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太田道灌公の銅像10体目!~埼玉県川越市~

 埼玉県は川越市鯨井(くじらい)にある長福寺に太田道灌公の銅像が建ったというので撮りに行ってきました。
新宿から西武線・東武線と乗り継いで1時間半くらいかかったかしら・・・。
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 霞ヶ関といっても千代田区ではございません。真ん中の女の子はたまたま写り込んだだけなので他意はございません。まあ、直前にオジサンが通り過ぎるのは待っていた訳だが・・・

 銅像巡りの旅に付き物の徒歩移動・・駅から歩いて20分ほどかな・・暑い日でしたが、風が吹き、蝉の合唱も賑やかでしたので楽しい散策でした。途中には・・・
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 日枝神社、村の鎮守様ですが、創建は貞観年代(860年頃)・・古いですね。ここには狛犬殿はいませんでした。代りに灯篭がたっていましたが、年号は正徳元(1711)年。新井白石が江戸城で働いている頃です。古い!

 さらに歩くと・・・
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 こちらは八坂神社。今年も京都の祇園祭は盛大だったようで・・こちらの八坂さんはいつ建ったか不明でおま。ふと視線を感じると・・・
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 鬼瓦はんに見おろされておりました。ひぇぇぇ・・・何も悪いことはしてはりませんによって・・ほな、さいなら!

 途中、関西弁が混じってしまいました。このへんの神社は狛犬殿がおりませんなぁ・・。さて八坂神社からだともうすぐです!

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 今回の目的地「曹洞宗 吉祥山 長福寺」です。中にはいりましょう。
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 こちらが建てられたのは永享元(1429)年、京では「くじ引き公方」こと足利義教が猛威を振るっていますな。

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 堂々たる山門を潜り・・・

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 本堂でご本尊さまにご挨拶をすませ・・・いよいよ

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 いました!静かな境内の一角に柔らかな木漏れ日をうけて佇んでおります。
   『開山 雲崗俊徳(うんこうしゅんとく)禅師 弟子 太田道灌公』と台座には刻まれております。
 作者は重岡建浩氏ですが、ネットで調べても何も出てきませんでした。はて?今後の宿題とします。

 こちらでは以前にも書きましたが、太田道灌公がいつ出家したのかよく分かっていないのです。それどころか俗名も「持資」とも「資長」ともいわれており、よくわかっておりません。当ブログでは「資長」説を採用し、関東全域を巡って大田道灌の謎を追ってまいりましたが、最大の謎の一つ「道灌さん、あなたはいつ出家したの?」という疑問には答えが示されておりませんでした。
 そこに今回のこの銅像・・・道灌公については色々調べていますが、この長福寺は全く知りませんでした。河越は太田家ゆかりの街ですから足跡はあちこちにあるでしょうが、古い話ですからね。

 ともあれ銅像を見て行きましょう。まずは禅師から・・
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 厳しくも慈愛に満ちた視線を注がれております。思わず手を合わせたくなるような・・続いて道灌公。
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 道灌公も心穏やかに手を合わせております。出家後もまだまだ関東の騒乱は続き、このわずか十数年後に相模・糟屋館(神奈川県伊勢原市)で討たれる訳ですが・・。それにしても穏やかな表情です。撮りに来て良かったです。

 さて、出家年次問題ですが、「文明6(1474)年説」と「文明10(1478)年説」の二つあります。前者はその前年の文明5年に道灌の主君・扇谷上杉政真古河公方・足利成氏により討ち果たされたため、主君の菩提を弔うためと考えられます。後者は昭和30年代に刊行された『東京百年史』に書かれておりました。理由はなんだったかな・・古い本なので都内の大きい図書館でも置いてないところが多いかな。
 文明6年に江戸城で行われた連歌の会で「道灌」が資料上、初確認されています。ま、資料は改竄されている可能性もあるので、「資料にあるから間違いない」と思い込むと真実を見失いがちなので色々と傍証を集めていかないといけません。
 その意味でも長福寺の存在はありがたい。あいにくと住職は法事でご不在でしたが、ご家族にお話を伺うと住職もお寺の歴史を独自に調べており、道灌公についてもかなりお詳しいとのこと。また、禅師についても面白い情報を伺えたが、まだ自分では郷土史など調べていないので公開できるレベルではありません。今後、折を見て住職と連絡を取らせて頂き、公開できる範囲内でまた色々書きたいと思います。

