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江戸城・梅林坂~太田道灌と万里集九の友情

東京の暁
 なかなか暖かくなりませんね。こちらはそれがしの近所から偶然見つけたスカイツリー眺望スポット。新宿区から直線距離で12~13キロのはずだが、建物に遮られて見えない所もある中、ここはたまたま空いていました。高層マンションでも建った日には見えなくなりますがね。そういえば開業は5月でしたね、楽しみですが当分は観光客で溢れて見ることは難しいでしょう。1年くらい待ちましょうか。

 さて、今回は江戸城の梅林坂に梅を見に出かけました。ここは単に梅の名所というだけでなく、太田道灌公にとって深い所縁のあるところでもあるんですよ 大手門から入城し、二の丸庭園を右に、白鳥濠を左手に見ながら北に歩いていくと・・
春先の梅林坂1
 うわあ!キレイ!やはり春先は梅ですね。アングルを変えると・・
春先の梅林坂2
 やっぱりキレイですね。太田道灌公が江戸城を築いた当時、菅原道真卿を祭り、梅を数百本植えていたそうです。今ではそこまで梅は植えられていませんが、それでも梅の名所ですね。ここに祀られていた天神様は・・
平河天満宮
 千代田区平河町にある平河天神として今もなお多くの方の崇敬を受けております。徳川家康公が江戸入府後、江戸城拡張工事のために現在地に移したそうです。

 さて、白梅・紅梅を堪能していただきましょう。
白梅1
紅梅1
白梅2
紅梅2
 余計な言葉はいらないと思います。

 上に書いたとおり、ここは道灌公ゆかりの場所でもあります。そしてそこには万里集九(ばんり・しゅうく)という1人の禅僧が関わってくるのです。ところが万里について調べようとしたところで壁にぶつかりました。本屋にいっても武士のことを書いた歴史の専門書は沢山あるのに、僧侶について書かれた本なんてなかったんですね。それが室町時代の禅僧なんて・・と半ば諦めながら、都立中央図書館で「万里集九」をキーワード検索してみると・・・
DSCF3795_1.jpg
 ありました!快哉を叫びましたよ・・心の中で。さすが吉川弘文館の人物叢書、さらには著者の中川徳之助先生に大感謝!頭がさがります。あなたがこんな本を書いてくれていたからこそ、難しい漢詩ばかり書いている禅僧の生涯を把握できました。
 本題にもどりましょう。ざっと経歴など・・
  万里集九・・・正長元(1428)年9月9日、近江(滋賀県)国浅井郡速水郷に土豪の子として生まれる。少年の時から京都・五山に数えられる東福寺で修行を始め、後に建仁寺に移る。禅僧の基礎教育として支那典籍を学び、さらに「三体詩」などの学習による作詩法の習得を積む。
 応仁の乱(1467)勃発により京都を逃れ、美濃(岐阜県)国で竜門寺で住職になるも、どのような経緯か妻帯したことにより還俗。かつての師友からは仲間はずれにされるも、数少ない友人の紹介により、関東の名将・太田道灌公とのつてができ、道灌公の依頼により「静勝軒記」を記す。その後、道灌公の招きにより江戸に赴く(これを「東遊」という)。江戸についてから、道灌公と武将と僧侶という枠を超えた交友がはじまり、江戸城や越生、隅田川で漢詩や短歌、連歌を作る遊びを重ねる。その交友は長く続くと思われたが・・道灌公が主君の扇谷定正公により殺害されたことにより断絶!万里は悲嘆にくれる。
 その後、2年あまりも江戸に滞在し、道灌公の3周忌を終えてから自宅のある美濃・鵜沼へと戻る旅にでて、翌年帰還。東遊期間中に作った漢詩などをまとめた詩集「梅花無尽蔵」を書き上げる。それからは旅にでることもなく、80過ぎまで生きたという。没年不詳。

