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金沢の高山右近像

 日本にキリスト経が入った時、多くの人々が入信した。その中には武士も沢山含まれている。今回紹介する高山右近もその一人だ。

高山右近像
 銅像は石川県金沢市内のあるキリスト経系幼稚園の入り口にある。この画像を撮った時は日曜日で誰もいなかったので誰にも迷惑をかけることなく撮影できた。

 高山右近は摂津(今の大阪府)の大名で織田信長・豊臣秀吉に仕えた。当時の宣教師らの報告書にも「キリスト経に熱心で勇敢な武将」と評価されている。宣教師らの報告書は布教と侵略を念頭に書かれているので、偏向的な文章だが当時の日本を知る資料の一つである。
 右近は秀吉の発したキリスト禁教令に逆らって大名を辞め、加賀・前田家に預けられ、10年以上の日々を過ごした。最終的には日本を出て、フィリピン・ルソン島で亡くなった。
 信教の自由を追求するあまり、外国で客死するとは・・ノー・コメント。
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兵庫県北条の五百羅漢石仏

 今回は画像はない。先日、図書館で見た石仏の写真集の感想など書きたい。

 兵庫県の北条に五百羅漢の石仏があるらしい。写真集のタイトルは「北条石仏」、北条というくらいだから神奈川県の石仏かと思ったら兵庫県だった。中身はいつ、誰が作ったともわからない五百羅漢の石仏をモノクロ写真でひたすら撮ったものである。石仏は無表情なものだが、見ていると実に味わい深い・・皆さんも図書館で探して見るといい。ネットで検索してブログで紹介した画像を見てみても面白い。

 なんというか胸に染みる写真であった。自分もカメラが好きなので、自分ならどう撮るかということを考えながらページをめくっていると、あっという間に数時間がたってしまった。そのうちいきたいところの一つである。

 話は変わるが銅像の写真を撮っていても「自分はこれを撮りきれているか?」という自問自答が常にある。いくら全身くまなく撮っても、時間や光により銅像は全く違う印象を見せてくれる。できればその場に泊り込んで三日三晩くらい撮りまくりたいがそれは無理だ。せめて沢山撮ることにしている。

 ではまた次回!

世田谷区の銅像

 前回、世田谷郷土史資料館に行き、今回の銅像・江戸重長について調べてきた。いよいよ銅像探索に向かう・・・その前に。

代官屋敷・母屋
 世田谷代官所の母屋を裏から撮った画像。なんと二階がある!
代官屋敷・二階部屋
 残念ながら中に入ることはできなかったが、この部屋に文机を置いて四季を感じつつ読書したらさぞや気持ちいいのではないだろうかと夢想・・。暖かくなる頃にまた行きたいね。

 資料館を後にしてバス停から「成城学園前行き」に乗り20分ほど揺られると「東宝前」で降りる。脇道に入っていくとこの見晴らしのいい風景が広がる。
世田谷遠景
 ここをずっと下っていくと、やがて多摩川の岸辺へと降りる。この見晴らしのいい高台沿いに多くの古墳が分布している。有力者がいい土地を占めるのは今も昔も同じか・・。

 そんなこんなで30分程歩くと慶元寺のある「喜多見」地区に到着。まずはたまたま通りかかった氷川神社に参拝・・ここがまた面白かった。
氷川神社鳥居

江戸時代の鳥居
 この鳥居は17世紀中頃(1654年頃)のもので世田谷区内最古の鳥居ということから「世田谷区有形指定文化財」として保護されている。歴史のある神社なのだ。

幕末の石灯篭1
 この石灯篭がまた古い。裏に「嘉永二年」とあったので、これが建てられた数年後に黒船が来航したのだ。これと対になっている石灯篭の画像は下。
幕末の石灯篭2
 どちらも彫刻が精緻!アップ画像はこちら。
石灯篭の彫刻アップ
 弁天様だろうか?文机にひじをついて、目の前で香を焚いて楽しんでいる様が詳しく掘り込まれている。石工の技術力の高さが偲ばれますねぇ。

氷川神社・本殿
 本殿はこちら。本殿自体は戦後立て直されたもの。不審火で焼け落ちたらしい。ここまでは普通なのだが・・神社の一角にこれがあった。
陰陽石
 いわゆる陰陽石信仰の陽石の方だろう。言わずとも何か分かるだろうが、初めて見た。文献とかでは知っていたけどね。さりげなく置いてあるのが笑えた。境内に陰石があるかは不明。何かわからないお子様は親に聞いて困らせないように。

氷川参道
 氷川神社を後にして・・

慶元寺入り口
 こちらが浄土宗慶元寺。昔は京都・知恩院の末寺だったらしい。

慶元寺参道
 参道を歩いていくと・・
山門と本堂
 山門と本堂が出迎えてくれる。が、ここは潜らずに本道に手を合わせて銅像へ。

江戸太郎1
 山門の脇に「江戸太郎重長公」像があります。どっしりしていますね。

 江戸氏の先祖は「前九年の役」で関東に下って来た源義家に従ってきた平氏の一族が土着し、秩父氏として武蔵に広く分布。その一族から江戸氏が分かれ、源平合戦の折には武蔵で大いに繁栄し、現在の東京駅のあたりにも館を構えていたらしい。この銅像の重長公はその頃の当主で、源頼朝が石橋山の戦いで挙兵した後に頼朝に臣従。頼朝亡き後は執権北条氏に領土の一部を寄付して臣従。以後、鎌倉幕府の要職を歴任。
 南北朝の頃には新田義貞に従ったが、足利尊氏に鞍替えして生き延びるものの今の江戸城のあたりを太田道灌に奪われ、現在の世田谷あたりに落魄。以後、喜多見と名乗り、小田原・北條氏に仕えたが、秀吉の関東征伐後は徳川家に仕え、二万石の大名になり、犬公方・徳川綱吉に重用される。
 だが、一族が刃傷沙汰をおこして取り潰されたという・・・。
江戸太郎2
江戸太郎3
 その話はどこまで真実かわからないが(誰しも先祖はかっこよく語りがちだ)、銅像はなかなか立派。お寺には重長公のお墓もあるが、お墓は撮影しなかった。

