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三嶋大社参詣記

 過日、静岡県三島に赴いて三嶋大社に参詣を果たした。以下にその折の記録を記したい。

水郷・三島
 三嶋大社はいつ創建されたのかはきとした記録はないようだが、伊豆韮山の蛭ヶ小島に配流された鎌倉幕府初代将軍・源頼朝公が若い折、三嶋大社に平家討伐を願って100日参詣を果たしたというから平安後期には存在していたのだろう。
 現在は新幹線が停車し、ウナギが土地の名物であり、また駅から車で30分とかからないところに日本一の清流として知られる柿田川が流れる名水の土地として有名であろう。その証拠がこの画像である。駅から徒歩5分ほどの白滝公園脇の川である。見事な透明度で「これが富士山からの湧き水か・・」と感動した。

鴨さん
 鴨さんもこのように水かきしている足までしっかり見える。

三嶋大社正面
 そしてこちらは三嶋大社。まこと堂々たる大鳥居であり、広大な境内である。古来より多くの人々の信仰の対象であり、歴史上の武将も多く参詣している。
源頼朝挙兵の石碑
 やはり源氏との所縁は深い。

三嶋大社本殿
 こちらが本殿。古来より何度と火災で焼け落ちており、この本殿も幕末から明治初年にかけて立て直されたものであるという。当時一流の技術が用いられており、社殿には下の画像のような見事な彫刻がほどこされている。
本殿彫刻
 う~ん、見れば見るほど惚れ惚れするなあ・・。

 また、境内の宝物館は見学可能で源頼朝公文書や源頼家公(鎌倉幕府2代将軍)直筆の般若心経、鎌倉時代の名刀、伊勢宗瑞公(北條早雲、生前は北條を名乗らずに2代目氏綱公が北條を称した)文書など多くのお宝を楽しむことができる。

 また、この時特別展が開催されており、室町幕府初代将軍・足利尊氏公や実弟の直義(ただよし)公らの文書、南朝方の公卿武将・北畠顕家卿(若くして天才を謳われ後醍醐天皇に愛され、建武政権成立後に鎮守府将軍として奥州に赴任。天皇と足利が対立後、数万の大軍を率いて上洛して天皇方を打ち破る寸前までいった尊氏軍を撃破。尊氏も一度は九州に落ち延びる。その後、盛り返した足利軍と戦い度々勝利するも、疲弊し、ついには敗れて20代で戦死。)の寄進状など多くの文書が訳をつけて展示されており、鎌倉末期から建武政権成立、その後の南北両朝対立や観応の擾乱(かんのうのじょうらん)にいたる政治史が垣間見ることができて実に面白かった。

 長い歴史を経なければ存在しえないものばかりである。神社は信仰の場であるばかりでなく、タイムカプセルのような役割を果たしている。

矢田部銅像1
矢田部銅像2
 久々の銅像紹介だ。こちらは幕末から明治にかけての宮司・矢田部盛治殿である。なかなかやり手の方であり、戊辰戦争の折には官軍の求めに応じて、地元の有志で「伊豆伊吹隊」を結成して官軍を先導し、社殿復興に力を尽くすなど激動の時代をくぐり抜けた方である。
 ちなみに幕末の伊豆韮山代官・江川坦庵(えがわたんなん)公の下で働いていた腹心の1人に「矢田部卿雲(やたべけいうん)」という人物があり、同じ矢田部姓から神社の方に繋がりを聞いてみたが、初耳とのことで判明はしなかった。今後の宿題としたい。

狛犬とセピア色の風景
 カメラの機能を使ってこんなお遊びを・・まるで昔の写真みたいだねえ。着物着ている人いたら気分はもう江戸時代!?

三島ビールとコロッケ
 三嶋大社前の酒屋とお休みどころでビールとコロッケを調達。ビールはピルスナー(一般的な黄金色のビール)とダークラガープラハ(黒ビール)、前者はさっぱりして歩きつかれた体に清涼感をもたらし、後者はまろやかながらコクのある味わいでコロッケのいいお供。
 コロッケは芋の甘みをホクホク味わえ、メンチカツは肉の旨みが十分・・え?紹介する食べ物がB級グルメばかりだって?高いものが旨いのは当たり前だし、安くて旨いものを見つけるのも旅の楽しみではないか!

