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関ヶ原古戦場巡り~西軍陣地を巡る・その2~

 今回はいよいよ最終回、西軍総大将の石田三成陣地跡などを巡っていこう。

笹尾山裏の八幡神社
八幡神社由緒書き
 こちらは石田三成が陣を置いた笹尾山の麓にある八幡神社。観光客らはこの反対側からバスなどで乗り付けてくるので普通は気づきもしないとだろう。自分の足で廻らないとこのような細かい所は見落としやすい。とはいえ、それがしもここは知らなかったのでたまたま自転車を停めるところを探していて見つけたんだけどね。
 神社の裏手を登っていくと・・
石田陣跡
石田三成坐像

 石田三成の陣所があったと石碑があります。このあたりは観光スポットになっていて沢山の人がいましたね。
石田再現櫓
 こんな櫓も設置されていました。上がって見ると・・
DSC01920_12
 関ヶ原全体がパノラマで見ることが出来ます。上の画像を一度クリックして別ウインドウを開いて拡大すれば全体像を楽しめます。
 部分をクローズアップしてみると・・
天満山など
 天満山あたりが宇喜田陣跡、松尾山が裏切り者・小早川秀秋の陣跡です。左の青字は東軍ですね。松尾山以外は前々回・前回と紹介済みです。

 石田三成は文官系武将として、太閤検地などにその辣腕を振るって政治家としては最高の人物でしたが、軍人としてはいまいちな評判であります。三成が武将としてダメな例として小田原・北条を攻めた時の忍(おし)城攻めが挙げられますが、あれは秀吉の代官として赴任したのであり、行った時にはすでに水攻めの土木工事は始まっていたので、それを例として「三成無能説」を挙げるのは酷というものでしょう。
 しかるにその失敗によって当時、三成を嫌っていた人々から大いに笑われたということもあるでしょう。三成もそれを気にしてか、太閤・秀吉の弟に仕えていたことのある島左近(しま さこん)を配下に迎えてその軍配を任せます。つまり石田家の軍務を委ねたということになります。
 左近は元々は大和・筒井家に仕えていましたが、筒井の跡継ぎと反りが合わずに出奔、秀吉の弟・秀長に仕えます。左近はどこに仕えていても勇敢に戦い、どの大名家でも左近を欲しがりましたが、秀長が病死した後は近江(滋賀県)に隠居してしまいました。近江・佐和山に領地を持っていた石田三成の再三の要請によりついに応じることにしました。当時の世間ではそのことを驚き、次のように謳って揶揄しました。
  「三成に過ぎたるものは、島の左近に佐和山の城」石田三成の身分にふさわしくないものは島左近という勇将と佐和山城という三成の居城だなあ・・という意味です。どちらも羨ましがられたということです。
島左近陣跡
 (画像は島左近陣地跡です)

 三成と左近の指揮の下、笹尾山の石田軍は押し寄せる東軍勢を何度もはね返し、押しのけます。天下に知れ渡った臆病者という評判を跳ね除けたということですね。
 しかし残念なことに、左近は東軍・黒田長政がひそかに迂回させた鉄砲部隊により狙撃され、開戦後2時間と経たないうちに負傷して後方に運ばれてしまいます。
 その後は三成や他の部将の指揮によりよく持ちこたえますが、天満山の小早川勢の裏切りによって大谷・宇喜田など西軍側面が崩壊し、石田三成も落ち延びる兵に混じって自らも山中へと消えて行きました・・。
桃配山など
 家康公の最初の本陣などを見た画像です。

