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武蔵の国・鉢形城・後編

 さて鉢形城の後編である。
本丸図アップ
 今回巡るところはこのあたりだが、本来の城であったところに公園化されているところと宅地化されているところ、地元企業がはいっているところと入り混じっているので臼井城や金山城のようには気分がノリづらい。

鉢形城休憩所1

 二と三の曲輪と本丸の間には鉢形城歴史館(今回は入りませんでしたが200円で入場できます)があり、休憩所が駐車場と共に併設されている。雰囲気ありますね。中は・・・
鉢形城休憩所2
 テーブルとベンチをどけて、陣幕を周囲に張って、床机を置いたらまるで陣地のような設えになりますね。甲冑武者がほしい画ですね。

 すこし歩いて本丸にいって眺めを楽しみましょう。
荒川を見下ろす
 暑い日でしたので川で遊ぶ子供達がたくさんいました。

鉢形城本丸石碑
 やっとここまで着ました。でも本丸あたりにはあまりお見せできるところがないのですよ。眺めは最高なんですが。

田山花袋の碑
 「布団」で有名な田山花袋先生の漢詩を武者小路実篤先生が書におこされた石碑がございます。意味は・・
  「襟帯する山河好く、雄視す関八州、古城の跡空しく在り、一水尚東に流る」というところ。

 それがしも一首詠んでみよう。 
  「草茂る 土手に立ちて 見ゆ山河 栄えも滅びも 夏草の下」 お粗末様・・。

立ち入り禁止
 石碑よりさらに奥のアの部分は立ち入り禁止で入れません。高くなっているところは分かるんですがねぇ。

本丸あたり
 このあたりも往年は建物や倉がたっていたのでしょうか?

 公園の入り口側に下って行くと鉢形城のジオラマがあります。
鉢形城ジオラマ1
 字は画像をいじくりました。
鉢形城ジオラマ2
 奥が前回歩き始めた部分であり、手前がこのジオラマのあるあたり。

鉢形城公園入り口
 ここが寄居駅から歩いて来た時に目にする入り口部分ですね。

 橋を渡って寄居町方面にむかいましょう。
正喜橋から荒川
 橋から荒川を見下ろしました。
荒川の大岩
 向こう岸にはこんな巨大な岩が。

 鉢形城が有名なのは小田原北条の氏康公の三男が城主を務めていたからだが、道灌公の時代の「長尾景春の乱」でも重要な舞台となっている。その城を巡る戦いを振り返ると、兵略に通じた道灌公のことがよくわかるのでまた軍記物風に語ってみよう。

 「時は文明10(1478)年、関東管領・上杉家に反旗を翻した長尾景春であったが、太田道灌の活躍により盟友・豊島泰経を6月の小机城攻めでなくし、上野国(群馬県)に退避していた山内・扇谷の両上杉家と太田道灌らの合流でしだいに追い詰められつつある景春であった。
 劣勢を挽回すべく、鉢形城から出撃した景春勢は北方の梅沢(本庄市金屋)に砦を構築し、上杉勢の動きをうかがう。その上杉家の軍議では、山内上杉の家宰・長尾忠景(景春の叔父)が即刻に梅沢砦の総攻撃を進言するが、それを聞いていた道灌は発言を求めた。
  「確かにもっともな策、それがし感服いたした。なれど梅沢は切所(要害の地)なれば損害が多く出ること明白でありましょうゆえ、梅沢と鉢形の間の原野に我ら上杉勢押し出し、威圧すれば景春は必ずや梅沢から鉢形救援の為にこちらに馬首を向けてまいりましょう。そこを待ち受けておいて討つ!さすればそれを見た梅沢や鉢形の守備兵も気落ちして開城することまちがいないでしょう。」との新たな作戦に満座の諸将も諸手をあげて賛同をしめして衆議一決となりました。
 この軍議で目上の立場を尊重しつつ、自らの意見を通す道灌でありました。

 さて上杉勢は用土ヶ原(寄居町)に押し出し、陣太鼓を叩き、軍兵に気勢をあげさせて城方を脅しました。その様子に兵を連れて景春も用土が原に駆けつけます。そこで両軍は互いに押しつ揉まれつ、斬って突かれての大激闘を繰り広げますが、ついに上杉勢が勝利し、景春はわずかな手勢と共に鉢形城に逃げ込んだのでありました。」