間眠神社
 後ろ髪を引かれつつ三嶋大社を後にして(腹はビールと揚げ物でいっぱいだ)、次に訪れたのはこちら間眠(まどろみ)神社。参詣を終えた源頼朝公が境内の松の木の下で昼寝をしていたらしい。そりゃ、韮山から三島まで馬で来ても疲れるわな・・でも実は元の場所は違うらしい。なんでも江戸時代の洪水で神社そのものが流されて、こちらに移ったとのこと。毎年夏の例大祭にかつて神社があった土地の住民から大きな注連縄が奉納されるとのこと。画像奥のぶっとい注連縄がそれだ。

 さて急ぎ足で三嶋大社や市内を紹介したが、他にも多くの見所はある。のんびりした町並みに流れる美しい名水を見るだけでも癒される街である。一度は訪れてみてたもれ!(なぜか上臈風の語尾)

 次回は桶狭間じゃ!「人生~五十年~!」
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映画「13人の刺客」の原点

 映画「13人の刺客」が大好評のようだ。主演・役所こうじさんを初めとした俳優陣の熱演、監督・三池崇さんの新演出もあいまって、2回目のリメイクながら評判がいい。

 それがしも観にいったが、面白かった。オリジナルの片岡千恵蔵さん主演、1回目のリメイクテレビ版の仲代達也さん版と全て見たが現代らしくスケールアップしていて痛快な作品であった。やや、やり過ぎの感もなきにしもあらずだが・・。

 だが今回のブログは映画の話がしたいのではない。過日、静岡県の三島大社参詣をした折りに「13人の刺客」の原型ともいうような言い伝えを発見したのだ。

 まずはこちらを見ていただきたい。
言成地蔵
 「言成地蔵尊」・・「いいなりじぞうそん」とよむが、これだけだと「日本昔話」ののんきな話に聞こえそうだが、由来は恐ろしいものである。備え付けの看板に事件のあらましが書かれていたが、長いので以下に要約したい。

 「今を遡ること300年以上前の貞亨4(1687)年、三島を明石藩主・松平直明(まつだいら なおあきら)の大名行列が通過しようとした時、幼い女の子がうっかり行列の前を通りすぎてしまった。
 当時、大名行列の通過には庶民は街道の両脇に平伏してその通過を戦々恐々しつつ待っていたものだ。横切ればお手討ち(切り捨てられること)になるのだから。
 三島宿の全ての人々が女の子の助命嘆願を乞い願い、当時信望を集めていた妙法寺の住職・日迅上人も辞を低くして直明に助命を願ったものの、当時25歳で酷薄な性格で恐れられていた直明は決して許さず、女の子の両手足を切り落とした上に磔にするという恐ろしい所業を行い、行ってしまった・・。日迅上人はショックを受けて住職の座を他に譲って隠棲し、三島宿の人々は女の子の菩提を弔うため、地蔵をたてたが、「言い成り」にならざるを得なかったことを忘れないため、「言成地蔵」と名付けたのである。
 その後、女の子の父親(かつて尾張藩で鉄砲師範であった)は鉄砲で直明の駕籠を撃ち抜いたが、機転をきかせた明石藩士がその駕籠をダミーにしていたために仕損じたのである。」その父親はどうなったのか・・それは書いていなかった。

 さてこの実話・・言い伝え?・・「13人の刺客」といくつか共通点がある。まず「横暴な明石藩主」、そして「尾張藩」とのかかわり。この2点は見事に共通している。

 ここで「13人の刺客」のプロットそのものを調べてみると・・なんと「時代を下った幕政後半、明石藩主の松平斉宣(まつだいら なりこと)の行列が尾張藩領を通過する際、横切った女の子を切り捨てさせた。怒った尾張藩は「明石藩松平家は尾張藩通行お断り」と高札を掲げたという。困った明石藩士達は庶民の着物に着替えて少人数ずつ通過していったという」。どこかで聞いたような話が松浦静山(元平戸藩主)の「甲子夜話(かっしよわ)」に書かれているという。
 映画もこの話を元に作られたようだが、これは19世紀前半の話。「言成地蔵尊」は17世紀後半の話・・両者には100年以上も開きがあるのに、「明石」と「尾張」という共通点・・。

 この話に関しては古い記録や松平家のことなどもさらに調べて分かったことを発表していきたい。しかし、つくづく恐ろしい話である。現代に生まれてよかった・・。
 また三島大社参詣は別項目を設けて発表したい。
地蔵の由来





新宿区・穴八幡「流鏑馬神事」

 本日10月11日「体育の日」、諸兄はどのようにお過ごしになられただろうか?それがしは新宿区に居住しており、毎年体育の日には近所の穴八幡宮で開催される「流鏑馬神事」を観にいってみた。現在の住まいに越して10年以上経つのだが、見るのは今回が初めてだ。