島津陣跡1
 さて、この時の島津家はわずか1500人の兵しか連れてきていませんでした。島津の実力を思えば、1万近い兵も動員できたはずです(実際、柳川の大名である立花宗茂は実力以上の6千もの兵を連れてきていました)が、太閤の朝鮮渡海で島津など九州の大名達は疲れ切っており、さらに西軍・東軍どちらにつくかでも島津家内部で意見対立していたことからそんな数になってしまいました。
 また大将の島津義弘公自身は東軍に味方するつもりでしたが、伏見城にいた家康の腹心・鳥居元忠に断られて結局西軍についてしまいました。本来なら島津義弘公は島津を九州統一まで近づけた優れた軍人なので、彼の意見をもとに西軍も戦っていけばよかったのかもしれませんが、なにしろ兵が足りません。結局兵の数が武将の力にもなるわけですね。さらに大垣城の前線に居た時も三成に対して「到着したばかりの東軍へ夜襲をかければ敵は疲れ切っている事もあり、容易に勝てるだろう」と進言したにも関わらず、三成は島津家をおいてさっさと城にひいてしまいました。これに怒った島津義弘公は決戦の間中、参戦を促すために三成自身が来ても「そっちで勝手にやれ!」といってついに何もしませんでした。
 さすがに天下分け目の関ヶ原、色々なことが起きていましたね。
島津陣跡2

 合戦の大勢が決した後も、逃げる西軍兵を尻目になお島津の陣は大将の命令を待ってひそと静まり返っていました。島津義弘公は馬を曳いてこさせ、いよいよ出陣を命じました。
島津義弘騎馬像
 「島津の者ども!西軍はいよいよ我らのみとなった。こうなれば撤退するしかない。われらは・・(そこでサッと采配を振り下ろしました)東軍の家康の本陣めがけて撤退する!」猛者揃いの島津家の武者達もさすがに息をのみました。
 しかし、その決断は勇者にしか出来ないものです。普通に西へ、西へと引いていけば勝ち馬に乗った東軍・裏切った西軍らに追いつかれてあっという間に全滅させられてしまうでしょう。負けそうな時こそ前に進むというのは全ての人間の意表をつくものです。が・・危険性も極め付きに高いものです。

 さて、大将の義弘公と甥の豊久公らを取り巻くように側近の長寿院もりあつなどら馬廻り衆が駆け出し、さらに外周を武者共も駆け出します。その手には一様に鉄砲が握られております。島津家には鉄砲足軽などおらず、鉄砲は全ての侍が所有しております。さすが鉄砲伝来の地・種子島を所領に持つだけあります。
 島津の戦い方は他家にはない独特なものです。「捨てがまり」と呼ばれるもので一部の武者が鉄砲を撃てる用意をして追撃してくる敵兵を待ち受け、敵が近づいてきたところを見計らって一斉に撃ち出し、後は槍や刀に持ち替えて敵に突撃して全員討ち死にするまで戦い続けます。
 ええ、これによりほとんどの武者が倒れますが、大将のみはかろうじてでも生き残る可能性があります。その大将こそが生き延びることが重要なのです。大将の死は「敗北」に直結することなのですから。
分かれ道
 (画像は右が島津軍撤退路、左が旧伊勢街道です。伊勢街道を北上すると本多忠勝陣跡にたどりつきます)

 家康公本陣手前まで島津軍は突撃し続け、そこから急に南に進路を変えます。家康公が危うかったことに井伊直政は激怒し、井伊軍の先頭に立って追撃します。
鳥頭坂
 さて、島津軍は運命の地「鳥頭(うとう)坂」にたどりつきます。ここで義弘公の甥・豊久が馬をとめていいました。
 「叔父御!ここはそれがしが井伊軍を止めもうす。叔父御は生きて薩摩に帰って、島津家を生き延びさせてくだされ。」と何かを思い切るように告げる豊久。明るく振舞っているものの、その目には死を決意した色が浮かんでいます。
 「豊久!おはんはまだ若か、ここで死ぬのはわしのような爺ぞ!早く行くのだ。」なんということでしょう。かつて「鬼石曼子(ぐい・しーまんず)」と明・朝鮮の兵から恐れられた義弘公の声が震え、目も心なしか潤んでいます。豊久は義弘公の弟・家久の弟であり、幼くして父を亡くした豊久を義弘公は父親代わりとなって育てていたのです。武人としての荒っぽい可愛がりようではありましたが。
 「ここでかっこいいところを見せるのは若い者の仕事ぞ。大将は大将らしく担がれてお帰りなされ!」というや義弘公の側近に頷きかけ、側近らも心得たように義弘公の馬の手綱を強引に引っ張ってゆきます。
 「はなせ!はなさぬか!とよひさぁーー!!」その声を聞きつつ豊久は廻りに残った50人にもみたない武者達を見渡します。
 「おはんらの命は貰いもした!ここで義弘様を生きて帰せばまだ島津は生き延びる道はある。鎌倉以来400年も続いた島津家をここでつぶすわけにはいかん!皆、頼むぞ。」その声に周りの武者達も無言のままニヤリとします。思いは一つなのです。

