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菊池神社(菊池一族の栄光と挫折・・)

 本日は5月5日「こどもの日」、鎧兜の飾り物が欠かせない日でもあるから本日は堂々たる武将の騎馬銅像などを紹介しよう。

 今回紹介するのは熊本県菊池市の市民広場に建つ「菊池武光公騎馬銅像」と武光公を祀った菊池神社である。以前にも紹介したことがあるが、前回使わなかった画像と共により中身を濃厚にして(ハードル上げたなあ・・)お送りしよう。
 JR熊本駅から「菊池温泉行き」のバスに乗り1時間ほど北上すると菊池市民広場に到着する。
菊池市民広場
 真正面の騎馬銅像がそれである。背後の低い山の上に菊池氏の本城があったが、現在は菊池神社が鎮座ましましている。

 菊池一族は平安時代に土着した藤原一族の末裔といわれている。ことのおこりは1019年(西暦で統一)に大陸のツングース系民族の女真族(後に金王朝や清王朝をつくる)である「刀伊」族が船を連ねて対馬・壱岐を襲撃して多数の男女を殺害・誘拐し、さらに多くの物資を略奪する海賊行為を働いた。一時は博多近辺まで攻め込まれたものの、その時大宰府に役人として着任していた藤原家隆が当地の武士や土豪を糾合して激戦を繰り広げ撃退に成功。
 菊池一族の伝承ではその家隆の末裔と伝えられているが、現代の研究者らによるとその家隆に随行していた別の藤原一門の人物が菊池一族の祖であるともしている。
 その後、源平合戦の頃には平家から源氏に鞍替えしたために源頼朝から睨まれ、十分な恩賞を受けることができなかった。
 元寇の際にも菊池一族は元朝の軍隊相手に手強く戦い、戦功をあげる。

 だが菊池一族の名前がもっとも世に轟いたのが後醍醐天皇によりおこされた鎌倉幕府打倒運動~建武の新政~南北朝動乱の時代であろう。特に第15代の菊池家当主・武光公は九州において南朝の勢力を九州全域にまで拡げることに成功した。
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 この画像の人物は武光公の父親・第12代の武時公である。この方が後醍醐天皇の挙兵の誘いに応じて大宰府で挙兵するも、他に挙兵に応じるはずの武士団が裏切って菊池一族のみの挙兵となったため衆寡敵せずあえなく一族郎党らと共に首を晒すこととなった。武光公は父親の晒された首を見て故郷の菊池に落ち延びたといわれる。
 この像は菊池神社境内に建つ。

菊池武光公!
 武光公はその後、嫡流(長男)ではないため「豊田十郎」と名乗り健やかに成長していったものの、菊池一族はライバルである合志一族(現在も菊池郡合志町として名が残る)に圧迫されて苦しい時代が続くが、ある時、当時の菊池一族の本城である深川城が合志家により占拠される。
 菊池一族の面々はなすところを知らず、一人武光公のみわずかな手勢で駆けつけ、数倍の敵軍と戦い抜きついに撃退に成功。そのまま第15代菊池家当主の座に着いた。

 その当時、後醍醐天皇の建武の新政は破綻し、日本全土は後醍醐天皇の南朝・足利尊氏の北朝と別れ、烈しく戦っていた。武光の頃には南朝方の柱である楠正成公や新田義貞公・北畠顕家卿も戦死し、南朝は劣勢で後醍醐天皇の皇子達を奥州や北陸・九州などに送り、地方の武士団を糾合して挽回を図っていた。
 皇子達の中に九州に来た「征西将軍・懐良(かねよし/かねなが)親王」がいた。親王は5歳になる前に奈良・吉野を公家の五条頼元らに守られて伊予・忽那島(現在の愛媛県松山市中島)に渡り、忽那水軍に守られてたくましく成長する。
 やがて忽那水軍と共に薩摩・谷山に上陸し、北朝方・島津貞久と敵対。何年もにらみ合い、度々の合戦を経てついに島津貞久を圧倒。その後はかねて連絡を交わしていた菊池武光公の菊池に入り、九州の重要拠点である大宰府制圧をめざす。

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 右の武光公が見切れているので一度クリックして別ウインドウで見ていただきたい。左が征西将軍・懐良親王、右が菊池武光公である。武光公が小具足姿なのは当然としても、親王までもが軍勢の指揮に使う采配を握られておられる。時代とはいえ、宮様までもが軍事に当たられた激しい時代だったんですな。