 とまあこのような生涯です。万里の名前は道灌公を調べた時点でわかっていましたが、ここまで詳しくは知りませんでした。さらに万里の書いた漢詩も注釈付で先の本にのっていました。はっきりいって難しい詩ばかりなので、注釈を読んでもわからない事だらけでしたが、道灌公が亡くなった後に書いた一本の詩に万里の底の知れない悲しみを感じ取りました。全ては長いので象徴的な一文だけ記しましょう。
  「黙してこの花に対して、個人を憶う」
 道灌公は万里を江戸城に招いた後で、万里の妻子をも護衛付で招待したり、万里の為に建てた邸宅の庭に自ら桜の苗木を植えたりと、当時の武将としては心の行き届いたもてなしをしていたそうです。それらのエピソードも万里の本で初めて知りました。そのエピソードを踏まえて、漢詩の一文を読んだ時、泪がとまりませんでした。
 また、武士というものは仕える主人はいても、近代的な友情の概念はありません。なぜならば、主人の命令が下れば親兄弟や友達であろうとも討ち果たさなければならないからです。現代人からは信じられないほど厳しい話ですが、それが「武者の道」、「武士道」というやつですね。
 でもその武者として最も輝かしい勝利を重ね続けてきた道灌公が遠来の友の到来に手放しで喜び、友の為に色々と手を尽くしている様はほほ笑ましい限りです。おかげで道灌公の人間的側面も知る事ができました。

 万里の邸宅があったのもこの坂の辺り・・これからは梅の季節を迎えるたびに2人の友情を思い出すことになるでしょう。

 最後に石垣と梅をいっしょに。
石垣と梅林
 ♪上を向いて~、あ~るこう~、泪がこぼれないように~・・お粗末様。

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太田道灌公所用四面兜図~謎の掛け軸~

 先日、九段の靖国神社境内にある博物館「遊就館」にて、所蔵の甲冑や刀剣の展示会が開かれるというのでいってみた。嬉しいことに無料なんですって、奥さん・・。
 まずは参拝をすませてから貴重な収蔵品の数々を堪能させていただいた。撮影できたらよかったんだけど当然不可能なので、興味のある方は自ら足を運んで頂きたい。

 それだけならわざわざブログにあげるまでもないが、展示品の中に一幅の掛け軸があり、その脇に「太田道灌公所用四面兜図」とあったのである・・・!!道灌公に関する本や郷土史は随分と読破し、史蹟や城跡もあらかた巡ったつもりであったが、それは初めて見るものであった。不明な点は早速、博物館スタッフに伺うと・・・

  「明治36年11月4日に寄贈されたものであり、その当時の館長・今村長賀のサインが入っています。また、当館は遺品を預かって展示しているので、専門の学芸員を置いて学術的に究明しているわけではないので詳しいことは全く不明です。」とのこと。・・・置いてるだけなら「遺品展示館」とでもつけておけよ、などと突っ込めるわけも無く引き下がりました。

 そのままではあまりに悔しいのでその掛け軸をスケッチしてここに公開して広く天下に情報を募りたい。スケッチなら文句なかろう。
道灌兜1
道灌兜2
 下手な絵で申し訳ない。図は兜を後ろから描いたものであり、このスケッチではおかしな顔しか描かれていないが、実際の絵はおどろおどろしい面が三つ描かれている。「四面」とあるから正面にもう一つあるかもしれないし、着用者の顔がもう一面ということかもしれない。
 絵からわかることは、兜の上に恐らく木製か紙に漆をぬった面をつけた戦国時代でいうところの「変わり兜」の一種であろう。日本の甲冑のデザインは実に驚くべきものが多々あり、兜に面がついたものの一例にこういうのがある。
三宝荒神兜ミニチュア
 「伝・上杉謙信所用・三宝荒神兜」という。これはそれを参考に造られたミニチュアである。数年前、入手して、以来それがしの部屋に飾ってある。埃がまとわりついていて申し訳ない・・。
 兜に「伝」とついているのは、「上杉謙信が使ったことあるかもしれないけれど、本当のことはわからないよ~。」という意味。実際、武将が合戦の時に、どの甲冑をつけていったかなんてのは謎なのである。我々がイメージしているものは、残された記録・絵巻物から後世に「これこれをつけて出陣した」なんてフィクションばかり。

 おっと・・本題に戻ろう。最大の問題は「何を根拠に道灌公がつかったなんてことをいってるんだ!」ということ。大体、道灌公の時代にこんな奇抜な兜の実例など見たこと無い!近畿の武将なら、ひょっとしたら我々歴史好きの知らない実例があるかもしれないが、ど田舎の関東でそんなデザインの兜などまずありえない。
 可能性として、道灌公の子孫の誰かが使ったものを絵図に残して、更に後世に掛け軸に描いたものかもしれないが、それにしても太田家の「誰が」が問題になる。

