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太田道灌公の短編小説・初陣編

 今回は太田道灌公の初陣を書いてみた。史実での道灌公の初陣に関しては確かな記録が残っておらず、一説には「享徳4(1455)年5月に藤沢で鎌倉公方・足利成氏方と戦う」という記録が残っている。
 だがそれでは道灌公は24歳(数え年)であり、初陣にしては遅すぎると思うので、この時の初陣は「指揮官としての」初陣であり、武者初めとしての初陣はまた別だったのではないかと考えると・・遡ること5年前、宝徳5(1450)年4月に江の島で起きた合戦があり、それが「武者としての」初陣ではないかと考え、以下の短編小説を書いてみた。
 江の島というと、今ではサザンオールスターズやチューブが歌い、夏ともなれば海水浴にサーフィンと大勢の観光客が押し寄せる湘南きっての観光地な訳だが、彼の地でも戦争はあったのですよ。

 では、どうぞ!

「白き旗のもとで~太田資長(道灌)初陣の記~」
                             著:サムライ銅像研究会

 これは後の世に「関東の名将」とその智謀を謳われた太田道灌公の初陣の折りの話でございます。しかしその話をさせて頂く為には当時の関東地方のお話をしなければなりません。少々お付き合いくださいませ。

 道灌公の時代より遡ること半世紀前・・その当時、関東には鎌倉に統治の府を置いた鎌倉公方という御役職がございまして、足利将軍家の初代尊氏公の弟の御血筋を引かれる方が代々公方様を勤めてまいられました。さらに公方様を補佐する家柄が上杉家であり、上杉家は越後・上野・武蔵・相模と多くの国々に所領を持っておられ、上杉家自体も山内上杉家・扇谷上杉家・さらに越後の上杉家が力を持ったお家であり、関東では山内上杉憲実様が数多ある上杉家の頂点にたっておられました。
 その第四代鎌倉公方・持氏公はたいへん野心的なお方でありまして、時の将軍・足利義教公(世に「くじ引き公方」と申されておりました)になりかわり、自身が征夷大将軍につかれることを望まれておりましたが、持氏公の下で関東の実務を取り仕切っておられる関東管領・上杉憲実様がその野心の前に立ちはだかられたのです。
 憲実様は持氏公に身に過ぎた野望をお捨てなさいますよう、色々諫言なさいましたが、ことごとく持氏公ははねのけられ、あまつさえ憲実様を亡き者にしようと企む始末・・憲実様も身の危険を感じ、御領国のある上野(こうずけ:群馬県)や伊豆に赴き、自らの居所を持氏公に悟られまいと苦心されておりました。
鶴岡八幡宮
  (鶴岡八幡宮)
 ある時、持氏公は武士の信仰を集める鎌倉の鶴岡八幡宮に願文を捧げます。文面は、憎むべき敵を追討し、自家の繁栄を長く祈るものでしたが、当時の方々の誰が読んでも「憎むべき敵」は将軍・義教公に他ならないものでしたので、いつしか世の人々の噂にたつようになり、ついに幕府も捨て置けなくなり、憲実様に「持氏公の謀反のお気持ちは本当か?」という質問書をくだされました。憲実様は持氏公への忠誠心と幕府から任命された関東管領としての職責の間に板ばさみになられ、大変なお苦しみを味わうことになりました。
さらに悪いことに隣国の駿河守護大名の今川家より「鎌倉公方・足利持氏の京・将軍家への叛意明白!」と告げ口されてしまい、ついに都から追討軍が出される
ことになったのです。幕府は越後(新潟県)・上杉家や駿河(静岡県)・今川家にも関東管領・上杉憲実に味方して鎌倉公方・足利持氏討つべし!との命令を下されたのです。これを「永享の乱」と申します。
 その報せに激怒した持氏公は一度は軍勢を出されますが、将軍家の命令に恐れをなしたお味方の相次ぐ裏切りにより抗戦を諦めた持氏公は鎌倉のお寺に入られ、幕府の沙汰を待ちます。
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  (箱根湯本の早雲寺:お寺のイメージとしてご覧下さい)
その間も憲実様は幕府に持氏公の助命嘆願を願い出られますが、「早く腹を切らせろ」とせかされる始末。ついに万策尽きた憲実様は泣く泣く持氏公に切腹されるよう使いを出し、永享11(1439)年2月10日、永安寺にてお腹を召されました。遅れること28日、ご嫡男・義久様も切腹されました。

 関東はこれにより平和になったかのように思えました。でもそれは偽りの平和であり、都の将軍・義教公の恐怖政治は猛威を振るうばかり、関東でも持氏公の遺児であらせられる安王丸・春王丸様が結城氏朝に擁立されて常陸(茨城県)で父上の敵を討つべく挙兵されました。ご兄弟は各所で兵を募って結城(ゆうき)城にはいられましたが、時期が早すぎました。扇谷上杉持朝様が上野国の軍勢を集められ、さらに幕府の応援もうけ、数万の軍勢を集めた上で結城城を囲まれたのです。これを「結城合戦」と申します。
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  (横浜市茅ヶ崎城址:中世城郭のイメージとしてご覧下さい)
 主君を死なせてしまった悲しみをいやすべく伊豆で仏道修行にあけくれていた憲実様にも幕府より出陣の命令が届き、やむなく鎌倉に入られました。また憲実様の元で家宰を務める長尾景仲様が扇谷上杉持朝様と共に結城城を1年間に渡って締め上げ、ある時、総攻撃を行い、ついに城を落とされたのです。一年間の攻城戦を強いられた幕府軍は荒れ狂い、城方の兵士であろうと女子供であろうと誰一人逃すことなく悉く殺しつくしたのです。足利安王丸・春王丸ご兄弟はつかまり、京に送られる途中で美濃・垂井の金蓮寺であわれ首を切られてしまいました。その時お二人は13歳と11歳の齢であったと伝えられます。
 
 これでついに関東に平和が訪れたかと思われたのもつかの間・・因果は巡ると申しましょうか、将軍・義教公が播磨の守護大名・赤松家の屋敷で討たれるという「嘉吉の変」がおきたのでございます。幸い幕府の御重役方の協力により、赤松家は討たれ、大きな混乱もなく、次の将軍には足利義政公がお着きになられました。
 ですがその義政公の御世に天下の大乱「応仁の乱」が起きたのはいかなることでございましょうか?

 さて関東では持氏公の遺児・万寿王丸さまが信濃(長野県)佐久平の豪族・大井持光により養育されていましたが、新たな鎌倉公方が必要ということになり、上杉憲実様や鎌倉公方のご家来衆の運動により将軍・義政公が万寿王丸さまの公方就任をお認めになられたのです。
 そして文安4(1447)年3月、万寿王丸さまは新たな鎌倉公方に就任され、鎌倉に向けて旅立たれました。そして8月27日ついに鎌倉帰還がなったのであります。思えば鎌倉を離れ、お父上を亡くされたのはわずか5歳、鎌倉に帰られたのが13歳、なんと8年間にわたり、諸国をさ迷われておられたのです。おいたわしいことであります。
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  (文京区六義園:武士の館をイメージしてみてください))
 ここでおわれば万々歳なのですが、ご隠居された憲実様にかわられて関東管領に就任されたご嫡子の上杉憲忠様は家宰の長尾景色仲様や扇谷上杉持朝様、太田資清(道灌公のお父上)様などは元々都より関東に移り住まわれた方々のご子孫であり、関東に元々お住まいになられている武士団とは様々な利害対立があり、鎌倉公方とはその両者の間でヤジロベエのように互いの利益を調整されるのがお仕事でありますが、元より血の気の多いお武家様のこと、度々合戦騒動になり、また万寿王丸さまもお父上やご兄弟を合戦で亡くされておられるせいか関東在住の武士団に肩入れし、管領・憲忠様とはつい対立しがちになってしまわれます。
 帰還から二年後の宝徳元(1449)年、万寿王丸さまは将軍・義政公(その当時は義成と名乗っておいででした)より一字を頂き、「足利成氏」公と名乗られました。それと共にかつて持氏公に仕えられていた方々や結城合戦でお味方についていた方々のご一族衆が成氏公のもとに集われ、ますます管領様との対立の機運が高まって参りました。