 さて、ここ鳥頭坂を待ち伏せ地点に設定したのはさすが戦上手の島津家というところなのです。この坂を下ったところはまた平坦な路ですが、下り坂で長々と続く人々の列を突然止めると、後に続く人々は追突をさけるため次々と止まり、渋滞が発生します。つまり渋滞発生のメカニズムを利用した軍略というわけ。凄いなあ・・。

 路の左右に兵を伏せた豊久は赤備えの井伊家が近づいてくるのを見ながら、時機を見計らいます。やがて先頭に前身を赤い甲冑に身を包み、兜の両脇に黄金色の天衝を立てた大将を見出します。
 「まだぞ、まだぞ・・。先頭に確実に当てるには奴らの目の白いところが見えないといかぬぞ。・・よし、今だ、撃て!」豊久の号令に武者達は一斉に立ち上がり、鉄砲を撃ち放ちました。井伊家の先頭に立っていた大将が肩に鉄砲弾を喰らって馬からもんどりうって落ちてしまいました。島津家の武者達は豊久はじめ槍を手に突撃していき・・・生きて帰る者は誰一人おりませんでしたが、義弘公は無事に逃げ延びました。島津の武者で生きて帰ることができたのは50人足らず・・1500人もいて、30人に1人しか帰ることが出来なかったということです・・・・。島津豊久公陣没地
鳥頭坂説明板
 ここに豊公久供養の石碑があります。南無南無・・。

 島津家は関ヶ原に勝った家康になかなか従おうとせず、攻めて来るならいつでも迎え撃つぞという姿勢を示し続けた結果、根負けした家康公のほうが島津家をゆるすことにしました。とはいえ徳川家は隙あらば島津を潰そうと図っておりましたが、260年の江戸時代を潜り抜け、ついに明治維新で関ヶ原以来の鬱憤をはらしました。

 鳥頭坂で傷を負った井伊直政公は完治しないまま戦後わずか2年後に亡くなりました。生きていれば、江戸幕府の初期幕政を担うほどの逸材と期待した家康だけにその死を大いに悲しんだということです。

 西軍の実質上の総大将・石田三成は関ヶ原と佐和山の間の伊吹山山中をさ迷っている所を捕まります。家康とも対面を果たしますが、悪びれず堂々とした態度であったということです。また、斬首直前に三成が「水をくれないか」といったところ、その場に井戸がないので渋柿を差し出されたところ、「柿は痰がからみやすくなる」と断ったそうです。その場にいた誰もが「これから首を切られるのになんの心配をしているのか」と嘲笑ったところ、三成は「大将たるもの、首切られるまで敵を討つ算段を図るものだ」と教え諭したという。

 島津義弘公が亡くなったのは豊臣家も滅び去った後の元和5(1619)年、85歳の長命であったという・・。


 今回はここまで!次回から2回ほど「芸術の秋」編をお送りしよう。

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関ヶ原古戦場巡り~西軍陣地編~

 こんばんわ。金曜日にブログ更新をしようと考えていたら、どういうわけか繋がらない。どうやら管理者側でトラブっていたようなのでこうして更新できる。やれやれ・・

 さて、気を取り直していってみよう!(いかりやチョーさん風に)今回は西軍陣地を巡る。前回、東軍陣地編を詰め込みすぎたようなので二回にわけようと思う。
関ヶ原開戦地
 こちらが「開戦の地」石碑である。裏手が泉州・堺の商人出身の大名・小西行長の陣地跡であり、ここより北に進むと石田三成の陣跡。西南方向にすすむと宇喜田秀家陣跡である。