江戸氏肖像画
 こちらは世田谷郷土資料館にあった「喜多見重勝公」肖像。重長の子孫、茶人・建築家・作庭家として有名な小堀遠州に師事し、自身も茶道「喜多見流」を創設。現在の世田谷区成城のあたりに茶室を建てたことから「茶室坂」として地名に残っているようだ。茶道はよくわからないけど、優れた芸術家だったんですな。

新田義貞1
 帰りに分倍河原駅前の「新田義貞公」像を撮影。作者は富永直樹先生、富永先生は北村西望先生の弟子。日展の理事を務めておられたが、2006年にお亡くなりになった。代表作に大分県大分駅前の「大友宗麟」像など。以前行った日展の展覧会では「馬上の毘沙門天」像なども置かれていた。
 アップで撮ると・・
新田義貞2
 目を引き剥いていてやや恐い・・。
新田義貞3
 このアングルでもかっこいいなあ。「新田義貞」ってところだけがひっかかるが・・。

 今回はこれまで。次回どうしよう。

世田谷区郷土史資料館

 世田谷区の慶元寺にある銅像を撮ろうと行き方など調べていると、世田谷区役所近くに郷土史資料館があるのを知り、下調べ感覚に行ってみた。驚いたことにそこが驚くほど面白かったのだ。

世田谷線
 三軒茶屋駅から世田谷線に乗ること数駅・・上町駅に到着。普通の電車のようでありながら、所によっては路面電車のようにも見える路線。

世田谷代官屋敷
 上町駅から5分ほど歩くと世田谷代官屋敷跡に到着。画像は代官職を務めてきた大場家の門。大場家は戦国時代、世田谷近辺を納めていた吉良家に仕えていたが、その吉良家が豊臣秀吉の関東征伐で北條家ともども取り潰し。大場家も土着していたようだが、江戸時代初期に井伊家があらたに世田谷13ヶ村の領主になるに及び、大場家を再び代官として登用。以後、近代に至るまで井伊家に仕えてきたのだ。
 その敷地内に郷土資料館は建つ。

代官屋敷玄関
 こちらは代官屋敷母屋の式台。玄関だね。資料館はこの奥にコンクリ建ての建物がある。ちなみに無料で入れる。嬉しいね。

 世田谷の歴史は古く、三万年以上前から人々が居住し、遺跡から矢尻や石斧など道具類が出土している。また古墳時代には多摩川沿いに数多く作られ、畿内とは別の文明が栄えていたのであろうと想像できる。

土器色々
 縄文時代の土器。

弥生時代
 弥生時代の土器や弓矢(復元)。

稲荷塚古墳
 世田谷区内にもたくさん古墳があるが、その一つ「稲荷塚古墳」。剣などが出土。
剣
 こちらが出土した「圭頭太刀(けいとうのたち)」柄頭が丸みを帯びているのが特徴であり、支那古代の玉の「圭」に似ていることから名づけられたという。

短甲
 こちらは別の古墳から出土した胴鎧「短甲(たんこう)」のレプリカ。

 時代を一気に下って戦国時代の展示品から・・。
北條幻庵覚書
 この巻物は北條早雲の三男・幻庵(げんあん)が娘の嫁入り時に渡した訓戒状。武家の奥向きを取り締まる気構えなどが長々と書かれている。

北條家楽市定書
 世田谷区では現在もここ上町でボロ市が毎年1・12月に開かれているが、その起源がこれ。「楽市掟書き」
条文にはこうある。
  「一 月に6回、1と6の着く日に市を開催しなさい
   一 商品を無理にかってはいけない
   一 債権者が同国・同郷人から商品や人質をとってはいけない
   一 喧嘩・口論の禁止
   一 市場での税を免除」
 これにより民政に力を入れていた北條家の姿勢が窺い知れる。北條家の後に関東に入国した徳川家は最初は統治に苦労しただろう。なにしろ皆、北條時代を懐かしんだろうからね。

豊臣家定書
 これは豊臣家が関東征伐時に「占領地で乱暴しちゃダメ!」といいわたしたもの。色々残っているねぇ。

井伊直弼
 江戸に入りこの周辺は近江・井伊家の支配下にあったが、画像は幕末の井伊家当主・井伊直弼公。大老として非常時に政局を握り、「安政の大獄」をおこす。水戸・徳川家の浪士らに桜田門外で襲撃され、殺害される。
 事件の影響はこの地にもおよんだようで、当時の状況を記した日記などが残されている。

大場家日記
 領民達が代官屋敷に集まり、「どうしたものか?」と夜を徹して話し合ったらしい。

岡本
 また井伊家の家老・岡本黄石が事件を聞いていきりたつ藩士らを三日三晩にわたって説得し、水戸・徳川家への襲撃をなんとか思いとどまらせたという。
 ちなみにこの岡本家。徳川家康が井伊直政の下につけた旧武田家の武士・岡本半助の末裔らしい。黄石自身は他家からの養子だが。

玉川上水樋
 他にも江戸の水道を支えた玉川上水の「木樋」などが展示されている。今でいうところの水道管ね。

石仏
 かつて民衆の信仰を集めた石仏。石仏の足元には「見ざる・聞かざる・言わざる」の「三猿」が彫刻されている。モノクロで陰影を強調して撮影して大分わかりやすくなったが、あまり猿に見えないなぁ・・。

大場信續氏像
 今回の最後に「大場信續」像。明治に入って信用金庫を設立した地元の名士。像の作者は北村西望先生、長崎の「平和の像」や熊本の加藤清正像の作者ですね。
 資料館は世田谷区の運営で無料で入れた割にはバラエティ豊富で楽しかった。今まで廻ってきた博物館と比べてもかなりいい。どことはいわないが、金を払って入った博物館でもがっかりした所は沢山ある・・。