 その頃、資長様と名乗られていた後の道灌様はご主君の扇谷上杉持朝様のもとに出仕されておられました。元服されて後、紅扇との悲恋をも乗り越え、今や逞しき若武者となられ、将来の太田家のみならず上杉家の将来を担う逸材と周囲から期待されておりました。
 資長様がいつもの通り、持朝様のもとで日常の雑事を片付けていると山内上杉家の家宰・長尾景仲様、お父上の太田資清様が訪ねて参られました。このお二人は当時「関東無双の案者(知恵者)」といわれ、その智謀を広く天下に謳われておりました。そのお二人が何やら只ならぬ様子で持朝様のもとを訪れ、人払いまでして相談事に及んでいるのです。資長様でもなくても、何事か起きていると感じるでしょう。

 その晩のことです。お屋敷に戻られた資長様を、着替える間も与えずに奥のお父上の居室に呼ばれました。資長様はいつもとは違った緊張を感じつつ、障子戸を叩きました。
 「おお!資長か。入るがよい。」資清様の声が何やらはずんでいます。資長様いぶかりつつ室内に入りました。
 「父上におかれましてはつつがなく・・まあ、肩肘張った挨拶はやめておきましょう。本日、持朝様を訪ねられておられましたが、それにまつわる用件ですか?」
 「ふっ、察しがいいな。ならば薄々感じていよう。我ら上杉家を支える者にとって、現在の公方様は・・いささか元気すぎる。お父上・持氏公や兄上様の分も公方として権威を振るいたいのはわかるが、邪魔だ。近々、公方様を・・いやそのお側で下らぬことを申す奸臣どもを討つ!」資清様の顔色も興奮からか赤くなっておられます。
 「ということは・・それがしもいよいよ初陣ですか?」いつも冷静な資長様もさすがに声を上擦らせます。武者として生まれて、初めて戦陣に立つのは誰しもが憧
れることなのであります。
 「そうだ。お前も早や19歳(数え年)、初陣としてはすこし遅いが筋骨もすっかり大人になっているからな。戦場に立つのに不足は何もない!」資清様も嬉しそうなご様子。
 「ついてはお前の甲冑についてはわしから甲冑師に注文しておいた。お前の部屋に鎧櫃(よろいびつ)ごと運ばせておる。あとでみてみるがよかろう。」
 「ありがとうござりまする。元服時に作っていただいた甲冑ではいささか小さいものになっておったのです。」素直に頭をさげる資長様です。その様を満足そうに見守る資清様であります。やはり人の親ということなのでございましょう。

 その会話から一月ほど過ぎた頃・・公方・成氏様が突如、鎌倉の御所から江の島に移られたという報せが入りました。
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  (江の島遠景:カメラを持って海水浴場行く時は注意しましょう)
 折も折り、翌日早朝はいよいよ長尾景仲様、太田資清様共々軍兵を率いられて御所を包囲する手はずであり、太田家の屋敷では多くの武者や足軽どもが集まり、翌日の準備をしているところでありました。その報せにすぐ使者が鎌倉の街中を巡り、街中の人々も「すわ何事か?」と戦々恐々で様子を伺っています。気が早い者は、早くも家財道具を大八車に積み込み、鎌倉を出て行こうとしています。
 そんな騒ぎは鎌倉府内に移り住んでいた紅扇の家族でも騒動を起こしていました。
 「やったぞ!ついに公方様が上杉家退治に乗り出されるのじゃ!これぞ我らが待っていた家名再興の時ぞ!「上杉禅秀の乱」で失われた領地を取り戻すのは今この時をおいて他にない!」と古ぼけた甲冑を身に着け、錆の浮いた薙刀を脇にかいこんだ紅扇の父親がいつになくはしゃいでいます。その側で兄もうんうんと頷いています。
 「でも父上、うちには家の子・郎党などはおりませぬ。お父上と兄上だけではございませぬか。2人だけでおんぼろ鎧をきていっても落ち武者と間違われませぬか?」身内にも容赦ない紅扇は今やすっかり美しい娘に成長しておりました。平和が続けば、富裕な商人に嫁いで実家に仕送りをすることもできましたでしょうに時代がそれを許さないかのような有様です。
 「紅扇・・お前の口は達者じゃのう、それでは嫁の貰い手がないぞ。よいか!公方様はお味方が少ない故に江の島に立て篭もられたのじゃ。おっつけ小山や宇都宮など名だたる大名衆が駆けつけてくるだろうが、このような時に真っ先に駆けつければ公方様の覚えもめでたくなろう。聞けば、若いながらも英邁なお方のよう
だぞ、成氏公は。関東を牛耳る上杉に喧嘩を吹っかけるその気概もたのもしいものではないか!」
 「父上、戦と喧嘩は違いまする!負ければ死ぬのですぞ!お二人に死なれては私は・・」紅扇の声も詰まります。
 「だが我が家は武者であるぞ。たとえ領地がなく、貧乏暮らしでも鎌倉殿(源頼朝)以来の御家人の家ぞ!合戦こそが家名をたてる道!これ以上いうでない。」
とさとす父の手が泣き伏せる紅扇の肩にそっとおかれます。
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  (鎌倉・源氏山上の源頼朝像)
 「・・わかりました。私も武者の家に生まれた娘、もはや何ももうしますまい。でも、父上も兄上も生きて帰ってきてください。」小さくとも生き死にがかかった別れがあるのでございます。

 翌、早暁・・鶴岡八幡宮前に扇谷上杉家・長尾家・太田家の軍勢500騎、足軽3000が勢ぞろいしました。緋縅(ひおどし)の美々しい甲冑で身を飾った江の島攻めの総大将・扇谷上杉持朝様の軍扇が翻ります。
 「全軍、出発ー!」その声に総勢3500の兵(つわもの)共が動き出します。鎌倉府内からはあらかた人々が逃げ出しており、軍勢を邪魔するものは痩せ犬くらいのものです。
 その中に見事初陣を飾る太田資長様もおられました。紺糸縅(こんいとおどし)の甲冑に三つ鍬方を立てた兜を被り、匂うが如き見事な若武者ぶりです。白雪のような白馬に乗って、太田家の軍勢の真ん中にいます。側には大将の資清様もおられます。
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  (さいたま市岩槻区の太田道灌公像)
 「よいか、資長。今回はわしのそばにあって、大将とはいかに軍勢を進退させるものなのかをよくみておくのじゃ。お前は学問は出来る。武芸も身に着けておるが実際の軍陣は違うということを身をもって知らねばならん。手柄を立てるのは今回は無理かも知れぬぞ。わかったな?」
 「はっ!首をとるのは次回の楽しみにとっておきましょう。」資長様、ぬけぬけと言い放ちます。
 「こやつ・・いいおるわ。せいぜい青くならないように覚悟しておけ!はっはっはっ!」二人の後ろでは資長様を幼い頃から世話していた爺やが咽び泣いています。
 「ううっ・・若の晴れ姿を見ることが出来て・・爺はもう討ち死にしようとも本望ですぞ。」
 「爺っ!俺の初陣に縁起でもない事言うな。悪いことをいっては現実になるというぞ。」などと話が交わされている時・・。

 鎌倉府内をとりまく山々の中を様々な人々が避難していきます。墨衣を着た僧侶、富裕そうな商人、泣き叫ぶ子供の手を引く母親、大八車の荷物の上にちょこんと座った老婆・・・戦で迷惑を受けるのは常に下々の民衆なのです。その中に、旅支度の紅扇もおりました。笠を被り、杖をついているものの並みの男よりよっぽど達者な足並みです。
 やがて鎌倉の街中を一望の下に見渡せる尾根にでました。ふとふりかえると、はるか眼下に蟻のような軍勢が江の島に向かっていくのが見えます。
 (源六さま・・)今では雲の上の人となった資長様を思い出す紅扇です。視界に白旗が目に入りました。太田家は源氏の出自ということから白旗を用い、そこに印された家紋は遠すぎてわかりずらいですが、太田家の定紋の桔梗のはずです。ふいに紅扇の口から歌が一首紡がれました。

   「吹く風に なびく白旗 遠く見ゆ つき従うは 我が思ひのみ」
 
 周りをのろのろ歩いていた避難民も美しい娘の口から出た歌に感慨深げであります。その歌が風に乗ったのでしょうか?

