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日本にむけられた牙

 最近、埼玉県の森林公園や所沢から横浜のみなとみらい地区や元町・中華街がつながった路線に乗って、みなとみらいに行ってきました。今までそれがしの地元から1時間半くらいかかっていたのに、なんと50分!!!早すぎてびっくり!!!!

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 右の高層ビルがランドマークタワー・・・空気がキレイな冬は、スカイツリーからも見えるのかな?

 撮影をしていると視線を感じるので・・・
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 何かのゲームのキャラクターですか?ネコですかね。

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 横浜らしい風景です。ホテルと桜・・設定を間違えて、画面暗めです。申し訳なか・・・・。

 赤レンガ倉庫街を撮りに行ったのですが、途中に・・
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 平成13年12月22日に発生した「かの国」との事案を広く国内外に知らしめるために設置された資料室です。あるのはしっていましたが、遠かったので足が向きませんでした。でも副都心線や東横線などがつながったことで多くの人が訪れることでしょう。

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 海上保安庁の保有する最大の艦艇「しきしま」が繋留されておりました。ヘリコプターを二機搭載しているとのこと・・・いい船が見られました。

 資料室の中は・・・
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 海上保安庁のゆるキャラが凛々しく、かつ和やかにお出迎え。館内は撮影オッケーとのことだそうです。

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 船体は沈んでいたので状態は悪いですが、機関砲や機関銃による「弾痕」がくっきりと残っています。

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 模型ですね。後部から小型船が出撃できる構造です。特殊な船、ということがわかりますね。

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 連中の所持していた武器です。専門的なことは書いても仕方ないので、興味ある方は調べてみてください。

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 船体の中は工場のような、ドックのような不思議な空間ですが、この中で特殊工作に従事していた連中が存在していたことは間違いございません。

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 海の「もしも」は118番!!!杉さま、素敵!!!

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 赤レンガ倉庫街を撮影した後、ゆっくりと昼からビールを頂きました。これぞ「大人」の醍醐味・・。

 次回は赤レンガ街など・・。


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足利尊氏ピーの墓参り

 前回の予告どおり、今回は鎌倉のお寺めぐりです。最近、忙しくて更新がテンポ良くできないのが残念だが、まあ、気楽にいこうよ。

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 今回、巡るところは鶴岡八幡宮から東へ金沢(かねざわ)街道を行くと・・・

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 浄妙寺です。ここは、足利幕府・初代征夷大将軍の尊氏公のお父様である貞氏公のお墓があります。大河ドラマでは、緒方拳氏が演じられておりました。

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 朝方はあんなに暗かったのに、すっかり晴れ渡りました。
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 こちらが貞氏公のお墓・・・。

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 尊氏ピー「父上、墓参りに参りましたぞ・・・まあ、この姿が本当にわしなのか異論があるのですが・・」
 ここでは良しとしてください。人気(ひとけ)がありませんでした。

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 浄妙寺の方丈には、足利家の家紋「丸に二つ引き両」の家紋が彫ってある賽銭箱がありました・・。

 続いて伺ったのは、尊氏公の祖父・家時公が創建した報国寺。「竹の寺」で有名です。
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 屋根瓦には・・
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 足利の家紋と皇室の家紋があります。雪がいいアクセントですね。

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 お庭には、お地蔵さんと苔の美しい光景が広がっています・・・その先には・・。

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 ふふふ・・そう簡単に竹林は見せませんぞ。
 
 と、思いきや・・・。
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 2枚目の画像は集中線がいまいちきまっていないな・・。 

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 岸壁を掘って、墓を造るのは鎌倉特有の風景です。

 京都っぽい風景もあります。
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 普段は砂を敷き詰めているのでしょうが、その上に雪が積もっております。アップは・・
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 暖かい鎌倉ではこんな風景は珍しいですよ。

