「松平家忠日記」~戦国時代の落書きを見る~
人は絵を描く生き物である。洞窟で暮らしていた頃から落書きし、エジプトのピラミッドにも大昔の落書きやナポレオン軍の兵士の落書きもある。現代の街には「グラフィティ」と称する落書きもある。人間、暇すると手が疼きだすらしい・・・。
今回は戦国時代の武将が書き残した日記の余白に描かれた落書きを紹介し、その人物を紹介したい。
江戸幕府・初代将軍であった徳川家康に仕えた武将の一人に松平家忠(まつだいら いえただ)がいる。弘治元(1555)年、三河の深溝(ふこうず)城主の伊忠(これただ)の嫡男として生まれ、天正3(1575)年、長篠合戦の前哨戦である「鳶巣山奇襲戦」で父を亡くし、家督継承。それから徳川領内の城や道路、市場などの土木工事を行い、合戦や城の守備に当たり、時に息抜きとして連歌や狩猟に興じたりして家康の活動を下支えする武将の一人として確実にキャリアを重ねていった・・が、彼もまた戦国の武人。天下分け目の大戦「関ヶ原合戦」の前哨戦である「伏見城攻防戦」において、押し寄せる西軍の大軍を他3人の武将や少数の兵士らと共に手強く抵抗し続けたものの、衆寡敵せず、ついに切腹、慶長5(1600)年に数え年46歳でその生涯を閉じたのである。
はっきりいうと「地味」な武将であり、他に有名な武将は沢山いるが、彼が天正5(1577)年から文禄3(1594)年まで足掛け18年に渡って書き続けた「松平家忠日記」が彼の名を正史に燦然と輝かせることとなったのである。
その日記を読むと、自弁で戦や土木工事にあたって借金に苦しみ、同僚や上司を接待してまた借金し、ストレスや疲れを癒すために川狩り(投網漁)や鷹狩、連歌の会や茶会を楽しみ、時に娘の病気を心配したり、息子誕生を喜んだり、当時の世情を揺るがせた大事件を自分が関係した所のみを淡々と書き綴ったりと実に読みどころが多い。昔の人の文章なので、読みづらい部分もあるが、ほとんど事実のみを記した備忘録の形をとっているので、興味をもたれた方は図書館などで探して読まれるといい。
日記の大意をまとめて読みやすくした本なら角川選書からでた「松平家忠日記」盛本昌広氏:著が入門編としてオススメだし、日記そのものを読みたいなら、1955年に出版された臨川書店の「松平家忠日記(全2巻)」がとてもいい。特に後者は家忠が余白に描いた落書き194点を2巻の後ろに載せているので面白い。
え?文章が苦手?ならば・・
こういう本もある。愛知県に、いや岡崎にお出かけの際はこんな本が博物館や書店で購入できるし、ネットでも購入できる。正確には「三河武士に会いたい」というサイトで作者本人とやりとりしないと買えないのだが・・。
本題からそれた。今回は家忠が描き残した珠玉のイラストの数々から注目すべきいくつかを紹介したい。
まずは・・・
このひげオヤジ・・誰を描いたのかは不明。案外、主君の家康その人かもしれないし、直接の上司であった酒井忠次(さかい ただつぐ:徳川四天王筆頭)かもしれない。でも頭ツルツルだから家忠が懇意にしていた坊さんかもしれない。本人に聞いても「さて、誰だったかのう?」と二ヤリと笑ってとぼけそう。
その隣のこれ・・? 推測すると、落城などで逃げ延びている人々を描いたものか。恐らく身包み引っ剥がされた女房衆ではなかろうか?数人で1枚の筵で体を隠しながら落ち延びているところか。こういう絵を見ると、当時の残酷な世相が垣間見える。
この左の生き物・・?何だろう?猿回しの猿かな。日記を読んでいても、遠国から踊りを生業とする人々が家忠の城に来て踊りを披露したとあるから猿回しが一座の中に混じっていたのかもしれない。
馬上の武者。その眉がとても強気だ。こうでないと荒くれた足軽達を率いることなど無理だろう。
これは担いでいるものから鉄砲足軽と思われる。ここで注目してほしいのは彼の服装だ。後ろからで正確にはわからないが、陣羽織を着て、腰を帯で縛っている。ひょっとすると鎧は着ていないかもしれない。昔の合戦図屏風を見ていても、鉄砲や弓など離れた所から攻撃できる武器をもった足軽は動きを軽くするため、鎧を着ていない場合が度々ある。たまにふんどし一つで刀振り回している奴も描かれているし・・現代でよかったなぁ・・ワイルドすぎるぜぇ~。
これはある日のメニュー、恐らく接待用かな・・?これを見ていると、食べたものをブログに載せている現代人と変わらない。そういえば、ある人が家忠を「ツイッター武将」と表現したらしい。上手い!座布団1枚!