 今回はこれでおわり。次回に慶元寺の銅像を紹介しよう。隣接した氷川神社もなかなか面白かった・・。

徳川家康公の銅像集

 徳川家康公の銅像画像が集まったのでまとめて紹介したい。

竹千代1
竹千代2
 静岡駅前の竹千代像。
 まだ竹千代という幼名で呼ばれていた頃、駿河の今川家に人質に赴く途中、身内により織田家へと売り飛ばされた。なんという運命だろう。だがひたすら耐え抜き、まだ若かった織田信長に兄事したという。
 やがて織田家の一族を捕らえた今川家により人質交換され、駿府へと向かった・・。

松平元康2
 岡崎城内の松平元康像。
 駿府での気の遠くなるような日々を耐え抜き、今川義元から一字を貰い、松平元康として元服。初陣は大高城への兵糧搬入であり、無事成し遂げた後に「桶狭間の戦い」が起きる。押さえつけていた障害が無くなったのを機会に独立。以後、織田信長の忠実な同盟者として各地を転戦。

浜松の家康1
浜松の家康2
 浜松の徳川家康像。
 松平の姓から徳川に改姓し、名前も家康に改名。甲斐の武田信玄と今川家の領地を分け合うことを画策し、遠江に進出。曳馬(ひくま)城から浜松城に改名。だが幸事魔多しともいう。家康最大の危機が迫りつつあった・・。

三方ヶ原の家康2
 岡崎城内の家康「しかみ」像。
 京の都に上洛を狙う武田信玄に戦いを挑み、見事に負けてしまう。世に「三方ヶ原の戦い」という。家康はこの時の敗戦を自身戒めるため、悔しさに塗れる自身を描かせ、生涯座右に置き続けたという。

岡崎の家康1
岡崎の家康2
 岡崎城内の家康像。何歳を想定したか不明だが、初老の頃だろうか?
 本能寺の変で倒れた織田信長の跡を羽柴秀吉が継ぎ、家康は北陸の柴田勝家らと同盟して秀吉と対立。勝家は「賤ヶ岳の戦い」で倒れたが、家康は「小牧・長久手の戦い」で秀吉率いる大軍に抵抗し、武門の意地を貫き、和睦。天下に徳川の名を知らしめる。

静岡駅前の家康1
静岡駅前の家康2
 静岡駅前の徳川家康像。この家康像はかなり年老いている。大坂の豊臣秀頼を攻め滅ぼすべく出陣を号令しているところだろうか?
 秀吉の愚かな朝鮮出陣にも家康は国内に留まり勢力を温存、ひたすら江戸を開発させていた。秀吉亡き後、関ヶ原の合戦で石田三成らを滅ぼして天下を奪取。絶え続けた日々がついに実った瞬間であった。

駿府の家康2

駿府の家康1
 静岡市・駿府公園内の徳川家康像。まさに神君家康公ですな。

久能山の家康公墓
 家康公の御魂は日光や久能山など各地に分祀されて眠っているのである。画像は久能山東照宮にあるお墓。

 家康像はこの他にも東京の江戸東京博物館の裏手に1体、埼玉県越谷市のある寺にも1体ある。そのうち行きたいものだ。

 ではまた次回!

アフガニスタン戦争の記録

ホース・ソルジャー
 今回はこの本の書評を書きたい。

 2001年9月11日、同時多発テロが起きたとき自分が何をしていたか思い出せる人はどれだけいるのだろうか?それがしは今とは違う仕事で夜勤中だった。その時はニュース画像の意味がまるでわからなかった。翌日、新聞やニュース等で詳しくみて初めて事件の重大性を知った。あの瞬間、世界はこれまでのものとはまるで違うものに変わってしまったのだ・・・。

 本のタイトルは「ホース・ソルジャー」、米陸軍特殊部隊の派遣部隊がアフガニスタンで体験し、起こったことを様々な人物にインタビューすることで詳細にまとめた本だ。

 あのテロが起きた時、アフガニスタンでは同時に対ソ連軍の抵抗闘争を続けてきた北部同盟のマスード司令官もカメラマンをよそおったタリバンのテロにより爆死。マスード司令官は「アフガンの獅子」とも形容された優れた人物で、西側との太いパイプも持ち、アフガン国内で勢力を拡げつつあったタリバンとも根気強く戦っていた。敗勢の色が濃かったが・・。

 さて、本によるとアメリカの情報機関や軍はアル・カイーダの存在も事前に掴んでいたという。ということはあのテロも防ぐことが出来たのではないかと素朴な疑問を抱いたが、それは本題ではない。
 
 北部同盟の司令官の死により攻勢を強めるタリバンに対して北部同盟の残る有力者に協力してアフガニスタンに平和をもたらし、またアル・カイーダ捕縛を目的に陸軍特殊部隊のごく少数のチームが先遣隊として派遣された。ここで肝要なのはあくまでアフガニスタン人が主役でタリバン駆逐をすることであり、米軍兵士はあくまで黒子であることらしい。
 詳しいことは興味をもった人が実際に読んでいただきたいが、驚いたのはその過酷な環境と移動手段。アフガンは険しい山に囲まれた国であり、山から山、谷から谷へと馬やラバで人や物資を輸送しているのである。そのサマはかつてアレクサンドロス大王がアケメネス朝ペルシア帝国の残党を追っていった時や、大英帝国とロシア帝国が「グレート・ウォーズ」を展開していた時と21世紀の現代もかわらないようだ。
 具体的には馬に乗ったアフガン人兵士や米軍兵士が米空軍の空爆支援の下、銃を手に敵陣に突っ込んでいくという現代と中世が入り混じったような戦場であったらしいのだ。読んでいて唖然とした・・。
 
 話はタリバンから順次国土を解放していった後、捕虜にしたはずのタリバン軍兵士との激しい市街戦を展開し、先遣隊がいったんアメリカに引き返し、その後イラクで戦雲が巻き起こるところで終わっているが、平和な日本ではわからないことが起きていたのだと考えさせられた。
 もちろん、読む者により戦争の大義に疑問を感じる向きもあるだろうが虚心に読んでもいい1冊ではないだろうか?今や日本も周辺危機を真剣に考えなければいけない時代なのだ。美しい日本を守り、大和民族の繁栄を継続させる為にも隣の民族になど負けるわけにはいかない。
 かといって無闇に民族心を煽り立てるつもりはないが、「備えあれば憂いなし」ともいう。現政権では不安でたまらないが・・・。