 今回の最後に・・
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 次回は頼朝公のお墓参り・・・。


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鎌倉最古のお社へ~♪

 引き続き、鎌倉散歩です。武者ピーは今回もお休み。次回、大量にでますので・・。ちなみに携帯電話やスマホからこの記事を見て頂き、感想を投稿してくれている方もいるようだが、なぜか文面が白紙。読めないので返事しようがないので、反応がないと不審に思われている方・・そういう訳なので、仕方ないのですよ。

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 前々回から今回動いた鎌倉概念図を描いてみました。まあ、東から西へ・・縮尺も道路も無視して描いているので正確には、鎌倉の地図を見るか、グーグルマップで見てください。

 今回は鎌倉最古の神社へ向かいます。
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 住宅街の向うに見えてきました。
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 神社の前にはこんな石碑や・・
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 元寇危機の時に活躍した執権・北条時宗公の産湯の井戸なんてあります。

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 こちらは甘縄(あまなわ)神社、正確には甘縄神明宮といい、天照大神をお祀りしております。創建は和銅3(710)年、平城京遷都の年です。この地で「八幡太郎」こと源義家が産まれた(小田原出生説もあります)と
されており、荒れ果てていた社殿を永保1(1081)年に再建した、といわれております。
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 扁額です。

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 狛犬はたいへん力強いですね。昭和初期?この台座にも年期が見当たりませんでした。
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 狛犬を煽って撮り、拝殿や扁額も上手い具合に収まりました。参拝を終えて、振り返ると・・・
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 画像の奥に鎌倉の海がみえます。やっと晴れてきて、温かい陽射しが届くようになりました。本殿はさらにこの上にあり、本殿裏の山は古くは「御輿ヶ岳」とよばれており、古歌に
  『都には はや吹きぬらし 鎌倉の 御輿ヶ崎 秋の初風』とあります。歌の解説は専門家ではないので省きます。雰囲気で味わってください。まあ、大体わかるでしょ!

 神社を後にして、鎌倉の街を西へ西へと歩いていくと・・・
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 寺院のようなお店が現れました。
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 さすが古都・鎌倉です。さりげなくこういう建物があります。軒先には・・
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 牡丹の花ですかね。すばらしい鎌倉彫りがありました。他にも・・
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 街中の新聞販売店も渋めの木造です。このあたりは観光客も少なめで、奈良の街中に雰囲気が似ているかも。

 さらに西へ行くと・・・
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 道路の分岐点に「六地蔵尊」が建っています。正面から撮っても面白くないので・・
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 こう撮るとかっこいい・・・この後、地蔵が皆、こっちを向きます・・・嘘です・・。 

 今回はここまで。次回は鎌倉最大のあの神社の昔と今を見てみます。武者ピーもでるでよ~。

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ぶらり墨田区散歩~向島・木母寺から~

 最近よく読んでいる平岩弓枝先生の「御宿かわせみ」シリーズの14巻『梅若塚に雨が降る』を読んでいて、以前、榎本武揚の銅像を見に行った近くに平安時代からある史蹟があるので行ってみた。

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 浅草の浅草寺仲見世通りを抜けて・・
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 隅田川にかかる白髭橋を渡り・・
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 スカイツリーに見送られつつ・・

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 榎本さん!お久しぶり!また来ましたよ、墨田区最北端地域に。
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 榎本武揚「また来たのか。銅像の。今日は梅若塚に来たと?やれやれ、やっと気づいたのか・・」
 すいません、不勉強なもので・・。

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 こちらが木母(もくぼ)寺。梅若塚の伝説とは・・・

 『吉田惟房卿の息子・梅若丸は五歳で父を亡くし、七歳で比叡山に入って修学す。たまたま山僧の争いに遭遇し、逃れて山下の大津に至り、信夫藤太(しのぶ の とうた)という人買いに言葉巧みに騙されて東国へと拉致されてしまった。
 旅の途中、梅若は病を発し、墨田河原で動けなくなり、藤太に置き去りにされてついに余命幾ばくもない状態となった。里人は梅若を哀れみ、看病したもののついに貞元元(976)年3月15日、わずか12歳にして身罷った。
 梅若は死ぬ間際の苦しい息の下、
  「尋ね来て 問わば応えよ 都鳥 墨田河原の 露と消えぬと」と一首の和歌を残したという。