これは家忠夫婦の団欒かな。平安貴族も遊んだ双六をやっているところかもしれない。家忠は連歌を嗜み、時に毎月のように連歌会に出席していたから古くからの風流な遊びにも通じていたようだ。夫婦で双六やっているなんてかわいいところありますな。
これは牛若丸と弁慶の五条大橋での決闘だろうか?でもこの牛若丸、笛じゃなく刀抜いているしなぁ・・どうなんだろう?
イラスト色々である。こう見ると、絵心はあったようですな。現代人が電話しながら書き散らす落書きよりよほど上手い。
この人?謎の乗り物に載っているのか、膝や太股が異常に発達しているのか??でも機嫌よさそうだな。
将棋の棋譜ね。それがし、将棋やらないのでわからないが、上手い人がみたらどっちも上手い指し手ではなかったみたい。細かく描き残したのにねぇ~。残念。
人魚が描かれている。これは・・
「天正9年4月20日(旧暦です) 正月20日に安土(織田信長の安土城下)にかんてんちへあかり候。安土に而食人をくい候。声は『とのこほし』と鳴候。せいは六尺二分、名は人魚也」
日記からそのまま抜粋。地名など分からない部分があるが、噂話を書き留め、人魚を想像して描いたものらしい・・ほんとお茶目なオジサマ!
でも翌年に例の「本能寺の変」・・異変は織田信長の足元で起きていたのかもしれない・・・。
まだまだ沢山紹介したいが、収拾つかないので最後にこちらを紹介しよう。
恐らく、掛け軸や屏風によく描かれてきた「猿こう図」と思われる。水面に映った月をつかめるものと勘違いした猿を題材として描かれたものが古来から沢山あるが、これもその図だろう。家忠も老後に真剣に絵に取り組んでいれば、傑作を残したかもしれないという可能性を感じる。
だが時代がそれを許さなかった・・。
豊臣秀吉の死後、天下は急速に徳川家康の下へと傾き、その権勢は豊臣秀頼の存在を霞ませるほどのものであり、石田三成など豊臣恩顧の大名は切歯扼腕して状況の展開を図ろうとしていた。
徳川家康はそれと察しつつ、自らの命令に服さない会津の上杉景勝を討つべく大軍を編成し、関東へと旅立とうとしていた。家康は出発前に幼馴染でもある鳥居元忠や内藤家長、松平家忠、旗本の松平近正らを呼び、伏見城の守備を命じたのである。それが西軍の前に差し出された生贄と知りつつ・・。
その晩、家康は元忠と二人きりで酒を酌み交わし、幼い頃から共に苦労した思いで話をしていた。話題は尽きず、酒は進み、冷静沈着な家康の目尻から光るものが・・。それを見た元忠は背筋を正して、
「殿!お家大事の前にわれ等のような老兵の500や1000を死なせることに心を乱してはなりませぬ!殿は天下をまとめる立場なのです。それを考えてください!」と叱咤した。家康は言い返す言葉もなく、二人は盃を交わすのみ・・・やがて夜もふけて、元忠は若い家臣に助けられて家康の下を辞した。家康は滲む視線でその背中を眺めるしか出来なかった・・。
一方、同じ夜、家忠は古くからの家臣の一人を呼んで古びた槍を渡していた。
「これはご先祖様より受け継いだ『鎮西八郎』源為朝の矢尻を鋳潰して造った槍・・これを合戦の中でなくせばご先祖様に申し訳がたたぬ。どうか、これを関東の息子の下に持ち帰ってくれ」といって嫌がる家臣を説得してついに納得させるに至った。
翌朝、家臣は何度も伏見城を振り返りながら関東へと旅立っていったという・・。
さて、宇喜田秀家や石田三成などの西軍が「家康討つべし!」と決起し、伏見城にも大軍が押し寄せてきた。使者が遣わされ、開城降伏を説いたが・・