 馬上の資長様も聞こえていないはずなのに何かを感じ、甲冑のおかげで身動きもままならない中、背後の山を必死に振り返ります。そして資長様の口からも・・。

   「紅(くれない)に 染まりし紅葉 吹き散らし せめて届けよ 扇執る手に」

 軍馬のいななきが響く中、資長様の声は思いのほか軍勢の中を通りました。荒ぶる足軽共も資長様の思いは分からないまでも勝手な解釈をして、
 「若大将!奥方が恋しいのかい!」
 「さっすが太田家の跡取り!こんな時でも歌をお詠みになるなんて雅だねぇ!」とてんでにはやします。意外な反響に資長様も思わず戸惑って父・資清様に視線を送ります。資清様は何も言わず、ただ深く思いを秘めたようなまなざしを資長様に向けていましたが、小さく頷いてから視線を外しました。そして手にした采配を天高く振り上げ、さっとふりおろしました。
 「聞けい、者共!我らはこれより公方様の側に巣くう奸臣どもを捕らえにゆくのだ!日頃なんじらに武具を与え、飯を食らわせておるのはまさに今日この時のためぞ!命を惜しむな、名こそ惜しめ!手柄はお前達の足にあるぞ!」と配下の軍勢に発破をかけると、軍兵どもは手にした弓・薙刀・槍などをさしあげ、「えい!えい!おう!」と一斉に声をあげました。
 それは全てを察した上で、初陣の資長様にこれから立ち向かう戦陣の厳しさをあらためて教え諭す父・資清様の無骨な優しさでもありました。

 後の世に「江の島合戦」「宝徳の乱」とも呼ばれたこの合戦は腰越や由比ガ浜で激しく戦われました。
ホキ美術館の全容
  (腰越のこゆるぎ神社:腰越あたりは住宅街でこれ以上の画像が・・。)
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  (由比ガ浜:海水浴場です・・。)
最初は上杉勢が優勢であったものの、北関東の大名衆が手勢を引き連れて公方様に御味方することで形勢は逆転し、上杉・長尾・太田勢らは敗れて糟屋庄(神奈川県伊勢原市)へとかろうじて逃げ延びる始末。資長様の初陣も敗戦を味わうというほろ苦いものとなりましたが、この負けこそが資長様にさらなる内省と兵法(へいほう)への探究心を呼び起こし、後にあっぱれ名将といわれるまでの奥深い智謀を身に着けるきっかけともなったのでございます。
 そして紅扇の父と兄は公方様の御味方となり、奮戦して大活躍しましたけれども押し寄せる長尾の兵共の前についに二人ともお倒れになられたのでございます。その報せに伊豆の縁者のもとにいた紅扇は泣き崩れてしまったとのこと・・いつの世も男は死に、女は泣く・・まことあわれなことでございます。

 いかがでしたか?感想などコメントで寄せていただけると嬉しいです。あ!文句とかなしね。批判するにせよ、前向きなものだけお願いね。残念なコメント削除とかしたくないから。大人の対応でお願いしまーす。

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太田道灌の短編小説「山吹の花」

 今回は以前書いた太田道灌公の小説の再録である。というのも北海道在住のアーティストmichiko殿に描いていただいていたイラストが完成したので、他の画像と共にあわせてお送りしよう。

 ちなみにmichiko殿のブログタイトルとアドレスを載せておこう。
  ブログタイトル:ゆかりしかりど~育児と絵と節約と国語~
  ブログアドレス:http://michikomichi.blog104.fc2.com/


 「山吹の花~道灌公の初恋~」
                                   著:サムライ銅像研究会
 これは後の世に江戸城を築かれた名将・太田道灌公の若き日のお話でございます。その頃は源六郎(げんろくろう)資長(すけなが)と名乗っておりまして、元服してまだ間もない頃でございました。これよりは資長様とお話の中で呼ばせていただきます。
 
 資長様は幼き頃より容姿端麗、才能も衆に優れたお子におわしまして、幼くして鎌倉・建長寺に学ぶこと三年・・その間はご実家に帰られることは一度も無く他の学僧らに混じって修行と勉学にことのほか励まれたとのこと。ある日資長様はお父上の資清様(後に剃髪されて道真(どうしん)様と名乗られます)に文を出されました。内容は今となっては残っておりませんが、一読された資清様は頷かれた後、使いをやって資長様を迎えられたとのこと。修行はもうよいから「武者の道」の修行のため、ご主君・扇谷上杉様の下に出仕させようとのお考えだったのでございます。

 初出仕を終え、源六郎資長となりましたお姿は誠に麗しく、また言語明朗かつ理路整然と話されるさまは実に末頼もしく、扇谷上杉様の主家にあたられる山内上杉様より是非我が家の家宰(かさい:主人にかわってその家の外向き・奥向きの仕事を担当する役職)に迎えたいとの有り難き仰せを受けたほどでしたが、資清様は
   「まだ若く、礼儀にも疎く、無作法でもあれば主人・扇谷上杉持朝に迷惑をかけることになりますので有り難き仰せなれど平にご容赦・・」と申し出を断ったほどの逸物ぶりであったとのこと。

 またその頃の資長様は武芸鍛錬にも人一倍精魂傾けておられまして、ことに愛馬に乗って野駆けや狩りには特にご執心であらせられたご様子で、太田家の領内や主家よりお預かりした相模・武蔵・上野の原野を思う様に駆け回られていたとのこと。そのことが後に「智謀鬼神の如し」とまでいわれた軍略の基礎となる地勢の学習でもあったのでございますが、それはまた別のお話・・。

 ある時、狩猟を終えられ、ご帰宅の途中急な雨が降ってまいりました。あやい笠を被っておられましたので頭は濡れないものの、そのままでは主人より拝領したお召し物を濡らしてしまいます。それではあまりに申し訳ないということで、前方に見えてきた農家の庭先に駆け込みました。お供のお侍衆は遅れておりましたので資長様は御自ら粗末なたてつけの扉を叩きました。
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 (鎌倉の某寺)

 「これ、ご免候え(そうらえ)!誰かおらぬか!誠にあいすまないことではあるが、雨具を貸してくれぬか!」とやさしげな声で訪ねられました。これが他の坂東武者であれば、いきなり扉をあけてずかずかと踏み込んできて所望の品を奪っていく荒々しさでありますが、そこは若き頃より領民思いの資長様であらせられます。優しい声音でお百姓衆を恐がれせまいと心得られているのでございます。
 その声に扉をガタガタと開けて出てきたのは一人の娘、顔は泥に塗れて粗末な麻の着物を着ているものの、その容貌は資長様をはっとさせました。娘は身分のありそうなお武家様と知って、その場に平伏してしまいます。これには資長様も動転してしまいました。
 「こ・・これ、娘御、恐がることはないぞ。わしは雨具が欲しいだけのこと。鳥目(ちょうもく:金銭)がほしいならば届けさせるによってな。その・・なんだ・・これでは話が出来ぬ。顔をみせてくれぬか?」資長様の優しい語り掛けに心ほだされたのか娘はおずおずと顔をあげました。でもその目の奥にはまだ警戒の光が見えています。
 「わしはおお・・いや、田太源六(太田を名乗ると素性がすぐにばれるからそれを避けた)という。見ての通り狩りの帰りじゃ。雨に濡れるのは構わないのだがこのままではご拝領の着物を濡らしてしまうのでな・・蓑笠でも貸してはくれぬか?」といいつつも見ず知らずの娘に言い訳がましく言葉を重ねる資長様は内心あきれ果てておりました。
 (この俺が娘一人にどうしたことだ。いつもは上杉の重臣であろうと理にそぐわぬことであればたちまち喝破しておるものを。ただの頼みごとにうろたえるとは師匠の瞬徳和尚(道灌公の師匠、後に芝・青松寺を開く)に笑われてしまうわ・・)
 資長様の内心の戸惑いを別に娘はうりざね形の顔のくりっとした瞳に理解の光を点して、家の奥に引っ込みます。
 (やれやれ、やっと分かってくれたか。これで濡らさずに帰られるようだ・・。)と安心した資長様でしたが・・。
 しばらくして出てきた娘の手には白い扇が握られており、その上には黄色い可憐な花を咲かせる山吹の花を咲かせる枝が載っていました。
道灌イラスト_1
 (michiko殿のイラストです)

 これには幼き頃より和漢の学問を学んできた資長様も唖然としてしまいました。雨具を求めて花を差し出すとはどんな意味があるのか?身に着けた色々な学問からその意味を探り出そうとしましたが、皆目見当がつきません。しばらく突っ立ったままの資長様でしたが、突然振り返って立ち去ってしまい、愛馬に飛び乗るや激しく鞭をいれて荒々しく走り去ってしまいました。出された問題がわからないという初めての屈辱に暴れだしたくなった資長様でしたが、それはかろうじておさえました。でも居たたまれなくなり、駆け去らずにはおられなかったのです。屈辱に打ち震えるあまり、目じりから熱いしたたりがほとばしるのにも気づかない有様でした。
 しばらくして落ち着いた資長様は顔を自ら張り飛ばすと、家臣らの呼ばわる声の方向に向かって駆け出し、一緒に帰途につきました。