 ここで大事なのは道灌公が主要目的である「鉢形城攻略・景春逮捕」の為にやみくもに突っ走らないで敵を誘い出して合戦して、間接的でありながら二つの目的を達しようとしたことである。石神井城に篭った豊島泰経を破った江古田・沼袋の戦いを思い出してもらいたい。その戦いでも道灌公は最初、泰経の弟・泰明の守る平塚城(北区王子)を攻めてみせ、泰経を引きずり出すことに成功している。このような兵法は洋の東西を問わず存在する人間の知恵のようなものである。
 戦訓からひきだせば、孫ピンは魏に都を囲まれた趙を助けるために魏の都を包囲して魏の将軍を討ち取り、アレクサンドロス大王はペルシア帝国皇帝ダレイオス3世を引きずり出すために帝国領のエジプトなどをあらしまわり、あせったダレイオスは100万と呼号する大軍を集めてガウガメラ平原に繰り出し、10万にもみたないアレクサンドロス軍はマケドニア・ファランクス(重装歩兵密集戦術)戦法でみごとペルシア軍を打ち破ったのであった・・。
 現代風にいうとリデル・ハート(英国の戦略論研究家)の間接アプローチ戦略というのだろうか。目的にストレートに迫らずに間接的なアプローチをすることにより副次的効果をもひきだす。自分の手ごまが少ないものが行うやり方ともいえる。

 ま、そんなことは置いておいて荒川の雄大な景色をご覧頂こう。
荒川・雄大な眺望
 こういう景色を眺めているとチマチマしたことなど忘れるなあ・・。
鉢形城遠望
 振り返ると鉢形城が見送ってくれます。

 鉢形城の最後の城主であった北条氏邦のお墓が同じ寄居町の正龍寺に向かいます。お城からだと徒歩で小一時間です。平坦な道ですので、暑くなければ散歩みたいなものですね。
正龍寺遠望
 見えてきました。あれに見ゆるが正龍寺です。
正龍寺・仁王門
正龍寺説明板

 立派な仁王門が出迎えてくれます。当然そこには・・
仁王1
仁王2
 すみません、あまりによく出来ているので画像にイタズラ描きしました。何か?浅草や通天閣下にいそうなオジサンですね。とりあえず謝ってしまいそうです。
仁王の背中
 まあ、たくましい背中・・。


正龍寺本堂
 本堂の屋根には・・
三つ鱗
 当然のように北条の紋・三つ鱗が光り輝いております。そこまで金ぴかじゃなかったです。

 裏手の墓を登っていくと一軒の小屋があり、そこにございました。
氏邦夫妻墓
 北条氏邦夫妻のお墓です。南無南無・・。
 関東武士の名門・藤田家に氏邦は婿入りのかたちではいったので最初藤田姓を名乗っていましたが、本人は気に入らなかったみたいです。夫婦仲はよかったようで、夫人意外に女性の影はありませんが、何しろ一度滅んだ家なので確実な情報はしりません。
氏邦夫妻墓説明板

藤田康邦夫妻墓
 こちらは氏邦の義父母・藤田康邦夫妻の墓です。南無南無・・。
正龍寺本堂内部
 お寺に戻って本堂の内部です。左奥に古めかしい甲冑がありましたが、戦国のものかは近くで見ていないので不明です。

蛇の模様?
 こんな模様の石も祀られておりました。なんということでしょう!蛇の模様ですかね?自然とは不思議なものを作り出しますね。

 お寺を後にして寄居駅に向かいます。バスがあるといいんですがねぇ・・。
寄居駅全貌
 寄居駅はJRだけではなく、東武線や秩父鉄道も乗り入れているターミナル駅です。本数は少ないですがね。ともあれ大自然を満喫できますので気軽にどうぞ!あ!・・夏場は虫の王国ですので(車山など虫嫌いには耐えられないほどいましたっけ・・)虫除けスプレーや長袖シャツ、長ズボンなどご用意お忘れなく。

高麗川駅モノクロ

 最後に高麗川駅で撮ったモノクロ画像をば・・。

 もう一首
  「カメラ手に 兵(つわもの)共の 過ぎし跡 ただひたぶるに 思ひたどれよ」お粗末様・その2 

 ではまた次回!
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武蔵の国・鉢形城探訪記・前編

 前回はあまり書きなれない小説など書いてしまったが、コメントを頂いた皆様には思わぬお褒めの言葉など頂き、誠に感謝。どなたか道灌公と紅扇のイラストなんて描いてくれないだろうか?銅像写真もいいが、イラスト付だとより映える・・変な欲がでたようだ。

 さて、今回は武蔵の国(今の東京都埼玉県)の西部奥地にある鉢形城である。築城者に関しては・・はっきりしない。伝承では平将門の弟が拠点を置いたともいうが不明。記録上ででてくるのは、文明8(1476)年に太田道灌公の従兄弟の長尾景春が上杉家に反乱をおこした時に「鉢形城に拠った」とでてくるのが最初。この「拠った」がくせもの。「造った」なら景春が最初ということになるが、「拠った」となるとすでに何かしら設備があったところを直して使った・・という解釈もありうるからだ。まあ、考古学者の実証的な発掘調査を待ちたい。
 その反乱の後は長く放置されていたが、小田原北条の勢力がこの地に及んでくる時に北条氏康の三男・氏邦が居城として大規模に改修工事を行った。その時に改造されまくったので、室町の頃の遺構は無理かな・・。

 まずはJR中野駅に向かい、そこから中央線快速の八王子行きへ、八王子で八高線(八王子ー高崎間)で一気に・・というわけにはいかない。まずは高麗川まで。ここまでは順調なのだが、この先北上する路線は一時間に一本ペース・・30分菓子パン食べながら待ちぼうけです。そこから折原まで。
鉢形全体図
 通常、鉢形城に行く時は寄居でおりるのだが、一つ前の折原で降りたのは山の上から撮り下ろしたかったからだ。車内には他にも鉢形城の絵図面をもっている人がいたが、降りたのはそれがし一人のみ。まじ?