 今回はここまで。色々収穫のある日でした。

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関東の名将・太田道灌公

 今回は関東各地に9体存在する太田道灌公の銅像を紹介したい。ちなみに日本で1番数の多い銅像は松尾芭蕉の27体、二位が坂本龍馬の18体、三位は明治天皇の12体のようで、太田道灌公は六位である。ただ、銅像は都市計画の変更により増減があるので上のランキングもかわっていくだろう。特に二位の龍馬などまだまだ増えていく可能性があるので首位に躍り出る可能性もある。
 銅像について詳しく知りたい方は、それがしも懇意にさせていただいているヒロ男爵の「日本の銅像探偵団」のHPを参照されたい。アドレスは下記に。
        http://www.geocities.jp/douzouz/
 それがしもここで情報を得た後により詳しい地図などで調べるようにしている。またヒロ男爵の銅像ブログ「銅像のススメ~めざせ次世代観光カルチャー~」とそれがしのブログもリンクさせていただいている。参照されたい。アドレスは下記に。
        http://ameblo.jp/7tv9/

 さて本題にはいろう。太田道灌公は室町時代中期の武将。道灌は法名、名前は資長、幼名は鶴千代丸。鎌倉の建長寺や下野の足利学校で学び、その英才ぶりを世に讃えられていた。元服してからは父・道真を補佐し、やがて家宰職を継いでからは武将として主家の扇谷上杉家を支えて享徳の乱や長尾景春の乱を戦い抜き、関東に平和をもたらした。
 また文化人としても一流の歌人であり、上洛した際には時の天皇の御下問に歌で見事に応えるなど、その声望は天下に満ちた。
 しかし、満ちた月はやがて欠けるもの・・主君の上杉定政に妬まれ、伊勢原の館で入浴中、刺客に襲われ「当方滅亡!」とうめき、絶息したのである。
 その後、小田原の北條が関東に進出し、上杉家は徐々に衰退していくのである・・。

 簡単にその来歴を記したが、関東にとって道灌公は格別の人物である。まずは東京都の3体から見ていこう。

新宿・中央公園の道灌公1
新宿・中央公園の道灌公2
 まずは新宿中央公園内にある「久遠の像」、道灌公の山吹伝説に基づいた銅像だ。都庁の目の前にある公園だ。山吹伝説とは・・道灌がまだ若き日、狩の途中に突如雨に降られた。困った道灌は近くの農家に馬を繋いで訪いをいれた。出てきたのはそこの娘であった。
 「もし、娘御よ。雨に遭い難渋しておる。蓑笠などかしてくれぬか?」と丁寧に頼んだが、娘は平伏したまま黙って山吹の花を差し出した。困惑した道灌はそのまま馬に乗り、館へと急いだ。
 帰館した道灌は老臣にその話を聞かせたところ、その老臣は・・
 「若、古歌に「七重八重 花は咲けども 山吹の みの一つだに なきぞ悲しき」というがございまして、その娘は蓑笠がないことをいうのが恥ずかしく和歌で察していただきたいとそのようなことをしたのでしょう。また貧しさの中にも学問を忘れぬ心がけこそ天晴れともうすべきでしょう。」との忠告に道灌は胸を打たれ、政務に励む一方、和歌の習得にも力をいれ、後世、一流の歌人の一人に数えられる方となったのです・・というもの。
 戦前の教育では必ず語られる話であり、戦後もそれがしより上の世代はまだまだ知っている方々も多いはず。

 ちなみに銅像の作者は不明。わりとザックリした作りなのでアップで撮影するものではない。

日暮里の道灌公1
日暮里の道灌公2
 次は日暮里(にっぽり)駅前の道灌公銅像「回天一枝の像」、作者は橋本活道。流鏑馬か笠懸か犬追物かは不明だが、馬上で矢を射た後に残心を見事に決めているポーズ。「動中静あり」である。
日暮里の道灌公3
 ビルをバックに撮影。往時はこの辺りも原野と田園風景だったんだろうなあ・・。