 この時、天台宗の僧侶・忠円あじゃりが梅若を弔い、塚を築き、里人と共に冥福を祈ったという。

 その翌年、梅若の母が梅若を捜し求めて墨田河原に至ると、里人が塚の前に参集して一心に祈っていた。母は里人の一人に祈りのわけを尋ねると、梅若なる稚児の菩提を祈っていたという。哀れ、母は息子・梅若の一周忌にたどり着いたのである。
 母は悲しみつつも里人と共に祈り夜明かしをしていると、深夜、塚から梅若の霊が漂いだし、母とのしばしの再会をしたという。
 翌朝、母は忠円あじゃりに事情を話し、髪を下ろして尼となり、塚の脇に草堂を築いて梅若の菩提を弔い続けたという・・・・。』

 涙なくしては語れぬ話である。東京都の地図で確認すると、木母寺は現存したので行ってみた、という訳。

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 この辺りは河川改修工事などで様変わりしており、元々塚があったところは榎本銅像の近く。寺は200メートル程西側に移動。

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 室町時代に観世流の元雅によって作られた謡曲「隅田川」に歌われて広く人々の心を潤し、以降も多くの人により梅若を主題とした文芸作品が作られている。
 
 当ブログで特筆すべきは、江戸城城主の太田道灌の親友・万里集九が書いた漢詩「梅花無尽蔵」にも下記のように記されている。
  『都鳥墨田之故事 河辺有柳樹 蓋吉田之子梅若丸墓処也 其母北白川人』とある。万里集九は美濃(岐阜県)の人である。遠い西国にも梅若伝説は伝わっていたということである。

 この寺は古くは墨田院梅若寺と称したが、天正18(1590)年、関東に入ったばかりの徳川家康が梅柳山の山号を与え、さらに慶長12(1607)年、貴族の近衛信尹が梅の字を分けて「木母寺」と改称させたと伝えられる。江戸時代には武士も庶民も木母寺を見に多くの人々が訪れたという・・。

 現在も毎年3月15日に「梅若忌念仏」が行われ、東京都の旧跡に指定されている。

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 観音様を中央に、左右に梅若丸と母の木像があります。
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 梅若丸
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 観音様
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 母

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 絵馬にも梅若丸が描かれています。裏?見てないですよ。
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 芸道上達もやっているんですね。そういえば向島芸者って有名でしたね。

 この日は梅若塚を基点に南下しつつ、神社をハシゴして参りました。次回からその模様をお送りしましょう。


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早雲寺~箱根湯本の古刹~

 前回の白山神社の向いすぐに・・・
早雲寺
 こちら!金湯山・早雲寺がございます。こちらのお寺は臨済宗、小田原城主の伊勢宗瑞(一般には北條早雲)が亡くなった後、跡継ぎの北條氏綱が京・大徳寺83世の以天宗清を招いて大永元(1521)年に父の菩提を弔う為に開いたお寺です。
 初代・住職の以天宗清さん、室町幕府に仕える蜷川氏の出身です。蜷川氏というと・・とんちの一休さんに出てくる蜷川新衛門さんと同じ一族。新衛門さんは実在の人物ですよ。まあ、アニメ「一休さん」のようなすっとこどっこいのお侍さんではないでしょうが・・。
 ここで一休さんと新衛門さんの狂歌でも紹介しましょう。
  一休宗純  「門松は 冥土の旅の 一里塚 馬駕籠もなく 泊り屋(宿屋)もなし」
  蜷川新衛門 「年越しは 冥土の旅の 問屋場(といやば)か 月日の飛脚 あしをとどめず」
 なかなか辛らつな歌ですね。

 閑話休題・・・

三つ鱗
 ここは北條氏ゆかりのお寺なので寺紋として「三つ鱗」が使われています。お宝として、北條家歴代の当主の肖像画などもありますが、訪れたのは朝早かったので見ることあたいませんでした。またそのうち・・