家忠は使者に対して
「御家人が多き中にして、武略をえらばれ、(家康様は)我々をこの城(伏見城)に止めらる。いかでか、敵の多勢に臆して城をさけむや、東国勢の守るところ近国にをいてはこの城のみなれば、攻めやぶりて(西軍の)その武勇を試みられよ!」と珍しく語気を荒げて西軍に挑戦状を叩きつける家忠。他、3人の将の顔にも決然たる色が浮かんでいた・・。
それから10日間以上、西軍は伏見城を攻めあぐんだが、ついに城の中から裏切り者を出すことに成功し、守りの一角を攻め破り、城内は乱戦に陥った。家忠は部下をまとめて3度まで撃退したが、城門の鍵をもっていた兵が討ち死にしたため「今はここまで」と思い、切腹した・・。享年46(数え年)歳・・。もし時勢が安定しており、家忠が老後を風流に費やしていれば、どれほどの記録や芸術を残しえたのか・・・可能性は摘まれやすきものである。
後年、家忠の嫡男・忠利は常陸(茨城県)で3万石への加増を内示されたが、
「加増は結構でございます。知行はそのままで先祖の地である三河・深溝へ帰らせてください」と願い出たので特別に許された。その後、松平は領国をあちこちに変えながらも、代々の藩主の遺骨は常に深溝の本光寺へと帰って行き、幕末を迎えた。
どうであろう?落書きの向こう側に家忠公の苦笑するさまが見えはしないだろうか?そう思っていただければ成功である。
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今回は戦国時代の武将が書き残した日記の余白に描かれた落書きを紹介し、その人物を紹介したい。
江戸幕府・初代将軍であった徳川家康に仕えた武将の一人に松平家忠(まつだいら いえただ)がいる。弘治元(1555)年、三河の深溝(ふこうず)城主の伊忠(これただ)の嫡男として生まれ、天正3(1575)年、長篠合戦の前哨戦である「鳶巣山奇襲戦」で父を亡くし、家督継承。それから徳川領内の城や道路、市場などの土木工事を行い、合戦や城の守備に当たり、時に息抜きとして連歌や狩猟に興じたりして家康の活動を下支えする武将の一人として確実にキャリアを重ねていった・・が、彼もまた戦国の武人。天下分け目の大戦「関ヶ原合戦」の前哨戦である「伏見城攻防戦」において、押し寄せる西軍の大軍を他3人の武将や少数の兵士らと共に手強く抵抗し続けたものの、衆寡敵せず、ついに切腹、慶長5(1600)年に数え年46歳でその生涯を閉じたのである。
はっきりいうと「地味」な武将であり、他に有名な武将は沢山いるが、彼が天正5(1577)年から文禄3(1594)年まで足掛け18年に渡って書き続けた「松平家忠日記」が彼の名を正史に燦然と輝かせることとなったのである。
その日記を読むと、自弁で戦や土木工事にあたって借金に苦しみ、同僚や上司を接待してまた借金し、ストレスや疲れを癒すために川狩り(投網漁)や鷹狩、連歌の会や茶会を楽しみ、時に娘の病気を心配したり、息子誕生を喜んだり、当時の世情を揺るがせた大事件を自分が関係した所のみを淡々と書き綴ったりと実に読みどころが多い。昔の人の文章なので、読みづらい部分もあるが、ほとんど事実のみを記した備忘録の形をとっているので、興味をもたれた方は図書館などで探して読まれるといい。