「カエサル」を観た

 今日、テレビでBSハイヴィジョンでやっていた「カエサル」を観ることができた。主演は松本幸四郎さん、原作は塩野七生先生の「ローマ人の物語」 
 
 日本人はローマ史にはうとい傾向にあるが、塩野先生の作品は面白い上にローマ史がわかりやすいので是非読まれるといい。
 
 普段、舞台の芝居はあまり見ないが、松本さんらの渾身の演技にたまには悪くないと思った。

 そういえば堀北某が「ジャンヌ・ダルク」をやっているらしい。そのうちDVD化されたらみたいものだ。

 宮城谷昌光先生の「管仲」が面白い。古代中国史上、最良の宰相といわれる人物の物語だ。宮城谷先生の話は小説だが、中国の古典に詳しい先生の語り口は古代中国史の面白い講義もうけているようで勉強になる。また先生は徳川家康周辺の物語も書いておられる。いずれ徳川家康その人についても書くのではないかと今から期待している。

 ではまた次回!

りっくんランド訪問記

 民主党が政権を獲ってから「事業仕分け」が世間を騒がせてきた。その様は「大山鳴動、鼠1匹」の如しであり、ある大臣の「二位じゃダメなんですか?」などの迷言も飛び出すなど次の選挙が待ち遠しくてしようがない。
 その騒ぎの中でマスコミに取り上げられていたのが陸上自衛隊の広報センター、通称「りっくんランド」。気になったので見に行ってみた。物見高い性分なもので・・。

りっくんランド
 こちらは埼玉県朝霞市の朝霞駐屯地の一角にある。以前はただで入れたが、今や入場料・大人500円だ。子供料金はもうすこし安かったかな・・。センター内には自衛隊の歴史や活動がわかりやすく展示されており、更に装備品が展示されている。

90式戦車
 こちら90式戦車。冷戦時代、対ソ連戦を想定し、設計したもの。自衛隊の主力戦闘戦車(MBT)だ。

自衛隊の銃器
 自衛隊の主要火器である。上から89式5.56ミリ小銃、国産です。まんなかは5.56ミリ機関銃、原型はベルギーの銃器メーカーFN(ファブリーク・ナシオナール)社の製品で米軍も採用している。下は62式7.62ミリ機関銃。ガラスケースの中にあるので触れなかった。触りたかったなぁ・・。

ヒューイコブラ
 戦闘ヘリ・ヒューイコブラ。映画にもよくでてくるね。

自衛隊の車両
 センターの裏庭に様々な車両が並んでいる。行ってみよう。

94式水際地雷敷設装置
 ん?水陸両用自動車?と思ったら、94式水際地雷敷設装置だそう。「装置」なんだ。ふーん。

87式自走高射機関砲
 87式自走高射機関砲。

89式装甲戦闘車
 89式装甲戦闘車。 

96式装輪装甲車
 96式装輪装甲車。さっきの89式と何が違うんだ?

74式戦車
 30代以上の人間に戦車と聞けば、大体この74式戦車にたどりつくかな。角川映画の「野生の証明」や「戦国自衛隊」にもでてきたし。歳がばれるな・・。

74式自走105ミリ榴弾砲
 74式自走105ミリ榴弾砲。
75式自走155ミリ榴弾砲
 75式自走155ミリ榴弾砲。形が似ているけど、大砲の口径と射程が違うんだろうね。

軽装甲機動車
 センターの入り口に自衛隊がイラク・サマワに派遣された時の車両が展示されていた。

 鉄の塊りがたくさんあって楽しかった。500円なら払ってもいいな。

 また次回!

陰陽道の祖・阿倍晴明

 日本は中国が隋や唐という王朝であった頃、多くの文物を輸入した。その中の一つに「陰陽道」がある。輸入者は吉備真備、「孫子」など中国の兵法を持ち帰った人物だ。
 それがしは「怪力乱神を語らず」という立場なので、不思議なことは苦手だが、明治維新に至るまで暦を決めるなど朝廷の陰陽寮は大事な仕事をしてきたのもまた事実・・。今日は京都の阿倍晴明神社を訪れた時の銅像を紹介しよう。

阿倍晴明1
 こちらは平安時代の陰陽師・阿倍晴明の銅像である。境内には陰陽道の護符・五ぼう星もふんだんにあり、晴明ファンの若い女性も多くいた。その中に宝塚の男役っぽい凛々しい女性も3人ほどいたなあ。

阿倍晴明2
 うーん、武将と違ってなんの感興もわかない。ゆえに撮っていてもあまりおもろくなかった。

 また次回! 

福井県の銅像2

 福井を代表する幕末の志士に橋本左内がいる。
橋本左内1
 若くして福井藩主・松平春嶽公に見出され側近として登用、大坂・適塾の緒方考庵のもとで学び天才を謳われる。水戸の藤田東湖・薩摩の西郷隆盛・熊本の横井小楠や梅田雲浜らと親交。開国派でロシアとの接近を唱える。将軍継嗣問題では一橋慶喜(後の第15代将軍・徳川慶喜)を支持するも、紀州の徳川慶福(後の第14代将軍・徳川家茂)を推す大老・井伊直弼が起こした「安政の大獄」で捕らえられ獄中死する。

 橋本左内2
 詳しいことは各自で学んで欲しいが、左内の優れたところは若くして志に目覚め、自ら学問に刻苦勉励したことだろう。15歳の時に「啓発録」というものを書いている。その中の五箇条がまたいい。現代人も参考にすべきだ。以下に記す。
  一  稚心を去る
  一  気を振う
  一  志をたてる
  一  学に勉める
  一  交友を択ぶ
 これから学んでいく、もしくは社会に出て行こうとする若い方々は橋本先生の言葉を胸に励んで欲しい。特に五番目の「交友を択ぶ」は実に切実で深い。この真理を15歳で悟ったということこそ天才の証だと思う。皆さんはどう思われるか?
 橋本先生のような方こそ憂国の志士であり、坂本龍馬ごときは乱世に乗じて金儲けに乗り出した「死の商人」に過ぎない。そこを見落とすと、いたずらに個人を英雄視する羽目になるのである。

 ではまた次回!