折原駅
 というわけで到着しました、折原駅!さすがここまでくると無人駅です。

折原の石仏
 駅前の石仏に道中の安全を祈願。ここで上の地図を見て頂きたいが、今回のルートを黒いサインペンでひいてみた。赤く斜線をひいているのが目標の鉢形城だ。その前に駅前の車山にのぼろう。

車山
 このきれいな三角形型の山が車山です。特に案内もないので、駅前で休憩していた地元のおじさんに聞いてみると、すこし先の道を左にいって徐々に登っていくと山道の看板があるよ、と大雑把に教えてくれた。
 あの山に何かあるの?と聞かれたので、豊臣秀吉の北条征伐の折に徳川家康の部将・本多忠勝が陣地を置いて、そこから大砲をぶっ放して城方を驚かせたんですよ、と教えてあげると知らなかっただって。まあ、そんなものかな。おじさんの気をつけてねの声を後に山に向かいます。

トトロの道?
 なんでもないのぼり道を行くと徐々に・・いえ、いきなりこんな凄い道がでてきます。まるでジブリアニメの「トトロ」がでてきそうな道ですね。両脇の竹がたわんでこんなトンネル状になっているんですね。子供連れできたら大興奮間違いないですよ。そんなトンネルを抜けると・・
険しい車山参道
 あいにくとおじさんにはトトロは出てくれないみたいです。汚れちまったからねぇ・・色々と。ま、小学生高学年くらいでないと危ない山道かもしれません。200メートルくらいしかないんだけどねえ。

 登ること30分・・
車山山頂
 登頂成功です!黄色方向が鉢形、黒方向が折原駅です。あー、鉢形方向は木が生い茂っていて無理ですね。折原方向は・・
頂上から折原方向
 こんな感じ・・絶景はまだですね。

車山地図アップ
 向うはゴルフコースでした。

 また30分くらいかけて反対側に降りて振り返ると・・
車山全体像
 いくつもの峰が連なったのが車山です。登ったのは左端ですね。山頂に大砲を上げたというのは・・伝説かもしれませんね。

 地図を見ながら城にむかいますが、畑や宅地ばかりで迷いそうになりながら・・
鉢形城図
 ここで鉢形城全体図を見て頂きましょう。今回巡るのはカ~サの辺りです。

諏訪神社へと・・
 お城の端っこの諏訪神社が見えてきましたね。お参りしていきましょう。

諏訪神社の堀と土塁
 鳥居を潜ると社殿のあるところが高くなっていますね。階段を上ると・・
諏訪神社の土橋と堀
 土橋と堀のような造りですね。
鉢形城説明板
 ほうほう・・。
諏訪神社拝殿
 お参りしていきましょう。
諏訪神社説明板
 やはり神社は館跡でしたか。

 神社の後ろを見ると・・
諏訪神社の裏の土手
 やはり土手がありましたね。神社を後にして行くと・・

秩父曲輪の門
 青空に復元した門が映えますね。この門を潜ると三の曲輪(くるわ)です。別名、秩父曲輪ともいいます。
四脚門・セピア
 セピア色で撮ると新しい門も時代がかって見えてきます。

 門を潜ると・・
秩父曲輪全体
 ちょっと整備されすぎですね。黄色い矢印方向に行きます。
 
 矢印通りに行く前に、突き当たりまでいくと・・
寄居町方向
 寄居町方向です。絶景ですね。

 地図上のキとカの間の馬出(うまだし)門にいきましょう。
馬出
 右の木の橋を敵が渡ろうとすると、左の盛り土のあたりから攻撃されます。
馬出図
 こんな風な図です。

二の曲輪方向
 手前からこれから向かう二の曲輪方向を見ます。
三と二の曲輪の間
 向こう側がすこし低くなっていますね。

馬出から三の曲輪方向
 馬出から来た方向を振り返ります。

三と二の間の空堀の深さ
 堀の下から見ると深いですね。

 二の曲輪方向に行くと、
城山稲荷
 城山稲荷が出迎えてくれます。ここでも参拝。

二の曲輪から見た馬出方向
 二の曲輪方向から馬出を振り返ります。南下していくと・・
空堀の大きさ
 大きい空堀ですね。
夏空や・・
 夏空が美しいですね。

三や二の曲輪
 今回歩き回った範囲です。

深沢川1
深沢川2
 本丸部分との間には深沢川がながれています。今回は川の涼しげな画像で終わりです。

 では、また次回!