 二人が合流して、ようやく南朝の勢力を北に伸ばす時が来た。状況は足利尊氏と弟・直義が激しく対立していた「観応の擾乱」、尊氏の長男・直冬(複雑だが直義方)が九州に下向して尊氏方の守護大名と戦っていた。
 南朝としては好機!本来なら圧倒的な北朝方にすりつぶされるところだが、北朝の内紛に乗じて力を蓄え、直冬が九州を離れた後は北九州の雄・少弐頼尚との一騎討ちが待ち受けていた。
 1359年、大軍を擁する少弐勢と北部九州の大河・筑後川のほとりで一大決戦が繰り広げられた。後の世に「筑後川の合戦」と呼ばれる。以下、物語風に・・。
 武光公は息子・武政に300の手勢を預けて筑後川を迂回して渡河させ、少弐勢の本陣を背後から突く作戦をとった。
 夜半、まんじりともせず夜明けを待った武光公の耳朶に川向こうから喚声が聞こえてきた。
  「くっ、まだ夜明けまで間があるというに・・。」決断が迫られる。懐良親王の本陣に使い番を送り、ついに武光公は馬上の人となり軍配を振り下ろした!
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 「菊池が者共!今こそ命を捨てる時ぞ!敵は少弐頼尚ただ一人!ただひたぶるに敵本陣をせめろ!!!」武光公の振り下ろす軍配の先には大宰府が待ち受けている。
 戦いは一進一退。取っては取られ、押し返しては押し返され、両軍とも力を尽くし、まさに屍山血河。だがそんな戦いもついに菊池軍の一組が少弐勢の備えを打ち破り、ついに均衡が破れる時が来た!敗れた少弐勢はただ北へ逃げるのみ。本来なら追い討ちをかけるところだが、余力の全てをつぎ込んで戦った菊池勢にも力は残っておらず、武光公ですらその血に塗れた刀を川で洗うことしか出来なかった。
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 これは福岡県三井郡太刀洗町の公園にそびえ立つ菊池武光公銅像である。そう、まさに地名に「太刀洗」とのこっているのだ。
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 上の銅像は戦前の昭和10年以降のもので作者が判然としない。また、戦争中の爆撃で銅像のあちらこちらに破片による傷跡が多々残っている。

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 勝利の余韻が残る心地よい疲労の中にいた武光公は遠い空の向うに待つ大宰府を思い浮かべていた・・。

 ここで菊池市の武光公銅像を色んなアングルからお楽しみいただこう。

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 作者はおなじみ中村晋也先生。え?顔がよくわからないって?ならば!

菊池武光公アップ
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 う~ん、相変わらずの超絶技巧ですね。これは鹿児島県上伊集院駅ちかくにある「中村晋也美術館」で撮影した同じスケールの「菊池武光公騎馬銅像」です。

菊池市民広場
 こちらは銅像近辺のパノラマ写真です。右の建物が観光案内所兼お土産屋です。そこではこんな体験もできます。たわけ
 甲冑試着体験です。1000円でこんなに華麗なレプリカを装着できます。製作は鹿児島県の丸武産業さんです。いい仕事してるね!

 銅像はこのくらいにして菊池神社にお参りしましょう。
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 銅像から数分で菊池神社の最初の鳥居が出迎えてくれます。街灯にも菊池の家紋「並び鷹の羽」がありますね。
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 高くはない山ですので5分も登れば・・
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菊池神社本殿
 本殿に到着です。注連縄が立派ですね。

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 本殿の前には・・。
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 本殿の内部です。皆様も手を合わしましょう。あいにくとこの時は御朱印集めてなかったので、いただいていません。お守りのみ購入しました。

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 菊池神社の隣には城山神社もございます。境内をまわってみましょう。先ほどの菊池武時公の像の他にこのようなものが。
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  「君がため 散れと育てし 花なれど 嵐の後の 庭さびしけれ」ぐっとくる和歌ですね。泣けてきます。

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 かつてここに菊池本城がありました。「隈府(わいふ)城」ともいいます。

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 かつてはこの本城を中心に周囲の重要拠点に18のお城を建てていたそうです。もっとも、近世以前の城ですので、石垣・天守閣などなく、土塁・見張り櫓などの日本古来の防御施設ですが。
 この石碑はその18外城(とじょう)の方位や距離をしめしたものです。

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 こちらは頂上から菊池市外を見下ろした眺めです。素晴らしい眺望ですね。

 もう一つのお楽しみ、神社併設の博物館で代々伝わる鎧兜などみていきましょう。
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 う~ん、いきなり元軍の甲冑ですか。すごいなあ。こんなに保存状態のいいものは九州以外ではなかなかみれないのでは?