福井県の銅像1

 福井県の銅像を紹介しよう。今年の大河ドラマ「江」も福井市にあった北庄城(きたのしょう・じょう)が舞台の一つになる。

柴田勝家1
 こちらは織田信長のもとで最も勇猛と謳われた柴田勝家公。通称は権六。信長が家督を継いだ時は信長の弟に仕えており、どちらが尾張の主導権を握るかで合戦をしたこともあるが、信長の用兵に舌を巻いた勝家は信長に臣従。
 その後は命じられるままに畿内・北陸などを転戦。本能寺の変では秀吉に遅れをとり、その後の清洲会議では完全に主導権を握られてしまう。
 それでも反秀吉の旗を掲げて徳川家康とも同盟して近江で秀吉軍と激突。時運利あらず敗れた勝家は北庄城に引き上げ、信長の妹・お市の方と共に自害。お市の三人の娘達は前田利家の元に身を寄せ、後に秀吉の命令で大名の下に嫁がされていくわけである。

柴田勝家2
 今年の大河の脚本家は「篤姫」の脚本家らしい。まあ、大河はあまりみなくなっているので好きにやるといい。しょせんドラマなので、史実と違うからといって目くじらたててもしょうがないので。

 この銅像は福井市内の柴田神社というところに建つ。北庄城があった場所は夜の繁華街になっており、神社もそのど真ん中だ。勝家公がすこしかわいそうだ。他にもお市の方の銅像もあるのだが、デジタルデータで残していなかったので画像がない。できればまた行きたいものだ。

結城秀康像
 こちらは福井県庁前に建つ「結城秀康」公像である。かつて福井城のあった本丸後にそのまま県庁と県警本部があり、朝の出勤風景を眺めていたらまるで朝の登城に見えて誠に気分が悪い。お役人方はさぞや「お上」意識を植え付けられることであろう。

 結城秀康は徳川家康が庶民の女性に産ませた次男であり、家康はその次男が気に入らず、「おぎ丸」という醜い魚からとった名前を付けて家臣に育てさせた。ひどい話だ。成長してもなかなか会おうとしないので、みかねた長男の信康が強引に家康に引き合わせたのである。
 その後、秀吉に養子に出されたり、秀吉の都合で関東の結城家に養子に出されたりと散々な目にあうが、鍛錬をおこたらずに勇猛な武将へと成長。
 関ヶ原の戦いでは関東を任され、戦勝後は越前・福井に75万石を与えられた。しかし、若いときの放蕩がたたったのか梅毒に犯され、34歳の若さで亡くなった。知勇兼備の武将の死を惜しむ声も少なくなかったという・・。

 この像は石像だ。しかも作者が中国人。なぜ?おかげでひどい出来だ。これだと中国の武将ではないか!センスのなさに怒りすら覚える。

 次回は福井の幕末志士の銅像である。

遠州・掛川城探訪記

 2011年初のお城探訪に遠州は掛川城を選び、行ってみた。すばらしい好天であった。

掛川駅
 という訳で降り立ったのはJR掛川駅。木造駅舎が素敵だ。NHK・BSでそんな駅舎を訪ねる番組があったな・・。

二宮尊徳1
二宮尊徳2
 駅前広場には「二宮金次郎」像が建っております。銅像としてはあまりに定番ですが、最近ではあまりみかけませんね。ここ掛川では二宮金次郎の教えを受けた土地の有徳者により「大日本報徳社」が設立。市内には他にも二宮金次郎が沢山建てられているようだ。どうも10近くあるようなので、他は報徳社のホームページで確認していただきたい。
 しかしこの金次郎、オールバックやね・・崩れかけたリーゼントぽく見えてわろた。

 その後、掛川駅北口から5分も歩けば掛川城が見えてくる。
掛川城全景
 天守閣は平成6年に市民の尊い献金などから再建。こぶりながらも見目良い天守閣である。新幹線や東海道線からいつも見て気になってたんだよねぇ・・・。

 まずは城の周囲を散策。姫路城や熊本城ではこうはいかない。すぐ近くの掛川市立図書館に行くとこんな建物が・・・。
報徳会図書館
 大日本報徳社が市民に開放していた図書館の建物であった。昭和2年の建物らしい。渋いな・・。

大日本報徳会
 大日本報徳社の本部もある。

 目の前にある図書館で掛川の歴史を書いた本を閲覧した後、再び表に出ると隣接した駐車場の一角に残念な光景が広がっていた・・。
銅像台座
 それがしのような銅像・史蹟ハンターにとっては銅像のない台座はなんとも心すさむ光景である。近くの説明版や台座裏の銘板を読んでみると「杉浦五兵衛」は土地の有力者で明治、国会が創設された際、議員として選出。長く議員として国政や地元に貢献して衆院議会の副衆院議長にまで勤められたとのこと。銅像自体は戦前の物資供出により戻ることはなかったようだ。
 台座だけというのは見ているだけで空しい。いっそ撤去してほしいが、地元の方々が「台座だけでも・・」と思われているのならやむをえないことだ。

 気分を取り直して、近くの丘へと歩をすすめる。

龍華院参道
 この坂を登ると龍華院大ゆう院霊屋へと至る。「大ゆう院」というと江戸幕府三代将軍・徳川家光公の戒名ではないか。
大ゆう院霊屋
 なんでも掛川の領主が幕府に願い出て家光公の御霊屋を作られたそうだ。どうもそれには、跡継ぎのいなかった大名が養子を斡旋してもらうために時の将軍におもねったようだ。家の存続に全てをかける当時の武士の心境が窺い知れるものだ。
霊屋の装飾
 日光には及びもつかないが、装飾が施されている。