 各陣所に向かう前に、東軍総大将・徳川家康の息子達の動向を追ってみよう。関ヶ原時点で元服して一軍を率いることの出来る息子は三人いた。まずは家康公の次男・結城秀康公。
結城秀康
 この画像の人物が秀康公、福井県庁前にある石像。日本の武将らしからぬ姿はこれを作成した人物が支那人だからである。秀康公は関東にあって、徳川を追って南下してくる上杉軍に備えて宇都宮に数万の兵とともにいた。
彼は不遇な人物で生涯にわたって父親の家康公に嫌われ続けた人物であり、それもまた一篇の物語になる。

 2人目が三男で二代将軍・徳川秀忠公である。今の大河で向井理氏が演じている人物だ。東海道を行く家康公とは別に中山道を3万8千もの徳川軍本隊を率いて向かっていたが、信濃・上田の真田昌幸・幸村親子に妨害され、肝心の決戦に遅れるという切腹ものの失態を犯すが、そのような事態にいたらずに将軍となって江戸幕府の基礎を築き上げた。政治家としての才能が優れていたということだろう。

 3人目が前回登場した松平忠吉公である。島津家との戦闘で鉄砲傷を負い、戦後に清洲城主になったものの1607年に死去。

 前回の福島陣跡からまっすぐ向かったのが大谷吉継陣跡、石田三成の挙兵に反対しながらも最後は三成との友情にまけて西軍に参加した悲運の武将です。
大谷陣周辺図1
 国道21号をまっすぐ西に向かい、右に曲がって旧中仙道をさらに西へ。
名所・鶯の滝
 途中には名所「鶯の滝」がある。だが周りをフェンスで囲まれているため、降りて撮ることが出来なかった。もったいないなあ。さらにいってみよう。
大谷陣周辺2
 大谷陣跡からは離れているけどその先には・・
常盤御前の墓1
常盤御前の墓2
 源平合戦の名将・源義経公の御母上である常盤御前の墓があるのですね。義経公の父親・義朝公が戦に敗れて討たれた後、息子達を助けるため平清盛に身を任せざるをえなかったと「平家物語」で有名な話ですね。お墓の真偽はともかく、土地の人が代々弔いつづけてきたのですから我々旅人も手を合わせましょう。南無南無・・。

松尾芭蕉の句碑
 松尾芭蕉もこの地で俳句を詠んだようですね。

 大谷陣跡にむかいましょう。
黒血川2
黒血川1
 おお!こんな小川が「壬申の乱」では激戦地だったのですね。川が黒々とした血で染まるほどとは・・。

大谷吉継公の墓へのトンネル1
 黒血川を左に見ながら北上すると東海道本線が上を通るトンネルが迎えてくれます。念のため、東海道本線の歴史を調べてみると長浜ー関ヶ原間を開通したのは明治16年とのこと。このレンガ積みは明治なんですね。雰囲気ありますね。
大谷吉継公の墓へのトンネル2
 トンネルを潜って坂道を登っていくと大谷吉継公のお墓があります。
大谷吉継公の墓への林道
 このあたりはかなり山深いので虫除けスプレー必須です。山道を辿っていくと・・
大谷吉継公の墓1
大谷吉継公の墓2
 南無南無・・。大谷吉継公は2千にも満たないにも関わらずよく戦い、かの裏切り者・小早川秀秋が松尾山をくだって攻め下ってきても3度にわたってはね返したほど勇戦力闘された武将です。ま、吉継公自身は病で体の自由は利かず目もほぼ見えていなかったのですが、それだけ大谷家の結束は強かったということでしょうね。

大谷吉継公石碑1
大谷吉継公石碑2
 このお墓を整備したのは東軍の敵将・藤堂高虎公です。元は太閤・秀吉の下にあって同僚なわけですからね。さすが苦労人の高虎公ですね。

 来た道を戻らずに南下すると・・
大谷陣跡
 ここが大谷陣跡です。お墓はずっと奥にあるというのがわかります。

若宮八幡宮1
若宮八幡宮2
 お墓からまっすぐ南下すると若宮八幡宮がございます。お参りしていきましょう。この神社の参道は東海道本線が通っています。本当は通過してはいけないのでしょうが・・
若宮八幡宮3
 いい子は真似しないでね。下に見える道路が旧中仙道です。

