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徳川家康、異人と遭遇~慶長14年の怪異~

 今回は夏らしくすこし不思議なお話をしよう。

 「13人の刺客」関連の調査の中で「徳川幕府家譜」という書物を見つけた。徳川家康以来、歴代の将軍やその正室や側室、また徳川一門(御三家の尾張・紀伊・水戸、御三卿の一橋・田安・・あとなんだっけ?)の歴代当主らの家系図と履歴を記した本である。
 その家康の項目を読んでいると・・・

  『慶長14年4月4日 駿府の御庭に異人有。四肢指無く敝衣(破れた衣服の意味)乱髪にして青蛙を食ふ。来る所を問は天に向て指指す。(大御所さま:家康のこと)殺すことなかれと上意有て御城外に放す。其行方を不知』

 上記の本は公式な歴史書である。前後の記述は家康がどこかに狩りに行ったとか、朝廷からの使者を迎えたとか堅苦しい記事ばかり・・・それなのにここだけこんな記事が・・。なぜ?
異人
 「家忠日記」に倣って、それがしも異人を想像して描いてみた。青蛙を食うという記述に「ウッ」となったが、これが限界。松平家忠公ならどんな絵を描いたろう?

 さて、この事件。歴史好きの一部には有名な事件。それがしも話は聞いたことあったが、活字で読むのは初めて。実際に活字で読むと前後が堅苦しいだけに、異様さが際立つ。
 にしてもどのような意図でこんなことを書いたのだろう?裏を読めば「神君・家康公は寛大なお方であるので、得体の知れない異人にすらもお優しくあられた」ということを暗に言いたいのかなと思うが、それにしては変な事件・・現象である。第一、家康の隠居城である駿府城の庭に正体不明のものが現れれば、警備陣も「暗殺者か!」と色めき建つであろうに(当時はまだ豊臣秀頼はいた)。普通なら捕らえられて牢屋に押し込まれ、家康公も気づかないうちに処断されたと思うが、それが家康公直々に「放してやれ」とは・・・不思議な話です。宇宙人なのか、異次元から来たのか、はたまた・・・世に不思議の種は尽きまじ・・。

 ちなみに同じ年にはガリレオ・ガリレイが屈折望遠鏡を発明したそう。国内では、オランダ人との貿易を許可したり、来航したポルトガル船を撃沈したりしている。外国との絡みが多い年ですな。

 信じるか信じないかはあなた次第!なんかの番組みたい・・。


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「13人の刺客」~元ネタの殿様~

 2010年10月の記事で、当時公開していた映画「13人の刺客」の元ネタを見つけたという記事を書いた。
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 こちらは静岡県三島市に鎮座する「三島神社」の参道の途中にある「言成地蔵尊」。説明を読むとその哀しい歴史がお分かりいただけると思う。

 その後、太田道灌公や徳川家康公などの調査などに関心を向けていたので、追跡調査がなかなかできなかったが、今回、関係する土地の郷土史や幕府がまとめた歴史書を精査して元ネタのような殿様を探り当てた。

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 こちらは今年、2012年に舞台でやる「13人の刺客」・・長髪のイケメンだな。でも、もとは・・
13人・ファースト_1

 こちら1968年公開の劇場版。主演は片岡千恵蔵、他に嵐寛寿郎、西村晃(水戸黄門役の方)、山城新伍、里見浩太郎、丹波哲郎など錚々たる面々・・さすがにDVD版しか見ていない。他に・・
仲代達也
 1990年のテレビスペシャル版。仲代達也と夏八木勲が主演。
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 2010年劇場公開版。役所広司と市村正親が主演。

 個人的に1番すきなのがテレビ版。仲代さんと夏八木さんのクライマックスの一騎討ちがたまらなかった!2010年劇場版はやややりすぎな感じ・・。

 まあ、フィクションは置いておいて・・明石藩の歴代藩主達を「三百藩藩主人名辞典」と「講座 明石城史」を調べてみた。明石藩自体は何度も統治するお家が交代していて、ずっと同じ家だあったわけではない。江戸時代260年間の中で、明石藩で暴君と呼ばれる殿様は2人いた。

