
右から
秋の空と謙信公
空と2
 
 本題に戻らないと・・謙信公像から少し歩くといよいよ春日山城入り口である「謙信公出陣 御前清水」が出迎えてくれる。
出陣清水
 ここで水筒やペットボトルに水を汲んでいこう。山道は楽ではない。飲んでみると実に旨い!この水と米があるからこそ越後(新潟県)は酒どころなのだなあ、と実感することしきり。
 ちなみに酒が好き過ぎて謙信公は痛風を患い、最後は脳溢血(推定だが)で亡くなられている。飲みすぎにはご注意の程を。

大手道方面
 水を汲んだ後まっすぐ登り口に向かうと、左方向には「大手道」が見える。画像の土手の上がそれだ。春日山城全体を大きく南方向から回りこむコースだが、そちらから見上げるとまた一段と素晴らしいとのこと。またいつか行きたいね。

謙信公立像
 登り道をグイグイ行くと途中で左右に分かれる。左がお土産屋で右が春日山神社だ。どちらを行っても結局はこの謙信公立像にたどり着く。
 もし下の清水を汲み忘れて水分を持っていない方はお土産屋で調達しよう。この上は休憩所こそあるものの、飲み物は入手できない。トイレもここで済ませておこう。決して「草むらで・・・」などとやらないこと。緑と水は大切にしよう。

中腹から
 汗をかきつつ登っていくと背後に街が見下ろせる。だが、頂上の景色はこんなものではない。

 途中には・・
上杉影虎屋敷跡
DSC01490_1.jpg
DSC01491_1.jpg
 看板ばかりではなんのことやらだが、興奮しすぎてその周辺を撮るのをうっかり忘れていたのだ。これは是非リベンジしたいね。

土塁と米倉跡
 やれやれ、やっとまともな1枚があった。ここは米倉があった所で、その後の高くなっているところは土塁という防壁である。
 春日山城は南北朝の頃に築かれた日本の代表的な山城で、謙信公の父親・為景公と謙信公の時代に大規模な増改築工事がなされている。謙信公亡き後は「御館の乱」という継承戦争の後で上杉景勝公が継ぎ、豊臣政権の中で重きをなすようになりやがて会津に転封となった。上杉の後は織田・豊臣に仕えた堀家が入るものの、関ヶ原の戦いで堀家が福島に移り、その後は誰も入らなくなり自然に廃城となった。
 幕末、政権を朝廷に返上した徳川が去って明治に入ってから有志の方々が春日山城を現在のような観光地として整備していったのである。彼らの働きがなければ全国の謙信公崇拝者も楽々と巡礼・・もといハイキングなどできはしない。

本丸跡
 ゼイハアいいつつ40~50分で頂上の本丸跡に到着。ここで最高のパノラマを堪能しよう。
本丸からの眺望・パノラマ
 左から日本海に面しているのが直江津の町並み、左側でひと際高い山が米山、眼下には春日山の町並みとその右手にはもうひとつの城下町・高田の街並みが見下ろせる。
 景色は違えど、ここから謙信公も頚城平野を見下ろしていたのかと思うと感慨も一塩である。

 ベンチなどもあるのでここで弁当をつかうのがオススメである。それがしはここで地酒のコップ酒を一人あおっていた。

DSC01503_1.jpg
 
 城を築く時、何が一番重要だろう?地勢であったり、交通の便であったり様々な答えがあるだろうが最重要課題は「水の確保」だ。春日山城はその点申し分ない。
大井戸
井戸郭看板
 頂上からすこし降りたところにある井戸には今でも水がこんこんとわきだしている。ここだけでなく、本丸からちょっと下った斜面からも水が染み出しているところがあったのである。一見なんでもなさそうだが、これはとても大事なことだ。水がなければ人間など1週間で狂い死にしてしまうのだから。
DSC01506_1.jpg
 すこし分かりづらいが下に水面が見えている。

景勝屋敷跡
 井戸郭から離れたところに上杉景勝屋敷跡がある。本丸とここは1人がやっと通れるような細い通路でつながっている。その通路の脇にも一段高い鐘突き堂跡があり、容易に人を信用できない戦国武将の心底がみえてくるよだ。