 帰館してもいつも通り明るく振舞う資長様でしたが、幼い頃より身近に接している老臣には誤魔化しきれませんでした。
 「若、本日はいつもと何か違う趣きであらせられますが、いかがされました。何かこの爺にでも話されてみれば案外つまらぬことであったかと思し召されるかもしれませんぞ?」とのさりげない申し出に資長様は周囲に二人しかいないことを確認して今日あったことを話しました。
 「なるほど・・若はあまり大和歌(やまとうた:和歌のこと)はお学びになっておられませんな。」と問う爺や。
 「そうだな・・和漢の歴史や兵略、治世の在り様などは誰にも負けぬと自負しているが、親父殿得意の歌はな・・苦手じゃ。」と素直に認める資長様。
 「若、古歌にこのようなものがございます。
    「七重八重 花は咲けども 山吹の 実のひとつだに 無きぞ悲しき」」と朗々とした声で歌いました。
 「うむ・・初めて聞くが・・ひょっとして「実の」と「蓑」にかけて「蓑すらもない詫び暮らし(貧乏暮らし)を恥じている」という意味か?」
 「さすが若じゃ。一聞くだけで十を知るとは・・古の聖徳太子の如しじゃ。」と褒める爺や。
 「世辞はよせ。そんなもの腹の足しになるではなし。」一応苦味ばしる資長様ですが、内心は「どうだ!」とばかりの気持ちです。
 「世辞ではございませんぞ。最近の若は狩りばかりでお部屋に居られる時がほとんどございませぬ。今もこんな子供でもわかる歌でどこやらの娘に愚弄されて逃げ帰ってくるとは・・これからはお歌の勉強もしていただかねばなりませぬぞ!今日はよい折じゃ、とくと説教させていただきますぞ!」資長様、とんだ藪蛇だったようです。

 それからしばらく、大和歌の学習にも時間を割かねばなりませんでしたが、もともと筋のいい資長様のこと、あっという間にコツを飲み込み、糟谷の上杉館に滞在している都の公家様に教えを乞う事になりました。とはいえ足弱の公家様のこと、資長様の屋敷まで来られるのに数日かかります。それまでまた野駆けに狩りにと外出される時間が増えてまいりました。そこで気になるのはあの娘のこと・・どうも胸の辺りがもやもやしてしようがないのです。
 (あの折の非礼を詫びねば気が済まぬな・・。)と一人合点をして、単騎駆け出した資長様、この間の所まで来ました。すると折りよく傍らの大根畑でうんうん踏ん張って大根を引き抜こうとしているいつぞやの娘に気がつきました。
 「おお、娘御よ。この間は済まなかったの、どれ手伝ってやろう。」と資長様は足元の大根に手をかけたところ・・。
 「まだ抜くでねぇ!それはまだ若いだでまだ土の中さ埋めとけ!」と娘にどやされてしまいました。はっと気がついた娘はすぐに土下座をしました。
 「すまねえこってす。太田の若殿と知らずにこの間も今日も・・どうかおらの命で勘弁してくれろ・・。」と蚊のなくような声で謝る始末。
 「いやいや悪いのはわしであった。どうか頭をあげてくれ。今日はわしが詫びに来たのだから・・」と資長様がいうと娘は頭をあげて訝しげな視線を送りました。
 「詫び?なんで?」
 「いや・・まあ・・とにかく立ち上がってくれ。喉がかわいたでな、茶・・いや水でも振舞ってくれぬか。水筒を忘れて難儀しておったのだ。」
 「あんれまあ、この若殿様はよく忘れ物なさること・・」と立ち上がった娘は腰にぶら下げた竹筒を資長様に渡します。受け取った資長様は栓をあけると、一口二口と旨そうに飲みました。
 「いやあ、助かった。甘露の如き味であったぞ。」
 「それはお武家様が喉が渇いていらしたから。」とこの娘、普通なら気後れして口も利けなくなるはずですが、よくもまあペラペラと喋ります。資長様が聞くと娘の名は紅扇といい、昔は武家であったものの曽祖父の代に戦に負けて土地をなくして百姓暮らしをしているものの、父親は今でも先祖伝来の甲冑・刀を大事にしてやせ馬を飼っているためただでさえ苦しいのに余計苦しいとのこと。家では先祖伝来の歌の本で幼い時から学ばされていたとのこと。
 なんとなく気のあった二人は和歌のことや日頃思っていることをぼつりぼつりと話しはじめ、いつしか幼馴染であったかのように口をきいていました。

 「あんれまあ、すっかり話し込んじまって若殿さまをすっかり引き止めてしまっただこれではお館のお侍に怒られるよう。」と眉をひそめる様子も可愛いと感じてしまう資長様であります。
 「いや、今日はわし一人で来たのだ。館のものは誰も知らぬ。わしのほうこそ忙しいところをすっかり邪魔をしてしまったな。武者奉公もこれで気詰まりなところがあってな・・これからもたまに話に来てよいか?」何か頼み込むかのように資長様も娘の顔を見つめられました。これには娘も参ったようで首の辺りを赤く染めてうつむいてしまいました。
 「それは・・若殿様が来たい時に来られたらうちらには否やはねえだ・・ううん!いやだって云うんじゃねえぞ!若殿様みたいな優しげなお武家さまはうら初めてみるものだから・・。」と娘は急に振り向いて走り去ってしまいました。資長様は思わず追いかけようと思いましたが、ふっと笑って繋げている愛馬のところに戻りました。
 (また会いにくればいい・・)と軽く考えておられましたが、資長様はこの時生涯初めての恋に落ちておられたのです。

 それからは糟谷の館に出仕される合間やご学問の間など折をみて娘の所に通われて色々と物語されておりました。二人はそれをごく何気なく行っておりましたが、周囲はそうはいきません。いつしか資長様が懸想されておられる娘がおられるといううわさが立つようになっておりました。

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 (鎌倉の某寺)
 ある時、お父上の資清さまとお話しされておられる時です。さりげなく側近らを遠ざけられ、親子水入らずとなりました。資清様が資長様の盃にお酒をお注ぎになりました。
 「源六よ、近頃は糟谷館に滞在中の九条様(京の公家)に歌を熱心に習っておるとか・・感心なことじゃが急にどうした?」
 「は、ご主君に仕えるには風流の道にも通じておらねば、とんだ粗相をすると爺に説教されまして。」畏まる資長様です。
 「ははは!鼻っ柱の強いお前にしてはめずらしいな。我ら太田の家は扇谷上杉家のみならず関東全体のことにたずさわるのだからな。当然、京の朝廷や将軍家ともやり取りをせねばならぬ。その時に慌てふためいても手遅れじゃからな。しっかりと励め。」といって盃を乾す資清様であります。空の盃に酒を注ぐ資長様・・お忙しいお二人にはめずらしく穏やかな時が流れております。
 「時に源六よ。なにやら領内に熱心に通うところがあるそうじゃが、おぬしはあくまでも太田家の嫡男。わしのいわんとしておることはわかるな?」と遠まわしにおっしゃる資清様です。
 (やはり来たか・・)資長様もこのような会話を想定しておりました。自らの立場も・・。
 「父上、いかな雑説(うわさ)をお聞きになられたかわかりませぬが、この資長はあくまでもご主君上杉家に一身を捧げる覚悟をいたしております。それがしが道を誤る心配はありませぬ。また、来年には長尾家(山内上杉家の家宰を務める家)より嫁御料を迎える身・・重ねての心配はご無用でござります。」といって資長様は頭をさげられました。こうまで言われてしまうと資清様も何もいえません。
 「やれやれ、お前にはいつも上手く逃げられてしまうような気がしてならんが、そこまでいうのならば何も言うまい。ま、お前も一人の男子(おのこ)・・周りに迷惑をかけねば少しは羽を伸ばすべきなのだ。お前は学問や武芸鍛錬に執着しすぎるのが玉に瑕だからの。」
 「は!」あくまで堅苦しい資長様です。