 手がかりは・・・兜の上に描かれた「旗指物」らしき「又」の字が書かれたものであろう。それくらいしかないともいえる。ま、これを手がかりに探れる範囲で探っていきたい。ある武将の名が脳裏をよぎらぬこともないが、不確実なことは書きたくない。

 というわけで「知ってます!」って方、いたら教えてね。兜の実物を見たことあるなんて方がいたら最高ですけどね。なんらかの情報をいただけたら・・・それがしの心よりの感謝をささげます。感謝だけね。

 では、また次回。

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太田道灌公木像~七福神も~

 以前、北区の静勝寺(じょうしょうじ)を紹介したが、その際、太田道灌公の木像を紹介できなかった。7月26日は平日だったが、そちら方面に用事をつくっていってみた。

 JR赤羽駅を降りてお寺の方に行こうとするとはじめて見るブロンズ像があった・・。
毘沙門天
 あれ?毘沙門天さまですね。ということは・・
福禄寿
 「はぁ~い!わし、福禄寿!赤羽にようこそ!」元気なおじい・・福禄寿さまです。

大黒天1
大黒天2
 「こんちわ!俺、大黒天。西田敏行じゃないよ。釣りばかな奴他にいるし・・」やや皮肉っぽい大黒様ですね。

布袋
 「ほっほ~!わしゃ、布袋じゃい。立派な腹じゃろう。でもこの間、ドックいったら先生にメタボリックシンドロームだから痩せなさいっていわれたんじゃ・・これで数千年やってきたんじゃがのう。時代遅れなのかな」
 布袋さまお悩みのようです。

寿老人
 「わしは寿老人じゃ!けっして魔法使いではないぞ!どこかの魔法学校とかにはいないからの、きをつけるように!」そのポーズのせいか誤解されやすいようです。

弁財天1
 「ポロ~ン♪」
弁財天2
 「・・・・・」さすがアーティストの弁天様、独自の世界ですね。しかし五輪真弓さんに見えてしようがないのですが・・若い方はわからない?年がバレる・・。

恵比寿1
 「えー・・どっかの釣りバカじゃ。もとい恵比寿じゃ!今日の鯛は活きがいいのお!」関西方面の方ですと「えべっさん」の方が通りがいいとおもいますが。
 「恵比寿様!お願いだから見逃して!私には老いた両親も妻も子もいるんです!」と鯛さん。
 「大丈夫大丈夫、悪いようにはせんて」と恵比寿さま。
 「そんなこといって・・いっつもお造りにするくせに。」
 「お造り?わしゃ、そんな野蛮なことはせんよ。そんな生きたままさばくなんて。今日は愛媛名物の「鯛飯」じゃ!」
 「・・・・・・」鯛さん考え込みます。
恵比寿2
 「やっぱり食べるんじゃないかーーー!!!」逃げようとする鯛さんの尾っぽを笑顔で押さえ込む恵比寿さん・・悪魔に見えてきました。

 まあ、お遊びはこの辺にしておいて本題に戻りましょう。静勝寺自体は以前の記事で紹介していますのでそちらを参照してください。
静勝寺入り口
 お寺入り口です。
 
道灌堂
 毎月26日にご開帳となりますが、7月26日は供養際も開かれるようです。さすがに夕方までは時間が割けないので木像だけ見てきました。

道灌公木像1
 こちらが太田道灌公木像、作られたのは江戸時代、道灌公のご子孫が追善供養のため造ってもらったとか。
道灌公木像2
 着ておられる着物は「道服」、剃髪した武将が来ていた着物のようです。片膝を立て、脇には刀を置き、手には「払子(ほっす)」といわれる仏具を持ち、眼光鋭く前方をひたと睨み据える・・・さすが関東の名将の風韻がただよっていますね。最近のそれがしのパソコンの壁紙にこの画像を使っていますが、立ち上げるたびに睨みすえられるので5回に1回くらいは頭を下げてしまいます。

小道灌公像
 下には太田酒造のカップ酒と小さな道灌公のブロンズ像がありました。字が左から読めますから戦後のものでしょうね。恐らく朝倉文夫先生の作品だと思われます。未確認ですが・・。