 さて、この丘は元々の掛川城が建てられていた。その当時は「懸川」と書いたようだ。お堂の周囲にはかつての城の縄張りを想起させる遺構もある。
旧・かけがわ城の堀切
 この画像ではすこしわかりづらいが、深さ7~8メートルの堀だ。お堂のある手前が旧・懸川城の本丸の存在したところ。
子角山説明板
子角山からの眺望
 高さはそれほどではないが、周辺にも高いところは少ないので見通しはいい。ふもとは小学校だ。

 また、市内の南側には高天神城や横須賀城など徳川・今川・武田の抗争が繰り広げられた最前線の城跡が存在する。車で行ったほうがいいだろう。

 そろそろ掛川城へと向かおう。
三日月堀1
三日月堀2
 お城の前には発掘された三日月状の堀が復元されている。他の城ではあまり見かけたことがないめずらしい形だ。自然の沼や池を利用したのだろう。

そろばん堀1
そろばん堀2
 こちらは明らかに人工的な形だ。底を凸凹にすることで渡りづらくさせたのだろうか。

掛川城へ
 入り口で400円払う。天守閣や隣接した本丸御殿、二の丸美術館にも入れるセット券なので、天守閣だけなら200円だった・・かな?

霧吹井戸
 木戸を潜ると背後に井戸が出迎えてくれる。この井戸には「霧吹き井戸」という伝説がある。徳川家康が城にこもる今川軍を包囲した時、井戸から霧が吹きだし、あっという間に城を包み込んでしまった。家康は仕方なく撤退したという・・結局は落ちたわけだが、謎めいた話だ。

軒唐破風と火燈窓
 天守の特徴として、突き出た部分に唐破風・火燈窓(格子のはめられた窓)があり、最上部には外側を巡る廻縁や高欄が設置されている。大坂城にならったものだ。

掛川城東
 天守東側の眺望。下の平屋が御殿だ。

掛川城南
 天守南側の眺望。山を越えた先に遠州灘が広がる。

掛川城西
 天守西側の眺望。中央を流れる逆川(さかがわ)は改修工事を終えているが、この川の流れを利用して掛川城は縄張りされている。空が青い・・。

山内一豊1
山内一豊2
 城内に山内一豊公のミニチュア・ブロンズ像があった。これの大きいものが高知県高知城内にある。

掛川城天守閣
掛川城魚眼
 駆け足で巡ったが、ハイキングにはちょうどいいコースである。暖かくなったら弁当持参で出かけるといいだろう。

 ではまた次回!

太田道灌の子孫・太田氏資の銅像

 関東の名将・太田道灌にも多くの子孫が存在し、関東各地に散らばって戦国の世を生き延び、あるものは遠州・掛川で大名となり、またあるものは肥前・鍋島家に仕えるなどして現代にもその子孫は残っているという・・。
 今回はその中の一人、戦国乱世に儚く散っていった人物の銅像を紹介しよう。

太田氏資1
 こちらは埼玉県さいたま市岩槻区にある芳林寺に建つ「太田氏資(おおた うじすけ)公」銅像です。主君に謀殺された道灌公の跡を養子が継ぎ、岩槻城主を代々つとめて氏資で4代目。

 父親の三楽斎資正は小田原・北條家を嫌い抜き、徹底抗戦していたものの、ある時北條家に降伏した。北條家当主の氏康は太田家切り崩しの為に娘を資正の嫡男・氏資に嫁がせ、氏資もしだいに氏康の人柄に私淑するようになり父親・資正との距離が出来るようになった。

 資正はまた北條家に背き、北條と近しい氏資はひと時出家していたが、時を見て父親と弟を追放して岩槻城主になった。

 その後、房総の大名・里見氏との合戦で退却する北條軍を助けるために軍勢の最後尾で防ぎ続け、戦死。歳わずか25(数え年)であったという・・。悲しい話ではある。
太田氏資3
太田氏資2
 若くして亡くなったせいか凛々しく作られている。モデルに関しては不詳。

 ではまた次回!

前田利家公の銅像集

 それがしの出身地は北陸随一の都市・金沢である。金沢といえば、前田利家公・・という訳で利家の銅像3体を紹介しよう。ちなみに関東育ちなので、金沢にはたまに帰省するだけだ。

荒子の利家
 前田家は元々尾張・荒子の領主であり、利家は当主ではなかったが織田信長のお声がかりで荒子城主へとなれた。
 この銅像は名古屋市荒子駅前の「前田利家・初陣の像」イケメンですな。

前田慶次郎
 こちらはあおりを喰らった前田慶次郎・・山形県米沢市で撮影。

尾山神社の利家
 石川県金沢市の尾山神社境内の利家像。尾山神社は前田利家・まつ夫妻が祀られている。

兼六園前の利家
 日本の三大庭園の一つ兼六園前に建つ利家像。建てられて20年以上経つが、その当時兜が金色に塗られているものがかなりめずらしかったのを覚えている。

 では、また次回!

関東の剣聖2人

 剣の道に生きる者達を兵法者(ひょうほうしゃ)と呼び慣わし、その中でごく一握りが「剣豪」と呼ばれる。その剣豪の中でも「剣聖」とまで崇めたて祀られる人物がいる。今回紹介する銅像はその「剣聖」である。

塚原ぼくでん
 こちらは茨城県鹿島神宮駅前に建つ常陸(茨城県の旧国名)の剣聖・塚原卜伝である。古来より武士が武門の守り神として信仰してきた鹿島神宮に伝わる「鹿島古流」を学び、また松本備前守より秘剣「一之太刀」を学び、更に自身の工夫を加えて「鹿島新当流」を創始。大勢の門人を引き連れて日本全国を行脚し、自身の流派を伝える。その中には伊勢の守護大名・北畠具教や征夷大将軍・足利義輝らもいた。
 各地に多くの伝説を残し、「甲陽軍艦」にも無手勝流のエピソードが残されている。宮本武蔵の打ち込みを鍋のふたで受け止めたエピソードは後世の作り話とされている。