 宇喜田陣跡に向かう途中、「平塚為広公陣跡」です。大谷家の盟友ですね。
平塚為広陣跡

 着きました!天満山全体が宇喜田陣跡ですね。
天満神社1
 神社自体は見当たらなかったので山頂にあるのでしょうが、今回は登りませんでした。そんな時間ないて。
天満神社2
 ふむふむ・・。
宇喜田陣への道
 参道を抜けると・・
宇喜田陣跡1
 ここが宇喜田秀家公陣跡です。秀家公は戦後、薩摩まで逃げて島津家に匿われますが、後に投降し、八丈島に流されます。そして80歳を超えても生き、亡くなった時は4代将軍・家綱公の時代だったそうです。タフな人だったんですね。
宇喜田陣跡2
 ここには似たような石碑が二つあります。なんで?
宇喜田陣前
 再現された木柵から東軍方向を透かしみます。向うからおっかない顔した兵士たちが突撃してきたんですね。

小西陣跡
 宇喜田陣跡から北東にいくと小西陣跡ですね。最初の開戦地の碑の後ろですね。

福島・藤堂・京極
 小西陣跡の前から東軍方向を見ると前回巡ってきた藤堂・福島陣跡がよく見えますね。

 今回はここまで。次回は石田陣跡や島津陣跡を巡っていきましょう。

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関ヶ原古戦場巡り~東軍編~

 さて、今回はいよいよ関ヶ原の古戦場を巡っていこう。主に東西の陣地跡になる。まずは両軍の配置図など見ていただこうか。
関ヶ原の配置図
 これは石田三成の本陣・笹尾山に置かれた地図だが、今回は東軍を巡っていこう。以下に岡山(勝山)を獲られた西軍の動きから決戦開始に至る流れをごく簡単に書いてみた。



 大垣城の後背に位置する岡山(勝山)を奪われた西軍はこのままでは大坂との通路を閉じられ、干上がるしかない。それを避けるため、9月14日夜半、関ヶ原への転進を開始した。大垣城を南下して伊勢街道に入り、はるか南宮山頂の長曾我部陣地の明かりを見つめながら牧田川にそって関ヶ原に向かうのが西軍の移動ルートだ。関ヶ原には事前に大谷吉継らの指揮の下、笹尾山・天満山・松尾山などに陣城が構築され、来るべき決戦に備えて包囲網が用意されていた。三成の作戦の根幹にはその包囲網があればこそ、「家康恐れるに足らず!」と思えたのであろう。
 冷たい雨が降りしきる中、西軍の兵や軍馬は口に声を抑えるための板切れをくわえ、鎧の草ずりの音を抑えるために縄で縛り、松明も点さないでぬかるんだ道を進んでいく・・。

 一方、東軍も西軍の動きを察知し、日付が変わって15日の深夜に家康は岡山を中心に布陣している東軍諸将に追撃を命じた。家康の後継者・秀忠率いる徳川本隊はついにまにあわないものの、やむをえざる決断だった。さもなければ「三成憎し!」にこりかたまった福島正則・細川忠興・黒田長政らが独断で追撃しかねなかった。そのような事態はなんとしてでもさけなければならなかったのだ・・・。
 追撃の先鋒は福島正則と黒田長政、とくに福島正則はあたかも解き放たれた猟犬のように「三成の首は俺がとる!」と先頭きって馬上の人となった。続いて加藤嘉明・細川忠興・藤堂高虎・松平忠吉・井伊直政らの部隊が後に続き、家康は徳川四天王の猛将・本多忠勝と旗本組3万とともに最後尾で続いていた。