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 こちらは武光公の時代の兜・腹巻ですね。腹巻は着物の下に着込む簡単な鎧です。下の銅像の胸元をみてください。鎧がみえているでしょう。あれが腹巻です。バカボン・パパが腹に巻いているのとは訳が違います(歳がばれる・・)。ちなみに神奈川県川崎市の新田神社の新田義貞公銅像です。
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 これは「菊池槍」の穂先です。すこし武具の歴史の話になりますが、戦国時代に多用された槍の始まりはこの菊池槍だという伝承があります。
 話はまだ新田義貞公が後醍醐天皇に叛いて鎌倉にいる足利尊氏公を追討にでた時、勝ち進んでいた新田勢は足利尊氏公の反撃でピンチにおちいります。武器もないような状態でしたが、その時菊池家の武将が切り出した竹の先に包丁をくくりつけてとっさの武器にして足利勢の追撃をしりぞけたという話があります。その真偽はさだかではありませんが、確かにこの穂先は包丁っぽいですね。
 「菊池千本槍」は「菊池には沢山の槍を持った勇士が大勢いる」という一種の美称ですね。「九十九里浜」みたいな。違ってたらごめんくさい。

 最後に武光公以下、菊池一族への墓参りを済ませていきましょう。
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 南無南無・・。

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武光公のお墓
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 この3枚が菊池武光公の墓所です。南無南無・・・。

 さて、なぜそれがしがなぜ征西将軍宮や菊池武光公にこだわるかというと、先祖に前述の忽那水軍がいるからです。確証はないですが、亡きじっちゃんにいわれました。「ご先祖は立派な仕事をした水軍だ」と。
 また北方謙三先生の小説「武王の門」でも征西将軍宮と菊池武光公について詳しく書かれています。興味をもたれた方は是非ご一読を!

 帰りに菊池温泉で立ち寄り湯を頂き、夕方のバスで熊本市内に戻りました。

 ではまた次回!
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熊本市民が愛した武将・加藤清正公

 さて、熊本に滞在して今度は熊本城を見学するわけだが、その前に加藤清正公の銅像がある本妙(ほんみょう)寺にお参りにいってきた。そしてその後、市内を歩いて清正公がいかに熊本市民から愛されているかを知る第1歩だったのだ・・。
本妙寺正門
 JR熊本駅前から市電に乗って20分ほど、本妙寺前駅で下車し、5分ほど歩くとこちらの正門がまず出迎えてくれる。これがでかい!事業の成功者が戦前に寄贈したものだそう。
 この時、まだ本妙寺がいかに広いかということを全くわかっていなかったのだ・・・。

ワンちゃんのお出迎え
 正門からさらに数分・・お寺で飼われている犬だろうか。この穏やかな顔をしたワンちゃんが出迎えてくれた。老犬なのか実に堂々とした佇まいに思わずパチリ。家の愛犬を思い出しました。

浄池廟
 歩き続けてやっと加藤清正公が祀られている浄池廟(じょうちびょう)にたどりついた。ここからがまた遠かったんだよね。

300段の石段
 これが悪魔の300段・・カンカン照りだったので背中をあぶられましたよ。のぼりながら「敵は本妙寺にあり!」なんてつぶやいてました。元ネタはわざわざ説明せんよ。

加藤清正公・正面
 登りついた先についに加藤清正公が出迎えてくれましたよ。
 「なに!あちこち銅像を訪ね歩いて居るのか!もの好きじゃのう・・」なんていわれたような気がします。
加藤清正公・あおり
 青空によく映えますね。

 この銅像、北村西望(きたむら せいぼう)先生の作品です。東京都の吉祥寺にある美術館にも同じものがあるけど、やはり本場で見るほうがいいよね。山の上からの眺望も最高だったし。その瞬間は登ってよかったなと思いましたね。現金なものですが。

 次回はいよいよ熊本城です。撮っていて美しすぎて悶絶していましたね。ビバ!武者返し!というところ。






「武王の門」の里・熊本県菊池市

 人は誰しも「特別な一冊」を持っているのではないだろうか。それがしの場合、北方謙三先生の「武王の門」です。その本について説明しだすとおかしくなるので、皆さんで調べていただきたい。
 今回はその「武王の門」に登場する武将・菊池武光(きくち たけみつ)公の故郷の熊本県菊池市にやってきた・・・。

菊池市民広場
 こちらは菊池市民広場に建つ「菊池武光公」像である。原型作者は鹿児島の彫刻家・中村晋也先生(日展理事)です。頭が高い!控えおろう!