お馬さん
 前日に馬が連れられてきたところに行ってみると、長い移動に疲れたお馬さん達に早速飼葉が与えられていた。しっかり食べて明日がんばるように。 

開始前
 会場は神社の近くにある戸山公園の広場だ。撮影ポイント確保の為に午前中から場所を獲得し、待つこと数時間・・。

行進
 やっと来た。小笠原流の方々とのこと。詳しいことは調べていないのであまり述べることはない。ただ、町内会の方に伺うと、会場のコースが狭いのであてるのが難しそうだ、と仰っていた。

DSC01730_1.jpg
 
外れ1
 実際、的を掠めたり、タイミングがずれたりと誠にむずかしそう。

DSC01739_1.jpg
 やった!命中!と思っても、ニュースでみるような板が真っ二つの光景はなかなか・・

あっぱれ
 見事あてた射手にはこのように褒美が与えられるのである。歴史絵巻をみるような・・。

お馬さんアップ
 1時間半に渡る催しが終わると、近くの穴八幡まで行進。お疲れ様!

銅像と射手
 神社入り口には騎馬銅像が備えられているのである。めずらしい光景だ。

 以上急ぎ足で紹介した。見ていて感じたのは、馬も若いと体力が有り余って騎手の言うこと聞かず突っ走るばかりだし、老齢の馬は賢くて乗り手が初心者でも速度を調節してくれていた。まあ、サラブレッドだから当然かもね。日本の在来馬は明治以降の近代化策でほぼ滅んだし。残念。

 長時間野外にいたが、同じ時間なら山道を歩き回る方が健康的な疲れであり、立ったままだと血流が滞るようで変に疲れる。マスコミの人って大変なのね。

上越市内について

 前回までの3回に渡って上杉謙信公とその丹精された春日山城について記してきたが、周辺も検分してきたので、今回はその折に撮った写真や感想などを記していこう。

北陸の古い町並み
 まずこちら、何の変哲もない民家だが、歩道を覆う屋根を見て欲しい。これこそ雪深い北陸道に住む者の眼になれたものだ。昔はこのような屋根付きの民家が軒を連ねており、下を歩けば雪に悩まされず移動可能というわけだ。それがしは加賀の国出身であり、幼き日の記憶を刺激する情景に思わずパチリと撮ったものだ。
 ちなみにこちらは港町・直江津で撮ったもの。町並みは現代的になっており、このような屋根もここだけであった。駅前には古びたアーケードのような情景がある。

高田駅
 続いては春日山より一つ内陸よりの城下町・JR高田駅である。なかなか瀟洒な駅舎である。こちらには徳川家康四天王の1人として有名な榊原康政公が祀られている榊神社や三重櫓を持つ高田城址公園がある。街の規模としては直江津よりも高田が大きい。

榊神社
 こちらが榊神社。駅より徒歩20分ほどだ。高田は徳川幕政初期から多くの大名が入れ替わりで統治にあたり、その中に榊原家もある。この神社は明治に入ってから、ゆかりのある榊原家を追慕し、初代・康政公の武具を神宝として祀った神社とのこと。
 ここにはその康政公の甲冑が見ることができればと来た訳だが、あいにくと宝物館らしきものは厳重に閉ざされており、境内にもそれがし意外人影がなく、本殿のみ撮って引き上げた次第。灯篭に描かれた源氏車の紋所がわずかに榊原家との繋がりをしのばせるだけである。

蓮のお堀
 その榊神社の目の前にあるのが高田城址公園。桜の頃になると、桜の花と三重櫓を撮りに行く観光客が押し寄せる高田観光の目玉スポットである。公園内には他に市立総合博物館や日本画家・小林古径邸などあり、渋めの観光コースだ。若い子には退屈だろう。それがしもまだ若いが・・。

小林古径邸
 こちらは小林古径邸の裏手から。本当は中を撮りたかったが、撮影禁止なので。ちなみに小林古径先生は近代日本画を代表される方の一人で、その繊細なタッチで表現される絵には古来ゆかしい日本の情緒が見事に表現されている。詳しくは諸兄がネット、画集などで調べて欲しい。絵も見るのは好きだが、門外漢ゆえこれ以上の表現が難しい・・。