 そんな会話から数日後・・資長様は再び単身馬上の人となり、娘のいる村のあたりまで来ていました。懐には娘に与えるための美しい反物が入れられています。
あぜ道の向うから紅扇が資長様に気づいて手を振って出迎えます。資長様は近づいてきた娘を馬上に引き上げて、二人がいつも逢瀬を楽しむ村はずれのお堂に向かいます。
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 (伊勢原市の高部屋神社)
 「若殿さま、今日はなんだか雰囲気が違うね。」と鞍の前壷に載せられた紅扇が振り向きながらいいます。紅扇の吐く息が資長様の首元にあたり、えもいわれぬ背筋がそそけだつ感じを覚える資長様です。
 「そうか?宮仕えは面倒なことが多いからな。」はぐらかす資長様。
 「ふーん・・」紅扇は納得しないようです。いつしか馬はお堂につきます。馬から降りた二人はお堂の中に入り、いつものように水や餅など簡単に食べられるものを用意していつものように話しますが、談論風発というわけにはいきません。
 「若殿様、いいたいことがあるならいってくれろ。何か奥歯にものがはさまったようで楽しくねえ。」直截な紅扇です。
 「ああ・・実はなここに来られるのも今宵で最後になりそうなのだ。わしも来年は嫁を迎えねばならぬ。お前との話しは楽しいが、やはり男女ではあらぬ噂がたてられておるようだ。このままではおまえ自身やお前の両親にも迷惑をかけてしまう。これをこれまでの礼として受け取ってほしい。」と美しい紅色の反物を娘の手におしつけました。
 「都で流行の反物でな。お前の名にかけて紅色のものを持ってきたのだが・・うん?気に入らぬか?」娘はみるみる泣き出しそうな顔になってしまいます。
 「おらは・・こんものがほしくて若殿様と話してたんじゃね・・百姓の娘が嫁になれるとも思ってねえだ・・でも。こんなもの!」反物を足元に投げ出し、駆け出してしまいます。思わず資長様も追いかけます。
 暗い闇の中、二入は足元も分からない中を全速力で追いつ追われつです。が、若い男の脚力には叶わず、二人は畑の中で転んでしまいます。組み付かれた紅扇は目盲めっぽうに拳を振り下ろし、娘に組み付いている資長様はされるがままです。
 「紅扇!・・俺が悪かった・・もう・・殴るのはやめてくれ。」との言葉に紅扇も泣き出してしまい、資長様の胸にすがりつきます。深まる闇の中、二人の激しい息遣いと虫の声だけが響きます。
 「おらは・・おらは・・すまなかっただ。おらも若殿様と居る時は本当に楽しかったのに、こんなに急に・・」むせび泣く紅扇。
 「いや、俺も何をどうしたらいいのか・・わからなかったんだ。若殿なんて呼ぶな。源六と呼んでくれ。」紅扇の瞳を覗き込む資長様。
 「そんな・・げ・・源六さま・・。」
 「紅扇・・。」二人はそのまま唇をあわせます。急に虫の声がやかましくなったような夜でした・・・。

 その夜から数十年・・資長様は「道灌」と号され、今では江戸城の主として関東のみならず天下にその武名を轟かす扇谷上杉家の家宰として押しも押されぬ武
将と成長されておりました。
 ある日、江戸城下の平川村を見回った帰り、新しく建てられた尼寺に立ち寄ることにしました。
 「頼もう。わしは江戸城主の太田道灌じゃが、ちと喉が渇いての。茶を振るまってはくれぬか?」
 「はいはい・・おまちくだされや。今、出ますゆえ・・」と出てきた尼僧は道灌様の顔を見て立ち止まります。
 「おぬしは・・・もしや紅扇ではないか?」道灌様の胸もいつしか高鳴ります。
 「これはこれは・・あの資長様もご立派になられて・・噂はかねがねうかがっておりました。」
 「お前にはすまぬことをしてしもうたと思っておったが今では尼僧となっていたか。あれからどうしたと聞くのも野暮かのう。」と道灌様。
 「もはや過ぎたことです。あの折の思い出は胸にしまっております。それにしてもほんに立派になられて・・」と婉然と微笑むかつての紅扇。
 「すまぬが・・そろそろあげてくれぬか?わしももはやこの頭じゃ。」と剃り上げた頭をつるりとなでます。
 「これはすみませぬ。どうか庭よりお回りいただけませぬか?お茶でも進ぜましょうほどに。」
 座敷に通された二人はしばしの歓談をたのしみます。
 「道灌様は江戸城で品川湊の鈴木長治様や高名な連歌師など招かれて歌の会など催されているようですね。」
 「うむ。おぬしに差し出された山吹の花に発奮してな・・随分勉強したわ。おかげで都の帝にも御製の歌を頂いたほどよ。」
 「ほお。受け賜わらせていただけますか?」
 「うむ。江戸城からの景色を聞かれての
     「我が庵(いお)は 松原つづき 海近く 富士の高根を 軒端にぞ見る」と詠んだのだ。帝はいたくお心をうごかされたようで、
     「武蔵野は 高萱のみと 思ひしに かかる言葉の 花や咲くらむ」との御製をいただいたのよ。」
 「わたくしも噂に聞いておりますよ。在原業平の都鳥のことを問われて
都鳥
 (都鳥、都内で撮影)
     「年ふれど まだ知らざりし 都鳥 隅田川原に 宿はあれども」と詠まれたそうですね。」
 「ほっほ、それも知っていたか。おぬしも一度江戸城の静勝軒に参らぬか?富士山が実によく見えるぞ。今度はわしが茶を振舞わねばな。最近は都では「茶の湯」というものがはやっているのだ。それを手ほどきしようほどに。そうだ、それがよい!わっはっはっは!」と楽しそうに笑う道灌公を紅扇は静かに微笑んで見つめていました。それから道灌公は再会を約束して江戸城に帰っていきました。
 
 数日後、いつものようにお勤めをしていた紅扇のところに近在の檀家が訪ねてきました。一つの噂を携えて・・。
 「道灌公、主君の扇谷上杉定正に糟谷の館で討たれる!」「江戸城に上杉の軍兵がはいり、道灌公の嫡男・資康様は行方不明!」という噂でした。
 それから程なく、旅支度の紅扇は尼寺を知人の尼僧に譲り、いずれとも知れず旅立ってしまい、その消息は誰も知らないとのことだそうです。戦乱の時代に咲いた哀しいお話でした。 
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 (鎌倉の某寺境内で撮影した観音石仏)

 いかがであったろうか?太田道灌公について調べ続けた挙句、思いつきで書いたものからこのようなイラスト付きのものに出世するとは・・・感慨も一塩です。

 一度読んでくれた方も、初めて読んでくれる方も、感想を頂けると誠に嬉しい。すでにこの続編のような資長の初陣話がスタンバイしているのだ・・。

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太田道灌公の小説~私家版その2~

 みなの衆、こんにちわ。 

 最近の愛読書は古今和歌集で移動の最中や昼休みなど読みながら色々と勉強している。千年以上も前の人々の歌なのになぜこんなに共感できるのだろう?なぜそれがしの胸もしめつけられるのだろう?などと色々感心しながら勉強している。
 そんな歌の中で「きよはらのふかやぶ」という人物の歌に着想をえて、また太田道灌公のとても短い小説を書いた。短すぎて、短編というより小話のような長さだが、お暇なら読んでね。前回の「太田道灌公の初恋」から数年後の若く逞しい武者に成長した資長の物語です。読んで頂けた方はまたコメントなど残してくれると、嬉しくて跳ね踊ります。
 では、どうぞ!