 一人目は徳川家康配下で勇猛を謳われた本多忠勝の子孫・本多政利(1641~1707)この方は暴力的な人物であったらしく、領地で荒っぽい狩りを度々行って領民に迷惑かけたり、女中をささいなことで殺害したり、幽閉されてからも家臣を殴る蹴るの暴行を日々行っていたようだ。本来なら幕府から切腹を申し付けられても文句言えない人物なのだが、奥さんが水戸徳川家の頼房(家康の末っ子)の娘であったことから幕府のお偉方ももてあましていたらしい。
 ちなみに「明石城史」に・・
  『明石市林村に猪投(いなげ)町という村があるが、政利が捕らえた猪を投げ殺していたことからついた地名である』
 という恐ろしい説明がさらっとあった。現在の明石市の地図で探したが、市町村合併で見当たらなくなっていた。これは古地図でまた探したい。

 もう1人は松平斉宜(まつだいら なりこと:1825~1844)。江戸後期の殿様で「13人の刺客」と時代背景がピッタリな方。
 この方、時の将軍・徳川家斉の末っ子で、明石松平家に養子に出された人物。「寛政重修諸家譜」や「徳川幕府家譜」という将軍家・大名家の系譜と履歴をあわせた本にははっきりとしたことは書かれていなかった・・・が!
 末尾に『(斉宜が20歳で死んだ後)鳴り物(楽器)停止しなくてよい、将軍・家慶(斉宜の長兄)に対するご機嫌伺いなど特になく』
 という特異な一文が書かれていた。家斉の子供は男の子26人、女の子27人いるが(!)、他で亡くなった後にこのような一文が載せられることはなかった。斉宜の妹・泰姫の死後は『鳴り物は七日間停止、普請(工事)はやってかまわない』と書かれていたのである。
 ということは・・将軍家の斉宜への思いが伺えるような気がする。

 ここまで調べると、後は明石に趣いて地元の図書館や郷土史家を訪ねるしかないが、明石に行く用事ないしなぁ・・・。後の課題にしていこう。
 
 現時点での結論は「三島の言成地蔵尊や本多政利・松平斉宜のような暴君の記憶が渾然一体となり、悪政が続いた家斉時代に、このような痛快な話があればいいのに・・という思いがシナリオに昇華したのではなかろうか?」
 あまり結論らしい結論ではないが、とりあえずこんなところで・・・。

 次回は文京区の神社・・は次にして、あの家康公が異次元の生物とであっていたエピソードを紹介しよう。

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 あ!松平直明、調べ忘れてるな・・・。

織田信長公の「薄濃(はくだみ)」考

 今回は画像はなく、文章のみなので退屈な場合は読まれなくてもいい。

 先日2日の歴史ドラマ「二人の軍師」で織田信長公が朝倉義景・浅井久政・浅井長政ら3人の髑髏を金ぴかに塗り、それを盃にして明智光秀に飲ませようとしたシーンがあった。そのシーンそのものは作家の想像力のなせる業なので一笑に付すところではあるが(荒木村重との初対面で、信長が刀に餅を刺して食べさせて、村重の肝の太さを試した、というエピソードも混じっていたし)、信長公が天正二年の正月に三人の髑髏を内々に披露したのもまた事実であるからあらためて、信長公の事績を知る上での一級資料「信長公記」(太田牛一 著・奥野高弘 注釈/角川ソフィア文庫版)からその部分を探ってみた。

 大意をカッコ内で要約してみた。
  「天正二年 正月一日 岐阜城にて諸国の家臣団との謁見を済ませた後、馬廻り衆ら直臣衆のみ酒を振舞い、肴として朝倉義景・浅井久政・浅井長政3人の髑髏を薄濃(はくだみ/髑髏を漆で固めた後、金泥などで薄く彩色する)にしたものを据え置き、皆に披露した。そのまま宴は続けられ、皆、酒を飲みつつ、謡い舞った」と書いてある。「信長公記」の巻七の冒頭に書いてあるので参照されたい。

 それがし、以前誰かの文章で「薄濃は古代中国にもそのような風習があり、織田信長もそれを知識として踏まえた上で行ったのではないか?」というものを読んだことを思い出し、「薄濃」そのものを調べてみた。すると幾つか面白いことが判明した。