菊池武光公!
 ちなみに軍配は大宰府の方向に向いています。真後ろにかつて菊池家の本城が存在した菊池神社がございます。

武光公アップ
 
雲と武光公
 一度は九州全土に覇を唱えた武光公の勇姿がまぶしいです。

 ちなみにこの近くで甲冑着付け体験が千円ぽっきりで(客引きか・・)できます。それを体験したアホの写真がこちら・・。
武光公とアホ
 本人はノリノリだったけどね。あー、甲冑ほし・・。

菊池神社本殿
 菊池武光公がご祭神の菊池神社本殿です。まさに聖地!

武光公のお墓
 最後に武光公のお墓を紹介します。ちょっと分かりづらいところにありました。入っていいのか判断に迷ったんだよね。結局、入ったけど。

 以上、聖地巡礼でした。

日本屈指の戦術家・島津義弘公

 古来より吉備真備・源義経・楠正成など幾人かの天才的兵法家が存在したが、島津義弘公もその一人に数えてもいいのではないか。義弘公の具体的な業績は諸兄が調べればいいことなので今回は純粋に銅像を紹介したい。

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 鹿児島県の伊集院は島津義弘公を敬愛する人々には聖地である。この写真は義弘公の位牌が納められている妙円寺である。寺の由来は各人で調べて頂けると面白いし、勉強にもなる。
 また妙円寺詣でという有名な行事も存在する。参加したいな・・。
 それはともかく、それがしが伺った時、たまたま住職がいらっしゃってありがたいお話をしていただいた。突然の訪問にも関わらず、である。実にありがたいお坊様でした。こういう姿勢は滋賀県彦根市のある寺(石田三成の銅像がある)には強烈に学んでほしい!。
 ともかく、ありがとうございました。涙が滲むほどありがたかったですね。
島津義弘公の位牌
 こちらが義弘公の位牌です。南無南無・・・。

徳重神社
 つづいて島津義弘公が祀られている徳重神社です。アリガタヤ・・・。もちろん、丸十のお守り購入しました。

島津義弘公・正面
 こちら、JR伊集院駅前に建つ島津義弘公騎馬像です。作者は日本を代表する彫刻家・中村晋也(なかむら しんや 日展理事)先生です。三重県ご出身ですが、鹿児島県で教職をとることになり定住されたそうです。
 中村先生のお言葉に「銅像を作るときは、その人の一生を強烈に象徴する一瞬をきりとらなければいけない」というものがあります。この銅像は義弘公が関ヶ原中央突破戦の際に、まさに采配を振り下ろさんとするその一瞬だそうです。本当にその言葉通りの銅像ですね。
 この銅像を目前にして・・自分は長年の念願がかない、滲む涙を拭いながらシャッターを押していました。この気持ちはなかなか他人には説明しがたいが、まさにわが人生の絶頂のひと時ではありました(我ながら痛い発言だ・・)。

島津義弘公の背中
 この背中に命を預けたいと思った君・・「漢(おとこ)」だね。

島津義弘公アップ
 この馬前で討ち死にしたい・・ああ、今日はもうおかしいので今回はこの変で。

 近々、「日本を代表する5大騎馬銅像」を実際の映像付きで発表いたします。お休みなさい・・。
プロフィール

サムライ銅像研究会

Author:サムライ銅像研究会
歴史と銅像と芸術が大好きなあまり、日本各地を東奔西走する銅像・史蹟ハンターである。神出鬼没なため、脈絡無しのブログ更新を続ける。掟はただ一つ!「死して屍拾うものなし!」昔の時代劇の決め台詞だけどね・・皆さん、見てやあ!
 最近、キューピーに侍の装束を着用させる遊びをやっております。「武者ピー」と呼んで可愛がってやぁ~!以後は「キューピー甲冑師」とも名乗ります。

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