 江戸城築城前史~若き日の太田道灌公~」
                          著:サムライ銅像研究会

 これはまだ道灌様が江戸城をお取立て(造営すること)になる前のお話でございます。その頃はまだ資長様と名のられており、わずか25歳(数え年、実年齢は24歳)でお父上の道真(道号)資清様より御家督を継がれたばかりの頃でしたが、扇谷上杉家の家宰として忙しくすごされており、また京の将軍家(足利義政公)の御命令で武蔵(現在の東京都と埼玉県)国の各地に城を取立てされておられる折でございました。以下に物語させていただくのは江戸城を取立てるために日比谷の入り江あたりを検分されておられる時のことでございます・・・。

 その日、資長様は狩り装束に身を包み、あやい笠を被られ、数名の家来を伴いつつ入り江沿いの浜辺を馬で緩やかに走らせておられます。後方で馬上の斉藤安元(太田道灌の軍配者、後に道灌と共に戦い無敗を誇った)様が声をあげられました。
  「殿!この辺りは平川(現在の江戸城大手門前を平川が流れていた。平河町の名のおこり)が流れ込んでおり、遠浅の海となっている由にございます。」
家来
 (この画像と斉藤安元は何の関係もございません。画像は群馬県太田市の東武太田駅前の脇屋義助像です。適当な画がないため代用しました。ちなみに斉藤安元は実在の人物であり、その詳細はいまだ調査中)

  「うむ、紅葉山(現在は皇居内にある)のあたりからも湖の流れが足元近くまで流れ込んでおる様が見てとれるな。この地ならば・・・城を築くには絶好の地であるな。」
  「はっ!土地の古老によれば、往年、江戸氏(平安から鎌倉にかけて武蔵国で勢威を振るった豪族。後に現在の世田谷区に移り、喜多見氏をなのる)もこの辺りに館の一つを置いていたとのこと。」
  「左様であろうな。しかしこのままでは浜手から城下に人や物の流れを作りにくいな。人手がいるが、平川の流れを東流させねばならん。(鈴木)道胤(品川湊の長者、太田家の財政面での支援を担う)とも相談せねばならんな。」
  「夜には潮が満ちてくるのでしょうが、どこまで満ちてくるのやら・・。後でどこまで潮が来るか土地のものに尋ねさせましょう。」
  「待て待て、農事に勤しむ良民を度々煩わせるのは誠に忍びない。」と資長様、馬をとめて鞭を小脇にはさ み、なにやら物思うていであります。付き従う家来共も心得たもので誰も物言わず一心に資長様を見つめております。しばらくして資長様、小さく頷かれて口を開きました。

岩槻の道灌公2
 (この画像は埼玉県さいたま市岩槻区役所前の道灌公像です。)
  「古今(和歌)集にこのような歌があるぞ。 『みつ潮の 流れひるまを あひがたみ みるめ(海藻の一 種)浦に よるをこそ待て』とな。」
  「ほお、雅な歌ですな。それがしもそのような思い女(おもいめ)をもちたきもの・・。」と頬をほころばせる安元様。
  「フフッ、お前も兵書ばかり読んでおらんと、歌の一つも詠むがよかろう。まあ、ここでは下の句の『みるめ浦に よるをこそ待て』が大切なのだ。」資長様、安元様に謎をかけられます。
  「はて?みるめと夜と何の関係が・・あっ!満ち潮とともに波間に漂うみるめが浜に流れ着きますな。潮が引くとともにまた流されますが、いくばくは残るもの。その跡を探して棒を立てて、縄をひけばおおよその線がみえてきますな。」との安元様の回答に資長様も破顔一笑。
  「さすが安元、見事よ。なれば手配りをするように!」
  「はっ!」安元様は短く首肯すると、すぐ付き従う伴侍らに命じて命じられました。侍共は袴の裾を高く股立ちにくくりあげ、その辺りに生えていた長い葦を折り取り、左右に散りました。そのうちの一人は縄も手にし・・。
 すると幾ばくもなく満潮時のおおよその線が浮かび上がってきました。安元様、それを手元の帳面に書き付けております。
  「安元、歌もこのように使えば雅なばかりでなく、意外と役に立つものぞ。」
  「確かに。安元、感服いたしました。孫呉の兵書にはない実の世の機微を歌より導き出すとはさすが我が殿で   あらせられます。それがしもこれよりは学ばせて頂きますぞ。」
  「フッ、世辞はいらぬ。俺もある人に教えられたのさ。」と一瞬、資長様の面にさびしげな色があらわれました。それもつかの間のことでしたけれども・・。
  「よし、品川館に帰るぞ!今宵は道胤らを招いて月を肴に歌なぞ詠む趣向よ。お前も同席せよ!」と朗らかに命じられました。
  「これは一本とられましたな。ならば下手な歌でも詠んで見せましょうぞ。」と安元様の応え(返事)に声高く笑われた資長様は愛馬に鞭をいれられると駆け去っていかれました。
あわてて跡を追う安元様や家来達。

 その後に残された葦にはトンボがとまっておりました・・・。


 以上である。突如降って湧いたアイディアをメモにまとめ、さささっと書き上げたため意外と短かった。もうちょっと長いと思ったけどな。
 江戸城築城の流れはいまだ謎が多く、太田道灌公一人で築いた訳ではありませんがこのような物語があってもいいなと思いました。

 では、また次回!

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太田道灌公の小説~私家版~

 太田道灌公のことを追っているうちにそれがしもなんとなく物語たくなってきたので、「山吹伝説」をベースに書いてみた。長いので興味のない方は読まなくていいし、読んでくれた方は感想など書き込んでくれると誠に嬉しい。

岩槻の道灌公1

       「山吹の花~道灌公の初恋~」
                                   著:サムライ銅像研究会
 これは後の世に江戸城を築かれた名将・太田道灌公の若き日のお話でございます。その頃は源六郎(げんろくろう)資長(すけなが)と名乗っておりまして、
元服してまだ間もない頃でございました。これよりは資長様とお話の中で呼ばせていただきます。
 
 資長様は幼き頃より容姿端麗、才能も衆に優れたお子におわしまして、幼くして鎌倉・建長寺に学ぶこと三年・・その間はご実家に帰られることは一度も無く他の学僧らに混じって修行と勉学にことのほか励まれたとのこと。ある日資長様はお父上の資清様(後に剃髪されて道真(どうしん)様と名乗られます)に文を出されました。内容は今となっては残っておりませんが、一読された資清様は頷かれた後、使いをやって資長様を迎えられたとのこと。修行はもうよいから「武者の道」の修行のため、ご主君・扇谷上杉様の下に出仕させようとのお考えだったのでございます。

 初出仕を終え、源六郎資長となりましたお姿は誠に麗しく、また言語明朗かつ理路整然と話されるさまは実に末頼もしく、扇谷上杉様の主家にあたられる山内上杉様より是非我が家の家宰(かさい:主人にかわってその家の外向き・奥向きの仕事を担当する役職)に迎えたいとの有り難き仰せを受けたほどでしたが、資清様は
   「まだ若く、礼儀にも疎く、無作法でもあれば主人・扇谷上杉に迷惑をかけることになりますので有り難き仰せなれど平にご容赦・・」と申し出を断ったほどの逸物ぶりであったとのこと。

 またその頃の資長様は武芸鍛錬にも人一倍精魂傾けておられまして、ことに愛馬に乗って野駆けや狩りには特にご執心であらせられたご様子で、太田家の領内や主家よりお預かりした相模・武蔵・上野の原野を思う様に駆け回られていたとのこと。そのことが後に「智謀鬼人の如し」とまでいわれた軍略の基礎となる地勢の学習でもあったのでございますが、それはまた別のお話・・。
日暮里の道灌公2


 ある時、狩猟を終えられ、ご帰宅の途中急な雨が降ってまいりました。あやい笠を被っておられましたので頭は濡れないものの、そのままでは主人より拝領したお召し物を濡らしてしまいます。それではあまりに申し訳ないということで、前方に見えてきた農家の庭先に駆け込みました。お供のお侍衆は遅れておりましたので資長様は御自ら粗末なたてつけの扉を叩きました。
 「これ、ご免候え(そうらえ)!誰かおらぬか!誠にあいすまないことではあるが、雨具を貸してくれぬか!」とやさしげな声で訪ねられました。これが他の坂東武者であれば、いきなり扉をあけてずかずかと踏み込んできて所望の品を奪っていく荒々しさでありますが、そこは若き頃より領民思いの資長様であらせられます。優しい声音でお百姓衆を恐がれせまいと心得られているのでございます。
 その声に扉をガタガタと開けて出てきたのは一人の娘、顔は泥に塗れて粗末な麻の着物を着ているものの、その容貌は資長様をはっとさせました。娘は身分のありそうなお武家様と知って、その場に平伏してしまいます。これには資長様も動転してしまいました。
 「こ・・これ、娘御、恐がることはないぞ。わしは雨具が欲しいだけのこと。鳥目(ちょうもく:金銭)がほしいならば届けさせるによってな。その・・なんだ・・これでは話が出来ぬ。顔をみせてくれぬか?」資長様の優しい語り掛けに心ほだされたのか娘はおずおずと顔をあげました。でもその目の奥にはまだ警戒の光が見えています。
 「わしはおお・・いや、田太源六(太田を名乗ると素性がすぐにばれるからそれを避けた)という。見ての通り狩りの帰りじゃ。雨に濡れるのは構わないのだがこのままではご拝領の着物を濡らしてしまうのでな・・蓑笠でも貸してはくれぬか?」といいつつも見ず知らずの娘に言い訳がましく言葉を重ねる資長様は内心あきれ果てておりました。
 (この俺が娘一人にどうしたことだ。いつもは上杉の重臣であろうと理にそぐわぬことであればたちまち喝破しておるものを。ただの頼みごとにうろたえるとは師匠の瞬徳和尚(道灌公の師匠、後に芝・青松寺を開く)に笑われてしまうわ・・)
 資長様の内心の戸惑いを別に娘はうりざね形の顔のくりっとした瞳に理解の光を点して、家の奥に引っ込みます。
 (やれやれ、やっと分かってくれたか。これで濡らさずに帰られるようだ・・。)と安心した資長様でしたが・・。
 しばらくして出てきた娘の手には白い扇が握られており、その上には黄色い可憐な花を咲かせる山吹の花を咲かせる枝が載っていました。