 まず一つ目、「薄濃」の風習は古代中国にも確かに存在し、司馬遷の「史記」にもその記述は存在する。その風習の意味は、戦で討ち取った敵に敬意を表してその勇気を自分に取り込む為に髑髏を薄濃にするというもののようだ。さらに趙の襄子は敵対していた智白を薄濃にしたという。

 二つ目、密教の流派の一つ「真言立川流」に薄濃の秘法があったという。

 三つ目、これが一番興味深いのだが最澄の開いた比叡山に「薄濃」を施す職人がいたという。比叡山での意味合いは、山で亡くなった高僧の徳を偲ぶために行ったものらしい。

 なんと比叡山にそのような職能集団が存在していたのか?比叡山に確認をとったわけではないので、今後訪れた時に聞いてみたいものだが、発想が古代中国と似ていると思えないか?仏教自体、中国から伝来したものだから「薄濃」の思想と技法も伝来したのかもしれない。
 
 織田信長は漢籍にも少しは詳しかったのではないか?そもそも美濃・稲葉山城を禅僧の助言により、古代中国・西周王朝武王の故事に基づいて「岐阜」城と命名したのであるから、「薄濃」も知っていたのかもしれない。とはいえ、直臣衆に晒した意図ははっきりしないが・・。

 もう一つ・・。織田軍が朝倉・浅井を滅ぼしたのは前年の8月終わり。首を京都に晒したというから、薄濃に「加工」するならば少なくとも9月半ばからその年の年末までの時間が許されるのである。3ヶ月から3ヵ月半というところか・・。であるならば、織田家の勢力圏内にあった比叡山の職能集団(もしくは比叡山以外でも実行可能な領地内の集団)にやらせたということではないか・・・。

 この件に関しては参照すべき事実があまりにも多いので今後の課題の一つとしたい。今回はあくまで一考察という風に受け止めてもらいたい。でも歴史の陰に隠れた事実というものは実に多い。一つ一つは微細なものかもしれないが、それらを繋ぎとめていけばある日、今までと違った絵図面が表れるかもしれないのである。これぞ歴史好きの醍醐味というものであろう。学者だけに独占させてなるものか。

映画「13人の刺客」の原点

 映画「13人の刺客」が大好評のようだ。主演・役所こうじさんを初めとした俳優陣の熱演、監督・三池崇さんの新演出もあいまって、2回目のリメイクながら評判がいい。

 それがしも観にいったが、面白かった。オリジナルの片岡千恵蔵さん主演、1回目のリメイクテレビ版の仲代達也さん版と全て見たが現代らしくスケールアップしていて痛快な作品であった。やや、やり過ぎの感もなきにしもあらずだが・・。

 だが今回のブログは映画の話がしたいのではない。過日、静岡県の三島大社参詣をした折りに「13人の刺客」の原型ともいうような言い伝えを発見したのだ。

 まずはこちらを見ていただきたい。
言成地蔵
 「言成地蔵尊」・・「いいなりじぞうそん」とよむが、これだけだと「日本昔話」ののんきな話に聞こえそうだが、由来は恐ろしいものである。備え付けの看板に事件のあらましが書かれていたが、長いので以下に要約したい。

 「今を遡ること300年以上前の貞亨4(1687)年、三島を明石藩主・松平直明(まつだいら なおあきら)の大名行列が通過しようとした時、幼い女の子がうっかり行列の前を通りすぎてしまった。
 当時、大名行列の通過には庶民は街道の両脇に平伏してその通過を戦々恐々しつつ待っていたものだ。横切ればお手討ち(切り捨てられること)になるのだから。
 三島宿の全ての人々が女の子の助命嘆願を乞い願い、当時信望を集めていた妙法寺の住職・日迅上人も辞を低くして直明に助命を願ったものの、当時25歳で酷薄な性格で恐れられていた直明は決して許さず、女の子の両手足を切り落とした上に磔にするという恐ろしい所業を行い、行ってしまった・・。日迅上人はショックを受けて住職の座を他に譲って隠棲し、三島宿の人々は女の子の菩提を弔うため、地蔵をたてたが、「言い成り」にならざるを得なかったことを忘れないため、「言成地蔵」と名付けたのである。
 その後、女の子の父親(かつて尾張藩で鉄砲師範であった)は鉄砲で直明の駕籠を撃ち抜いたが、機転をきかせた明石藩士がその駕籠をダミーにしていたために仕損じたのである。」その父親はどうなったのか・・それは書いていなかった。