 両軍の最終的な配置が完了したのは15日の午前5時ごろ、自分の指先すら見失いかねない濃霧の中、両軍の武将・兵士らは「今か今か」と各々の武具を手に静かに折り敷いていたのである。
 そんな霧が物音すらも飲み込みそうな濃霧の中を進むわずか50騎程の集団がいた。先頭には家康の四男・松平忠吉とその補佐役である井伊直政がいた。まもなく東軍の最前線にあたる福島陣のところに差し掛かると・・前方に笹の枝を背中に大量にさし、大身槍を片手にもった鎧武者が前を遮った。
 「待て!ここから先は福島左衛門大夫正則の陣所であるぞ!どこのご家中であるか存じ上げぬが、通行不要!」と大喝を発した。あまりの大声に松平・井伊隊の武者共にも震えがはしる。松平忠吉も初陣の緊張からか馬を引きそうになるものの歴戦の猛将・井伊直政が手綱を抑えて口を開いた。
 「控えよ!こちらは徳川内大臣家康卿のご子息である松平忠吉君なるぞ!忠吉君はこの度、初陣を迎えられるゆえ、それがし井伊直政が武名高い福島殿の御陣近くで戦の差配をお教えすべくいま少し前にでるだけぞ。何も福島殿の先駆けを邪魔立ていたそうというのではない。故合ってのことゆえ、そこをどかれるがよい。」と最初はどなりつけ、徐々にさとすような語り口で勇猛な武者に話しかけられる様はさすがに徳川家中にあって最強の赤備え衆を預けられる直政様といえましょう。これには遮った武者もあわてて頭をさげました。位負け、というものです。
 「申し訳ござらぬ。それがし可児(かに)吉長と申す。福島家中にあって侍大将を務めておりもうす。そのような訳ならば、主人・正則も快く通すこと相違ござらぬ。是非、お通りくだされ。」と道をあけました。
 「おお!福島家中にあって『笹の才蔵』と異名をとるのはおことであったか。忠吉様、首を取っては、持ち歩くのが面倒とその切り口に笹の葉っぱをねじ込んでいく猛者が目の前におるのです。何か言葉をかけてやってくだされ。」とうながす直政に忠吉も声をうわずらせながら。
 「役目、大儀!」と声を掛けて通り抜けていかれました。その後には直政と赤備え衆が続きます。可児才蔵は俯いたまま横目で(やけに鉄砲が多い・・。)と不審に感じておりましたが、もはや何もいえません。しばらくいくと、可児隊は霧に隠され、遠くに旗が見え隠れし、馬のいななきも聞こえるほどの距離に来ました。
 「忠吉様、この天下分け目の合戦に福島ごとき猪武者に先陣を切らせるのは徳川家末代までの恥!ここは我らが前方の西軍に鉄砲を撃ちかけ、先陣をきりますぞ!」
 「うむ!父上も・・いや内府(内大臣)様も喜ばれよう。皆、支度せよ!」その言葉に赤備え衆は二列に折り敷き、背負ってきた鉄砲に火薬・玉を詰め、かるかで軽く押し固め、火縄に火種から点火します。そのまま合図を待ちながら、いつでも発砲できる態勢です。忠吉が不安げに直政を振り返り、その不安を拭うように直政も娘婿である忠吉にうなづきます
 「者ども!構え!放てぇーっ!!」その号令に鉄砲が一斉に放たれ、天からの雷が束になって一時に落ちたかのように関ヶ原の狭い戦場に轟き渡ります。

 その音を後方の可児才蔵は悔しげに聞き、本陣の福島正則は床机から立ち上がって目を怒らせ、桃配山の家康は傍らの本多忠勝に静かに頷きかけます。忠勝は後ろの使い番に合図を
送りました。しばらくして東軍と西軍の中ほどにある丸山ののろし場で一発ののろしが打ち揚げられました。これから開始される激戦の合図として・・。

 というわけまず向かうのが、家康公が最初に陣を置いた桃配山です。
神君・家康公
 駿府公園の徳川家康公です。

 南宮大社や勝山を巡った翌日、早朝に名古屋を出発し、1時間半くらいで関ヶ原駅に到着。まず関ヶ原歴史資料館に向かい、足となる自転車を借りにいきます。
関ヶ原町シンボル
 関ヶ原町の紋章です。家康公のシダの葉の兜をモチーフにしています。
関ヶ原資料館
 こちらが資料館です。たしか4時間までが500円、4時間を越えると1000円で自転車を貸して頂けます。それがしは当然1000円を払っておきました。現在はしりませんが、普通のママ・チャリでしたね。電動自転車導入してくれると楽なんですがね。

関ヶ原資料館で貰える地図
 資料館で貰える地図です。黄色いマーカーを引いたところがそれがしの巡ったルートです。資料館の横には・・
家康の最終陣地
家康最終陣地1
DSC01838_1.jpg