群馬県太田市の城郭~築城の陰に軍師あり!~後編

 今回はいよいよ金山城の最終回、本丸部へとお連れしよう。
本丸部地図アップ
 5番の馬場下辺りからいってみよう。

馬場下通路
 この石段を登って・・
物見台への道
 前回渡った木橋を横目に見ながら少し戻ると・・
物見台
 おお!再現された物見台がありますな。早速のぼりましょう。
西方向
 まずは西方向。ずっと行くと伊勢崎市です。
北西方向
 北西方向です。中央の丘陵が「八王子丘陵」といいます。金山の南にも「八王子山」があるんでややこしいですね。

 戦国時代、関東管領・上杉憲政が小田原北條の圧迫に耐えかねて越後の長尾景虎にかけこみます。関東に平安をもたらすべく景虎は関東に乗り込みますが、その際この金山城にも攻め込んできました。城主は岩松氏から下克上した横瀬氏が由良氏と名を変えていましたが、北條に味方していたので篭城して越後軍を迎え撃ちます。
 八王子丘陵の一角「広沢山」に陣取った越後軍は包囲して、金山城唯一の弱点ともいえる北側の尾根伝いに攻めかかりますが、さすがの鉄壁ぶりに攻めあぐみます。
 また城下の住民らもこのままでは累代の城主が滅ぼされてしまうことを危ぶみ、世良田の長楽寺らの住職らが動き、景虎に和睦交渉を談じ込みます。城方も降伏する時機を図っていたので渡りに船と人質をだして開城しました・・という話をある本で読んだので裏をとろうとしたんですがどの郷土史にもはっきりとした話はございませんでした・・地図上では「広沢山福厳寺」というのが八王子丘陵の北面にあるのでその地域で聞き込みすれば何かでてくるかもしれませんが、今回はそこまで行く時間はございませんでした。
八王子山砦
 南部に目を転じると八王子山があります。三つの山が連なった形です。黄色い輪をつけたのが「大八王子山」、赤い輪が「中八王子山」、青い輪が「南八王子山」です。帰りはこの山を通って下りていきます。
 さあ、本丸へむかいましょう。

馬場曲輪
 馬場曲輪です。ここに足軽達が攻めてきました。
  足軽  「かしらぁ!ここからどっちへ攻めりゃいいんだ?」
  足軽頭 「おっしゃ!左にいけ!」左の赤い矢印方向に攻め込んでいくと・・
大堀切
  足軽頭 「あれ?行き止まり??」
  足軽一堂「そんなぁ!!!」行き場を失った足軽達は追いついてきた城方によって全滅させられてしまいました。間抜けな上司に付き従うとろくな事ありませんね。
 この先は金山城最大の堀切が深くて暗い口をあけて待ち受けています。正解は黄色い矢印方向でした。
月の池方面
 降りて行った先は・・
月の池
 この城で二番目の水源「月の池」です。振り返ってみると・・
大堀切の横から
 あのV字型の切れ込みが「大堀切」です。深いなぁ・・。
水が湧く・・
 池の水面を見ると水が湧いているんですよ!250メートルもの標高があるのに、凄いですね。これぞ堅城の証です。

発掘現場
 右手の斜面を見るとブルーシートで覆われています。まだまだ発掘途中なんですね。この城の全貌が解き明かされて将来さらに整備されていくのでしょうが、あまり整備されすぎるのも山城としての野趣が削がれるんですがねぇ・・。

大手虎口全体像
 いよいよこの城最大の見せ場「大手虎口」全体画像です。
大手虎口イラスト
 今いるのは一番下の部分です。
水路
 黄色い矢印を登っていきますが、雨を流す用水路も完備していたようです。
見上げた絵
 上を見上げると石垣が多用されていますね。関東では本当にめずらしい。熊本城にはかないようがありませんが、石垣のかもし出す迫力はたまりませんね。

大手の井戸1
大手の井戸2
 登ったところにまた井戸があります。覗き込んでみましょう。水がたたえられていますね。呑むことはできませんが。城跡の井戸で水を飲めるところってないですよね。浄水器でも使って水を飲めるようにすればいいのに。井戸の水でいれたお茶やコーヒーって飲みたいですよね?

日の池
 そして最大の井戸「日の池」です。向こう側に置かれたベンチでその大きさを察してください。

 この辺りに休憩所がありましたのでお邪魔しました。なんと靴を脱いで上がれるようになっておりましてブーツを脱いですっかりくつろぎながら弁当を使いました。

金山眺望図2
 冬には富士山が見えるという方向を最大ズームで撮ると丸の中に富士山らしきものが・・見えるような気がするんですがね。いかが?