高田の三重櫓
 そしてこちらが三重櫓とお堀端である。秋のはじまりの麗らかな日差しの中、多くの家族連れ、観光客が憩う素晴らしい公園である。幼子がお堀の鯉に餌をやる様は実にほほえましい・・。
 話は変わって、太閤秀吉の時代、会津に領地替えになった後、堀家がはいり、後に徳川家康の子息・松平忠輝(「捨て童子忠輝」と書いた方がわかりやすいかな?)が50万石以上の知行で入った。忠輝はまた独眼龍・伊達政宗の婿であり、その将来を嘱望されていた。
 時はまさに大坂の事態が急変を迎えつつあり、城内に天守はおろか櫓一つない状況に危機感を覚え、伊達政宗の協力のもと、大急ぎでこの三重櫓が建てられたのである。そして大坂の陣での事態は歴史にあるとおりである。いずれが賢か愚か、時は黙して語らない・・。
 この櫓自体は近年建てられたものだが、その威容を伝えるに不足はない。
甍と三重櫓
 連なる甍越しに櫓を見るとき、過ぎし世に思いを馳せるのもまた一興。

米牛精肉店
 話はうってかわってこちらは高田駅前・本丸商店街にある精肉店・「肉の米久」さん。偶然通りかかったが、小腹が空いていたので、揚げたてコロッケとメンチカツを買い求めた。
コロッケとメンチカツ
 手前左がコロッケ、奥右がメンチカツ。どちらもソース無しでおいしい。コロッケはジャガイモ本来の甘みと肉の旨みが生かされており、メンチカツは肉本来の旨みが香辛料のスパイシーな香りと共に口いっぱいに広がるどちらも王道のおいしさだ。
 別に米久さんから何かもらったわけではないが、あまりの美味しさに紹介せずにはおられなかった。後、ここの若女将がかわいかった・・へへっ。

 最後に今回の越後・上越紀行の総評である。
 この地にはかねてより訪れてみたかった春日山城があったので、念願かなって感慨深い。すばらしい山城跡だった・・。
 だが、上越市自体は全体に元気のない街・・というより北陸人特有の恥じらいが出ているように思われた。上杉謙信公で売り出すのはいいが、駅からバスへの交通機関が限られていたり、積極的に売り出す旨いものがなかったりと腰が引けているように感じた。ポテンシャルは凄いものを秘めているのだから、奮起してほしいものだ。
 たまに長岡の田中一族のような恥じらいのかけらもないしょうもないのもいるが、あれは例外だろう。みんな喋ればいい人であり、人懐こい方ばかりだ。天下に越後あり!の勢いを示して欲しいものだ。

春日山城南面

 春日山城山頂
こちらの「春日山城址」と前回の本丸跡は谷間になっており、谷間の南側へ降りてみる。

井戸郭看板
大井戸
 まずこの大井戸がある。春日山城が他を絶して優れている点は、山頂でも水が容易に手に入れられることだ。実際、本丸に登る途中、本丸直下の山肌からきれいな清水が湧き出しているのを見て、驚愕したものだ。

鐘楼跡
 さらに大井戸の裏へ行くと、かつて鐘楼があった高台があり、その脇を人1人通るのがやっとという道が続き、その先には・・・
景勝屋敷跡
 謙信公の跡をついだ上杉景勝公の屋敷跡だ。

柿崎屋敷跡
 さらにその裏には柿崎景家屋敷跡がある。

 ここでいったん写真の紹介をとめて、春日山城に分け入ったが故思いついた着想を書いてみたい。

 まずは謙信公より「あの者に知恵があれば、越後七郡の中にかなうものはいないだろう」と微妙なほめ方をされた柿崎景家である。
 従来、彼は武勇一辺倒の人間で戦うしか能がないという一般的な思い込みがあった。かくいうそれがしもそうだ。「信長の野望」では彼を単なる突撃隊長としかあつかっていなかった。
 だが、実際は春日山城下の府内で奉行職をつとめ、円滑な統治の一助となっている。また、彼の屋敷は本丸裏の広壮な敷地を与えられており、その脇の道は古くから北陸に通じているという。実際、その屋敷の立地のあまりに重大な位置に彼を見る眼から鱗が落ちる思いであった。
 謙信公の父・為景公の時代から第4次川中島合戦にいたる謙信公の一代記を書かれた海音寺潮五郎先生の小説「天と地と」ではいつ裏切るかわからない変節漢として描かれているが、そのような表裏のわからぬ男に春日山の背面を任せるだろうか?諸賢はいかがお考えかな?