 これから向かう桃配山の後に最終的に家康公が布陣したところです。隣接した敷地には・・
御霊神社

 こちらの御霊神社は、関ヶ原の合戦380年記念に地元の方々が戦死者を祭るために建てた神社です。大きいサイズの画像では読み込まなかったので小さいサイズです。すぐ隣に・・
貴船神社
 こちらは大正15年に建てられた貴船神社。関ヶ原村はもともと水の乏しいところで、晴天が続くとすぐに干上がってしまうほど水に苦労した土地でしたが、明治・大正にはいり、企業や工場が入るようになり、住人も増えたことで水源の確保が必須になりました。そこで、工事を行い、完了したのが大正15年、喜んだ人々は京都の貴船神社を勧進してお祭したとのこと。

紅葉と陣地
 秋の入り口の頃でしたので、まだ紅葉も色づいてませんね。

松平・井伊陣地跡
井伊陣地説明板
 先ほどの井伊直政公の陣地跡ですね。
井伊直政
 彦根の井伊直政公です。

 資料館から20分くらいで・・
丸山への竹薮
 左右に竹薮が迫る中、進むと・・
丸山のろし場3
丸山のろし場
 こちらで開戦ののろしが上げられたのです。
丸山のろし場2
丸山からの眺望
 丸山からの眺望です。上の画像はクリックしていただければ別画面でご覧頂けます。見切れていますが、右端が三成の本陣・笹尾山です(多分・・)。

 丸山からまた自転車で30分ほど・・やっぱり遠いですねぇ。
桃配山

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 家康公が最初に陣地を置いた桃配山です。なぜそんな名前なのか?
IMG_0432.jpg
 という訳。
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 ここには家康公と本多忠勝がいました。本多の兵の大半は後続の秀忠勢についており、わずか500ばかりを別の所に陣地を置いています。
IMG_0436.jpg

 桃配山から西にまっすぐ行くと本田家陣地です。
忠勝陣地

IMG_0446.jpg
忠勝陣地説明板
 こちらの陣地跡は民家の裏手にありますので、はしゃいではいけません。
猛将・忠勝
 こちらは三重県桑名市九華公園内にある本多忠勝公坐像です。「九華」と書いて昔は「くわな」と呼ばせたらしいですね。

 次に向かうのが、藤堂高虎の陣地です。
藤堂高虎
 生涯に何度も主君を替え、その度に出世してきた苦労人であり、築城の名人でもあります。
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 右が藤堂の旗、左が近江・京極の旗です。この陣地跡のすぐ目の前に中学校がありますので、カメラを持参する場合は誤解されないように注意しましょう。こんな世の中ですからね。
藤堂陣地説明板

 次は東軍きってのあほ・・もとい猪武者・福島正則の陣地に向かいましょう。
福島陣地
福島正則イメージ
 福島正則の銅像は知る限り存在しないのですが、被っていた愛用の大水牛脇立て兜を黒田長政の一の谷兜と仲直りの印に交換したので、その兜の銅像(?)を正則のイメージ画像とします。これは博多の東公園の光雲(てるも)神社にあるものです。後ろは「黒田節」で有名な母里(もり)太兵衛です。
IMG_0451.jpg
IMG_0454.jpg
 敷地内には春日神社がございます。ご神木がございますね。
ご神木の松
 アップで写してみました。

 今回、最後に訪れるのは、戦に敗れた石田三成を捕らえた田中吉政の陣地跡です。
IMG_0511.jpg
家康最終陣地
 家康公の最終陣地のすぐ南です。

 今回はここまでです。次回は西軍陣地編をお送りします。

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関ヶ原古戦場巡り~大垣市と垂井町から~

 今回からいよいよ関ヶ原古戦場です。実際の古戦場めぐりは名古屋に宿をとり、二日間に渡って行いました。初日は前々回の南宮大社周辺と大垣市、二日目が関ヶ原町でした。なにしろ大軍が激突した広大な地域なのでね・・。