 さてこの実話・・言い伝え?・・「13人の刺客」といくつか共通点がある。まず「横暴な明石藩主」、そして「尾張藩」とのかかわり。この2点は見事に共通している。

 ここで「13人の刺客」のプロットそのものを調べてみると・・なんと「時代を下った幕政後半、明石藩主の松平斉宣(まつだいら なりこと)の行列が尾張藩領を通過する際、横切った女の子を切り捨てさせた。怒った尾張藩は「明石藩松平家は尾張藩通行お断り」と高札を掲げたという。困った明石藩士達は庶民の着物に着替えて少人数ずつ通過していったという」。どこかで聞いたような話が松浦静山(元平戸藩主)の「甲子夜話(かっしよわ)」に書かれているという。
 映画もこの話を元に作られたようだが、これは19世紀前半の話。「言成地蔵尊」は17世紀後半の話・・両者には100年以上も開きがあるのに、「明石」と「尾張」という共通点・・。

 この話に関しては古い記録や松平家のことなどもさらに調べて分かったことを発表していきたい。しかし、つくづく恐ろしい話である。現代に生まれてよかった・・。
 また三島大社参詣は別項目を設けて発表したい。
地蔵の由来





不思議なこと

 日本全国の銅像を捜し求めるということは、同時に日本中の史蹟や城跡、古戦場を巡るということである。不敬な気持ちはもたず、真摯な気持ちで訪問しているが、異邦人には違いないのである。よって、なるべくその土地の神社を訪問してお参りするようにしている。
 そのせいか最近では神社の静かな雰囲気を好むようになり、積極的に足を向けている。
霧島神宮

 こちら最近訪れた鹿児島の霧島神宮。言わずと知れた日本屈指の歴史を誇る神社だ。訪ねてみるとその規模は想像を絶するものであり、さすが古代よりの神社と頭がさがったものだ。

 ところでここを訪れたとき、不思議な体験をした。鳥居をくぐって境内を歩いていると体中を震えが走って止まらないのだ。標高の高さから寒いから震えるのかとも思ったが、ちょうどいい温度で体に不快感は全くなかった。考えられる原因が全く思いつかなかったがある考えが頭をよぎった。

 「霧島神宮の神様の神気にふれたからではないか?」というものだ。突拍子もないかもしれないが、それ以外に自身納得できるものがない。もちろん、他者を納得させる理論的な説明などできようがない。だがそれ以降、不思議な経験をすることもある。

熱田神宮
 こちらは名古屋の熱田神宮。こちらも歴史が古く、広大な境内をもつ。こちらに参拝した時、鳥居をくぐった途端に雨が降り出し、本殿をお参りする頃は土砂降り・・15分ほど休憩所で雨宿りしてから降りも弱くなったので何枚か写真を撮ってから帰路についたが、鳥居をくぐると雨がやんだのだ!!

 冷静に考えればその日は曇り空でいつ雨が降ってもおかしくはなかったが、このタイミングのよさはなんなのか?

 思えばかつて織田信長公は熱田神宮を参拝した後、今川軍に強襲をかけ、天候の急変に助けられて見事今川義元公を討ち取ったのだ。考えようによってはゲンがいいともいえまいか?

久能山東照宮
最後に静岡県の久能山東照宮。こちらに参拝した時も神気にふれたのかわずかに震えを感じた。

 以上はそれがしの個人的体験なので根拠はないが、そんなこともあったという程度に聞いて欲しい。
プロフィール

サムライ銅像研究会

Author:サムライ銅像研究会
歴史と銅像と芸術が大好きなあまり、日本各地を東奔西走する銅像・史蹟ハンターである。神出鬼没なため、脈絡無しのブログ更新を続ける。掟はただ一つ!「死して屍拾うものなし!」昔の時代劇の決め台詞だけどね・・皆さん、見てやあ!
 最近、キューピーに侍の装束を着用させる遊びをやっております。「武者ピー」と呼んで可愛がってやぁ~!以後は「キューピー甲冑師」とも名乗ります。

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