 これには幼き頃より和漢の学問を学んできた資長様も唖然としてしまいました。雨具を求めて花を差し出すとはどんな意味があるのか?身に着けた色々な学問からその意味を探り出そうとしましたが、皆目見当がつきません。しばらく突っ立ったままの資長様でしたが、突然振り返って立ち去ってしまい、愛馬に飛び乗るや激しく鞭をいれて荒々しく走り去ってしまいました。出された問題がわからないという初めての屈辱に暴れだしたくなった資長様でしたが、それはかろうじておさえました。でも居たたまれなくなり、駆け去らずにはおられなかったのです。屈辱に打ち震えるあまり、目じりから熱いしたたりがほとばしるのにも気づかない有様でした。
 しばらくして落ち着いた資長様は顔を自ら張り飛ばすと、家臣らの呼ばわる声の方向に向かって駆け出し、一緒に帰途につきました。
新宿・中央公園の道灌公1


 帰館してもいつも通り明るく振舞う資長様でしたが、幼い頃より身近に接している老臣には誤魔化しきれませんでした。
 「若、本日はいつもと何か違う趣きであらせられますが、いかがされました。何かこの爺にでも話されてみれば案外つまらぬことであったかと思し召されるかもしれませんぞ?」とのさりげない申し出に資長様は周囲に二人しかいないことを確認して今日あったことを話しました。
 「なるほど・・若はあまり大和歌(やまとうた:和歌のこと)はお学びになっておられませんな。」と問う爺や。
 「そうだな・・和漢の歴史や兵略、治世の在り様などは誰にも負けぬと自負しているが、親父殿得意の歌はな・・苦手じゃ。」と素直に認める資長様。
 「若、古歌にこのようなものがございます。
    「七重八重 花は咲けども 山吹の 実のひとつだに 無きぞ悲しき」」と朗々とした声で歌いました。
 「うむ・・初めて聞くが・・ひょっとして「実の」と「蓑」にかけて「蓑すらもない詫び暮らし(貧乏暮らし)を恥じている」という意味か?」
 「さすが若じゃ。一聞くだけで十を知るとは・・古の聖徳太子の如しじゃ。」と褒める爺や。
 「世辞はよせ。そんなもの腹の足しになるではなし。」一応苦味ばしる資長様ですが、内心は「どうだ!」とばかりの気持ちです。
 「世辞ではございませんぞ。最近の若は狩りばかりでお部屋に居られる時がほとんどございませぬ。今もこんな子供でもわかる歌でどこやらの娘に愚弄されて逃げ帰ってくるとは・・これからはお歌の勉強もしていただかねばなりませぬぞ!今日はよい折じゃ、とくと説教させていただきますぞ!」資長様、とんだ藪蛇だったようです。

 それからしばらく、大和歌の学習にも時間を割かねばなりませんでしたが、もともと筋のいい資長様のこと、あっという間にコツを飲み込み、糟谷の上杉館に滞在している都の公家様に教えを乞う事になりました。とはいえ足弱の公家様のこと、資長様の屋敷まで来られるのに数日かかります。それまでまた野駆けに狩りにと外出される時間が増えてまいりました。そこで気になるのはあの娘のこと・・どうも胸の辺りがもやもやしてしようがないのです。
 (あの折の非礼を詫びねば気が済まぬな・・。)と一人合点をして、単騎駆け出した資長様、この間の所まで来ました。すると折りよく傍らの大根畑でうんうん踏ん張って大根を引き抜こうとしているいつぞやの娘に気がつきました。
 「おお、娘御よ。この間は済まなかったの、どれ手伝ってやろう。」と資長様は足元の大根に手をかけたところ・・。
 「まだ抜くでねぇ!それはまだ若いだでまだ土の中さ埋めとけ!」と娘にどやされてしまいました。はっと気がついた娘はすぐに土下座をしました。
 「すまねえこってす。太田の若殿と知らずにこの間も今日も・・どうかおらの命で勘弁してくれろ・・。」と蚊のなくような声で謝る始末。
 「いやいや悪いのはわしであった。どうか頭をあげてくれ。今日はわしが詫びに来たのだから・・」と資長様がいうと娘は頭をあげて訝しげな視線を送りました。
 「詫び?なんで?」
 「いや・・まあ・・とにかく立ち上がってくれ。喉がかわいたでな、茶・・いや水でも振舞ってくれぬか。水筒を忘れて難儀しておったのだ。」
 「あんれまあ、この若殿様はよく忘れ物なさること・・」と立ち上がった娘は腰にぶら下げた竹筒を資長様に渡します。受け取った資長様は栓をあけると、一口二口と旨そうに飲みました。
 「いやあ、助かった。甘露の如き味であったぞ。」
 「それはお武家様が喉が渇いていらしたから。」とこの娘、普通なら気後れして口も利けなくなるはずですが、よくもまあペラペラと喋ります。資長様が聞くと娘の名は紅扇といい、昔は武家であったものの曽祖父の代に戦に負けて土地をなくして百姓暮らしをしているものの、父親は今でも先祖伝来の甲冑・刀を大事にしてやせ馬を飼っているためただでさえ苦しいのに余計苦しいとのこと。家では先祖伝来の歌の本で幼い時から学ばされていたとのこと。
 なんとなく気のあった二人は和歌のことや日頃思っていることをぼつりぼつりと話しはじめ、いつしか幼馴染であったかのように口をきいていました。

 「あんれまあ、すっかり話し込んじまって若殿さまをすっかり引き止めてしまっただこれではお館のお侍に怒られるよう。」と眉をひそめる様子も可愛いと感じてしまう資長様であります。
 「いや、今日はわし一人で来たのだ。館のものは誰も知らぬ。わしのほうこそ忙しいところをすっかり邪魔をしてしまったな。武者奉公もこれで気詰まりなところがあってな・・これからもたまに話に来てよいか?」何か頼み込むかのように資長様も娘の顔を見つめられました。これには娘も参ったようで首の辺りを赤く染めてうつむいてしまいました。
 「それは・・若殿様が来たい時に来られたらうちらには否やはねえだ・・ううん!いやだって云うんじゃねえぞ!若殿様みたいな優しげなお武家さまはうら初めてみるものだから・・。」と娘は急に振り向いて走り去ってしまいました。資長様は思わず追いかけようと思いましたが、ふっと笑って繋げている愛馬のところに戻りました。
 (また会いにくればいい・・)と軽く考えておられましたが、資長様はこの時生涯初めての恋に落ちておられたのです。

 それからは糟谷の館に出仕される合間やご学問の間など折をみて娘の所に通われて色々と物語されておりました。二人はそれをごく何気なく行っておりましたが、周囲はそうはいきません。いつしか資長様が懸想されておられる娘がおられるといううわさが立つようになっておりました。