 本丸部はすでに紹介済みの新田神社ですのでさくっといきましょう。
本丸址
 神社拝殿脇にあります。

史蹟金山城址
 拝殿と石碑と・・。

本丸からの眺望
 本丸からの眺望です。黄色く囲ったのが足利市のあたりです。ほんとにお隣さんなんですね。仲悪かったけど。
天主曲輪説明板

 本丸の脇からその裏側に廻ってみました。
天主曲輪裏馬場1
天主曲輪裏馬場2
 上の建物が新田神社の本殿です。やや広めの敷地ですが、このあたりに馬小屋が置かれていたそうですね。なるほど下界の音が通らない静寂の森です。

 もうすこしいきましょう。
石垣(金山裏)
 苔むした石垣がいい雰囲気ですね。あくまで城好きとしての見方ですがね。
モノクロ石垣
 モノクロで撮ってみました。

本丸と二の丸間
 本丸と二の丸の間も細かく区切られていますね。ここまで攻め込まれたらあとは腹を切るだけでしょうがね。

 本丸を南側に下っていく途中には・・
本丸南端石垣
 またしても石垣がつまれています。足元が不安定なところなので強いて撮ることもなかったんですが、ついついね。

岩の苔
 降りてきた斜面には石にこんなに苔が生えています。それだけ山中に湿気があるということですね。雨の日には下るのは危険ですね。

八王子山への橋
 八王子山への道をたどりましょう。この橋を渡ると・・
た・・高い・・
 高いですね。10メートルはありましたかね。

八王子山への登り道
 こちらから道も細くなり、藪も多くなり、斜面もきつくなって山道らしくなってきました。
八王子山の斜面
 きつい斜面だなぁ・・足元が不安定で端がぶれてしまいました。
中八王子山矢倉台説明板
 中八王子山のあたりなんですけどね・・茂みが濃すぎて何がなんだか・・ここまで登る人少ないんですね。確かに一人で登るにはやや恐いあたりですね。道も分かれているところがあって、持参した地図とコンパスで方向を見極めて進むところもありました。

本丸方面
 やっとふもと方向が見えてきました。さすがにほっとしましたね。丸く囲ったあたりが本丸です。

ヤマユリ
 途中にはこんなに見事な山百合も咲いていました。

金山と蛇川
 金山と蛇川(へびかわ)をいっしょに。山の中は涼しいんですが、このあたりは暑かったですねぇ。

おおたん
 最後に太田市のマスコットキャラクター「おおたん」の石像です。何がモチーフなんでしょうね?

 天正13(1585)年、北條氏政が金山城主の由良国繁らを小田原に招き寄せて幽閉。金山城に残った人々に「主人を釈放して欲しければ開城しろ」とおどす手紙をおくりつけてさらに弟たちに軍勢をつけて送り込みます。国繁の母・妙印尼は家老らに発破をかけ、兵を集めて篭城して、北條軍の攻撃を退けました。幸いにも房総半島の里見氏が海を越えて鎌倉に攻めこむ様子でしたので北條軍は撤退します。
 無事に城を守りきった妙印尼は馬場曲輪に将兵を集めて酒と肴でもてなしたそうです。さすが「かかあ天下」の国ですね。結局のところ、北條に城を明け渡して、北條滅亡後は廃城になってしまいました。
 江戸時代は松茸がよく獲れて、江戸に献上していたそうです。

 次回はどこの城址でしょうか?

群馬県太田市の城郭~築城の陰に軍師あり!~前編

 今回はいよいよ金山城を紹介しよう。ただ、画像の数が多いので前・後編にわけるのでご了解ありたい。

 まず太田の地名の由来だが「太田市歴史年表」によると・・
  「平安時代末期、天仁元(1108)年の浅間山大噴火により荒廃した土地を新田義重が開発し、「新田庄」を立庄。以後正式に新田家のものとなり、どんどん開発していったことで「大いなる耕田」つまり「大田」がいつしか「太田」となったとのこと。

 更にその太田市にそびえ立つ金山城が作られたのは文明元(1469)年、新田の後裔である岩松家純が長楽寺(太田市世良田)住僧・松陰西堂(しょういん・せいどう)に縄張りさせて築城した。松陰が書き残した「松陰私語」(別名「五十子記」)には
  「家純の代官として(松陰は)造営にあたり、鍬始め、地鎮祭を古儀によって実施した後、70余日間、休むことなく走廻して完成させた」とあり、同年8月吉日に屋形・家純が入城、とある。
 つまり文明元年の遅くとも5月下旬には工事を始めたということだろう。70日余で完成させたにしては城内は立派だが、小田原北条が豊臣秀吉により滅ぼされる天正18(1590)年までの121年間断続的に工事が続けられていただろうから、ごく初期の金山城とはかなり趣を変えているにちがいない。