 今回はここまで・・次回は武蔵国の鉢形城からお送りします。

道灌公の墓参り~神奈川県伊勢原市~

 太田道灌公に関する史蹟を巡り、本を読み漁り、当ブログで散々勝手なことを書いてきたためかどうも胸の内がすっきりしなかった。これはどういうことかと考えてみれば、そういえば道灌公のお墓参りを済ませていなかったことに気づいたのである。
 埼玉県越生(おごせ)町にある龍穏寺にある道灌公のお墓参りはしたことはあるが、道灌公悲劇の地・神奈川県伊勢原市糟谷は未だ訪れていなかった・・。
龍穏寺の道灌公墓
 この画像は越生町の道灌公墓です。南無南無・・。

 というわけで、バッグに数珠をいれて行って来ました伊勢原に!駅中にある観光協会で伊勢原市内の地図を頂き、色々聞き込みも行いました(ポリ公か!)
伊勢原駅前
 新宿から小田急線に乗れば1時間すこしで到着するものの、いつもの悪い癖がでて、経堂駅まで歩いてそこから電車に乗りました。本当は多摩川越えるとこまでいってやろうと考えていたものの、起伏の多い地形に難渋し、電車にお世話になりました。いい運動にはなったけどね。

 伊勢原市内には道灌公にまつわるポイントがいくつかありますが、それらも巡ってみました。まずは伊勢原市上糟谷にある産業能率大学。
産業能率大学
 この地に扇谷上杉家の居館跡があったといわれており、実際遺構なども出土しています。
上杉館址
 入り口に立つ警備員さんに伺うと、大学構内に遺構跡をしめす案内板があるので建物内に入らなければ見学可とのことでしたので廻らせていただきました。
大溝跡
 この下にかつて大溝があったようです。下に降りてみると・・
大溝跡2
 この湾曲した部分を埋め立てて、上に運動場が作られておりました。他に周囲をざっと巡ってみましたが、特になかったので大学を後にしました。ただ、地形自体は大山の山裾にあるということで盛り上がっており、また深い谷が周囲に存在し、確かに館を建てるには都合のいい場所であるとは感じました。一番重要な水源も大山をはじめとする丹沢山系からの湧き水が街中の溝を流れ込んでおり、豊富な水量であることが理解できました。ただ・・居館としては狭く感じたので、夏の別荘ならば涼しくていいのでは、とも思いましたが。ともあれ、道灌公が謀殺された候補地の一つではあります。

大山の麓・水田
 山と水田がセットで美しい光景ですね。

洞昌院
 大学からまっすぐ伊勢原市内方面に道を下って行くと、途中「道灌塚前」というバス停がございますので、そこを曲がっていくと「洞昌院」というお寺が見えてきます。お墓自体は本堂から外れた敷地ですので、本堂の画像は撮っていません。
道灌公・胴塚
 こちらが太田道灌公のお体が荼毘に付され、埋められた所です。南無南無。その両脇には・・
万里集九手植えの木
 道灌公の詩友・万里集九(ばんり しゅうきゅう)が植えられた木の根が残っています。道灌公と万里集九が実際にあって、連歌や漢詩を作って楽しんだのは道灌公が亡くなるわずか数ヶ月前・・、それでも万里集九は友の死を大いに悲しみ、墓前に樹木を植え、扇谷上杉定正が慰留したにも関わらず故郷の美濃(岐阜県)に帰っていってしまい、死ぬまで故郷を離れなかったそうです。その深い悲しみ、察するには深すぎます。

三徳殿
 洞昌院には道灌公の霊廟「三徳殿」もあります。
三徳殿の扉
 霊廟の扉には太田家の家紋・「桔梗」紋が施されております。太田家の家紋はこのほかに「かぶら矢」紋があります。
かぶら矢紋
 二つの紋の由来は太田家の先祖といわれる「源三位頼政(みなもとの さんみ よりまさ)」が「ぬえ退治」の時に帝からかぶら矢と桔梗紋のはいった装束を拝領したことによります。さらに「かぶら矢」紋は太田家嫡流しか使用を許されていなかったそうですが、現代がそうかは知りません。
 現代の永田町にも「ぬえ退治」が必要な気がしますが、国情が落ち着き、選挙ができる時を待つしかありませんね。「臥薪嘗胆」の気分です。