柿崎屋敷跡
 この広い敷地は謙信公の重臣の一人・柿崎和泉守景家(かきざき いずみのかみ かげいえ)の屋敷跡である。

 上杉謙信を瑞々しい筆致と大胆な描写で活写した海音寺潮五郎先生の「天と地と」では柿崎景家は反覆常ならぬ武将として描かれており、いい印象はもたれていない。実際、謙信公も「柿崎に知恵さえあれば、越後国中でかなう者がいないだろう」と語っている。更にその没年も不明で一説には謙信公から手討ちにされたとも伝わるのでどうしても印象がよくない。
 だが、この屋敷地をみてその印象に修正が必要なようだ。裏切りを警戒される人物に与えるにはあまりにも重要な立地なのだ。さらにここから山中を抜けていけばやがて信濃(長野県)にもでる。
 別の折、「上杉家御年譜」という公式資料を読んでいると、柿崎が城下町で説法していた怪しげな男を手討ちにしたところ、周囲の人々から「やりすぎだ」といわれたが、その男の持っていた傘の柄を割ると、中から武田信玄に裏切りを約束した書状が出てきたという。その後にその書状から裏切り者が成敗されたとのことである。
 以上の情報から、柿崎景家に対する見方を変えるべきではないか。意外に思慮深い一面もあったのかもしれない。

 本丸に戻って下りのコースに行こう。
毘沙門堂跡
 ここは謙信公が合戦にあたり祈りを捧げられた毘沙門堂などがあった場所である。
毘沙門堂跡アップ
 この松の木は若いだろうが、400年以上も前から存在する木もあるだろう。

現在の毘沙門堂
DSC01517_1.jpg
 現在の毘沙門堂はすこし離れたところにある。謙信公が祈りを捧げていた毘沙門天像は米沢に持っていかれたが、幕末の震災で一部を残して焼失したとのこと。その破片を体内に納めたものを明治の大彫刻家・高村光雲先生によって作り直されたものが下の画像。
毘沙門天
 我が家にも一体ほしいなあ。

お花畑跡
 こちらで仏花用に花を栽培していたとのこと。実際はありえないが、謙信公が花を摘んでいる姿を想像して吹きだしてしまった。そういえば「謙信は女性だ」なんて唱えたトンデモ作家もいたなあ・・。

DSC01523_1.jpg
 下る途中、登ってきた道を撮影。烈しい日差しをさえぎる木陰もないため、実にあつかった。下りは木陰も多くて楽ちんである。

直江屋敷跡
DSC01524_1.jpg
 ここは謙信公の重臣の一人直江大和守実綱(なおえ やまとのかみ さねつな)の屋敷跡である。景勝公時代には大河ドラマで有名な直江兼続も住んでいたろう。ちなみに二入は血縁関係ではないので注意しよう。

DSC01526_1.jpg
 屈曲した道は守りやすく攻めづらい。見下ろしているここからも矢玉を飛ばすことが可能だ。

DSC01527_1.jpg
 この看板の下が空堀だ。

 ここで紹介できる画像が尽きた。長々とお付き合いいただきありがとう。
謙信公力そば
 山を降りてお土産屋まで戻り、この「謙信力そば」を頂いた。餅と豚の三枚肉が旨い!なにより周りに店がないからね。

 さてここまで書いて春日山城を紹介するのにまだまだ精進が足りないなと痛感。撮影テクニックなど磨いて今後もまだまだ頑張っていきたい。では、また!
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謙信公ゆかりの神社

 今回は新潟県上越市の神社をいくつかご紹介したい。いずれも上杉謙信公にゆかりのあるところだ。訪れたのは去年の初秋なので現在と風景は異なるだろう。

 まずは居多神社、「こた」神社と読む。もともと出雲の気多大社から分かれた神社であり、「居多」と書いて「けた」と読ませていたようだ。いつしか、現在の読み方に変わったらしい。
 創建時期は不明だが、現存している最古の資料では貞観3(861)年に朝廷から従四位下という位をもらったようだからそこから数十年は確実に遡るだろう。1300年近い歴史を持つというわけである。
 上杉謙信公の時代には宮司も謙信公に使え、都の朝廷との折衝役として活躍し、謙信公の死後に起きた跡目争いの「御館の乱」では神社の近くでも戦闘が起きた。
居多神社1
 海に近いお社である。
居多神社本殿
 建て直されたようで木の木目がまだ真新しい。
居多神社本殿の中
 お賽銭箱の近くにお守りなどが置かれていた。欲しい人はお代を賽銭箱にいれてね、というシステムらしい。もちろんちゃんと入れておきました。
 現在の宮司・花ヶ前盛明(はながさき もりあき)氏は上杉謙信公の研究者として数多くの本を出版されており、その道では知らぬもののいない大家である。先生のサイン本も置かれていたので購入。
花ヶ前先生のサイン
 一生のお宝にします。それがしの持つサインの入ったものは他に北方謙三先生の本1冊あるのみです。芸能人とか興味ないのであしからず。

 続いては春日山跡の一角に建つ春日山神社。
春日山神社正面
 ここはふもとから徒歩で30分近く歩いたところにある。この石段の下に駐車場もあるので自動車で行くほうが楽ではある。
春日山神社の石段
 長い石段ですねぇ・・ここを昇ると・・
春日山神社1
 着きました!春日山神社!!