剣聖・上泉信綱
 一方、こちらは群馬県上泉町にある上泉自治会館前に建つ上野(こうずけ:群馬県の旧国名)の剣聖・上泉信綱。現・上泉町一帯の領主であり、元は秀綱と名乗っていた。関東管領・上杉家に仕える長野家に代々仕える。相模の北條家や甲斐の武田家に圧迫され、徐々に主家が弱りつつある中でも忠義を尽くし、その武勇を「上野一本槍」と称揚される。
 しかし、上杉憲政が越後に逃亡し、長野家も滅び、秀綱もついに武田家に降伏。その武勇を見込まれ、武田信玄から仕官を誘われるが、剣の道に生きることを希望し、今後どの家にも仕えないことを条件に放免を許される。信玄から「信」の一字を与えられ、その後は「上泉信綱」と名乗る。
 そして神後伊豆守・疋田文五郎2人を供に全国を巡る剣術修行に旅立つ。旅の中で多くの剣の弟子と出会い、「新陰流」を完成。その教えを柳生石舟斎や丸目蔵人佐らに伝授。彼らは独自に「柳生新陰流」や「タイシャ流」を創始した。
 信綱は天皇や公卿、将軍にもその剣技を披露し、また伝授した。その功により朝廷から「武蔵守」の官途を名乗ることを許された。
 軍勢を動かす兵法(へいほう)の達者でもあり、上泉家伝来の兵法書「訓閲集(きんえつしゅう)」は現代語訳版が出版されており、当時の戦争の様子を窺い知る資料ともなっている。
 信綱も伝説を各地に残しており、旅の途上、剣を使わずに強盗から人質の子供を救ったエピソードは黒澤明監督の「七人の侍」にも使われている。

 この二人が共に関東出身ということは「坂東武者」の伝統が脈々と生きていたことの証左でもあろう。

 では、また次回!

織田信長公の「薄濃(はくだみ)」考

 今回は画像はなく、文章のみなので退屈な場合は読まれなくてもいい。

 先日2日の歴史ドラマ「二人の軍師」で織田信長公が朝倉義景・浅井久政・浅井長政ら3人の髑髏を金ぴかに塗り、それを盃にして明智光秀に飲ませようとしたシーンがあった。そのシーンそのものは作家の想像力のなせる業なので一笑に付すところではあるが(荒木村重との初対面で、信長が刀に餅を刺して食べさせて、村重の肝の太さを試した、というエピソードも混じっていたし)、信長公が天正二年の正月に三人の髑髏を内々に披露したのもまた事実であるからあらためて、信長公の事績を知る上での一級資料「信長公記」(太田牛一 著・奥野高弘 注釈/角川ソフィア文庫版)からその部分を探ってみた。

 大意をカッコ内で要約してみた。
  「天正二年 正月一日 岐阜城にて諸国の家臣団との謁見を済ませた後、馬廻り衆ら直臣衆のみ酒を振舞い、肴として朝倉義景・浅井久政・浅井長政3人の髑髏を薄濃(はくだみ/髑髏を漆で固めた後、金泥などで薄く彩色する)にしたものを据え置き、皆に披露した。そのまま宴は続けられ、皆、酒を飲みつつ、謡い舞った」と書いてある。「信長公記」の巻七の冒頭に書いてあるので参照されたい。

 それがし、以前誰かの文章で「薄濃は古代中国にもそのような風習があり、織田信長もそれを知識として踏まえた上で行ったのではないか?」というものを読んだことを思い出し、「薄濃」そのものを調べてみた。すると幾つか面白いことが判明した。

 まず一つ目、「薄濃」の風習は古代中国にも確かに存在し、司馬遷の「史記」にもその記述は存在する。その風習の意味は、戦で討ち取った敵に敬意を表してその勇気を自分に取り込む為に髑髏を薄濃にするというもののようだ。さらに趙の襄子は敵対していた智白を薄濃にしたという。

 二つ目、密教の流派の一つ「真言立川流」に薄濃の秘法があったという。

 三つ目、これが一番興味深いのだが最澄の開いた比叡山に「薄濃」を施す職人がいたという。比叡山での意味合いは、山で亡くなった高僧の徳を偲ぶために行ったものらしい。

 なんと比叡山にそのような職能集団が存在していたのか?比叡山に確認をとったわけではないので、今後訪れた時に聞いてみたいものだが、発想が古代中国と似ていると思えないか?仏教自体、中国から伝来したものだから「薄濃」の思想と技法も伝来したのかもしれない。
 
 織田信長は漢籍にも少しは詳しかったのではないか?そもそも美濃・稲葉山城を禅僧の助言により、古代中国・西周王朝武王の故事に基づいて「岐阜」城と命名したのであるから、「薄濃」も知っていたのかもしれない。とはいえ、直臣衆に晒した意図ははっきりしないが・・。

 もう一つ・・。織田軍が朝倉・浅井を滅ぼしたのは前年の8月終わり。首を京都に晒したというから、薄濃に「加工」するならば少なくとも9月半ばからその年の年末までの時間が許されるのである。3ヶ月から3ヵ月半というところか・・。であるならば、織田家の勢力圏内にあった比叡山の職能集団(もしくは比叡山以外でも実行可能な領地内の集団)にやらせたということではないか・・・。

 この件に関しては参照すべき事実があまりにも多いので今後の課題の一つとしたい。今回はあくまで一考察という風に受け止めてもらいたい。でも歴史の陰に隠れた事実というものは実に多い。一つ一つは微細なものかもしれないが、それらを繋ぎとめていけばある日、今までと違った絵図面が表れるかもしれないのである。これぞ歴史好きの醍醐味というものであろう。学者だけに独占させてなるものか。

静岡県のあれこれ

 先日、京都・奈良に行った帰りに普通電車で大垣から東京まで帰ってきたが、いやぁ疲れた。なにより座りすぎて尻が痛くなってしまった・・。
 そんなことはさておき、途中の東静岡駅で降りてまたガンダムを撮ってきた。どストライクな世代なので通りがかると見ずにはおかない。ちなみに今年の3月27日まで見れます。

とろべー
 東静岡駅で出くわした新たなユルキャラ「とろベー」君です。近くに登呂遺跡あるしね、しっかしユルいなぁ・・。ずっこけましたわ。

テレしず
 こちらは静岡テレビのユルキャラ「テレしず」一家。静岡の「静」とシー・ズー犬と富士山を無理やりくっつけた感が出ていますが、可愛いですね。
DSC03351_1.jpg
 こちらは本物のシー・ズー犬、御年11歳のナナミです。特にオチなし。