 閑話休題。

七人塚
 道灌塚からほど近いところに「七人塚」がございます。道灌公といっしょに討たれた忠臣らのお墓でかつては七基あったものの、現在は一つにされてしまったとのこと・・室町は遠くになりにけり。南無南無・・。

 この地では「みやび男の子の 道灌様は 花も実もある あづま武士」と地元民に謡われているそうです。

 ちなみに洞昌院近くに「太田神社」がありますが、道灌公とはまったく関係ない宗教法人ですので、うっかり立ち寄らないように。

 今度はもとの道に戻り、東名高速道路を越えたところにある「五霊(御霊)神社」に向かいます。その途中には・・。
なぜか鳥居
 なぜか鳥居だけぽつんとあります。向うは駐車場だし。とりあえず潜ってみると・・
振り返って納得
 振り返って納得!大山阿夫利神社への参道というわけですね。確かにまっすぐのぼっていけば麓に到着しますからね。

五霊神社
 東名高速を潜ったすぐ近くにこの神社が・・ん?小さい・・。この神社は事前調査では、伊勢宗瑞(北條早雲)が道灌公の遺徳を偲んで、着用していた兜を御神宝にして祀った神社なんですが・・ほんとに村社ですこしがっかり。日本史上のビッグネームが2人も関わっているのに、この扱い・・仕方ないですね。
五霊神社
 せめて扁額を見ていただきましょう。

 神社からさらにくだると、国道246号(都内でいう青山通りですな)に出ますので、道を東に行きます。
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 その途中、伊勢原市役所前の道灌公像にあいさつ。前にも来ましたがね。
  「おお!また来たな、若いの。今度はわしの墓参りか・・酔狂なことよなあ・・。」と言われたような気がします。ええ、酔狂をずっとやってますので。

 新道灌橋 
 市役所を後にしてさらに東にいくと「新道灌橋」と書いてますね。光線でわかりづらくてすいません。

 さらにいくと丸山城跡1
 丸山城址公園にたどりつきます。ここも近年、発掘調査が行われ、こここそ扇谷上杉氏の居館があったところではないか・・といわれているところです。確かにここなら街道上ですし、敷地を広くとることもできるでしょう。
丸山城跡2
 階段の先が高くなっていますね。
IMG_3647.jpg
 ああ、これはいい広場ですね。弁当持参でピクニックにいいところです。
丸山の土塁1
丸山の土塁2
 周囲には土塁が残っており。
IMG_3652.jpg
 眼下には住宅地が広がっております。眼下といってもそれほど高くないですが。
丸山からの大山
 広場の一角からはるか大山が遠望できます。この街は何をおいても大山ですなあ・・。

IMG_3659.jpg
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 丸山城址公園を国道が通っているんですね。迂回とかできなかったんでしょうねえ・・仕方ない。城址の一角に前回紹介した「高部屋神社」があります。

 丸山城址を後にして路地をいくと、道灌公のもうひとつのお墓が見えてきます。
道灌公首塚1
 ここは道灌公の首塚といわれております。ここでも南無南無・・。


 さてここで道灌公の謀殺について考えてみたい。道灌公は主君・扇谷上杉定正の新しい居館の完成披露に呼ばれ、その館で殺害されたという。場所が産業能率大学か丸山城址かはどしらでもいい。館自体、謀殺後に取り壊されたろうし、確かな場所特定の手がかりもほぼ無いだろうから考古学者にまかせよう。
 所詮、素人であるそれがしはその謀殺が「愚かな主君により殺された可愛そうな道灌公」という従来型の見方がどこまで正しいか、ということである。もちろん、それがしは道灌公がすきだし、その謀殺が許せない気持ちもある。

 だが今までみてきたように上杉定正もただ愚かな男というわけでもないし、道灌公も傲慢なところがあり、それが上杉家中から嫌われていたという側面もあった。そもそも道灌公は定正の家来であるわけだから定正にしてみれば「謀殺」などとは片腹痛い物言いであり、彼自身は「上意討ち」という気持ちが強いだろう。
 実際、定正は「主君・山内上杉顕定の為に(道灌を)上意討ちしたのに、自分を退治するとはどういうことか」と書き残して憤慨している様がよくわかる。