 南宮大社の前に訪れたのが・・
半兵衛と竹中陣屋
竹中陣屋説明板

 ここ竹中陣屋跡です。秀吉がまだ織田信長公に仕えていた頃、軍師として秀吉を支えていた竹中半兵衛の館跡です。垂井に来たら、ここに寄らないとね。半兵衛さんの銅像を見て頂きましょう。
竹中半兵衛1
竹中半兵衛2
竹中半兵衛3
竹中半兵衛4
竹中半兵衛5
 作者は・・不明です。裏にはこの地区の有志の方々が寄贈したとしか書かれていません。門を潜っても、中は幼稚園や個人宅なので入れません。また竹中会館が隣接していますが、いつ開いているか不明のところなので寄りませんでした。
竹中陣屋堀
 ここの最後に竹中陣屋の堀です。

 その後に南宮大社を巡りまして、次の浅野陣所跡にいきました。
南山山への道しるべ
 途中、こんな道しるべがありました。基礎は最近のものですが、これ自体は古そうですね。近代のものでしょうかね。明治とか大正とか・・昭和だったりして。
 
浅野陣所跡1
浅野陣所跡2
 まあ、ここでは「ふーん」という程度ですね。あまり浅野君好きになれないので。ここまで歩き詰めで随分疲れました。また腹も減ったので真向かいのラーメン屋にはいりました。有名かどうかは不明ですが、国道沿いにあり、また周辺に工場や物流センターが集まっているので賑わっておりました。
昼飯
 ラーメン、チャーハン、餃子・・あっという間にたいらげました。お腹空いてたんですよね。味は全国標準というかごく普通でした。美味しかったですね。ごちそうさま。

 それから垂井駅に戻り、大垣駅へ。大垣市内に行きたいお寺がありました。
安楽寺1
 それがここ、安楽寺!元々は寺の裏が「岡山」と呼ばれていましたが、徳川家康が布陣して関ヶ原に勝った吉例から「勝山」と改名され、寺自体も徳川家に庇護されたとのこと。
勝山地図

安楽寺2
安楽寺3
 こちらが本堂。徳川の御紋・三つ葉葵が幔幕に堂々染め抜かれています。ご立派!

葵御紋
国家安康・君臣豊楽
 この鐘自体は室町時代に鋳造されたもので、関ヶ原の時には病をおして出陣した大谷吉継公の陣所にあった鐘だそうです。

 寺の裏に続く道を登っていくと・・
関ヶ原と壬申の碑
 ここは壬申の乱の石碑も建っているんですね。
壬申の乱の石碑
 古代であろうと戦国であろうと、地勢上の要地は変わりませんね。

安楽寺裏の山頂から大垣市内
 山頂(そんなに高くないですが・・)からは大垣市内が一望の下に見渡せます。往時は大垣城を中心に集まっている西軍が見えたことでしょうね。しかしこんな大切なところをあっさり東軍に奪われてしまうとは・・石田三成は嫌いではないですが、西軍の実態はお寒い限りですね。

 その日はここまで。まだ午後3時くらいでしたが、歩き詰めで疲れていましたし、翌日に備えて名古屋に引き返しました。宿も名古屋とすこし遠いのは、行った時が彦根でお祭があったようで全然宿がとれなかったんですよ。またしても彦根に祟られたかというそれがしにとっての「彦根ジンクス」を思い出しました。

 お寺からすぐ近くの美濃赤坂駅で電車を待っていましたが、1時間から1時間半に1本の割合で丸々1時間待ちました。その間に・・
美濃赤坂駅1
美濃赤坂駅2
 後で知ったのですが、有名な木造駅舎とのこと。NHKのBSでやっていた「木造駅舎の旅」で拝見しました。
美濃赤坂駅3
美濃赤坂駅セピア

 今回はここまで。次回は関ヶ原古戦場でーす!

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プロフィール

サムライ銅像研究会

Author:サムライ銅像研究会
歴史と銅像と芸術が大好きなあまり、日本各地を東奔西走する銅像・史蹟ハンターである。神出鬼没なため、脈絡無しのブログ更新を続ける。掟はただ一つ!「死して屍拾うものなし!」昔の時代劇の決め台詞だけどね・・皆さん、見てやあ!
 最近、キューピーに侍の装束を着用させる遊びをやっております。「武者ピー」と呼んで可愛がってやぁ~!以後は「キューピー甲冑師」とも名乗ります。

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