日記の大意をまとめて読みやすくした本なら角川選書からでた「松平家忠日記」盛本昌広氏:著が入門編としてオススメだし、日記そのものを読みたいなら、1955年に出版された臨川書店の「松平家忠日記(全2巻)」がとてもいい。特に後者は家忠が余白に描いた落書き194点を2巻の後ろに載せているので面白い。
え?文章が苦手?ならば・・
こういう本もある。愛知県に、いや岡崎にお出かけの際はこんな本が博物館や書店で購入できるし、ネットでも購入できる。正確には「三河武士に会いたい」というサイトで作者本人とやりとりしないと買えないのだが・・。
本題からそれた。今回は家忠が描き残した珠玉のイラストの数々から注目すべきいくつかを紹介したい。
まずは・・・
このひげオヤジ・・誰を描いたのかは不明。案外、主君の家康その人かもしれないし、直接の上司であった酒井忠次(さかい ただつぐ:徳川四天王筆頭)かもしれない。でも頭ツルツルだから家忠が懇意にしていた坊さんかもしれない。本人に聞いても「さて、誰だったかのう?」と二ヤリと笑ってとぼけそう。
その隣のこれ・・? 推測すると、落城などで逃げ延びている人々を描いたものか。恐らく身包み引っ剥がされた女房衆ではなかろうか?数人で1枚の筵で体を隠しながら落ち延びているところか。こういう絵を見ると、当時の残酷な世相が垣間見える。
この左の生き物・・?何だろう?猿回しの猿かな。日記を読んでいても、遠国から踊りを生業とする人々が家忠の城に来て踊りを披露したとあるから猿回しが一座の中に混じっていたのかもしれない。
馬上の武者。その眉がとても強気だ。こうでないと荒くれた足軽達を率いることなど無理だろう。
これは担いでいるものから鉄砲足軽と思われる。ここで注目してほしいのは彼の服装だ。後ろからで正確にはわからないが、陣羽織を着て、腰を帯で縛っている。ひょっとすると鎧は着ていないかもしれない。昔の合戦図屏風を見ていても、鉄砲や弓など離れた所から攻撃できる武器をもった足軽は動きを軽くするため、鎧を着ていない場合が度々ある。たまにふんどし一つで刀振り回している奴も描かれているし・・現代でよかったなぁ・・ワイルドすぎるぜぇ~。
これはある日のメニュー、恐らく接待用かな・・?これを見ていると、食べたものをブログに載せている現代人と変わらない。そういえば、ある人が家忠を「ツイッター武将」と表現したらしい。上手い!座布団1枚!
これは家忠夫婦の団欒かな。平安貴族も遊んだ双六をやっているところかもしれない。家忠は連歌を嗜み、時に毎月のように連歌会に出席していたから古くからの風流な遊びにも通じていたようだ。夫婦で双六やっているなんてかわいいところありますな。
これは牛若丸と弁慶の五条大橋での決闘だろうか?でもこの牛若丸、笛じゃなく刀抜いているしなぁ・・どうなんだろう?
イラスト色々である。こう見ると、絵心はあったようですな。現代人が電話しながら書き散らす落書きよりよほど上手い。
この人?謎の乗り物に載っているのか、膝や太股が異常に発達しているのか??でも機嫌よさそうだな。
将棋の棋譜ね。それがし、将棋やらないのでわからないが、上手い人がみたらどっちも上手い指し手ではなかったみたい。細かく描き残したのにねぇ~。残念。
人魚が描かれている。これは・・
「天正9年4月20日(旧暦です) 正月20日に安土(織田信長の安土城下)にかんてんちへあかり候。安土に而食人をくい候。声は『とのこほし』と鳴候。せいは六尺二分、名は人魚也」
日記からそのまま抜粋。地名など分からない部分があるが、噂話を書き留め、人魚を想像して描いたものらしい・・ほんとお茶目なオジサマ!