 また道灌公自身にも油断があった。そもそも「長尾景春の乱」発生の前提として、古河公方・足利成氏と京都の将軍・足利義教・義政とが争った「享徳の乱」があるが、その説明のために南北朝動乱まで遡る必要があるためここでは割愛する。
 ただ、成氏は同じく将軍にさからった父親・持氏がわずか数ヶ月で自害したにも関わらず、成氏は28年にわたって断続的に抵抗を続けてついに両者の和睦まで持ち込んだのだ。その事実は大きく、道灌公も以後の「関東静謐(かんとうせいひつ)」の為に成氏と両上杉家との間で奔走したことだろう。その中で道灌唯一の実子・資康が元服した後、成氏のもとに出仕させたという。
 ここは注意を要するところだろう。道灌の主君は定正であり、本来実の息子を出仕させるなら定正の下にというところが筋だ。それを成氏の下にということは、単に両家の和解以上の意味を持つのではないか!更に踏み込めば成氏の武将としての男振りに道灌公も惚れ込み、実子を預けたのではないだろうか?武士が実の息子を預けるということはその子の生涯の主君を決めるということであり、道灌公の「武者の道」(「武士道」といいかえてもいい)を通す筋道として、今後足利成氏を盛り立てることで関東の平和、ひいては天下の平和を目指したのではないだろうか・・?というのはそれがしの推量にすぎないが、今後は足利成氏を調べ上げるという次の目標ができたのも確かである。

 結句、道灌公の謀殺は個人的には悲劇的だとは思うが、道灌公が謀反するまでとはいかないが主君を乗り換えようとしたことにより、上杉定正から討ち果たされた、というのが事件の真相ではないか?と思う。

 ちなみに道灌公の実子・資康は道灌謀殺後に山内上杉家に鞍替えし、生涯を扇谷上杉家との戦いに捧げ、20台半ばで討ち死にした。彼の父に対する尊敬の念や思いは察するにあまりある。道灌の孫にあたる資高は北條氏綱に寝返って扇谷上杉家を江戸城から追い出したのであった。因果は巡り巡って・・というところか。

伊勢原の水田
 無事お墓参りを終えるとなんとも言いようの無いすっきりとした気持ちになった。いわば「憑き物」が落ちたような・・。これは不思議な気持ちであった。そこで周囲を見渡すと、すでに田植えが終えられており、青い空がよく映えて美しい光景であった。今年も美味い米がとれるといいなあ・・。

 ではまた次回!

小机城~太田道灌が落とした城~

 先日、横浜市港北区にある小机城に行ってみた。太田道灌が「長尾景春の乱」の初期段階で攻略し、乱の流れを決定づけた城である。さすがに遠いので、渋谷から東急東横線に乗り込んだ。普通にいくなら菊名まで乗り、菊名でJR横浜線に乗り換えて小机までいけば目の前だが、それでは面白くない。城はその周辺地域を歩くことにより、なぜそこに建てられたのかということが体感できるのであるから(自論だが)菊名で降りてみた。

 菊名からは横浜線の線路に沿ってひたすら西に行くのみ。途中新横浜駅を挟み、さらに行く手に横浜国際総合競技場など見えるが、それらは横目にしつつひたすら歩く・・といきたいところだが、道端にまた興味深い道祖神などがいくつもあった。
道祖神
 こちらは菊名駅付近。東京ではなかなかみかけない。
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 こちらは新横浜駅付近、恐ろしげなお顔立ちで・・足元には三猿も彫刻されております。

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 こちらは小机城付近の一角にあったもの。歩いている途中、あちこちに道祖神や地蔵様が祭られていたのがとても新鮮であった。今まで日本全国色々行って来たが、一地域にこれほど多いのはめずらしいと思う。
 肝心の地形だが、あちこちに宅地化された丘陵地帯が広がっており、新横浜駅付近まではなかなか前方を広く見渡すランドスケープが得られなかった。新横浜を過ぎ、駅前のビル街や環状二号線をすぎた辺りから唐突に視界が広がる。
競技場
 こちらは国際競技場ですね。ここで幾たび名勝負が繰り広げられてきたことか・・よく知らないけど。

小机城・下から
 競技場を横目に見つつ、脇を過ぎていくとやがて小机城跡・・現在の「小机市民の森公園」が見えてきます。この画像は北側の麓から見上げた画です。登るには南側の住宅街に廻り込んでいかねばなりません。初めて行くとすこし分かりづらいので看板立ててくれるといいんですがねえ・・。