 ある時、お父上の資清さまとお話しされておられる時です。さりげなく側近らを遠ざけられ、親子水入らずとなりました。資清様が資長様の盃にお酒をお注ぎになりました。
 「源六よ、近頃は糟谷館に滞在中の九条様(京の公家)に歌を熱心に習っておるとか・・感心なことじゃが急にどうした?」
 「は、ご主君に仕えるには風流の道にも通じておらねば、とんだ粗相をすると爺に説教されまして。」畏まる資長様です。
 「ははは!鼻っ柱の強いお前にしてはめずらしいな。我ら太田の家は扇谷上杉家のみならず関東全体のことにたずさわるのだからな。当然、京の朝廷や将軍家ともやり取りをせねばならぬ。その時に慌てふためいても手遅れじゃからな。しっかりと励め。」といって盃を乾す資清様であります。空の盃に酒を注ぐ資長様・・お忙しいお二人にはめずらしく穏やかな時が流れております。
 「時に源六よ。なにやら領内に熱心に通うところがあるそうじゃが、おぬしはあくまでも太田家の嫡男。わしのいわんとしておることはわかるな?」と遠まわしにおっしゃる資清様です。
 (やはり来たか・・)資長様もこのような会話を想定しておりました。自らの立場も・・。
 「父上、いかな雑説(うわさ)をお聞きになられたかわかりませぬが、この資長はあくまでもご主君上杉家に一身を捧げる覚悟をいたしております。それがしが道を誤る心配はありませぬ。また、来年には長尾家(山内上杉家の家宰を務める家)より嫁御料を迎える身・・重ねての心配はご無用でござります。」といって資長様は頭をさげられました。こうまで言われてしまうと資清様も何もいえません。
 「やれやれ、お前にはいつも上手く逃げられてしまうような気がしてならんが、そこまでいうのならば何も言うまい。ま、お前も一人の男子(おのこ)・・周りに迷惑をかけねば少しは羽を伸ばすべきなのだ。お前は学問や武芸鍛錬に執着しすぎるのが玉に瑕だからの。」
 「は!」あくまで堅苦しい資長様です。

 そんな会話から数日後・・資長様は再び単身馬上の人となり、娘のいる村のあたりまで来ていました。懐には娘に与えるための美しい反物が入れられています。
あぜ道の向うから紅扇が資長様に気づいて手を振って出迎えます。資長様は近づいてきた娘を馬上に引き上げて、二人がいつも逢瀬を楽しむ村はずれのお堂に向かいます。
 「若殿さま、今日はなんだか雰囲気が違うね。」と鞍の前壷に載せられた紅扇が振り向きながらいいます。紅扇の吐く息が資長様の首元にあたり、えもいわれぬ背筋がそそけだつ感じを覚える資長様です。
 「そうか?宮仕えは面倒なことが多いからな。」はぐらかす資長様。
 「ふーん・・」紅扇は納得しないようです。いつしか馬はお堂につきます。馬から降りた二人はお堂の中に入り、いつものように水や餅など簡単に食べられるものを用意していつものように話しますが、談論風発というわけにはいきません。
 「若殿様、いいたいことがあるならいってくれろ。何か奥歯にものがはさまったようで楽しくねえ。」直截な紅扇です。
 「ああ・・実はなここに来られるのも今宵で最後になりそうなのだ。わしも来年は嫁を迎えねばならぬ。お前との話しは楽しいが、やはり男女ではあらぬ噂がたてられておるようだ。このままではおまえ自身やお前の両親にも迷惑をかけてしまう。これをこれまでの礼として受け取ってほしい。」と美しい紅色の反物を娘の手におしつけました。
 「都で流行の反物でな。お前の名にかけて紅色のものを持ってきたのだが・・うん?気に入らぬか?」娘はみるみる泣き出しそうな顔になってしまいます。
 「おらは・・こんものがほしくて若殿様と話してたんじゃね・・百姓の娘が嫁になれるとも思ってねえだ・・でも。こんなもの!」反物を足元に投げ出し、駆け出してしまいます。思わず資長様も追いかけます。
 暗い闇の中、二入は足元も分からない中を全速力で追いつ追われつです。が、若い男の脚力には叶わず、二人は畑の中で転んでしまいます。組み付かれた紅扇は目盲めっぽうに拳を振り下ろし、娘に組み付いている資長様はされるがままです。
 「紅扇!・・俺が悪かった・・もう・・殴るのはやめてくれ。」との言葉に紅扇も泣き出してしまい、資長様の胸にすがりつきます。深まる闇の中、二人の激しい息遣いと虫の声だけが響きます。
 「おらは・・おらは・・すまなかっただ。おらも若殿様と居る時は本当に楽しかったのに、こんなに急に・・」むせび泣く紅扇。
 「いや、俺も何をどうしたらいいのか・・わからなかったんだ。若殿なんて呼ぶな。源六と呼んでくれ。」紅扇の瞳を覗き込む資長様。
 「そんな・・げ・・源六さま・・。」
 「紅扇・・。」二人はそのまま唇をあわせます。急に虫の声がやかましくなったような夜でした・・・。


熱川の道灌公1

 その夜から数十年・・資長様は「道灌」と号され、今では江戸城の主として関東のみならず天下にその武名を轟かす扇谷上杉家の家宰として押しも押されぬ武将と成長されておりました。
 ある日、江戸城下の平川村を見回った帰り、新しく建てられた尼寺に立ち寄ることにしました。
 「頼もう。わしは江戸城主の太田道灌じゃが、ちと喉が渇いての。茶を振るまってはくれぬか?」
 「はいはい・・おまちくだされや。今、出ますゆえ・・」と出てきた尼僧は道灌様の顔を見て立ち止まります。
 「おぬしは・・・もしや紅扇ではないか?」道灌様の胸もいつしか高鳴ります。
 「これはこれは・・あの資長様もご立派になられて・・噂はかねがねうかがっておりました。」
 「お前にはすまぬことをしてしもうたと思っておったが今では尼僧となっていたか。あれからどうしたと聞くのも野暮かのう。」と道灌様。
 「もはや過ぎたことです。あの折の思い出は胸にしまっております。それにしてもほんに立派になられて・・」と婉然と微笑むかつての紅扇。
 「すまぬが・・そろそろあげてくれぬか?わしももはやこの頭じゃ。」と剃り上げた頭をつるりとなでます。
 「これはすみませぬ。どうか庭よりお回りいただけませぬか?お茶でも進ぜましょうほどに。」
 座敷に通された二人はしばしの歓談をたのしみます。
 「道灌様は江戸城で品川湊の鈴木長治様や高名な連歌師など招かれて歌の会など催されているようですね。」
 「うむ。おぬしに差し出された山吹の花に発奮してな・・随分勉強したわ。おかげで都の帝にも御製の歌を頂いたほどよ。」
 「ほお。受け賜わらせていただけますか?」
 「うむ。江戸城からの景色を聞かれての
     「我が庵(いお)は 松原つづき 海近く 富士の高根を 軒端にぞ見る」と詠んだのだ。帝はいたくお心をうごかされたようで、
     「武蔵野は 高萱のみと 思ひしに かかる言葉の 花や咲くらむ」との御製をいただいたのよ。」
 「わたくしも噂に聞いておりますよ。在原業平の都鳥のことを問われて
     「年ふれど まだ知らざりし 都鳥 隅田川原に 宿はあれども」と詠まれたそうですね。」
 「ほっほ、それも知っていたか。おぬしも一度江戸城の静勝軒に参らぬか?富士山が実によく見えるぞ。今度はわしが茶を振舞わねばな。最近は都では「侘び茶」というものがはやっているのだ。それを手ほどきしようほどに。そうだ、それがよい!わっはっはっは!」と楽しそうに笑う道灌公を紅扇は静かに微笑んで見つめていました。それから道灌公は再会を約束して江戸城に帰っていきました。
 
 数日後、いつものようにお勤めをしていた紅扇のところに近在の檀家が訪ねてきました。一つの噂を携えて・・。
 「道灌公、主君の扇谷上杉定正に糟谷の館で討たれる!」「江戸城に上杉の軍兵がはいり、道灌公の嫡男・資康様は行方不明!」という噂でした。
 それから程なく、旅支度の紅扇は尼寺を知人の尼僧に譲り、いずれとも知れず旅立ってしまい、その消息は誰も知らないとのことだそうです。戦乱の時代に咲いた哀しいお話でした。 


 拙い雑文を失礼・・とんだお目汚しであった。

 そういえば最近ブログの記事数が増えたのでカテゴリ分けに精出してみた古いものは画像が飛んでしまっているものもあるので、そういうものは一度削除してまた書き直そうと思う。過去の記事にも感想などいただけたら感謝!

 次回こそ鉢形城である。なかなかの絶景であった・・。
 
プロフィール

サムライ銅像研究会

Author:サムライ銅像研究会
歴史と銅像と芸術が大好きなあまり、日本各地を東奔西走する銅像・史蹟ハンターである。神出鬼没なため、脈絡無しのブログ更新を続ける。掟はただ一つ!「死して屍拾うものなし!」昔の時代劇の決め台詞だけどね・・皆さん、見てやあ!
 最近、キューピーに侍の装束を着用させる遊びをやっております。「武者ピー」と呼んで可愛がってやぁ~!以後は「キューピー甲冑師」とも名乗ります。

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