でも翌年に例の「本能寺の変」・・異変は織田信長の足元で起きていたのかもしれない・・・。
まだまだ沢山紹介したいが、収拾つかないので最後にこちらを紹介しよう。
恐らく、掛け軸や屏風によく描かれてきた「猿こう図」と思われる。水面に映った月をつかめるものと勘違いした猿を題材として描かれたものが古来から沢山あるが、これもその図だろう。家忠も老後に真剣に絵に取り組んでいれば、傑作を残したかもしれないという可能性を感じる。
だが時代がそれを許さなかった・・。
豊臣秀吉の死後、天下は急速に徳川家康の下へと傾き、その権勢は豊臣秀頼の存在を霞ませるほどのものであり、石田三成など豊臣恩顧の大名は切歯扼腕して状況の展開を図ろうとしていた。
徳川家康はそれと察しつつ、自らの命令に服さない会津の上杉景勝を討つべく大軍を編成し、関東へと旅立とうとしていた。家康は出発前に幼馴染でもある鳥居元忠や内藤家長、松平家忠、旗本の松平近正らを呼び、伏見城の守備を命じたのである。それが西軍の前に差し出された生贄と知りつつ・・。
その晩、家康は元忠と二人きりで酒を酌み交わし、幼い頃から共に苦労した思いで話をしていた。話題は尽きず、酒は進み、冷静沈着な家康の目尻から光るものが・・。それを見た元忠は背筋を正して、
「殿!お家大事の前にわれ等のような老兵の500や1000を死なせることに心を乱してはなりませぬ!殿は天下をまとめる立場なのです。それを考えてください!」と叱咤した。家康は言い返す言葉もなく、二人は盃を交わすのみ・・・やがて夜もふけて、元忠は若い家臣に助けられて家康の下を辞した。家康は滲む視線でその背中を眺めるしか出来なかった・・。
一方、同じ夜、家忠は古くからの家臣の一人を呼んで古びた槍を渡していた。
「これはご先祖様より受け継いだ『鎮西八郎』源為朝の矢尻を鋳潰して造った槍・・これを合戦の中でなくせばご先祖様に申し訳がたたぬ。どうか、これを関東の息子の下に持ち帰ってくれ」といって嫌がる家臣を説得してついに納得させるに至った。
翌朝、家臣は何度も伏見城を振り返りながら関東へと旅立っていったという・・。
さて、宇喜田秀家や石田三成などの西軍が「家康討つべし!」と決起し、伏見城にも大軍が押し寄せてきた。使者が遣わされ、開城降伏を説いたが・・
家忠は使者に対して
「御家人が多き中にして、武略をえらばれ、(家康様は)我々をこの城(伏見城)に止めらる。いかでか、敵の多勢に臆して城をさけむや、東国勢の守るところ近国にをいてはこの城のみなれば、攻めやぶりて(西軍の)その武勇を試みられよ!」と珍しく語気を荒げて西軍に挑戦状を叩きつける家忠。他、3人の将の顔にも決然たる色が浮かんでいた・・。
それから10日間以上、西軍は伏見城を攻めあぐんだが、ついに城の中から裏切り者を出すことに成功し、守りの一角を攻め破り、城内は乱戦に陥った。家忠は部下をまとめて3度まで撃退したが、城門の鍵をもっていた兵が討ち死にしたため「今はここまで」と思い、切腹した・・。享年46(数え年)歳・・。もし時勢が安定しており、家忠が老後を風流に費やしていれば、どれほどの記録や芸術を残しえたのか・・・可能性は摘まれやすきものである。
後年、家忠の嫡男・忠利は常陸(茨城県)で3万石への加増を内示されたが、
「加増は結構でございます。知行はそのままで先祖の地である三河・深溝へ帰らせてください」と願い出たので特別に許された。その後、松平は領国をあちこちに変えながらも、代々の藩主の遺骨は常に深溝の本光寺へと帰って行き、幕末を迎えた。
どうであろう?落書きの向こう側に家忠公の苦笑するさまが見えはしないだろうか?そう思っていただければ成功である。
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