 道灌公はこの城を一月ほど包囲しておりましたが、味方の数が少なく士気が挙がらないのである歌を謡い、軍歌代わりにして足軽らにうたわせました。その歌があの有名な・・
  「小机は 手習いのはじめにて いろはにほへと 散り散りとなる」 

小机入り口
 気を取り直して短い坂道を登っていくと、入り口が出迎えてくれます。この先に「根小屋広場」がありましたが、それほど広くも無く、公衆トイレとベンチ・水のみ場などがありました。
小机城見取り図
 広場の一角にあった地図です。中に入る前に虫除けスプレーを全身にくまなく噴射しておきましょう。やぶ蚊はズボンの上から刺してくるほど強力ですからね。

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 竹の緑が目に眩しいですね。
小机の郭
 柵があるので立ち入りはできませんが、もしここを切り開けば郭になる場所です。この公園は周辺住民による「竹の子クラブ」なる団体により管理されており、週末ともなれば竹細工を指導してくださる方もおられるとのこと。
 それにしても竹の多いこと。これでは「小机城」ならぬ「竹薮城」ですな。

空堀1
空堀2
 上の二枚は長大な空堀の底に下りて撮りました。本当は降りてはいけないのでいい子は真似しないように。

空堀
 小机城跡自体は後に後北條の手がかなり加えられているので、室町時代の遺構など望むべくも無く、また第三京浜道路が南北ど真ん中を貫いてくれているので雰囲気ぶちこわしでありますが、竹林のおかげで騒音などはそれなりに軽減されており、空堀の底などは実に静かでした。下から上げていると、ここを攻めあがった兵どもの雄たけびが・・気のせいです。

二の郭跡
 こちらは「二の郭跡(仮称)」です。発掘調査による確定がなされていないそうなので仮称とのこと。

せいろう跡
櫓跡
 周辺にはこのような痕跡がのこされております。

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本丸跡までいきましょう。
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 本丸跡は少年野球ができるくらいの広場にされており、城跡を想起させるものはほとんどありませんが、片隅に小さな石碑が建てられております。

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 丁寧な看板があるのが救いですね。

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 こちらは本丸直下の空堀跡が通路化されたものです。撮影するならここからがオススメですね。
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 小机城跡自体は1時間で廻れる小規模なところですが、竹林を楽しみつつ散策できるいい所ですね。ただ、虫が多いので、虫除けスプレーと長袖・長ズボン・トレッキングブーツなどの用意は必須でしょう。軽々しく短パンなどでいかないほうがいいです。ちなみに種類はわかりませんが、ヘビもみかけました。気をつけないとね。

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 小机城を後にして、道灌公が本陣を置いてた「亀の甲山」に向かいます。こちらの中央のこんもりした丘陵が小机城です。
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 鶴見川の対岸を渡った小高い丘が「亀の甲山」です。今では山頂が削られて工場が広がっていますが、昔はもっと盛り上がっていて亀の甲を伏せたような山だったそうです。

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 鶴見川の川面を見ていると、浅いところに波がたっています。ある時、道灌軍が夜間行軍中に渡河しなければなりませんでしたが、浅いところがわかりません。道灌公は次の古歌を詠んで部下を励ましました。
  「底ゐなき 淵やは躁く山川の 浅き瀬にこそ 化波は多くて」そんなエピソードを思い出しました。

 さて、ここまで来て思いついたことがある。前回記したように豊島泰経は小机落城の際、道灌公にひそかに逃されたという伝承が豊島家に伝わっているそうだが、ならば近在の寺社になにか伝承が残っているのではないか?泰経は熊野権現を祀った神社に匿われていたのではないか?と考えて訪ね歩いてみた。

 まず伺ったのは亀の甲山にある専念寺、浄土宗のお寺でしたが、特に何もご存知ありませんでした。
 
 そこでもう少し北上した新羽(にっぱ)町に着目。地図だといくつかお寺や神社がありましたので横浜市営地下鉄沿いにある光明寺に伺いました。真言宗のお寺で明応5(1496)建立の古いお寺。道灌公死後の10年後に建てられたんですね。ここは住職が不在でして、御内儀も特にご存知ないとのことでしたが、「新羽町史」という地元の有志が纏めた本を頂いてしまいました。一度お断りしたんですが、「沢山あるから・・」とのこと。ありがとうございました。
 更に近所の西方寺(さいほうじ)なら前代の住職が元気でいらっしゃるとのことで何かご存知かもと教えていただきました。