 続いて「御館の乱」考である。春日山の本丸を中心に、府内や日本海を見下ろす絶好の位置に屋敷を与えられた北條家からの養子・上杉三郎景虎の屋敷跡。本丸の裏手に屋敷を与えられた甥・上杉景勝。はたして謙信公はどちらを上杉家の真の跡取りと考えていたのだろう?
 最近の研究では、関東管領の名跡を景虎に継がせ、景勝に家を継がせると考えていたのではという説があるが、「両雄並び立たず」という言葉もあるとおりそんな単純なものだろうか?それがしは春日山を見てきた上では簡単に同意できない。
 謙信公は具体的には考えていなかったのではないか?まず、景虎屋敷は眺望絶好な位置とはいえ、背後から謙信公に監視されているともいえる。一方、景勝の屋敷も鐘楼から監視可能な位置にあり、軍勢の本丸への移動が難しい。実際は、謙信公はどちらも心から信用しておらず、両端を持していたのではないか?もし・・歴史にもしはないが・・脳溢血で倒れずに関東に出兵した上で道筋をつけようとしていたのではないだろうか?その考えがどのようなものかは永遠の謎だが。

毘沙門堂跡
毘沙門堂跡アップ
 とまあ、推測は置いといて、本丸周辺に戻り、毘沙門堂跡を訪れた。かつてはここに毘沙門堂が建ち、謙信公が様々な考えをめぐらし、毘沙門天に祈りを捧げていたのだろう。

現在の毘沙門堂
 少し下った所に現在の毘沙門堂が建っている。
毘沙門天
 皆様、毘沙門天にお祈りください。
     「オンベン シュラ バンダヤ ソワカ・・」確かこんな文言だったような。

お花畑跡
 現在の毘沙門堂から1段下がった所に「お花畑」があります。ここで栽培した花を各種お堂に飾っていたという。去年の「天地人」ではとんでもない演出に使っていたっけ。あの大河は二度と見ないぞ!

直江屋敷跡
 道なりに下ると「直江屋敷」跡がでてくる。直江というと、直江兼続ばかりクローズアップされるが、あれは樋口家からの養子だ。樋口家も由緒ある家だけどね。でも直江家は代々、長尾家に仕えた譜代の家臣であり、謙信公の時代には直江実綱が謙信公のもとで行政の実際を取り仕切り、また合戦でも多くの活躍を果たした。さらにその実子・信綱は「御館の乱」直後に同僚に斬られてしまったが、生きていれば兼続の活躍の場があったかどうか?別に直江兼続か嫌いなわけではないぞ。

謙信公力そば
 そんなこんなで山道をさまようこと数時間・・すっかり腹が空いたので、謙信公立像のそばのお土産やさんでこの写真の「謙信公ちからそば」を頂いた。出汁のきいた蕎麦の上に、豚の三枚肉のチャーシュー2枚と焼き餅1個がのっている。この豚肉が実に旨い!噛んでも噛んでも旨みが出てくるので飲み込むのがおしかった・・。蕎麦はね・・富士そばの方がおいしいかな?でもおなかすいていたからそれもよし。

 春日山城をおりて加賀街道を一路、直江津方面に歩く・・バスがほんとない!バス停4つ分ほどで・・
春日神社参道入り口
 こちらの春日神社に到着。こちらは創建1200年以上の歴史を刻む古刹。神社の名を基にして「春日山」城が築かれたとのこと。ややこしいが、山の上の「春日山」神社は明治の創建だからね?それがしも最初、上越の地図を見てこんがらがったから。
春日神社石段
 お社の中は実に美しい木立に包まれ、地面はカーペットのようなコケが敷き詰められており、とても絵になります。小1時間ほど写真撮ってました。
春日神社本堂
 本堂はこちら・・人気がなかったので、賽銭箱に代金入れてお守り頂いてきました。ホント、ゆるいなあ。

春日山神社ふもとから空
 神社を抜けるとこんな素敵な青空が広がっていました。みとれてしまいました。

能鷹と塩焼きサンマ
 晩飯は高田駅前の居酒屋で。上越の地酒・能鷹(のうたか)と塩焼きサンマ。他にも刺身とか色々いただきました。おいしかったなあ・・。

 次回は高田城など・・。 


プロフィール

サムライ銅像研究会

Author:サムライ銅像研究会
歴史と銅像と芸術が大好きなあまり、日本各地を東奔西走する銅像・史蹟ハンターである。神出鬼没なため、脈絡無しのブログ更新を続ける。掟はただ一つ!「死して屍拾うものなし!」昔の時代劇の決め台詞だけどね・・皆さん、見てやあ!
 最近、キューピーに侍の装束を着用させる遊びをやっております。「武者ピー」と呼んで可愛がってやぁ~!以後は「キューピー甲冑師」とも名乗ります。

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