 この神社は明治に入ってからできました。というのもここを立てた小川澄晴氏という元修験者が上杉謙信公を深く尊敬しており、その城跡の春日山城が荒れ果てているのを悲しみ、謙信公をお祭した神社を作ろうと上越や東京など各地を駆け巡ってやっと作った神社なのです。
 ちなみにその小川澄晴氏の息子が小説家・童話作家である小川未明(おがわ みめい または びめい)氏です。本名は健策。未明氏は坪内逍遥に師事し、ペンネームの「未明」も坪内逍遥から頂いたものだとか。現在、岩波文庫から「小川未明童話作品集」の文庫本が発売されており、気軽に読むことができる。すこし立ち読みしてみたところ、子供はもちろん大人が読んでも面白い作品である。漫画ばかり読んでいる人間はたまにはこのようなものも読まないとバカになるばかりだろう。

春日山神社2
 こちらは春日山神社の本殿。
春日山神社本殿内
 本殿の中はこれ。謙信公のレリーフ(おそらく木彫)の作者は不明だが、もしかしたら前回紹介した彫刻家・滝川毘堂先生かもしれない。
春日山神社魚眼
 春日山神社を魚眼で撮影。

 今回の最後は春日山神社と居多神社の中間点にある春日神社。
春日神社
 創建は天徳2(958)年、奈良の春日神社を勧進した神社。この春日神社から名前をとり、「春日山」城が南北朝の時代に作られたのである。お城の守り神でもありますね。
春日神社参道
 参道の左右は鬱蒼とした木立に囲まれ・・・
春日神社石段
 石段を昇ると・・・
春日神社と青空
 春日神社の本殿がございます。
春日神社本殿
 ここも無人だったので賽銭箱にお代をいれてお守りをいただきました。こういうところに日本のよさがでてきますね。外国ならありえないでしょうね。

 ここの鎮守の森は実に居心地がいい森でした(やぶ蚊除けの虫除けスプレー持参ならば)。故郷にこんな森がある人々は羨ましいですね。森は大切にしよう!
DSC01541_1.jpg
DSC01542_1.jpg

 とまあ三箇所の神社を急ぎ足で紹介させていただきました。神社は境内にいるだけで癒される清浄な空間。出かけられる際は感謝の心を持って、マナーを守って参拝しましょう。パワースポット巡りなど不敬な考えです。

 次回は春日山城跡です。

上杉謙信公の菩提寺・林泉寺(新潟県上越市)

 昨年、上杉謙信公の足跡を求めて新潟県上越市に旅行し、春日山城や神社仏閣を巡ってその結果を当ブログに3回に渡ってまとめた。
 しかしその後のFC2によるサーバー補修で多くの画像が失われたために残念ながら削除することとなった。いつかは復旧したいと考えていたがその画像の多さから躊躇していた。そこで心機一転、前回の構成を踏襲せずに新たに少しずつ書き記すことで別個の記事としてアップしていきたい。

 という訳で今回は上杉謙信公の菩提寺である林泉寺(りんせんじ)を紹介しよう。
林泉寺惣門から
 この林泉寺は新潟県上越市の春日山城跡のふもとに存在する。開基は明応6(1497)年、謙信公の祖父にあたる長尾能景(ながお よしかげ)公が亡父の供養の為、曇英恵応という和尚を招いて創建した曹洞宗のお寺である。
 謙信公も幼い時分に預けられて天室光育和尚から学問を授けられている。この寺で過ごした日々が、謙信公を深く仏教に帰依させ、生涯独身を貫いた遠因ともなったのである。(ちなみに天室光育和尚は謙信公の家臣・柿崎和泉守に招かれ、現在の上越市柿崎区に楞厳寺(りょうごんじ)を開いた)
 寺は慶長3(1598)年に越後から会津120万石に移封を命じられた上杉景勝(謙信公の甥)と共に移るが、この地にも残る。関ヶ原の戦いで負け組みに入った上杉家は会津120万石を取り上げられ、米沢30万石に押し込められた後から現在に至るまで米沢にも林泉寺は存在する。
 現在、二つのお寺にどのような関係があるかは調べていないが、興味ある方は調査されてはいかが?