 松陰西堂とは何者か?はっきりとしたことは不明だが、足利学校で学んだこともあるようであり、後の文明10(1478)年7月には太田道灌公も金山城を訪問し、「近比名城(近年にない名城)」と絶賛している。道灌公と足利学校で共に学んだ仲という説もある。
 前出の「松陰私語」を読んでいると兵法書「李衛公問対」からの記述が頻繁にでており、松陰自身も兵法に通じていることが明らかであり、また岩松家の兵を率いてしばしば戦場往来をして指揮官として活躍していたようだ。
 さらに埼玉県本庄市の増国寺には松陰の墓と位牌があるが、その位牌には「前惣持当寺中興開山新田松陰西堂禅師」とある。新田岩松家の一門の出身ということではないだろうか、さらに戦場でもしばしば「我は新田松陰軒なり!」と名乗りをあげていたようだ。しかし血の気の多い坊さんだなあ。彼のことは今後も追い続けていきたい。
 
 さて、長話はこれくらいで画像をみていこう。

金山の湧水
 前々回の大光院から緩やかなのぼり道になっており、道路わきには金山からの絶え間ない水の流れが小川となって用水路を流れている。これをみても金山城は水量豊富な城ということが理解できる。

金山全体図
 ここで金山城域全体をみてみよう。これは国土地理院の二万五千分の一地図を二枚(上野境と足利南部)使って拡大コピーしたり、継ぎはぎして作製したもの。

金山城詳細図
 こちらは「群馬の古城 中・東毛編」(山崎一 著/あかぎ出版)に載っていた地図を拡大コピーしてサインペンで注釈を加えたもの。今回廻るところをさらに拡大すると・・
前編部地図
 こんな感じ・・黄色く塗った道路を登って駐車場まで登り、山頂部を西の端までいってから、東の本丸部に向かうまでが今回巡るところ。わかる?わかりやすいようにけっこう工夫してるのよ。

ガイダンス施設
 道筋沿いに登っていくと、こんな派手な建物が出迎えてくれる。ここは金山城のガイダンス施設(無料)で、中には金山城からの発掘物が展示されてあったり、15分ほどの映画が上映されていたり、きめ細かく色々教えていただける。ここでガイドマップを貰うこともできるので、格別用意しなくてもかまわない。さらに土日に伺うと、お土産がいただける。それがしは竹炭をいただいた。燃焼温度が低いので炊飯などの調理には使わずに吸湿・脱臭用にお使いくださいとのことだったので、今それがしの部屋で脱臭用においてある。
 施設の裏手が本来の大手筋とのことで、険しいが道もついているので登攀可能だが、現在太田市教育委員会により発掘中とのことで、一部入れないところがあるとのことだったので、元の道筋に戻った。

桜の井戸1
桜の井戸2
 この井戸は金山城の南部にある八王子山砦の将兵のための井戸だったようだ。確かに水が湧き、辺りは湿っぽい空気である。ちょうどガイダンス施設の道路挟んだ真向かいにある。

 しばらく登ると・・
金山公園入り口
 やっと入り口ですな。道路左右の鬱蒼としげる樹木のおかげで快適に登れる。さらにここから緩やかな登りが続きます。
車道
 曲がりくねりながら登り、
見おろした道
 登ってきた道を見下ろします。黄色い矢印は登りの方向です。

 ふと見上げると・・
道路脇の石垣
 おお!ついに石垣ですよ!急にテンション上がってまいりました!
大手口1
大手口2
 昔はこの急峻な坂を登っていきます。現代の楽な道で助かりますなぁ・・。

 やがて地図上のモータープールつまり駐車場に到着します。そこにも展望台がありましたが、しょぼいので西の端にある「見附出丸」にむかいましょう。もう平坦な道です。
見附出丸の眺望
 爽快な眺めですね。弁当をつかいたいところですがまだ我慢・・。
八王子山など
 眼下を見おろすと、右の黄色い輪をつけたのが前回訪れた高山神社。左の赤い輪が八王子山一帯です。これらの輪は画像処理なので実際は緑の山ですよ。
東武太田駅前アップ
 さらにぐっと寄ると太田駅前がみえます。黒丸のところに「太田駅北口」とあります。左右の塗りつぶしは某有名企業なので、伏せました。
見附出丸説明板
 ここで西方面から登ってくる愚か者・・もとい敵を迎撃するわけです。敵勢の動きもすぐにわかりますね。

 ささ、本丸方面にむかいましょう。
本丸方面への道
 矢印方向に登ります。万一、見附出丸が突破されても道の両脇が盛り上がっており、一度に少人数しか通れないように工夫されていますね。両脇から弓矢や鉄砲玉、石や時に熱した糞尿など浴びせかけたのでしょうか?

史蹟金山城址
 このあたりは「金山西城」ともいわれています。矢印は見附出丸方向です。
史蹟金山城址からの眺望
 先ほどの眺望がより高い所から望めるのがお分かりいただけますか?