 北條家が関東一の大名であった頃は大層繁盛したそうですが、お猿「豊臣秀吉」の北條征伐で本陣を置かれてしまい、北條家滅亡後は荒廃、火災にもあったそうですが、寛永4(1627)年に再建され、さらに慶安元(1648)年に三代将軍・徳川家光公より朱印状を頂き、復興を果たし、現代に至るそうです。

 そういえばお猿・秀吉が本陣を置いた折、ある悲劇がありました。秀吉の茶頭・千利休の高弟である山上宗二(やまのうえ そうじ)は師匠譲りの渋好みで、秀吉の金ぴかの茶室など派手数奇を大層嫌悪しており、出奔して小田原で北條の家臣団に茶道を指導していたそう。
 そこに秀吉の大軍が来襲し、小田原は包囲されてしまいました。宗二は秀吉と共に来ているであろう利休に会いたくて利休の所に来てしまいました。
 利休「宗二!小田原に来ていたと聞いていたが、このままでは太閤殿下に逆らった罪で首討たれるぞ。わしが殿下との対面を周旋するから、お許しを請うのだ」
 宗二「師匠、わたしは首討たれる前に一目でも師匠にお会いしたくて参りました。その私が・・許されるのでしょうか?」
 かくして早雲寺で秀吉と宗二と対面が果たされますが、その際、どのようの会話がなされていたのか・・秀吉は激怒し、宗二を生きながら耳や鼻を削ぎ、しまいに首を切りました。利休は弟子の亡骸をどのような思いで見たのでしょうか?翌年の天正19(1591)年、利休も秀吉と対立し、切腹します。
 ただ山上宗二は「山上宗二記」という書物を残しております。そこで利休や秀吉が愛用した茶器や茶道具の数々を評価しています。その本は現代でも読むことができます。読まれるのも一興かと。

惣門
 まず惣門を潜りましょう。この扁額は江戸時代に日本に来ていた朝鮮通信使が書いたもののようです。長崎から長い旅をしてここで一休みして江戸城に赴いたのでしょう。

境内へ・・
 惣門からちょっと歩いて・・
鐘1
 境内の鐘突き堂です。この鐘は秀吉の石垣山城で使われていたものとか・・もうちょっと寄って撮ればよかった。
鐘2
 もやってるのは、境内の一角で枯葉を燃やしていたからです。おかげで風情のある景色となりました。

早雲寺本堂
本堂の説明
 古い本堂ですが、江戸時代のもの・・北條時代のものだったら、秀吉も歩いたのでしょうが。

 このお寺には日本史上の有名人の墓も多々あります。
飯尾宗ぎの墓
宗ぎの墓・説明
 室町時代の連歌師・飯尾宗祇(いいお そうぎ)のお墓です。この方は一休さんと交友もあったそうです。連歌は正直、難しいので読んでてもよくわからんのですよ・・。

 さていよいよ・・
北條5代の墓
北條の墓・説明
 北條5代の当主のお墓です。右から・・初代・宗瑞(早雲)、二代・氏綱、三代・氏康、四代・氏政、五代・氏直のお墓です。南無南無・・・。
 北條氏は時代を読み違えていったん滅びましたが(江戸時代に大名家として復活)、その政治はけっして過酷なものではなかったようで、国替えで関東に移ってきた徳川家も最初は苦労したようです。
 箱根湯本に来たらここにこないとね。え?普通は湯治だって?それがしはそれでは楽しめないので。

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プロフィール

サムライ銅像研究会

Author:サムライ銅像研究会
歴史と銅像と芸術が大好きなあまり、日本各地を東奔西走する銅像・史蹟ハンターである。神出鬼没なため、脈絡無しのブログ更新を続ける。掟はただ一つ!「死して屍拾うものなし!」昔の時代劇の決め台詞だけどね・・皆さん、見てやあ!
 最近、キューピーに侍の装束を着用させる遊びをやっております。「武者ピー」と呼んで可愛がってやぁ~!以後は「キューピー甲冑師」とも名乗ります。

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