 上の画像は林泉寺の入り口である惣門と次の山門を撮ったものである。

惣門モノクロ
 惣門をモノクロで撮影。

惣門と苔
 惣門を背景に手前の苔をクローズアップして撮影。緑が目に優しい。

 いつまでも惣門ばかり撮影していられない。次の山門に行こう。
山門
 この堂々とした佇まい・・訪れる価値は間違いなくある。更にこの門に掲げられた額は・・
春日山
 謙信公が書かれたものを写したものである。「春日山」と書いて「かすがさん」と読む。左の「藤原輝虎」が謙信公の名前の一つだ。ちなみに変名は武将に限らず、昔は多くの人が行っていたが、謙信公は他にも「長尾景虎」・「上杉輝虎」・「上杉政虎」「上杉謙信」など多くの名前を持っている。名乗りの理由はそれぞれ長くなるのでまた別の機会に・・・。

仁王・1
仁王・2
 山門にはいかめしい仁王像が待ち受けている。この像の作者は後で記す。

 門を潜る際に上を見上げると・・
天井の龍
 恐ろしげな龍が2体頭上でとぐろを巻いていた。

第一義
 先ほどの「春日山」の学の真裏にこの「第一義」の額がある。これも謙信公の筆跡だ。この三文字こそ謙信公の生涯を貫いている哲学を現している。実に感慨深い。林泉寺ではこの「第一義」をプリントしたものをお土産品として販売している。それがしも当然購入し、自室の頭上に掲げさせて頂いています。

 山門を抜けると、鐘楼や池が控え、その向うに本堂が出迎えてくれます。
林泉寺・鐘楼
 こちらは鐘楼。

鐘楼と蓮池モノクロ
 鐘楼と蓮池のモノクロ画像。

林泉寺・本堂
 本堂。こちらに謙信公の木像があるので、住職にお願いして本堂に上げていただいた。
本堂の謙信公1
本堂の謙信公2
 こちらの上杉謙信公坐像(木彫)と山門の仁王像のどちらも上越の彫刻家・滝川毘堂(たきがわ びどう)先生の作品である。毘堂先生は明治13(1880)年の生まれ。上杉謙信公をたいへん尊敬し、生涯に1000体の謙信公像作成を誓ったものの、835体を作られた昭和35(1960)年でお亡くなりになられた。初期の謙信公像はおしくも戦災で焼失し、全てがあるわけではない。また先生のご子息も「毘堂」と名乗り、彫刻家として活動され、春日山城跡の謙信公立像はご子息の作品。昭和55(1980)年に二代目毘堂先生も亡くなられている。
謙信公立像

 さて、いよいよ謙信公のお墓参りであるが、その前に「自然の呼び声」に応じるために厠にいくと、このような案内板があった。いうまでも無いが、左が女性用、右が男性用である。お姫様と三日月の兜を被った武将というのがほのかな笑いをさそう。観光地にはこのパターンが結構多い。
トイレ標識

 お墓入り口
 本堂の脇から墓所へと通じている。
お墓案内図
 ここには長尾能景公(謙信公の祖父)・長尾為景公(謙信公の父親)・謙信公や長尾・上杉一族の墓や、江戸時代に越後を治めた大名家の墓が多数存在する。それだけ深く尊敬されていたという証左でもある。

お墓への・・
 深い緑に囲まれた石段を昇っていくと・・
謙信公のお墓1
謙信公のお墓2
 謙信公のお墓が出迎えてくれます。緑なす苔が歳月の重さを感じさせますね。ささ、皆様祈られよ。南無南無・・。

川中島戦没者供養塔
 少し離れた所に川中島戦没者供養塔もあります。南無南無・・。

林泉寺・魚眼風景
 無事参拝を終え、正面から魚眼レンズで撮影しました。今となってはすばらしい思い出です。

 次回は神社を巡ります。
プロフィール

サムライ銅像研究会

Author:サムライ銅像研究会
歴史と銅像と芸術が大好きなあまり、日本各地を東奔西走する銅像・史蹟ハンターである。神出鬼没なため、脈絡無しのブログ更新を続ける。掟はただ一つ!「死して屍拾うものなし!」昔の時代劇の決め台詞だけどね・・皆さん、見てやあ!
 最近、キューピーに侍の装束を着用させる遊びをやっております。「武者ピー」と呼んで可愛がってやぁ~!以後は「キューピー甲冑師」とも名乗ります。

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