矢倉台への道
 右の岩場の向こう側が駐車場のあたりですね。
削られた岩
 岩の表面が一様に滑らかですね。この岩を削りだして石垣とし、また岩陰をなくして敵や間者(スパイ)が潜むところを減らしていきます。
 前掲の「群馬の古城」によれば・・
  「金山は輝石安山岩から構成され、・・(中略)・・工事に相当な困難があったと思うが、これがため急傾斜は長く保持され、廃城後も遺跡の保存がよい。」とある。これこそが金山城が関東では珍しく石垣を多用した城であり、また保存状態が極めて良好ということなのです。分かりやすい本ですね。

 さらに進むと・・
塹壕石碑
堀切説明板
 石柱のほうが古い標識でカラーが最近設置されたものですね。同じ窪みでも「塹壕」と「堀切り」・・軍隊用語と最近の専門用語の違いが見て取れますね。
堀切見おろし
 実際の堀切りです。これで西城と本城の西矢倉郭を分断しています。同じものがこの先にもう一本あります。

スカイツリー?
 途中、南に視線を転じるとはるか向うに東京方向がみえます。カメラの最大ズームでは・・丸く囲った所がスカイツリーですかね?冬の空気がきれいな時期ならさらにはっきりわかるでしょう。

馬場下通路への道
 石畳の先を抜けると・・
馬場下通路
 馬場下通路ですね。岩盤を掘り崩して土橋をかけています。
削られた岩盤
 右上のあんな高い所から掘り崩したんですね。重機も無い時代にすごい難工事ですね。右上に物見台がみえます。そこからの眺めが絶景でしたが、それは次回・・。

土橋石垣1
土橋石垣2
 土橋を通って石垣に登るとこんな風に見えます。
石垣からの眺望
 やあ!絶景ですな!でもこんなものじゃない・・。

竪堀全体像
 土橋先の竪堀です。青い矢印方向から敵が攻めてきても左右から撃退できます。でもこんな斜面を刀や槍を担いで甲冑つけて登るなんて・・それだけでたまらんですな。
木橋
 竪堀の上を横切る木橋です。いざという時は橋を壊してここで分断します。


 ちょっと首を右に90度傾けて画面を下にスクロールさせてください。
木橋パノラマ1
木橋パノラマ2
木橋パノラマ3
 竪堀の上を横切る木橋がパノラマに見えてきませんか?ダメ?う~ん、考えてみたんですけどねぇ。まあ、心の目で思い浮かべてください。

虎口全体像
 今回の最後に木橋を渡った先の石垣上から撮影した全体像です。黄色がそれがしの進行方向であり、城方の動線です。青が敵の侵攻方向です。これだといかに敵を防ぎやすい構造か分かりやすいと思うのですが・・いかが?

 さて次回はいよいよ本丸(新田神社のある辺り)へむかいましょう。そこがまた石垣を多用した中世城郭の傑作であり、また絶好の眺望が望めるところなのです。では、また次回!

臼井城(千葉県) 道灌が泣いた城~攻略編~

 今回はいよいよ臼井城の中に入ろう。
臼井城案内板
臼井城図
 公園の入り口にこのような説明板がある。親切にも城の図面もある。
臼井城手書き図
 手書きの地図だとこのような感じ。公園化されているのはⅠとⅡの郭、外側にⅢの郭にあたるはずだが、宅地化されてしまい、地名に「外城(とじょう)」が残るのみである。

DSCF0324_1.jpg
石仏
 城に入る前に残された石碑・石仏に手を合わせていこう。地元の方々の信仰の歴史がまだ残されている。素朴な石仏を見るとなごみますな。

二の郭全体画像
 まずはⅡの郭の全体画像です。このように通路と芝生が敷かれており、散策とピクニックには最高ですね。日差しが強すぎますが・・。

二の郭奥の土塁と空堀
 通路沿いに行くとⅡの郭の休憩所奥にこのように土塁とそれに続く空堀を覘き見ることができます。深いのと木立が密集しているのとで底まで見通せません。この画像で地形を感じてください。

 Ⅱの郭自体には他に見るとこもないのでこのままⅠの郭に向かいます。すると・・
土橋
土橋の説明
 二つの郭を結ぶ「土橋」が出迎えてくれます。Ⅰ側がより高い地形であることがお分かり頂けますか?二つの郭の間には・・
一と二の郭の間の空堀
 空堀です。Ⅱの郭側から見た画像で、左上の平らな部分が土橋です。なかなか深いですね。今、思うとなぜか空堀の底に下りて撮影はしませんでした。いつもだったらしているんですが、なぜか思いつかなかったんですね。ひょっとしたら地霊が止めてくれたのかもしれません。数百年前とはいえ、多くの人命が失われていますからね。
 信じるか信じないかは、あなた次第!