ガンダム全身
塔とガンダム
 さすがによくできていますね。近頃、中国のある遊園地でまがい物だしてたみたいですが、とんでもない話です。あのまがい物国家なんとかならんですかね。

ガンダム・バーニア
 後のバー二ア部分もよくできています。本当に飛びそうですね。

ガンダム・カラー
 やはりカラーも載せとかないとね。

タジン鍋
 会場の一角に露店が並んでましたが、あるお店でこんな物が売っていました。今、流行のタジン鍋ですね、水無しで蒸し料理ができるというモロッコ発祥のお鍋ですね。静岡人にかかると富士山になってしまいますが。

富士山と新幹線とガンダム
 東静岡駅の一角から日本を代表する「白くて大きいもの」が3っつ同時に撮影できるポイントを見つけました。左の丸で囲んだものがガンダム、あとは新幹線と富士山です。この光景も3月いっぱいで見れなくなりますのでお急ぎください。

 では、また次回!

「二人の軍師」見た!

 1月2日に7時間に渡って放映された「二人の軍師」面白かった。豊臣秀吉旗下で「両兵衛」といわれた竹中半兵衛と黒田官兵衛を主役に描かれた長編歴史ドラマ・・堪能したね。脚本もいいし、配役もいいし、なにより主役の二人がかっこよかった。半兵衛役の山本耕史さんといい、官兵衛役の高橋克彦さんといいハマリ役ではないでしょうか?特に高橋さんは今まで某「サラリーマン金太郎」のイメージが強かったので驚きであった。去年の年末古代ドラマで阿倍仲麻呂役でてたっけ。

 というわけで今回は二人の銅像を・・といきたいが、官兵衛の銅像がないんだよね。福岡のある図書館に頭部像だけあるが、あまり好かれてないのかもしれない。息子の長政のもないな・・。
竹中陣屋跡
 こちらは岐阜県不破郡垂井町の竹中陣屋跡。前の銅像は半兵衛さんです。

半兵衛1
半兵衛2
半兵衛3
半兵衛4
 出来はすばらしいね。軍師たるもの「帷幄のうちに在りて、千里の向こうに勝利を決す」とこないと。

 官兵衛の銅像はないけど家臣の母里太兵衛の銅像はあるわけで・・。
DSC00333_1.jpg
 ここはなんとか福岡市民の力で黒田如水や長政の銅像がほしいですね。

 では、また次回!

1月2日の豊臣秀吉公

 朝からお笑い番組を見続けているうちに元旦も終わってしまった・・一応、初詣はいったが。毎年同じ神社だ。一応正月用に読む本も用意するのだが、どうもページをめくる指が1~2ページで止まってしまう。おせちをつまみに酒を飲みつつ、テレビばかりだ・・ま、正月くらいいいか。

 さあ、気分を変えて今日は豊臣秀吉公の画像集成である・・それほど多くないが。
日吉丸1
日吉丸2
 こちらは名古屋市中村区中村公園にある日吉丸像、周辺の子供らは特にモデルはいないだろうが、弟の秀長もどこかに混ざっているかもしれない。

中村区の秀吉公1
中村区の秀吉公2
 こちらは中村公園に隣接した常泉寺の秀吉公。面白みがないというと怒られるかな?

大阪城1
大阪城2
 今度は大阪にいこう。ご存知、大阪城であるが豊臣時代の城は大阪夏の陣で全焼し、徳川家の天下普請で建て直された。
 幕末、最後の将軍・徳川慶喜が大坂城から退去した後、官軍に引き渡されるがどさくさまぎれに失火して全焼。敷地は陸軍の駐屯地や砲兵工廠など軍用地として活用。
 昭和初期に天守閣が建て直された。先の戦争では大阪も空襲され、櫓や門などが焼けたが、天守閣は残ったようだ。そして現在に至るも、大阪のシンボルとして観光の目玉になっているのである。

大阪の秀吉公1
 こちらは大阪城敷地内にある豊国神社に建つ豊臣秀吉公像。作者は中村晋也先生。今回はこの銅像の画像をもう少し詳しく紹介しよう。

大阪の秀吉公2
 太閤が小具足姿に陣羽織、右手には豊臣の家紋「五三の桐」をうった軍配を手にした真にいかめしい像。中村先生の作品はディテ-ルにこだわりぬいておられるので安心して見る事ができる。

大阪の秀吉公3
 しかし顔がすこし恐い。本能寺の変の後に権力に上り詰めようとする時の秀吉の姿には陽性のものを感じるが、この銅像は太閤になった後、朝鮮征伐を号令する姿であろうか?この顔には天下に安寧をもたらせようと考える人徳者ではなく、権力にしがみつく老醜をさらす独裁者に見えてしようがない。

大阪の秀吉公4
 逆光方向から撮ると、落ち窪んだ眼窩が強調されてなおさら恐い。

大阪城の秀吉公6
 後に廻ると、陣羽織の背中に日輪が配されている。足元もしっかりと足拵えが施されている。隙がない。

DSC00531_2.jpg
 「わしの作った大坂城と違うぞ!」と思っていそうな画像。天守閣と銅像セットのアングルがなかなか難しいのよね。
 全国には他にも秀吉公の銅像があるが、出来のいいものは少ない。

 明日は家康集成にしようかねえ。家康公もあちこちあるからね。
プロフィール

サムライ銅像研究会

Author:サムライ銅像研究会
歴史と銅像と芸術が大好きなあまり、日本各地を東奔西走する銅像・史蹟ハンターである。神出鬼没なため、脈絡無しのブログ更新を続ける。掟はただ一つ!「死して屍拾うものなし!」昔の時代劇の決め台詞だけどね・・皆さん、見てやあ!
 最近、キューピーに侍の装束を着用させる遊びをやっております。「武者ピー」と呼んで可愛がってやぁ~!以後は「キューピー甲冑師」とも名乗ります。

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