有楽町の道灌公1
 こちらは有楽町駅前の国際フォーラム内にある道灌公像。作者は朝倉文矢。都庁が有楽町にあった頃、道灌公像が都庁前のランドマーク的存在であった。

 続いては最多の4体を誇る埼玉県。
岩槻の道灌公1
岩槻の道灌公2
 岩槻区役所(かつては市だったが、市町村合併によりさいたま市に編入)前、作者は不明。岩槻はかつて太田道真・道灌親子が築いた岩槻城が存在した。また近くの芳林寺が太田家の菩提寺の一つであり、道灌公騎馬像が存在する。
芳林寺の道灌公1
芳林寺の道灌公2
 数多い銅像の中で唯一、甲冑姿である。右手には軍配を携えており、名将としての風韻を漂わせている。作者は冨田憲二・山本明良。難点を言えば、甲冑の考証が甘いことと銅像としては若いことだろう。歳月が経てば別の風格が出てくるに違いない。

川越の道灌公1
川越の道灌公2
 続いては川越市役所前の道灌公像。作者は川越在住の彫刻家・橋本次郎。像の線の細さが「文人」を強調しているように見える。

龍穏寺山門
 こちらは越生(おごせ)町にある太田家もう一つの菩提寺・龍穏寺。
道灌公
 本堂の前に道灌公が佇んでおられる。作者は先ほどと同じ橋本次郎。さて、道灌公の墓参を済ませておこう。
道灌公のお墓
 南無南無・・皆様もどうぞ。

 道灌公はある時、上洛して時の将軍・足利義政公に拝謁し、関東の情勢を述べて平和に導く策を献上したという話がある。真贋は不明だが、兵法に通じていたこともあり、幕府管領・細川勝元公に中国の兵法書(武経七書のうちのいずれか不明)を贈呈したという話も伝わっている。
 その際、将軍の引き回しで時の天皇・後土御門天皇に拝謁し、御下問に応えられた。
 「武蔵野とはいかなるところか?」との問いには「露おかぬ かたもありけり 夕立の 空より広き 武蔵野の原」と歌で返す。
 また「隅田川の都鳥は何か?」には「年ふれど まだ知らざりし 都鳥 隅田川原に 宿はあれども」と返歌。最後に「そなたの江戸城からの眺めはいかに?」に対しては「わが宿は 松原つづき 海近く 富士の高嶺を 軒ばにぞみる」といずれも見事な歌で返したのである。現代人の感覚でも、わずかな言葉で空間美を伝える歌に鮮やかな美意識を感じ取れる。

 さて、次は静岡県。こちらは1体。
熱川の道灌公1
 熱川温泉のホテルの一角にあります。作者は堤辰男。
熱川の道灌公2
 こちらは角ばったあご、太い首、ピンと伸びた背筋、広い肩幅ととても男性的な銅像。武将・道灌の面影を彷彿とさせる。
 さて、熱川(あたがわ)の地名は道灌公が狩でこの地に来た時、川が海に注ぐところに猿が浸かっているのをみて、また湯気が昇っている風景から熱川と名づけたという伝説が残っている。事実、この銅像には右に猿もいる。

 最後は神奈川県伊勢原市。道灌公が落命したところだ。
伊勢原の道灌公1
伊勢原の道灌公2
 伊勢原市役所前にある。作者は慶じ丹長。川崎・新田神社の新田義貞公像や横浜・かもん山公園の井伊直弼公像の作者と同じである。

 急ぎ足で9体を紹介してきたが、いがかかな?太田道灌公はそれがしが楠正成公や上杉謙信公とは別に尊敬する武将である。また道灌公は「大和心(和歌のこと)がわからなければ、良き武将とはいえない」との言葉も残されているので、それがしも最近では「王朝秀歌選」岩波文庫など買い求めて音読したりしている。

 今回はこれまで!明日は誰にしよう・・。
プロフィール

サムライ銅像研究会

Author:サムライ銅像研究会
歴史と銅像と芸術が大好きなあまり、日本各地を東奔西走する銅像・史蹟ハンターである。神出鬼没なため、脈絡無しのブログ更新を続ける。掟はただ一つ!「死して屍拾うものなし!」昔の時代劇の決め台詞だけどね・・皆さん、見てやあ!
 最近、キューピーに侍の装束を着用させる遊びをやっております。「武者ピー」と呼んで可愛がってやぁ~!以後は「キューピー甲冑師」とも名乗ります。

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