杉山神社
 西方寺に向かう途中、こちらの神社に立ち寄りました。「杉山神社」というありふれた名前でしたが、熊野権現が祀られているかもと考えて見ると・・?
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 おお!熊野神社も祀られています。早速お参りをすまし、境内にある民家を訪ねてご在宅であった宮司さんに経緯を説明して、伝承の有無を伺うと残されていないとのこと。
 「ここは村社だからね。昔いくつか周辺にある神社を纏めて合祀したんだよね。道灌?亀の甲山に陣を敷いたとは聞いたことあるけどね、言い伝えはないなあ・・」残念でした。
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 狛犬殿は何かご存知でしょうか?

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 というわけでやってまいりました。西方寺。川崎町田街道から一本はいったところにございます。両脇の地面が苔に覆われた参道をまっすぐ行くと立派な山門が出迎えてくれます。なんと茅葺ではないですか!

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 山門には・・
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 堂々たる龍の木彫がございます。
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 本堂もまた堂々たる造り、茅葺です。西方寺は建久5(1196)年、鎌倉の笹目ヶ谷に建立、大いに栄えましたが、室町時代の明応4(1495)年に当地に移転されたとのこと。
 本堂に向かって手を合わせた後、早速訪問させていただきました。幸い、どなたもご在宅で玄関先で先代住職からお話を伺うことができました。
 結論から言えば、やはり伝承はないとのこと。このあたりは鶴見川の流域で田んぼや畑ばかりで洪水がなければ「新羽千石」といわれたほど実入りの多い農業地帯であったけれども、一度水害に見舞われれば何もかも押し流していった土地であったそうです。確かに鶴見川の流れがこのあたりを大きく蛇行していますね。
 さらに昔はこの近辺まで船が遡ってきており、収穫したお米を積み込んで江戸まで運んでいたそう。
 小机城に関しては、城下に「矢之根」という地名が残っており、道灌公の陣所から飛んできた矢が沢山突き刺さっていたという話を教えていただきました。地図をみればお城と陣所の間は2キロくらいあって到底矢が届くはずはないのですが、このあたりで激しい戦闘が繰り広げられたのかもしれません。
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 ご住職ありがとうございました。お健やかに。

 別の日、墨田区にある報恩寺で道灌公供養塔を拝見してきました。
報恩寺
 墨田区太平1丁目にある報恩寺、近くにはスカイツリーもございます。
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 こちらも「山吹伝説」の地ですか?
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 この石碑は戦後のもの。
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 太田道灌公。
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 山吹の花を差し出した娘。
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 こちらが太田道真・道灌両公供養塔です。南無南無・・。
 道灌公が江戸城築城の際、長禄2(1458)平河町に「本住院」を建立したが、道灌公の息子・資康の法名「報恩」からとって資康の息子・資高が「報恩寺」と改称。江戸時代に入り、神田・谷中と移転し続け、元禄8年に現在地に移転。

 今回で太田道灌公を巡るのは一旦終了したい。練馬・石神井公園を巡ることから道灌公の素顔に迫る旅が始まったが、歴史書を読むだけではわからないことが史蹟を訪れたり、地元の方に伺うことで更に深く知ることが出来た。これも道灌公のひきあわせか。
 最後に道灌公の書状「太田道灌状」から名言を一つ紹介しておわろう。

  「国に三不詳あり。賢人あるを知らざるを一不詳、知って用いざるを二不詳、用うるも任せざるを三不詳。このことを徳と失になぞらえれば、任と不任にあることになるのではないか。」

 この名言をも含む書状を読んだ上杉定正に道灌公は殺され、関東は戦国に続く混乱期に突入していった・・・。
プロフィール

サムライ銅像研究会

Author:サムライ銅像研究会
歴史と銅像と芸術が大好きなあまり、日本各地を東奔西走する銅像・史蹟ハンターである。神出鬼没なため、脈絡無しのブログ更新を続ける。掟はただ一つ!「死して屍拾うものなし!」昔の時代劇の決め台詞だけどね・・皆さん、見てやあ!
 最近、キューピーに侍の装束を着用させる遊びをやっております。「武者ピー」と呼んで可愛がってやぁ~!以後は「キューピー甲冑師」とも名乗ります。

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