盛り土
 土橋を渡ってⅠ側に渡ると、左側に土が盛りあがった所にでくわします。恐らく見張り所のようなものでしょうね。Ⅰの郭こそ最終防衛拠点ですから、入ってくる者に対しての誰何が行われていたのでしょう。上ってみると・・。
盛り土から見た土橋
 左側に土橋がよく見えますね。往年は木などなく、見晴らしもよかったでしょう。

一からみた郭
 Ⅰの郭側から見下ろした土橋です。はっきりと高低差がわかると思います。左右に黄色いテープがありますが、本当は盛り土部分は上ってはいけません。良い子はマネしちゃダメ、絶対!危ないからね。

一の郭・北側
 Ⅰの郭の北側です。
一の郭・全体画像
 Ⅰの郭の南側全体画像です。かなり広いということがお分かりいただけるでしょうか。ここもやはりピクニックなどに最適です。奥へ歩いていきましょう。

宿内公園方面
 見晴らしがいいですね。まっすぐ走る道路は「千葉臼井印西街道」で右側の丘が前回紹介した「宿内公園」です。街道沿いに城や砦が配置されているのがおわかり頂けるのではないでしょうか?
印旛沼とアジサイ
 視点を北側に向けると遠くに印旛沼が見渡せます。まだアジサイが咲いていますね。本当に気持ちのいい眺望です。暑ささえなければ、ずっといたい所ですね。夜は恐そうだけれど・・。

印旛沼
 Ⅰの郭の最も北部の奥まった所からですとはっきりと印旛沼が見下ろせます。印旛沼の干拓工事が始まったのは江戸時代の田沼意次時代ですが、昔から湖沼地帯だったのでしょうね。臼井城は北側を広大な湖沼地帯を遮られていたことになりますかね。

佐倉方面
 西は佐倉市方面です。ぐっとズームインすると・・
国立民族博物館
 あれに見ゆるは「国立民俗博物館」ですね、通称「ミンパク」。ここも年に1度くらいは見学にいきます。

礎石?
 地面を見ると建物の礎石らしきものが残されています。

 さてあまりにも暑いので臼井駅に向かいます。
階段
 Ⅰの郭を降りていく途中、視線を左に転じると・・
一の郭・西側斜面
 これまたよく地形がわかるところですね。その奥には・・
二段斜面
 斜面が一度平たく切り開かれていますね。
削平された所
 この広い所にも「武者溜り」のような施設が置かれていたのでしょうか?

コンクリ斜面
 斜面の一部はコンクリートで固められていました。大雨が降った時など土砂崩れが起きては麓の住民が難儀しますからね。実際、麓ギリギリの所まで民家が建っていました。

 臼井駅に戻り、駅南側を5分も歩くと・・
一夜陣公園
 上杉謙信公が陣地を置かれていたという公園がございます。
一夜陣石碑
 こんな石碑があります。謙信公が敗北した原因はよく分かっていないのですが、配下の柿崎や北条(きたじょう)の組が城方に誘われて攻撃をかけたところ、反撃をくらって逃げ出してしまったという話が残っていますが、今回は調査していないのでそのことに関しては記述しません。

 電車に乗って1駅先の佐倉に向かい、駅前で「国立民俗博物館」に向かいます。
ミンパク
 バスで10分くらいで到着しました。中の展示物は撮影オーケーですが、ブログに載せるのは自粛します。皆さん実際に見に行かれた方が楽しめます。そのかわり・・
古代カレー
 中の食堂で食べた「古代カツカレーライス」をお見せしましょう。米は黒米で、カレーは濃厚かつ懐かしい味。カツも外側はサクサク、中はジューシーな豚肉で、御代は1000円也・・普段の昼飯にはこの値段は高すぎますね。でもおいしいですからお立ち寄りの際はお試しされることをオススメします。カレー以外にも多くのメニューがありますのでご安心を・・。

 さて今回で臼井城探索は終了です。本当はもっと沢山の画像を紹介したいのですが、実際に見に行かれた方が楽しめると思うのでこれくらいで。なかなか素晴らしい城址でした。

 この夏は関東各地に点在する城跡を探訪する予定です。今後ともご期待ください。第1弾として、来週末に群馬県太田市にそびえ立つ金山城址を攻略する予定です。ここが越後の春日山に匹敵する規模の山城なんですよね・・。
 では、また!
プロフィール

サムライ銅像研究会

Author:サムライ銅像研究会
歴史と銅像と芸術が大好きなあまり、日本各地を東奔西走する銅像・史蹟ハンターである。神出鬼没なため、脈絡無しのブログ更新を続ける。掟はただ一つ!「死して屍拾うものなし!」昔の時代劇の決め台詞だけどね・・皆さん、見てやあ!
 最近、キューピーに侍の装束を着用させる遊びをやっております。「武者ピー」と呼んで可愛がってやぁ~!以後は「キューピー甲冑師」とも名乗ります。

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